婚約破棄じゃありません、友達破棄です! なお罪状は「私に優しすぎること」
王女クラリッサが右手を上げると、宮廷楽団の演奏がぴたりと止まった。
ワルツの途中だった。踊っていた貴族たちが、足をもつれさせて止まった。
大広間の真ん中を、王女はまっすぐに歩いた。金の髪。夜明けの空のような青い瞳。王国の至宝。成績は学園首席、礼法は宮廷随一、三か国語を操り、去年の外交晩餐会では隣国の大使を泣かせた。感動で。
その至宝が壁際の一点で足を止めた。
「ルカ・フェルナー」
「え、僕?」
子爵家の次男ルカはちょうど果実水のグラスを二つ持っていた。片方はクラリッサのために取ってきたものだった。
「前へ」
「いや、前も何も、ちょうど君に持っていこうと――」
「前へ!」
ルカは通りかかった給仕の盆にグラスを二つとも預けて、前へ出た。
クラリッサは侍女から筒状の羊皮紙を受け取った。王家の紋章入りの赤い紐を、しゅるりとほどいた。広げると、床に届いた。
大広間が静まった。
この形式を、ここにいる全員が知っていた。今年だけでも、学園の卒業夜会や園遊会で、何度か開かれていた。
婚約破棄の断罪劇である。
でも、王女には婚約者がいない。
全員が同じことを考えた。誰を、何で。
クラリッサは息を吸った。
「私、クラリッサ・エル・ヴァルトシュタインは、本日この場をもって――」
ルカが背筋を伸ばした。
「あなたとの友達関係を、破棄します!」
誰も何も言わなかった。
楽団の誰かが譜面を落とした。
それから、さざ波のように、ささやきが広がった。
「友達を……?」
「破棄……?」
「友達とは、破棄できるものなのか」
「知らん。わしは、したことがない」
「わしもだ。というか、友達がおらん」
「……え?」
ルカが言った。
「友達を?」
「そうよ」
「僕と?」
「そうよ」
「……なんで?」
「これより、罪状を読み上げます」
「罪状あるの!?」
ルカは自分の胸に手を当てた。
「待って。誕生日のこと?望遠鏡じゃなくて、望遠鏡の組み立て説明書と部品一式を贈ったやつ?」
「あれは最高だったわ。自分で組み立てられたもの」
「じゃあ、夏に君の馬に勝手に名前をつけたこと?」
「ペガサス三世ね。気に入ってるわ」
「じゃあ、先週のクッキー?『独創的だね』って言ったから?」
「違うわ」
「塩と砂糖を両方大さじで入れてたのは、本当に独創的だったんだよ。悪い意味じゃなくて」
「クッキーは関係ないわ。おいしかったって言ってくれたもの」
「言ったっけ」
「全部食べてくれたもの」
クラリッサはちょっとだけ頬をゆるめた。それから、はっとして、羊皮紙を持ち直した。
「じゃあ、何なの」
「それを、今から読み上げるの」
「その長さで?床に届いてるけど」
「前文が長いのよ」
「前文?」
「『友達とは何か』から始まるの」
「そこから!?」
◇
大広間の壁際で、ルカの友人ディルクは、こめかみを押さえていた。
「始まった……」
隣に、いつの間にか王女付きの侍女が立っていた。ミレイユだった。
「始まりましたね」
「あんた、知ってたのか」
「準備は三週間かかりました。あの羊皮紙、全部姫様の手書きです」
「止めろよ!」
「止めようか悩みました。でも、面白そうだし、見たかったので」
「最悪だ、この侍女」
「ご安心ください。姫様が本当に泣くようなことになったら、そのときは、私が止めます」
「本当だろうな」
「本当です。それに、一番いい席は、ここです。姫様の表情も、ルカ様の表情も見えます」
「俺は不安で見たくない」
ディルクは王女を見た。それから、自分の友人を見た。
ランダム時限爆弾と、歩く無自覚スケコマシ、を。
王女は羊皮紙を広げたまま、ルカをまっすぐ見据えていた。
「あいつは、あの爆弾の止め方を知ってる。十年、ずっと止めてきた」
