7:[SIDE→R]/壱
漸が坂間駅に来たのは待ち合わせ時間から8分過ぎた頃だった。
玲は改札口からいつもどおりにクールに出てくる漸を見て、内心少しイライラするやら安心するやらで悶々としていた。
安心したのは、昨日死体を―――あれは先日大学で起こった自殺を模した"偽物"だと高崎が言っていたが―――見た後ガクリと膝をついて意識を失ってしまった漸が、いつもと変わらぬ姿で現れたから。
結局あの後高崎と玲とで高崎の部屋に運んだが、漸の意識が戻らないまま、玲は高崎に『任せておいて』と言われるまま帰ってしまったのだ。いつ意識が戻るかも分からなかったというのもあるし、何より玲自身も偽物だったとしても死体を見てしまったことで―――というか偽物だと聞かさても本物にしか思えなかった―――かなりのショックを受けていた。
家に帰ると母が、
『玲!貴方何て顔をしてるの!真っ青よ』
なんて叫んでいたが、玲は『うん…』と返事するだけで精一杯だった。
そして部屋に戻ると玲は儚としたまま服を脱ぎ、そのままベッドに倒れこみ寝てしまったのだった。
一回目覚ましが鳴った音で目を覚ましたが、どうせ今日の授業は出席とらないしサボってしまえーと見事に二度寝を果たしたのだった。
それが何と、あの漸の、メールをしても数時間は帰ってこない、電話をしてもほぼ確実に出ないあの漸からのモーニングコールで目覚められたのだ。
しかも寝起き早々デートのお誘いである。
憂鬱な気持ちも一発で吹っ飛び、玲は急いでシャワーを浴び、いつもよりも服装に気合いをいれて(香水も勝負日しかつけないものをつけてきてしまった)、さあ完璧だと坂間駅までやってきたのだ。
ところが、その漸が10時を過ぎてもなかなか来ない。
このあたりから玲は苛立ちはじめていた。
―――でもまぁ…。
玲はこちらに気付き歩いてくる漸を見て思う。
臙脂色の七分丈のTシャツに、金具やジッパーが沢山――かつ嫌味がない程度についている黒のパンツにハードなベルト、そしてブーツという服装が漸の深緋色の髪によく似合っていて、格好良く決まっている。
―――こうして漸から僕をデートに誘ってくれたのは初めてだしね。
「悪りぃ。少し遅れたか」
そう言いつつも漸は悪怯れた態度は微塵も見せず、いつもどおりのポーカーフェイスのままである。
それでも玲の心に苛立ちはもう残っていなかった。
「いいんだよ。今日は漸が誘ってくれた初デートだからね」
玲がそう言うと漸は少し顔をしかめた。
「…デートって何だ」
「いいじゃないか。こうして二人でわざわざ待ち合わせして会ってるんだから立派なデートだよ」
「……帰るぞ」
「何言ってるんだい自分で誘っておいて」
「………」
漸は玲を大きく切れ長な目でじろりと睨んだ。
漸よりも玲のほうが十センチ以上は背が高いので実際のところ漸は玲を見上げている形となる。
―――上目遣いで怒ってきても怖くないんだよね。むしろ少し可愛いというか…
内心玲はそう思っていたがそんな事漸に言われたら殺されるだろう。
玲は話を元に戻すことにした。
「まぁまぁ、今日はせっかく誘ってくれたんだし、どっか連れてってくれる気だったんだろう?」
漸は暫く玲を睨んだままだったがやがてため息をついてポケットに手を突っ込んだ。
「…ああ。」
漸はぶっきらぼうにそう言うと、大通り沿いに歩き始めた。玲もそれに続く。
だいたい1分くらい歩き始めたあたりで、漸は今歩いている大通りから一本、細々とちょっとした傾斜になっている横路に入る。
「…確かこっちだ」
漸はきょろきょろしながら進んでいった。
――あ、あれ!?こ、この道はまさか………!
玲の脈拍が徐々に高くなる。
―――いやでもまさか、一回だけしか言ってないし…
玲の胸の高鳴りを知る良もなく、漸は歩いていく。
やがて、漸はお洒落な、日本家屋風の店の前で立ち止まった。
「ええと……"時雨屋"だから多分ここだな」
―――わ、わあああ!!!ゆ、夢じゃないよねこれ!?
