喝采の花嫁
王太子の花嫁は、国中の民に愛されなければならない。
それが、この国の決まりだった。
王太子の婚約者に選ばれた娘は、婚礼までの七年間、王立劇場の舞台に立つ。
歌い、踊り、微笑み、民から祝福を集める。
十分な喝采を受けた者だけが、正式な王太子妃として認められるのだ。
古い伝承によれば、王家は民から愛されることで神の加護を得るという。
王太子妃が舞台に立つのは、民の愛を王家へ運ぶためだった。
エレノア・ヴェルジュが、王太子アルベルトの婚約者となったのは十歳のときだった。
赤い髪に、雪のような肌。
侯爵家の令嬢であり、王太子と年齢が近く、血筋にも問題がない。
それだけの理由で選ばれたはずだった。
けれど、初めて祝福の舞台に立った夜、事情は変わった。
エレノアが微笑むと、劇場にいたすべての者が息を止めた。
彼女が歌えば、老いた貴婦人まで涙を流した。
幼い少女が一礼した瞬間、客席から嵐のような拍手が湧き起こった。
それから六年間、エレノアは国中から愛されるために生きてきた。
美しくなければならない。
気高くなければならない。
民が名を呼び、涙を流し、手が赤くなるまで拍手を送る女でなければならない。
そうでなければ、王太子妃にはなれない。
エレノアが王立劇場の舞台に立つたび、客席は熱狂した。
ただ一人、王太子アルベルトを除いて。
彼はいつも最前列の中央に座り、白い手袋をはめた両手を膝の上に置いていた。
決して笑わない。
決して拍手をしない。
終演後には必ず楽屋を訪れたが、贈り物を持ってくることも、愛を囁くこともなかった。
「今夜も見事だった」
「ありがとうございます」
「疲れていないか」
「お気遣いなく」
交わされる言葉は、いつもそれだけだった。
エレノアは、アルベルトが嫌いだった。
舞台の上では、誰もが彼女を愛していた。
貴族も、商人も、兵士も、花売りの子供も、彼女の名を叫んだ。
それなのに、生涯を共にするはずの男だけが、彼女に愛を示そうとしない。
ある夜、エレノアはとうとう尋ねた。
「殿下は、わたくしがお嫌いなのですか」
アルベルトは、わずかに眉を動かした。
その日、エレノアは王妃が用意させた深紅のドレスを着ていた。
裾には黒い薔薇が縫いつけられ、胸元には大粒の金剛石が輝いている。
王国一の仕立屋が三年を費やした衣装だった。
客席では何人もの貴婦人が感激のあまり泣き、若い貴族がエレノアの名を叫びながら倒れた。
「なぜ、そう思う」
「一度も拍手をしてくださらないからです」
「拍手が欲しいのか」
冷たい言い方だった。
エレノアは唇を噛んだ。
「いいえ」
「では、何が欲しい」
その問いに、答えることができなかった。
アルベルトはしばらく待っていたが、やがて一礼して楽屋を出ていった。
扉が閉じると、化粧鏡の中のエレノアが笑った。
実際の彼女は笑っていなかった。
鏡の中だけで、赤い唇が弧を描いていた。
『欲しいと言えばよかったのに』
鏡の中のエレノアが囁いた。
エレノアは立ち上がり、布をかけて鏡を隠した。
それでも声は止まらなかった。
『愛をくださいませ、と』
王太子の婚約者として、初めて舞台に立った夜から、鏡は話すようになった。
最初は、ほんの小さな声だった。
もっと笑いなさい。
背筋を伸ばしなさい。
誰よりも美しく踊りなさい。
もっと愛されなさい。
鏡の言うとおりにすると、観客は喜んだ。
喝采を浴びるたび、エレノアは美しくなった。
髪は赤い宝石のように艶めき、肌から傷も染みも消えた。
声は澄み、指先まで優雅に動くようになった。
代わりに、何かが少しずつ失われていった。
母の焼いた菓子の味。
父に肩車をしてもらった日の空。
幼いアルベルトと池に落ち、二人で叱られたときのこと。
思い出せないものが増えるたび、エレノアは舞台に立った。