「はい」
「で、たまに、自分で火をつける」
「はい」
「本人だけが、それを知らない」
何も起きないわけがなかった。
◇
「待って」
ルカが右手を上げた。
「罪状の前に、一つだけ聞かせて。僕たち、友達だよね」
「だから破棄するの」
「だから、なんで」
「……覚えてる?最初に会った日のこと」
「庭園の」
「そうよ」
覚えていないわけがなかった。
◇
十年前の春だった。
六歳のクラリッサは王宮の薔薇園の真ん中に立っていた。白いドレスの裾に、てんとう虫が一匹とまっていた。
王女は図鑑で読んで知っていた。虫は火に弱い。
だから、庭師小屋から火のついたランプを持ち出してきた。てんとう虫ごと、自分のドレスの裾を燃やすつもりだった。
「何してるの?」
振り返ると、知らない男の子が立っていた。
「虫退治よ」
「それ、君も燃えるよ」
「多少の犠牲は必要よ」
「多少じゃないよ。全部だよ」
男の子は王女の手からランプをそっと受け取って、地面に置いた。それから、ひょいとしゃがんで、指でてんとう虫をつまんだ。薔薇の葉の上に移した。
「取れたよ」
クラリッサはドレスの裾と、薔薇の葉と、男の子の顔を、順番に見た。
「……素手で?」
「てんとう虫だよ」
「でも、虫よ」
「アブラムシを食べてくれるんだ。庭師さんは喜ぶよ」
王宮では、誰もクラリッサに「燃えるよ」とは言わなかった。「姫様、おやめください」と言って、泣きそうな顔でランプを取り上げるだけだった。理由を教えてくれる人は、いなかった。だから王女は、次の日も別の方法を試しに行った。
この男の子は、叱らなかった。理由を言って、それから虫のほうをどかした。
「ねえ」
「うん?」
「私の友達になってくれる?」
「もちろん!」
「これから先も、ずっと?」
「うん、ずっとだよ」
「じゃあ、約束ね!」
「うん、約束!」
「約束を破ったら、ギロチンの刃が落ちるわ」
「……え?」
「安心して。私も一緒に並ぶから!」
「安心できるところが一つもないよ!」
クラリッサはその場で、もう一つ決めた。
「じゃあ、私に敬語を使ったら不敬罪よ」
「友達なのに?」
「友達だからよ!」
男の子は首をひねって、それから笑った。
「分かった。じゃあ、使わない」
それから十年。ルカは、本当に一度も敬語を使わなかった。王女が部屋の窓から脱出しようとしたときも、王女が厨房で鶏を一羽まるごと蒸し焼きにしようとしたときも、王女が「人間は空を飛べるか」という論文を屋根の上で実証しようとしたときも。
そのたびに、彼は言った。「それ、やめとこう」ではなく、「その前に、こっちを試さない?」と。屋根の上の実証のときは、まず人形に羽根をつけて落としてみようと言った。人形は、まっすぐ花壇に刺さった。王女は、それで納得して屋根から降りた。
それ以来、王女が何かに興味を持つたび、王宮の使用人たちは真っ先にルカを頼るようになった。どんな無茶な思いつきも、ルカは王女を怒らせることなく、いつの間にか納得して諦めさせてしまう。そんな彼を、使用人たちは神の使いと崇めていた。
◇
「覚えてるよ」
ルカは言った。
「ずっと友達だって、約束した」
「そうよ。だから、困ってるの」
「何が」
「約束は、破れないもの」
大広間の正面、玉座の隣で、王妃がわずかに顎を引いた。
国王がなぜか目をそらした。
◇
王女が八歳の冬だった。国王は結婚記念日を忘れた。正確には覚えていたが、狩りの予定を優先した。その夜、王妃は国王を玉座の間に正座させ、夜が更けるまでしゃべった。
王妃の手元には玩具のギロチンがあり、喋っている間、何度もギロチンの刃が落ちていた。
それをクラリッサは柱の陰から全部見ていた。
最後に、王妃は娘に言った。
