表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

喝采の花嫁

作者: くるみ
掲載日:2026/08/02

王太子の花嫁は、国中の民に愛されなければならない。


それが、この国の決まりだった。


王太子の婚約者に選ばれた娘は、婚礼までの七年間、王立劇場の舞台に立つ。

歌い、踊り、微笑み、民から祝福を集める。

十分な喝采を受けた者だけが、正式な王太子妃として認められるのだ。


古い伝承によれば、王家は民から愛されることで神の加護を得るという。

王太子妃が舞台に立つのは、民の愛を王家へ運ぶためだった。


エレノア・ヴェルジュが、王太子アルベルトの婚約者となったのは十歳のときだった。

赤い髪に、雪のような肌。

侯爵家の令嬢であり、王太子と年齢が近く、血筋にも問題がない。

それだけの理由で選ばれたはずだった。

けれど、初めて祝福の舞台に立った夜、事情は変わった。


エレノアが微笑むと、劇場にいたすべての者が息を止めた。

彼女が歌えば、老いた貴婦人まで涙を流した。

幼い少女が一礼した瞬間、客席から嵐のような拍手が湧き起こった。


それから六年間、エレノアは国中から愛されるために生きてきた。

美しくなければならない。

気高くなければならない。

民が名を呼び、涙を流し、手が赤くなるまで拍手を送る女でなければならない。

そうでなければ、王太子妃にはなれない。

エレノアが王立劇場の舞台に立つたび、客席は熱狂した。


ただ一人、王太子アルベルトを除いて。


彼はいつも最前列の中央に座り、白い手袋をはめた両手を膝の上に置いていた。

決して笑わない。

決して拍手をしない。

終演後には必ず楽屋を訪れたが、贈り物を持ってくることも、愛を囁くこともなかった。


「今夜も見事だった」


「ありがとうございます」


「疲れていないか」


「お気遣いなく」


交わされる言葉は、いつもそれだけだった。


エレノアは、アルベルトが嫌いだった。

舞台の上では、誰もが彼女を愛していた。

貴族も、商人も、兵士も、花売りの子供も、彼女の名を叫んだ。

それなのに、生涯を共にするはずの男だけが、彼女に愛を示そうとしない。


ある夜、エレノアはとうとう尋ねた。


「殿下は、わたくしがお嫌いなのですか」


アルベルトは、わずかに眉を動かした。

その日、エレノアは王妃が用意させた深紅のドレスを着ていた。

裾には黒い薔薇が縫いつけられ、胸元には大粒の金剛石が輝いている。

王国一の仕立屋が三年を費やした衣装だった。

客席では何人もの貴婦人が感激のあまり泣き、若い貴族がエレノアの名を叫びながら倒れた。


「なぜ、そう思う」


「一度も拍手をしてくださらないからです」


「拍手が欲しいのか」


冷たい言い方だった。

エレノアは唇を噛んだ。


「いいえ」


「では、何が欲しい」


その問いに、答えることができなかった。


アルベルトはしばらく待っていたが、やがて一礼して楽屋を出ていった。

扉が閉じると、化粧鏡の中のエレノアが笑った。


実際の彼女は笑っていなかった。

鏡の中だけで、赤い唇が弧を描いていた。


『欲しいと言えばよかったのに』


鏡の中のエレノアが囁いた。


エレノアは立ち上がり、布をかけて鏡を隠した。

それでも声は止まらなかった。