客席から送られる愛が、空白を埋めてくれるような気がした。
だが、喝采はすぐに消えた。
客が帰ったあとの劇場は、墓所よりも静かだった。
だから、また次の舞台を求めた。
もっと大きな劇場を。
もっと多くの観客を。
もっと激しい喝采を。
そして、十七歳の誕生日を迎えたエレノアには、最後の舞台が用意された。
婚礼前夜に行われる、七年間の祝福の儀の集大成。
その舞台で国民の承認を得れば、翌朝、エレノアは正式に王太子妃となる。
前夜、王妃がエレノアの部屋を訪れた。
侍女たちに、大きな黒い箱を運ばせている。
箱の中には、細く尖った銀の冠が収められていた。
蔓を絡めたような形をしており、ところどころに赤い石が埋め込まれている。
「明日の舞台では、これをお使いなさい」
王妃は優しく微笑んだ。
「これは、戴冠式のための冠ではないのですか」
「いいえ。民の祝福を受け入れるための冠です」
エレノアが冠に触れると、指先に鋭い痛みが走った。
小さな傷から血がにじみ、赤い石へ吸い込まれていく。
鏡の奥で、無数の女たちが笑った。
王妃に似た女。
老女。
少女。
皆、同じ冠を戴き、同じ微笑を浮かべていた。
「歴代の王太子妃様方ですか」
王妃の笑みが、わずかに深くなった。
「ええ。誰よりも美しく、誰よりも民に愛された女たちです」
「皆様は、幸せだったのでしょうか」
「王太子妃に幸福など必要ありません」
王妃は、それが当然であるかのように答えた。
「民は貧しさに苦しみ、戦に怯え、王家へ不満を抱きます。その不満を鎮めるのが、王太子妃の務めです」
「わたくしが舞台に立てば、民は苦しみを忘れると?」
「あなたを愛している間だけは」
王妃の指が、銀の冠を撫でた。
「美しい花嫁を見ている者は、税の重さも、飢えも、亡くした家族のことも忘れます。だから王家には、愛される女が必要なのです」
エレノアは、鏡の中に並ぶ女たちを見た。
誰もが美しかった。
けれど、誰の瞳にも何も映っていなかった。
王家が求めているのは、アルベルトを愛する女ではない。
民衆に愛される、美しい人形だった。
舞台に立ち、微笑み、国の不満も貧困も戦争も、ひととき忘れさせる人形。
冠を戴けば、鏡の中の女たちと同じになる。
記憶を失い、悲しみを失い、最後には自分が誰だったかさえ忘れる。
「明日は国中の者が、あなたに喝采を送るでしょう」
王妃は満足そうに言った。
「そのとき、あなたは完璧な王太子妃になるのです」
王妃が去ったあと、エレノアは鏡を覆っていた布を取り払った。
鏡の中には、最も美しい自分がいた。
『何を恐れているの』
鏡の中のエレノアが尋ねた。
『愛されるのでしょう。国中の誰よりも』
「わたくしを愛しているのではありません」
『同じことよ』
「違います」
『何が違うの』
答えられなかった。
鏡の中のエレノアが手を伸ばす。
鏡面から白い指が現れ、エレノアの頬を撫でた。
『舞台を降りれば、あなたには何が残るの』
それは、エレノアが最も恐れていたことだった。
美しくなければ、誰も振り向かない。
踊らなければ、誰も名を呼ばない。
微笑まなければ、誰も愛してくれない。
空っぽの自分を見せたなら、アルベルトもきっと離れていく。
『だから、愛を乞いなさい』
鏡の女は笑った。
『あなたが消えてしまうほどの愛を』
翌日、王立劇場には国中から人々が集まった。
舞台を囲むように白い花が飾られ、頭上には千本の蝋燭を灯した大燭台が吊られている。
劇場に入れない民衆も、広場や通りを埋め尽くしていた。
舞台で起きたことは、王宮の魔術師たちによって、街中の水晶へ映し出されることになっていた。
最前列には国王と王妃。
その隣に、白い礼装をまとったアルベルトが座っていた。
幕が上がる。
エレノアは、深紅のドレスを着て舞台の中央に立った。