「いいこと、クラリッサ。大切な人との約束は、絶対に守らなければいけません」
八歳の王女は深く頷いた。国王も正座のまま頷いていた。
◇
「約束は、守るもの」
クラリッサは大広間に向かって言った。
「一方的に破るのは、裏切りです。だから私は、正式な手続きで、双方合意のうえで、友達関係を終わらせることにしました。貴族社会において、人間関係を正式に終わらせる手続きは、一つしかありません」
彼女は羊皮紙を高く掲げた。
「公開の場での、罪状の読み上げです!」
「それは婚約破棄の手続きだよ」
「応用よ」
国王が玉座から身を乗り出した。
「……クラリッサ」
「はい、お父様」
「余は、何を見せられておる」
「友達破棄です」
「そうか」
宰相がどこからか分厚い法典を取り出して、猛烈な速さでめくった。
「陛下。王国法典に、友達破棄の規定はございません」
「では、前例がないということか」
「ございません」
「そうか」
国王はしばらく考えた。王として、父として、この場を収めなければならなかった。
「では、罪状の読み上げを許可する」
「陛下!?」
宰相が振り返った。国王は重々しく頷いた。
「形式は、守らねばならん」
クラリッサは一礼して、羊皮紙のいちばん上に目を落とした。
「前文。そもそも友達とは、古代の哲人によれば――」
「前文は省略を許可する」
「えっ」
「形式は守る。だが、それ全部していたら夜会が終わる」
クラリッサは、ちょっと不満そうに、床に広がった羊皮紙を巻き取った。
王妃が扇の陰で小さく息を吐いた。止める気配はなかった。娘の顔を、じっと見ていた。
◇
「第一の罪状」
クラリッサの声が大広間に響いた。
「先月の、幾何学の課題です。最後の問題。学年で解けた者は一人もいませんでした。私も、三晩かかって解けませんでした」
大広間がざわついた。王女が解けなかった。
「四日目の朝、私の教科書に、紙が一枚挟まっていました」
クラリッサは羊皮紙の間から、小さな紙片を取り出した。証拠品だった。
「読み上げます。『点Bから、補助線を一本』」
しんとした。
「……以上です」
「以上なの?」
ルカが目を丸くした。
「それ、僕が書いたやつだよね」
「認めるのね」
「認めるけど、何がいけなかったの」
「答えを書かなかったことよ!」
クラリッサは紙片を突きつけた。
「答えを書けば、一行で済んだでしょう。なのにあなたは、補助線の一本だけ書いた。私が、答えを教えられるのが大嫌いで、自分で解きたいと思っていることを、知っていたから!」
「うん。だって、君、三晩ずっと解いてたから」
「なんで知ってるのよ」
「ミレイユから、君が夜遅くまで勉強してるって聞いたんだ。それに、廊下ですれ違ったときも、壁に指で三角形を描いてたでしょ?だから、幾何学で困ってるのかなって」
「描いてないわ」
「描いてたよ。三回」
「……とにかく。友達の範囲を、超えています」
「友達なら、それくらい気づくよ」
「気づいても、普通は答えを書くのよ!楽なほうを選ぶのよ!あなたは、私が解けたときに一番うれしい方法を選んだの!」
王女はほとんど叫んでいた。
「解けたとき、私がどれだけうれしかったと思ってるの!あの紙、今でも毎晩、枕の下に――」
クラリッサは口を閉じた。
宰相の後ろで、書記官が羽ペンを走らせた。
「今のは記録しないで!」
ルカが聞き返した。
「枕の下?」
「聞き間違いよ」
「枕の下に入れてると、しわになるよ」
「心配するところが違う!」
大広間の令嬢たちが扇の陰で顔を見合わせた。ひそひそと、熱っぽい声が飛び交った。
「補助線を一本ですって」
「答えを書かないなんて」
「素敵……」
ディルクが壁際で天井を仰いだ。
国王が玉座の上で咳払いをした。
「被告人。第一の罪状について、弁明はあるか」