『愛をくださいませ、と』


王太子の婚約者として、初めて舞台に立った夜から、鏡は話すようになった。


最初は、ほんの小さな声だった。

もっと笑いなさい。

背筋を伸ばしなさい。

誰よりも美しく踊りなさい。

もっと愛されなさい。


鏡の言うとおりにすると、観客は喜んだ。

喝采を浴びるたび、エレノアは美しくなった。

髪は赤い宝石のように艶めき、肌から傷も染みも消えた。

声は澄み、指先まで優雅に動くようになった。


代わりに、何かが少しずつ失われていった。


母の焼いた菓子の味。

父に肩車をしてもらった日の空。

幼いアルベルトと池に落ち、二人で叱られたときのこと。

思い出せないものが増えるたび、エレノアは舞台に立った。

客席から送られる愛が、空白を埋めてくれるような気がした。


だが、喝采はすぐに消えた。

客が帰ったあとの劇場は、墓所よりも静かだった。


だから、また次の舞台を求めた。

もっと大きな劇場を。

もっと多くの観客を。

もっと激しい喝采を。


そして、十七歳の誕生日を迎えたエレノアには、最後の舞台が用意された。


婚礼前夜に行われる、七年間の祝福の儀の集大成。

その舞台で国民の承認を得れば、翌朝、エレノアは正式に王太子妃となる。


前夜、王妃がエレノアの部屋を訪れた。

侍女たちに、大きな黒い箱を運ばせている。

箱の中には、細く尖った銀の冠が収められていた。

蔓を絡めたような形をしており、ところどころに赤い石が埋め込まれている。


「明日の舞台では、これをお使いなさい」


王妃は優しく微笑んだ。


「これは、戴冠式のための冠ではないのですか」


「いいえ。民の祝福を受け入れるための冠です」


エレノアが冠に触れると、指先に鋭い痛みが走った。

小さな傷から血がにじみ、赤い石へ吸い込まれていく。

鏡の奥で、無数の女たちが笑った。


王妃に似た女。

老女。

少女。

皆、同じ冠を戴き、同じ微笑を浮かべていた。


「歴代の王太子妃様方ですか」


王妃の笑みが、わずかに深くなった。


「ええ。誰よりも美しく、誰よりも民に愛された女たちです」


「皆様は、幸せだったのでしょうか」


「王太子妃に幸福など必要ありません」


王妃は、それが当然であるかのように答えた。


「民は貧しさに苦しみ、戦に怯え、王家へ不満を抱きます。その不満を鎮めるのが、王太子妃の務めです」


「わたくしが舞台に立てば、民は苦しみを忘れると?」


「あなたを愛している間だけは」


王妃の指が、銀の冠を撫でた。


「美しい花嫁を見ている者は、税の重さも、飢えも、亡くした家族のことも忘れます。だから王家には、愛される女が必要なのです」


エレノアは、鏡の中に並ぶ女たちを見た。

誰もが美しかった。

けれど、誰の瞳にも何も映っていなかった。


王家が求めているのは、アルベルトを愛する女ではない。

民衆に愛される、美しい人形だった。

舞台に立ち、微笑み、国の不満も貧困も戦争も、ひととき忘れさせる人形。

冠を戴けば、鏡の中の女たちと同じになる。

記憶を失い、悲しみを失い、最後には自分が誰だったかさえ忘れる。


「明日は国中の者が、あなたに喝采を送るでしょう」


王妃は満足そうに言った。


「そのとき、あなたは完璧な王太子妃になるのです」


王妃が去ったあと、エレノアは鏡を覆っていた布を取り払った。