そう。ここは玲がかねがね行きたいと思っていた喫茶店"時雨屋"であった。
知る人ぞ知る隠れた名店で、和の粋を柱としておきつつも、尚且つ洋のテイストも織り交ぜた良い意味で和洋折衷なスイーツが話題の老舗店である。
それだけに値段もかなりいいのだが……
「お前、ちょっと前にここ来たいって行ってたよな。」
「あ、ああ」
「じゃあ入ろうか」
まさか。漸が連れてきてくれるとは…
いつかは来ようと思っていたが、まさかこんな形で来れるとは。
感動して声を出すことすらままならなかった。
店のなかに入ると着物を来た女店員が「いらっしゃいませ」と近づいてきた。
「二名様でいらっしゃいますか?」
「はい。それであの…これ」
そう言って漸が取り出したのは時雨屋の特別優待券だった。
ケーキとコーヒー(または抹茶)がセットでタダになるという代物で、一般人には手に入らないようになっている。
確かこの券を貰えるのは店の関係者と株主、くらいだったはずだが……
券を漸が見せると女店員はにこりと微笑んだ。
「はい。確かに―――あら?」
女店員は券を見て驚いた顔をし、二人に向き直った。
「失礼ですが―――渚由佳里さんとご学友か何かですの?」
―――渚由佳里……?
どこかで聞いたような名前な気がする。
漸のほうをみると、かすかに目を見開いていた。
「……渚さんの事をご存知で?」
漸が女店員に聞くと女店員はこくりと頷いた。
「ええ…まあ立ち話も何ですしお部屋へどうぞ」
そう言って歩きだす女店員に漸と玲はついていった。
時雨屋は個室になっており、全部で12部屋ある。
二人が通されたのは、一番奥―――つまり一番高級な、いわゆる俗な言い方をするならばVIP部屋だった。
部屋はだいたい四畳半くらいだろうか。まず通されたとき、畳のいい匂いが漂ってきた。部屋自体は質素だがそれがまた美しく、窓からはまるで平安時代から抜き出してきたのかと思うほど美しい日本庭園が見える。
玲と漸は互いに掘りコタツ式の机を挟んで向かい合うように座った。
「―――渚さんの事ですけれど」
女店員―――名札を見るかぎり田沼さんというらしい―――はお冷やをもってくると、机の横にそっと正座をし話しはじめた。
「先程お見せていただいた券は、ご存知でしょうがこの店で働く者のみが貰える優待券です。ぱっと見た感じでは分からないのですが、店の者にだけ分かるようにその者の印がしてあります。」
―――成る程。つまりあの漸が差し出した券に、分からないように"渚"とでも判子のようなものが押してあったって事かな。
でも何故―――と玲は脳内で首をかしげた。
何故漸が、その渚さんとやらの券を持っているんだろう?というより、渚さんって誰だっけ?どこかで聞いたことあるような気がするんだけど………
「では渚さんはこちらの喫茶店で働いていたんですね」
「ええ…アルバイトをしてもらっていました。
真面目で明るくて、いい子だったのに―――あんな風に自ら命を絶ってしまうなんて」
―――思い出した。
渚由佳里。甲南大学三人目の自殺者。確か―――プールで溺死。
―――同じ学部で同じ学年なのに、授業なんか一緒に受けたことなくて顔見たことすらないから忘れてた。
「ところで、この券を持っているという事は、渚さんのご学友?」
まさか。漸は言ってなかっただけで、渚由佳里と知り合いだったのか?