「弁明、ですか」
ルカは国王に向き直った。王女以外の王族にはちゃんと敬語を使う。
「解けたなら、よかったと思っています」
「……うむ」
「お父様!今の『うむ』は何!?」
「いや、余もよかったと思った」
「審理を進めます!」
クラリッサは父親との会話を打ち切った。
「第二の罪状。三か月前の、建国祭の夜会です。私は、ドレスに合わせる飾りが決まらず、困っていました」
「ああ、あの青いドレス」
「余計なことを言わないで」
「ごめん」
クラリッサは羊皮紙を一行読み進めた。それから、羊皮紙を下ろした。
「証拠品は、こちらです」
王女は自分の胸元を指さした。
銀の台座に、小さな青い石が一つ。夜会の灯りを受けて、王女の瞳と同じ色に光っていた。
全員の視線が、王女の胸元のブローチに集まる。
「本日も着用しております」
「つけてきたんだ」
「証拠品だもの」
クラリッサはブローチに指を添えた。
「被告人は、このブローチを、建国祭の前に私に贈りました。私が何も言っていないのに、です。石は、私の瞳の色。台座は、私が金より銀を好むことを考慮して銀。留め具は、私が小さいころ髪留めをすぐ失くしたことを考慮して、二重留め」
王女の声がだんだん速くなった。
「しかも、ドレスの青より少しだけ濃い青なの。並べると、ドレスが引き立つの。ブローチも引き立つの。あの夜、私、大使夫人にも令嬢たちにも、どこで買ったのかと聞かれたのよ。お母様にまで聞かれたのよ。お母様は、私の装飾品に一度も感想を言ったことがないのに!」
玉座の隣で、王妃が小さく咳払いをした。それから、扇の陰から、静かに言った。
「……北通りの細工屋だそうですね。あとで、娘から聞きました」
国王が勢いよく王妃を振り返った。
「北通りか。フェルナー、あとでその店の場所を詳しく教えよ」
「陛下、今は審理中でございます」
宰相がまた小声で言った。国王は来月の結婚記念日を思い出し、それ以上は口を挟まなかった。
「つまり、私が言いたいのは、このブローチが、どれだけ私に似合っていて、どれだけ素敵で、どれだけ――」
「ありがとう」
ルカが言った。
「気に入ってくれて、うれしいよ。選ぶの、けっこう迷ったんだ。店の石、全部並べてもらって、君の目の色に一番近いのを探したんだけど、なかなかなくて」
「……なかなか?」
「うん。君の目、夜明けの空の色のように綺麗だから。昼の空の色の石は、いっぱいあるんだけど」
大広間のあちこちで、令嬢たちが扇で口元を押さえた。
クラリッサは口をぱくぱくさせた。
「い、今それを言う必要あった!?」
「何か変なこと言った?」
「言ったわよ!それに、ありがとうとか、お礼も言わないで!」
クラリッサは両手を振り上げた。
「私は今、褒めてるんじゃないの!告発してるの!」
「でも、似合ってるって」
「似合ってるけど!」
「よかった」
「よくない!」
国王が宰相に小声で言った。
「余の可愛い娘が、目の前でフェルナーといちゃついておる……」
「陛下。ここは父親として辛抱ですぞ」
「……つらい」
王妃が扇の陰で口元を隠した。肩が少しだけ揺れていた。
◇
「惚気ですね」
ミレイユがうっとりと言った。
「断罪だろ」
ディルクが言った。
「断罪の形式で、ブローチの自慢をなさっています」
「あいつ、なんで瞳の色に合わせたんだ」
「ルカ様は、何も考えずにそういうことをなさるんですよね」
「何も考えてないから、余計に悪いんだ」
ディルクは令嬢たちの輪を見た。熱っぽいため息があちこちで上がっていた。
「見ろ。今の一件で、何人落ちた」
「三人です」
「数えてるのかよ」
「四人目が、今」
◇
「第三の罪状!」
クラリッサは羊皮紙を勢いよくめくった。
「先々月、学園の茶会で、私はベルンシュタイン侯爵家のエミーリア様と意見を違えました」