鏡の中には、最も美しい自分がいた。


『何を恐れているの』


鏡の中のエレノアが尋ねた。


『愛されるのでしょう。国中の誰よりも』


「わたくしを愛しているのではありません」


『同じことよ』


「違います」


『何が違うの』


答えられなかった。


鏡の中のエレノアが手を伸ばす。

鏡面から白い指が現れ、エレノアの頬を撫でた。


『舞台を降りれば、あなたには何が残るの』


それは、エレノアが最も恐れていたことだった。


美しくなければ、誰も振り向かない。

踊らなければ、誰も名を呼ばない。

微笑まなければ、誰も愛してくれない。

空っぽの自分を見せたなら、アルベルトもきっと離れていく。


『だから、愛を乞いなさい』


鏡の女は笑った。


『あなたが消えてしまうほどの愛を』


翌日、王立劇場には国中から人々が集まった。


舞台を囲むように白い花が飾られ、頭上には千本の蝋燭を灯した大燭台が吊られている。

劇場に入れない民衆も、広場や通りを埋め尽くしていた。

舞台で起きたことは、王宮の魔術師たちによって、街中の水晶へ映し出されることになっていた。


最前列には国王と王妃。

その隣に、白い礼装をまとったアルベルトが座っていた。


幕が上がる。


エレノアは、深紅のドレスを着て舞台の中央に立った。

銀の冠が頭に食い込んでいる。

額から流れた血が、眉の脇を伝った。


音楽が始まった。

エレノアは踊った。

観客が息をすることさえ忘れるほど、美しく。


一度、回る。

幼い頃に飼っていた犬の名を忘れた。


二度、回る。

母の顔が分からなくなった。


三度、回る。

父の声が消えた。


それでも、エレノアは笑っていた。


観客が立ち上がる。

誰かが彼女の名を叫んだ。

それを合図に、劇場を揺るがすほどの拍手が始まった。


冠の赤い石が、一つずつ光る。

最後の石が輝けば、もう苦しまなくて済む。

愛を欲しいと思うことさえなくなる。


エレノアは両手を広げた。

もっと。

もっと愛して。

わたくしが、わたくしでなくなるまで。


そのとき、最前列にいたアルベルトが立ち上がった。

彼は舞台へ上がると、まっすぐエレノアのもとへ歩いてきた。


「幕を下ろせ」


楽団が演奏を止めた。

だが、誰も幕を下ろさない。


王妃が立ち上がった。


「何をしているのです、アルベルト」


「祝福の儀を中止する」


劇場がざわめいた。

エレノアは笑みを崩さなかった。


「殿下」


「もう踊らなくていい」


「皆様が待っています」


「待たせておけばいい」


「ですが、わたくしが民の祝福を得なければ、婚礼は認められません」


「認められなくていい」


エレノアは、初めて足を止めた。


「わたくしを、王太子妃にしないとおっしゃるのですか」


「ああ」


客席から、悲鳴のような声が上がった。

冠の石が、激しく明滅する。


「では、わたくしが六年間、何のために舞台に立ってきたとお思いなのです」


「王家のためだ」


「殿下のためでもあったのです」


「分かっている」


「分かっていません」


エレノアの声が震えた。


「殿下が一度も拍手をしてくださらないから、もっと美しくなれば愛していただけると思ったのです。もっと上手に踊れば、もっと多くの祝福を集めれば、いつかわたくしを見てくださると」


