スコップ番外・俯瞰三人称というべきか。
お久しぶりの更新である。
約一か月ほどサボりまくったんである。
・・・・・・・・・申し訳なし。(またサボる)
やー、ちょっとね、お勧め作品に入れたと思うんだが、『0から始める小説の書き方徹底講座』の更新ページを今さらで読んで、ちょっと思ったところをちょこっと書こうかな、と。
一人称、三人称、それのおさらいの記述。
三人称の一元視点の辺りでちょっと理解が苦しくなったんで、飲み込むためにというかね。
ややこしい事を説明してる、と筆者本人が仰ってるんだが本当にややこしくて理解出来たか自信ない。
文章のせいっていうんじゃなくて、伝わってるんだけど、内容がややこしくて、って意味ね。
三人称で、わたしの場合は視点とかわりと頻繁に変えてしまうね。群像劇を書くのが一番楽だから。感情移入なんぞ端から無用で、ストーリーを追ってもらう事を目的にしてる。
主人公を含む多数の人間が絡み合って、物語が動き、人の姿はうろ覚えでも事件ははっきりと見えていて、多くの事件が絡み合って、どう進んでいくかに興味をそそられる、そういう骨子になってるよ。
一人称は、独りの人間の内面を深く書くためのものだから、逆に言うと、これを使って壮大なストーリーを書いたら、それこそ坂田御大並みの大長編になる、ということなんだよ。そして、感情表現ばかりで話の展開は遅々として進まない、という事になる。端折って書くなら、最初から一人称にすべきじゃない。
長い物語を、その時々の人物の感情をいちいち読まされるのは苦痛なものだ。飽きてきたら蛇足になる。
いくら感情移入に長けていると言っても、それが延々と続けば続くほど、飽きというリスクが高じる。
感情移入は、長く書けば書くほど、主人公と読者の間にズレが生じるものだ。
だから、一人称で書くべき物語は短距離なんだ。長距離である壮大なストーリーを書くには不足だ。無理に書こうとして書けないこともないが、才能と高い技術が必要になる。
凡才が無理に書けば、凡作が駄作になるだけだ。中だるみとか、マンネリとか言われる。落としどころで落とせなかった、ということだ。
一人称は感情を書いてなんぼだから、ここを飽きられたら失速する。それまで感じていた同調と疾走感が反感とくどい文章に変換されてしまう。だから、そうなる前に終わらねばならない。
読者が、展開が読めるとか思うのは、多くはストーリーの流れではなく、主人公の感情の動きを読まれてしまい、飽きに拍車がかかっている。感情なんて、本当のとこ、限られたものだからね。(苦笑
読者は主人公の感情を基盤にしてるからだ。
一人称は、言葉を悪く言うなら、ストーリー部分は三行で足りるような単純な物語しか満足には書けないんだ。恋愛物なんかそうだ、A子がB雄に恋をして、告って、OKされて、おしまい。三行もない。(笑
わたしは基本に忠実なだけ。壮大なストーリーを書きたいから、一人一人の掘り下げは切り捨てて、三人称でストーリーだけを表現してる。
読者を、下手に人物に入れ込まないようにコントロールして、常にその視線を物語そのものに向けるようにするのが、三人称の役割だ。主人公はどうなった?なんて事に注意を向けて、敵のパートを適当に読まれでもしたら、そこでストーリーの理解が下がってしまうだろ?
読者に、常に冷静に公平に登場する人々を見てもらうために、そうする必要がある。そういうテーマだから、主人公に入れ込んで感情的に物語を見てほしくないんだ。俯瞰視点だね。
さらに、徐々に人物一人一人の顔がはっきりしてくるように、個々にスポットを当てていく。(まぁ、これが巧い事いってると思えないのがヘタクソな由縁だけどもね)
そうする事で、物語が終盤に入ってドラマ性が高まった時には、登場人物の何人かには感情移入が完了していて、読後感を引き上げるわけだよ。感情移入というか、御贔屓キャラが居るという状態ね。
この視点の最大の武器は、「テーマの複雑さに簡単に対応できる」だ。
戦争もので、A軍、B軍、どっちにも大義名分があり、どっちが悪いわけでもない、というストーリーを書く場合なんかに威力を発揮するわけだ。
これは、主題が全体に及んでいるから、個人個人を掘り下げることを主にしたら、本末転倒だから。個人個人は、壮大なテーマのむしろ脇役、ギミックとしてしか登場しないから。
あるいは、個人個人を掘り下げるでも平等に、メインキャラ全部を掘り下げる必要があるから。
もし、これを一人称で書こうとすれば、敵の大義名分とかを理解させるパートの中盤以降でエタること請け合いだ。(笑
もしくは、視点変更で誤魔化したとしても、複雑なテーマの片方、敵の大義名分と主人公の大義名分が釣り合わずに軽い読後感しか与えられない。
常に公平な視点で読者に読ませるというのが、重要なギミックになってるから。
「こっちの言い分も解かるけど、こっちも正しいよね、」という感情で常に読ませたいわけ。読者を審判員にするための方策というか。考えさせるわけね。
この書き方は、複数の内面を平等に扱えるから、そういうテーマを書きやすくするんだ。だから、主人公が俺TUEEEで爽快ー!って話には決定的に向いてないけど。(笑
一人称はスタート時にすべて決まってしまう短距離だ、三人称はだんごに始まる長距離マラソンだ。
中盤から盛り上がるマラソンが、今の時代にマッチしないだけだよ。
ゴブ小説も、冒頭部分は読者を惹きつける要素も、内容を一発で解からせる工夫も、意外性もない。
だけど、関連するページが後に出てきて、意味が解って、なんともいえない感覚を味わってもらえたはずだ。それこそを狙って付け足したページだからね。(笑
そういう手法は、昔の手法なんだよ。古い手なんだ。今は流行らないから、使っても意味ないかも知れんけどねー。
元々の創作スタイルが、自己満足型で「ついてこれる読者だけついてこい」だから、冒頭もギミックの一つとして使いたかったから、読者の呼び込みを切り捨てたというわけだ。
巧い作者なら、ギミックにした上でさらに読者の興味も引けるような冒頭が書けるわけで、それが書けるということが、才能なわけ。
わたしはそこまでの才能ないから、どっちかを犠牲にして、で、読者のほうを切った。
冒頭読んでブラウザバックされたら、縁がなかったね、で諦めることにしたってわけだよ。(笑
0から始まる―― で書かれていた、主人公の視点を超えた視点ってのは、おそらく同じことを言ってるんだと思うんだが。どうなんだろう。(笑
三人称・俯瞰に、登場人物一人称を織り交ぜ、撹拌のために三人称・一人視点で繋ぐってのが、わたしの手法だ。違和感緩和のためだけに七志の視点は存在してる。
カメラっていうので考えると解かりやすい。全員を上から映すカメラと、スポット当てる2カメと、3つ目のカメラは主人公が背負って走り回ってる。大河ドラマ方式?(笑
メインのカメラはどれかと言うと、俯瞰のヤツで、主人公が背負ってるヤツじゃない、と。一番多く映ってるのは主人公だけど、重要度では俯瞰カメラがもっとも重要っていう。
主人公の役割はナビゲーターだね、この場合。読者が誰を基準点に視界を広げればいいか、常に指標として存在する。
スムーズに切り替えが出来てないから、文章評価平均が4なんだろうけどね。(涙