大広間の一角で、栗色の髪の令嬢が、びくりと肩を震わせた。エミーリア本人だった。
「議題は、王立図書館の新しい閲覧規則についてです。私は、学生の夜間閲覧を認めるべきだと主張し、エミーリア様は反対なさいました。議論は白熱しました」
「白熱というか」
ルカが言いかけてやめた。
「何」
「何でもない」
「言いなさい」
「君がエミーリア嬢の論拠を七つ全部論破して、エミーリア嬢が泣きそうになってた」
「……白熱しました。そこへ被告人が来て、こう言いました。『クラリッサの言うことは正しい。でも、エミーリア嬢が反対したのは、夜の図書館に通う学生の帰り道を心配したからだよね』」
大広間がざわめいた。
「そして被告人は、夜間閲覧を認めたうえで、帰りの馬車を学園が手配する案を出しました。私の主張は通りました。エミーリア様の心配も、解消されました。誰も負けませんでした。茶会は、和やかに終わりました」
クラリッサは羊皮紙から顔を上げた。
「おかしいでしょう」
「どこが?」
「私に加勢するだけなら、簡単だったはずよ。私は王女なんだから。それなのにあなたは、私が侯爵家の令嬢をやり込めて、あとで陰口を言われないように、私が勝ちすぎないようにしたの。エミーリア様に恥をかかせず、私にも恥をかかせず、両方の顔を立てたの」
王女の声が震えた。
「なんで、そこまでするのよ」
「だって」
ルカは少し困った顔をした。
「君、議論で勝ちすぎると、あとで一人で落ち込むだろ。言いすぎたかなって。あの日も、茶会のあと、中庭の噴水のところで、ずっと水面を見てたし」
「見てないわ」
「見てたよ。小石を投げてた。七つ」
クラリッサは言葉に詰まった。
「……そこまで私のことを考えてくれる人が、ただの友達なわけ、ないでしょう!」
大広間の老貴族たちが、ひそひそと話しはじめた。
「あの若者、なかなか」
「誰の顔も潰さぬ仲裁とは」
「外交官に向いておる」
「子爵家の次男だったな。うちの末娘の婿に、どうだろう」
「いや、うちの孫娘に」
クラリッサが勢いよく振り返った。
「だめ!」
老貴族たちが固まった。
「……だめ、です。今は、審理中ですので」
クラリッサは羊皮紙に目を戻した。
ルカは、だんだん不安そうな顔になっていた。
「待って、クラリッサ。僕、責められてるんだよね」
「そうよ」
「なんか、さっきから、みんなが僕のこと褒めてない?」
「気のせいよ」
そのとき、エミーリア本人が、おずおずと一歩前に出た。
「あの、ルカ様」
「あ、エミーリア嬢」
「あの節は、ありがとうございました。あのあと、わざわざお手紙までいただいて」
「ああ。あの日、ちょっと元気なかったから」
クラリッサの手の中で、羊皮紙がぐしゃりと鳴る。
「手紙?」
「うん。言い方がきつかったかもしれないけど、クラリッサは悪気があったわけじゃないし、エミーリア嬢の意見もちゃんと聞いてたよって」
「私の弁護をしてたの!?」
「してたよ」
「なんで私が知らないのよ!」
「言うことでもないかなって」
エミーリアが頬を染めて、扇で顔を半分隠した。
「本当に、お優しい方で……」
「……ええ、そうでしょうとも。この人は、誰にでもお優しいもの」
「そうかな」
「そうなのよ」
◇
ディルクは両手で顔を覆っていた。
「なあ。殿下、今、自分で何やってるか分かってると思うか」
「分かっていらっしゃいます」
「本当か」
「ご自分が、ルカ様のことをどれだけ大切に思っているか。それを、宮廷の全員に向かって証明していらっしゃいます」
「それ、分かってないってことだろ」
「いえ。分かったうえで、なさっています」
ディルクは指の隙間からミレイユを見た。
「……どういう意味だ」
「最後まで、ご覧になれば」