「いいえ。この券は知り合いから譲り受けたものです。顔が広いから、きっと渚さんとも知り合いだったのでしょう」
一体誰から譲り受けたんだろうか―――。
「そうですの…。」
そう呟くと女店員は黙って下を向いてしまった。しばらくすると、「お品書きをお持ちしますね」と去っていった。
斯くして、部屋に二人きりとなる。
「漸、どういうことだい」
玲は水が入ったガラスを両手で何となく触りながら言った。
ガラスが掌の熱を吸い上げていく。
「どうもこうもないよ。俺は高崎からあの券を貰ったんだ。」
「…知り合いって、高崎の事だったのか」
「ああ」
この券を俺に渡したって事はこうなるのも高崎は承知だったんだろうな、と漸は付け加える。
「えっ!で、でも僕を誘ってくれたのはなんか理由があるんだよね!?」
玲は妙に声色を高くして言った。先程の女店員がメニューを置いていったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
漸は不可思議そうなしながら水を飲んで玲を見た。
「何だよ、何でそんなムキになってんだよ。
…別にたまたま高崎に券貰ったから暇潰しにって玲を誘ったわけじゃねーよ。まぁこの店だったのはたまたまなんだけどさ。」
「じゃあ僕が駄目なら亜佐奈でもいいや…とかじゃないんだね?」
んなわけないだろ、と漸はメニューを開きながら言う。
「お前じゃなきゃ駄目なんだよ。今日の用事は」
その言葉を聞いて玲の心は一気に天へと舞い上がらんばかりの勢いで幸福に満ち溢れた。
「漸っ!!やっぱり僕を将来の伴侶として…」
「んなわけないだろ。」
というかそういう以前の問題か、と漸は呟く。
それから漸と玲は適当にケーキと珈琲を頼み、女店員を呼んだ。女店員は「かしこまりました」と言うと去っていく。
また二人きりとなったところで、漸が話を切り出した。
「実は今日玲を呼び出したのはな―――」
そう言って鞄から取り出したのは三枚の紙だった。
「これ…」
「そう。履歴書だ。よく見てみろ」
漸は玲側に履歴書を向ける。
玲はそれを注意深く見た。
それぞれの紙に写る三人の顔。見覚えのある名前。
「これ―――自殺した三人だね」
「そうだ。伊藤彩乃、松井隆盛、そして渚由佳里。この三人は最近起きてる不可思議な自殺事件の被害者」
―――被害者…?
言葉に違和感を感じて玲は漸に向き直った。
「だって、まぁ確かに被害者だけど、結局は自分で死んだんだから被害者っていうのは可笑しいんじゃないかい?」
「そう思うだろ?けどな、高崎の見解だとそうじゃないんだ。」
漸はそう言って履歴書を覗き込む。
「この三人は揃って私生活に悩みは抱えていた。けどそれは自殺する程の事じゃなかったらしい。内容は全く聞いてないけどな。で、高崎の話だと―――」
そこまで言って漸は口をつぐんだ。
何かを、物事を深く考えているように玲には見えた。
やがて漸は水を一口飲むと、会話を再開させた。
「でだ、高崎の話だと、どうやら誰かがその悩みを増大させて、結果自殺に至らせたと。勝手に死んだのは奴らだが、死なせたのは誰か別の人物」
「え…なんで」
そんな事が分かるのか。
確かに三人続けて短期間に自殺はおかしい。けれど警察の調べでは怪しい人物はいなかったという事だ。
「確かに、おかしいと思うだろ。彼らは本当に、自分の意志で死んだかもしれない。けどな―――」
「高崎は、"何者かが自殺に追い込んだとされる証拠"をもしかして知っている―――とかかい?」
玲がそう言うと漸は大きく目を見開いて玲を見た。
そこでちょうど頼んだケーキと珈琲がくる。
持ってきたのは先程の女店員だ。頼んだものを置いていくと丁寧な身のこなしで去っていった。
「僕の二番目の兄貴は刑事だからね。これくらいの推理力はあるさ」
「…お前、意外と兄弟多いんだな」
とにかく、と漸は続ける。
「俺もまだ、"三人の自殺した人間がいて、そいつらが恐らく何者かに後押しされて死んだと思われる"って事しか知らない。
今回俺が高崎に頼まれたのは、この"後押しした誰か"を捜し当てることだ」
「何で、漸が?」
玲は頼んだモンブランを頬張りながら聞く。
漸は最初言いにくそうにしていたが、やがて口を開いた。
「それは……高崎に借りが出来たからな」
まさか。漸が高崎に借りを作るなんて。
「成績でも上げてもらったのかい?」
「ちげえよ」
漸は珈琲を飲みながら言う。
「とにかくな。俺だけじゃきついから誰かに助けを求めていいかーって聞いたらおまえならいいって。
だからって訳じゃねえけど…嫌だったら仕方がないが、こんだけ適当に言っておいて頼むのは角違いかもしれないけど……」
そこまで言って漸は言いにくそうに下を向いた。
玲はため息をついた。そして漸を見て微笑む。
「この僕が、君からの誘いを断るわけないだろ。
いいよ。犯人捜し、一緒にやろう」