銀の冠が頭に食い込んでいる。
額から流れた血が、眉の脇を伝った。
音楽が始まった。
エレノアは踊った。
観客が息をすることさえ忘れるほど、美しく。
一度、回る。
幼い頃に飼っていた犬の名を忘れた。
二度、回る。
母の顔が分からなくなった。
三度、回る。
父の声が消えた。
それでも、エレノアは笑っていた。
観客が立ち上がる。
誰かが彼女の名を叫んだ。
それを合図に、劇場を揺るがすほどの拍手が始まった。
冠の赤い石が、一つずつ光る。
最後の石が輝けば、もう苦しまなくて済む。
愛を欲しいと思うことさえなくなる。
エレノアは両手を広げた。
もっと。
もっと愛して。
わたくしが、わたくしでなくなるまで。
そのとき、最前列にいたアルベルトが立ち上がった。
彼は舞台へ上がると、まっすぐエレノアのもとへ歩いてきた。
「幕を下ろせ」
楽団が演奏を止めた。
だが、誰も幕を下ろさない。
王妃が立ち上がった。
「何をしているのです、アルベルト」
「祝福の儀を中止する」
劇場がざわめいた。
エレノアは笑みを崩さなかった。
「殿下」
「もう踊らなくていい」
「皆様が待っています」
「待たせておけばいい」
「ですが、わたくしが民の祝福を得なければ、婚礼は認められません」
「認められなくていい」
エレノアは、初めて足を止めた。
「わたくしを、王太子妃にしないとおっしゃるのですか」
「ああ」
客席から、悲鳴のような声が上がった。
冠の石が、激しく明滅する。
「では、わたくしが六年間、何のために舞台に立ってきたとお思いなのです」
「王家のためだ」
「殿下のためでもあったのです」
「分かっている」
「分かっていません」
エレノアの声が震えた。
「殿下が一度も拍手をしてくださらないから、もっと美しくなれば愛していただけると思ったのです。もっと上手に踊れば、もっと多くの祝福を集めれば、いつかわたくしを見てくださると」
アルベルトは、ゆっくりと首を横に振った。
「俺は、ずっと君を見ていた」
「嘘です」
「君が笑うたびに、君の目から何かが消えていくのを見ていた」
彼は手を伸ばした。
だが、冠には触れず、エレノアの冷え切った指を握った。
「最初の舞台で、君は震えていた。二度目の舞台では、終わったあとに泣いた。三度目からは、泣かなくなった」
エレノアには、覚えがなかった。
「拍手を送れば、俺も君を舞台へ縛りつける一人になると思った」
「では、なぜ止めてくださらなかったのです」
「止めようとした」
アルベルトの声がかすれた。
「十二歳のとき、舞台をやめてほしいと言った。君は、王太子妃になれなければ生きている意味がないと答えた」
記憶にはない。
それでも、その言葉は間違いなく自分が口にしたのだと分かった。
アルベルトの手は震えていた。
何も恐れない王太子だと思っていた。
だが、彼もずっと恐れていたのだ。
手を伸ばせば、エレノアがさらに舞台へ逃げてしまうことを。
「愛しているとおっしゃってください」
エレノアは言った。
鏡に教えられた言葉ではなかった。
王太子妃としての命令でも、舞台の台詞でもない。
ただ、一人の女としての願いだった。
「皆の前で跪いて、わたくしだけを愛すると誓ってください」
アルベルトは、首を横に振った。
客席から失望の声が上がった。
エレノアの胸が冷たくなる。
やはり、誰も自分を愛さない。
美しい姿を失えば、何も残らない。
「それはできない」
アルベルトは言った。
「なぜです」
「今の君は、愛されなければ消えてしまうと思っている」
彼はエレノアの手を、自分の胸元へ導いた。
礼装の下で、心臓が速く打っていた。
「そんな君に永遠を誓えば、俺もこの冠と同じになる」
「冠と、同じ?」
「君を愛で縛りつけるものになる」
最後の石が赤く点滅した。
鏡の女たちの声が、劇場中に響いた。