ミレイユはにっこりと笑った。
「お菓子、いかがですか」
「どこから出した」
◇
「第四の罪状」
クラリッサの声が少しだけ小さくなった。
羊皮紙の最後の一行だった。三週間かけて書いた。いちばん書くのに時間がかかった一行だった。
「ひと月前の、学園の大階段です」
ルカの顔から、すっと笑みが消えた。
「私は本を何冊も抱えて、階段を降りていました。前がよく見えず、足を踏み外してしまったのです」
大広間が息をひそめた。
「落ちる、と思ったとき、被告人が下から駆け上がってきて、私を受け止めました」
クラリッサは羊皮紙を見ていた。見ているのに、もう読んでいなかった。
「本は、全部落ちました。私は、落ちませんでした。被告人は、私が落ちないように、両腕で、ぎゅっと」
「クラリッサ」
「それで、そのあと、離さなかったの」
王女の声が羊皮紙の上で揺れた。
「私が落ち着くまで、ずっと。大丈夫か、どこか打ってないか、足は痛くないかって。私が『もう平気』って言うまで、離さなかった」
「だって、君が震えてたから」
ルカは静かに言った。
「あのときは本当に怖かったよ。もし間に合わなかったら、君が大怪我してたかもしれない」
クラリッサが顔を上げた。
ルカは笑っていなかった。
「心配するのは、当たり前だろ」
当たり前。
王女の顔がみるみる赤くなった。首まで赤くなった。羊皮紙を持つ手から、力が抜けた。
「あ、当たり前じゃないわよ」
「当たり前だよ」
「当たり前じゃないの!あのとき、あなたの心臓の音、聞こえたのよ!すごく速かったのよ!それで、私の心臓も同じくらい速くなって、あなたが離れたあとも、ずっと止まらなくて、夜になっても止まらなくて、次の日になっても」
クラリッサの言葉がもつれた。
「次の日、王宮医のところに行ったのよ。胸の病気かもしれないと思って」
「えっ、大丈夫だったの」
「大丈夫じゃないわよ!」
王女は羊皮紙を床に叩きつけた。
「先生、なんて言ったと思う?『姫様、それは恋の病でございます。あいにく、私には治せません』よ!」
大広間が凍りついた。
王宮医が柱の陰でそっと顔を伏せた。国王がゆっくりとそちらを向いた。
「……余は、聞いておらんぞ」
「姫様に、『お父様にだけは絶対に言わないで』と口止めされておりましたので」
「余は父だぞ」
「父だから、でございます」
クラリッサは構わず続けた。
「それで、ミレイユに聞いたの。恋って何って。そうしたら、本を渡されたの。恋愛小説を、たくさん。全部読んだの。全部、あなたのことが書いてあった」
クラリッサは拳を握った。
「教科書のメモも、ブローチも、エミーリア様への手紙も、階段も。全部、全部、あなたは私に優しすぎるのよ!」
王女は叫んだ。
「こんなの、ただの友達なわけがないでしょう!」
大広間の天井に、声が跳ね返った。
「だから、友達は今日で終わり!友達破棄よ!」
◇
誰も動かなかった。
国王は玉座の肘掛けを握りしめていた。王妃は扇を閉じていた。令嬢たちは扇を開いたまま固まっていた。ディルクは口を開けたまま固まっていた。ミレイユだけが、菓子を一つ口に入れた。
ルカは床に落ちた羊皮紙を見ていた。
それから、拾い上げた。軽くはたいて、丁寧に巻いた。
「嫌だ」
ルカは言った。大きな声ではなかった。
「……え?」
「友達破棄は、嫌だ。合意しない」
クラリッサは目を見開いた。
「な、なんでよ」
「なんでって」
「双方合意がないと、破棄できないのよ!約束を破ることになるの!」
「うん。だから、合意しない」
「合意しなさいよ!」
「しない」
「王女命令よ!」
「友達に命令はなしって決めたの、君だろ。七歳のとき。『友達は対等なんだから』って」
「なんでそんなことまで覚えてるのよ!」