アルベルトは、ゆっくりと首を横に振った。


「俺は、ずっと君を見ていた」


「嘘です」


「君が笑うたびに、君の目から何かが消えていくのを見ていた」


彼は手を伸ばした。

だが、冠には触れず、エレノアの冷え切った指を握った。


「最初の舞台で、君は震えていた。二度目の舞台では、終わったあとに泣いた。三度目からは、泣かなくなった」


エレノアには、覚えがなかった。


「拍手を送れば、俺も君を舞台へ縛りつける一人になると思った」


「では、なぜ止めてくださらなかったのです」


「止めようとした」


アルベルトの声がかすれた。


「十二歳のとき、舞台をやめてほしいと言った。君は、王太子妃になれなければ生きている意味がないと答えた」


記憶にはない。

それでも、その言葉は間違いなく自分が口にしたのだと分かった。


アルベルトの手は震えていた。

何も恐れない王太子だと思っていた。

だが、彼もずっと恐れていたのだ。

手を伸ばせば、エレノアがさらに舞台へ逃げてしまうことを。


「愛しているとおっしゃってください」


エレノアは言った。


鏡に教えられた言葉ではなかった。

王太子妃としての命令でも、舞台の台詞でもない。

ただ、一人の女としての願いだった。


「皆の前で跪いて、わたくしだけを愛すると誓ってください」


アルベルトは、首を横に振った。

客席から失望の声が上がった。


エレノアの胸が冷たくなる。

やはり、誰も自分を愛さない。

美しい姿を失えば、何も残らない。


「それはできない」


アルベルトは言った。


「なぜです」


「今の君は、愛されなければ消えてしまうと思っている」


彼はエレノアの手を、自分の胸元へ導いた。

礼装の下で、心臓が速く打っていた。


「そんな君に永遠を誓えば、俺もこの冠と同じになる」


「冠と、同じ?」


「君を愛で縛りつけるものになる」


最後の石が赤く点滅した。

鏡の女たちの声が、劇場中に響いた。

愛されなければ、あなたには何もない。

拍手を失えば、誰もあなたを見ない。

王太子妃になれなければ、これまでのすべてが無駄になる。


エレノアは観客を見た。

千を超える人々が、彼女を見ている。

だが、誰一人として、彼女が血を流していることを気に留めていなかった。


美しい。

完璧だ。

もっと踊れ。

その瞳が求めるものは、それだけだった。


「殿下は、わたくしの何をご存じなのですか」


エレノアは尋ねた。


「好きな花も、好きな菓子も、今のわたくしには分かりません。幼い頃のことも、家族の顔も、もう思い出せないのです。中身など、何も残っておりません」


「知っている」


「嘘です」


「君は、池に落ちた俺を助けようとして、自分も落ちた」


エレノアは目を見開いた。


「風邪をひいた俺に、苦い薬を飲ませるため、自分も同じ薬を飲んだ。菓子は蜂蜜の入ったものが好きだった。花は嫌いだった。摘めば枯れるからと言って、庭師を困らせていた」


知らない少女の話を聞いているようだった。

けれど、胸の奥に小さな痛みが生まれた。


「君が醜くても、踊れなくても、俺を選ばなくても構わない」


アルベルトは言った。


「ただ、君が君であることを望んでいる」


冠の最後の石が、今にも輝こうとしていた。


このまま踊れば、国中から愛される。

王太子妃になれる。

七年間の努力は報われる。

もう、寂しいと思うこともない。


けれど、母の顔も、父の声も、幼いアルベルトと過ごした日々も、二度と思い出せなくなる。

それは、本当に愛されるということなのだろうか。


「わたくしは」


エレノアは冠に手をかけた。

棘が指に食い込む。

血が流れ、手首を伝った。


「もう、踊りたくありません」


冠を床へ叩きつけた。


赤い石が砕けた。

同時に、舞台の奥に置かれていた巨大な鏡が割れた。

無数の破片の中で、歴代の王太子妃たちが声を上げて笑っていた。

泣いているようにも見えた。


燭台の火が、一斉に消える。

闇の中で、観客は静まり返った。

拍手はなかった。


エレノアは初めて、自分が誰からも見られていない場所に立った。


怖かった。

足が震えた。


けれど、消えはしなかった。

暗闇の中でも、心臓は確かに動いている。

アルベルトの手が、まだ彼女の手を握っていた。


「殿下」


「何だ」


「婚礼は、どうなるのでしょう」


「中止だ」


「王太子妃には」


「ならなくていい」


「殿下も、廃嫡されるかもしれません」


「そうだな」


あまりにも簡単に答えるので、エレノアは思わず笑った。

舞台のためではない笑い声が、自分の口からこぼれた。


「わたくし、蜂蜜の菓子が好きだったのですか」


「昔は」


「今も好きでしょうか」


「食べてみればいい」


「花は」


「嫌いだった」


「それも、確かめなければなりませんね」


舞台の外で、王妃が兵士たちに何かを命じていた。


明日には王太子の廃嫡が決まり、エレノアの家も爵位を奪われるかもしれない。

民は、彼女を裏切り者と呼ぶだろう。

二度と舞台に立てないだろう。


何一つ、約束されている未来はなくなった。


それでもエレノアは、暗い舞台の端へ向かって歩き始めた。


「どこへ行く」


アルベルトが尋ねた。


「花を見に行きます」


「今は夜だ」


「では、夜の庭を」


「衣装はどうする」


「着替えます。このドレスは重すぎます」


舞台を降りる直前、エレノアは振り返った。


客席には、まだ大勢の人がいる。

彼らは困惑し、失望し、あるいは怒りながら、彼女を見つめていた。

昨日までのエレノアなら、その視線に耐えられなかっただろう。


彼女はゆっくりと頭を下げた。


喝采を求めるためではない。

これまで自分を見ていた人々に、別れを告げるために。

そして、アルベルトの手を引いて舞台を降りた。


拍手は起こらなかった。

その静けさの中で、エレノアはようやく、自分の足音を聞いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