愛されなければ、あなたには何もない。
拍手を失えば、誰もあなたを見ない。
王太子妃になれなければ、これまでのすべてが無駄になる。
エレノアは観客を見た。
千を超える人々が、彼女を見ている。
だが、誰一人として、彼女が血を流していることを気に留めていなかった。
美しい。
完璧だ。
もっと踊れ。
その瞳が求めるものは、それだけだった。
「殿下は、わたくしの何をご存じなのですか」
エレノアは尋ねた。
「好きな花も、好きな菓子も、今のわたくしには分かりません。幼い頃のことも、家族の顔も、もう思い出せないのです。中身など、何も残っておりません」
「知っている」
「嘘です」
「君は、池に落ちた俺を助けようとして、自分も落ちた」
エレノアは目を見開いた。
「風邪をひいた俺に、苦い薬を飲ませるため、自分も同じ薬を飲んだ。菓子は蜂蜜の入ったものが好きだった。花は嫌いだった。摘めば枯れるからと言って、庭師を困らせていた」
知らない少女の話を聞いているようだった。
けれど、胸の奥に小さな痛みが生まれた。
「君が醜くても、踊れなくても、俺を選ばなくても構わない」
アルベルトは言った。
「ただ、君が君であることを望んでいる」
冠の最後の石が、今にも輝こうとしていた。
このまま踊れば、国中から愛される。
王太子妃になれる。
七年間の努力は報われる。
もう、寂しいと思うこともない。
けれど、母の顔も、父の声も、幼いアルベルトと過ごした日々も、二度と思い出せなくなる。
それは、本当に愛されるということなのだろうか。
「わたくしは」
エレノアは冠に手をかけた。
棘が指に食い込む。
血が流れ、手首を伝った。
「もう、踊りたくありません」
冠を床へ叩きつけた。
赤い石が砕けた。
同時に、舞台の奥に置かれていた巨大な鏡が割れた。
無数の破片の中で、歴代の王太子妃たちが声を上げて笑っていた。
泣いているようにも見えた。
燭台の火が、一斉に消える。
闇の中で、観客は静まり返った。
拍手はなかった。
エレノアは初めて、自分が誰からも見られていない場所に立った。
怖かった。
足が震えた。
けれど、消えはしなかった。
暗闇の中でも、心臓は確かに動いている。
アルベルトの手が、まだ彼女の手を握っていた。
「殿下」
「何だ」
「婚礼は、どうなるのでしょう」
「中止だ」
「王太子妃には」
「ならなくていい」
「殿下も、廃嫡されるかもしれません」
「そうだな」
あまりにも簡単に答えるので、エレノアは思わず笑った。
舞台のためではない笑い声が、自分の口からこぼれた。
「わたくし、蜂蜜の菓子が好きだったのですか」
「昔は」
「今も好きでしょうか」
「食べてみればいい」
「花は」
「嫌いだった」
「それも、確かめなければなりませんね」
舞台の外で、王妃が兵士たちに何かを命じていた。
明日には王太子の廃嫡が決まり、エレノアの家も爵位を奪われるかもしれない。
民は、彼女を裏切り者と呼ぶだろう。
二度と舞台に立てないだろう。
何一つ、約束されている未来はなくなった。
それでもエレノアは、暗い舞台の端へ向かって歩き始めた。
「どこへ行く」
アルベルトが尋ねた。
「花を見に行きます」
「今は夜だ」
「では、夜の庭を」
「衣装はどうする」
「着替えます。このドレスは重すぎます」
舞台を降りる直前、エレノアは振り返った。
客席には、まだ大勢の人がいる。
彼らは困惑し、失望し、あるいは怒りながら、彼女を見つめていた。
昨日までのエレノアなら、その視線に耐えられなかっただろう。
彼女はゆっくりと頭を下げた。
喝采を求めるためではない。
これまで自分を見ていた人々に、別れを告げるために。
そして、アルベルトの手を引いて舞台を降りた。
拍手は起こらなかった。
その静けさの中で、エレノアはようやく、自分の足音を聞いた。