「君が決めたことは、だいたい覚えてるよ」
クラリッサはぐっと詰まった。
ルカは巻いた羊皮紙を彼女に差し出した。
「十年だよ、クラリッサ。君がランプを持って薔薇園に立ってから、十年。窓から脱走しかけたのも、鶏を丸ごと蒸し焼きにしかけたのも、屋根の上で羽根をつけてたのも、全部知ってる。全部、隣で見てた。それを、こんな紙一枚で終わりにされるのは嫌だ」
「あなたを終わりにしたいんじゃないの!」
クラリッサは羊皮紙を受け取らなかった。
「終わりにしたいんじゃなくて、その、だって」
「だって?」
「学園に入ってから、あなたの周りには、いつも誰かいたでしょう。エミーリア様とか、ほかの令嬢とか」
「いたかな」
「いたのよ!」
クラリッサは羊皮紙の代わりに、自分のドレスの裾を握った。
「最初は、友達を取られたくないだけだと思ってた。でも、あなたが誰かと楽しそうに話してるなら、友達なら、喜ぶべきでしょう。あなたが幸せなら、それでいいはずでしょう」
「うん」
「喜べなかったの。全然。だから、私は友達失格なんだと思った。それが、階段のあとで、全部つながったの。……恋愛小説、全部読んだって言ったでしょう」
「うん」
「幼馴染が恋人になる話も、たくさんあったわ。そういう話で、二人が恋人になる場面になると、何度も出てくる言葉があったの。『もう、友達には戻れない』って」
「……ああ、言うね」
「一冊や二冊じゃないのよ。恋人になったら、もう友達には戻れないの。一線を越えたら、二度と戻れないの。ちゃんと、そう書いてあったのよ」
「それ、たぶん、そういう意味じゃ」
「本当にそういう意味じゃないかどうかは、試してみないと分からないでしょう!それで本当だったら、どうするのよ!約束を破ってからじゃ、遅いのよ!だから考えたの。恋人になったら、友達じゃなくなる。黙って恋人になったら、『ずっと友達』の約束を破ることになる。だったら先に、正式な手続きで、二人で合意して、友達を終わらせればいい。そうすれば、約束を破ったことにはならないし、恋人にもなれる」
王女は早口でまくしたてた。
「それで、友達破棄の断罪劇?」
「婚約破棄の断罪劇を、去年からいくつも見学したの。全部、罪状の読み上げで関係が終わってたわ。だから、確実な方法だと思ったの」
「あれは、終わらせたい側が罪状を読むんだよ」
「私だって、終わらせたいの。友達を」
クラリッサはうつむいた。
「……私は、もう友達だけじゃ嫌なの」
ルカはしばらく黙っていた。
「……さっき」
「何よ」
「誰かが、僕を婿にって言ったとき。君、『だめ』って言ったよね」
「……言ったわ」
「今、逆のことを考えてた」
ルカは自分の胸に手を当てた。
「どこかの誰かが、ここで君を婿に、じゃなくて、お嫁にって言い出したら。君がその人とワルツを踊って、補助線の紙をその人が書いて、階段でその人が君を受け止めたら。……僕、今まで、君が誰と踊ってても、友達だから平気だと思ってたんだ。でも今、君が、誰かの恋人になってるところを想像したら」
ルカは言葉を探した。うまく見つからなかった。
「全然、平気じゃなかった」
「……」
「それで、分かった。あのブローチ、半日かけて選んだんだ。ディルクに、誰にでもそこまでするのかって呆れられて、するよって答えた」
ルカは、自分の言葉に小さく首を振った。
「しないや。君にしか」
「……」
「心臓、速いや」
ルカは少し困ったように笑った。
「王宮医の先生でも、これ、治せないんだよね」
クラリッサが顔を上げた。
その目に、涙がたまっていた。泣くもんか、という顔で、こらえていた。王国の至宝が六歳のころと同じ顔をしていた。
「ねえ、クラリッサ。友達をやめなくても、恋人にはなれるよ」
「……でも、本には、もう戻れないって」
「戻らなくていいよ。最初から、やめないんだから」
「……え?」
「僕たちは、ずっと友達って約束した。あの約束は、僕も大事なんだ。十年、一回も破ってない。敬語も使ってない」
「不敬罪だもの」
「うん。だから、やめない。友達は、やめない」
ルカは一歩前に出た。
「友達のまま、恋人にもなりたい。君の一番の友達で、君の恋人。どっちも、僕がいい」
「そんなの、ずるい」
「ずるいかな」
「ずるいわよ。どっちもなんて、私が読んだ本には書いてなかった」
「じゃあ、僕たちが最初だ」
ルカは彼女の手を取った。十年前にてんとう虫を移した手は、いつの間にか、彼女の手をすっぽり包めるくらい大きくなっていた。
「じゃあ、今度は僕からお願いしてもいい?」
「……何?」
「僕の恋人になってくれる?」
クラリッサの目から、涙がこぼれた。
「もちろん!」
「これから先も、ずっと?」
「うん、ずっと!」
王女はルカに飛びついた。ルカの手から、巻いた羊皮紙が転がり落ちた。ルカは階段のときと同じように、両腕でしっかりと受け止めた。
今度はどちらの心臓の音も聞こえた。
大広間が拍手に包まれた。老貴族たちは末娘の話をなかったことにして手を叩き、エミーリアは目元をハンカチで押さえていた。
宮廷楽団の指揮者が我に返って、指揮棒を振り上げた。止まっていたワルツが、最初から、もう一度始まった。
◇
国王は玉座で鼻をすすっていた。
「……よかった。よかったなあ、クラリッサ」
「陛下、威厳を」
宰相が小声で言った。
「威厳は、明日から守る」
王妃は閉じた扇を膝に置いて、踊りはじめた娘を見ていた。それから、隣の夫に目を移した。
「あなた」
「何だ」
「大切な人との約束は、絶対に守らなければいけません」
「分かっておる」
「来月の、結婚記念日ですけれど」
「……分かっておる」
国王は少しだけ背筋を伸ばした。
ワルツの輪が一巡りして、王女と子爵家の次男が、玉座の前を通りかかった。
「ルカ・フェルナー」
王妃が呼んだ。ルカは足を止めて、一礼した。
「はい、王妃様」
「娘との約束は、守れますね」
「はい。ずっと」
国王が、横から身を乗り出した。
「フェルナー。それと、北通りの店の件だが」
「明日、ご案内します」
「うむ。くれぐれも、内密にな」
王妃が、扇の陰からちらりと国王を見た。国王は咳払いをして、玉座に深く座り直した。
王妃はそれ以上何も言わなかった。扇を開いて、ゆっくりと顔の前で揺らした。
クラリッサがルカの袖を引いた。
「……お母様には、ちゃんと敬語なのね」
「君にだけだよ、使わないのは」
クラリッサは何か言い返そうとして、結局、ルカの袖をもう一度引っぱっただけだった。
大広間の真ん中では、王女と子爵家の次男がワルツを踊っていた。王女の胸元で、青いブローチが光っていた。二人ともずっと何かしゃべっていた。王女が怒ったように何か言い、ルカが笑って何か返し、王女がまた怒って、それから笑った。
十年前から、ずっとそうだった。
◇
壁際で、ディルクは、深いため息をついた。
「……終わった」
「終わりましたね」
ミレイユは最後の菓子をつまんでいた。
「まさか、あいつが自分で気づくとはな」
「ルカ様は、気づくのが遅いだけで、鈍いわけではありませんから」
「十年かかったぞ」
「姫様も、十年かかりました」
ディルクは踊る二人を眺めた。王女がルカの足を踏んだ。ルカが大げさに痛がった。王女がもう一回踏んだ。
「まあ、よかったよ」
「はい」
「本当に、よかった」
ミレイユは菓子の包み紙を丁寧に畳んだ。それから、楽しそうに言った。
「次は恋人破棄でしょうか」
「……何の話だ」
「婚約なさるときですよ」
ディルクは天井を仰いだ。
「もう結婚しちまえよ!!」




