5:
帰りの電車に乗っている途中、漸の脳内は先程高崎が話した事で溢れかえっていた。
信じてないわけではない。けれど余りにも現実味が無さすぎる話だ。
そう考えはじめると次々と疑問点は出てくる。
あの一連の事自体が「催眠」による幻覚なのだとしたら、一体誰が、いつ、どんな目的があって自分達を催眠にかけたのか。
そしてあの、脳裏に突如浮かんできた映像。あれは一体何だったのか。朝屋上で見た映像と、昼間階段で見た映像。飛び降りと殺傷。まるで自分の行った行動かのように鮮明な、あの惨たらしい映像。
それに―――
少し感覚が違ったとはいえ、宗明の眼を視たときのあの感覚――そして亜佐奈の異常な態度を視たときの感覚。あれは一体何を表すのだろう?
『次は―――北神宮寺―――北神宮寺』
最寄り駅を知らせる電車のアナウンスが漸の思考を遮た。
儚としながら電車を降り、人の流れに身を任せながら階段を登り、改札口まで出る。
この季節だというのに、空はもう真っ暗だった。
漸はふうとため息をつくと、人の行き来が激しい繁華街の方とは反対側に歩き始めた。
こちら側は一気に人影が減り、気が付くと周りに自分一人しかいない。
街灯を頼りに歩き続ける。
今朝見た映像。
そして先程見た映像。
共通するのは、どちらも人の死。
一体どうなっている。
これも「催眠」とやらなのか。だとしたら玲も同じモノを視ているのか?
妙に肌寒さを感じた。
心なしか風が強い。
胸の内に何とも云えぬ違和感を感じながらも、住んでいるマンションが見えると、少し安心感を覚えた。
この十字路を右に曲がれば、あとはもう数歩歩くだけでいい。
信号が赤く点滅している。
漸の視界にその光が入ってきたのと同時に、その隣に立つ普段は気にならないはずの電柱にも自然と目がいった。
曲り角に立つその電柱の根本にあるのは、塵で少し汚れた花瓶に刺さる、淡いピンクの花、熊の人形、そして、写真立て。
漸は無意識のうちに電柱に近付き、写真立てに手を伸ばしていた。そこにはまだ四歳ほどの、幼い少女が、笑う姿があった―――。
閃光。
道路にボールが転がる。
取りに行かなきゃ。
空気を割るような、クラッシュ音とブレーキ音が響く。
ボールを取り、横を見ると、目の前に、何かが迫って―――。
誰かの叫びが聞こえる。
考える余裕すら与えられることもなく、目の前が、真っ暗になった―――。
自らが写真立てを落とした音で、漸ははっと我に返った。
今のは、また―――。
引かれた。俺は今、車に―――。
だが過去二回体験した時とは違った。実際体験したようなリアリティ感がそこまで無く、悪夢を見た後のような感覚。
宗明の時の後味と少し似ていたかもしれない。
だがそれでも、あの時とは違い、じわじわと腹の底から上がってくる恐怖は、決して過去の記憶として認識するなど到底出来そうもなかった―――。
死―――。あれが、死。
漸は自分でも気付かない内に、その場にしゃがみこみ、声にならない声で、ただひたすらに、叫んだ―――。
***
それからどうやって家に着いたのか、漸はよく覚えていなかった。
意識が完全にはっきり戻ったのは目覚ましのアラーム音が鳴ったときで、それまでどのようにして今に至ったのかが、いまいちはっきりしない。
状況を考えるに、どうやら昨日は帰ってきてから、制服のままベッドに倒れこみ、そのまま寝てしまったと考えるのが妥当か。
「朝―――」
何もする気が起きなかったが、取り敢えずシャワールームへ行きシャワーを浴びる。
その後何とか支度を済ませると、フラフラと家を出た。勿論時間は早い。だが、そんなことを構っている余裕は今の漸にはなかった。
学校に着くと、漸は何も考えず、薬理実験室へ向かった。
一瞬鍵が掛かっているかと思ったが、意外にも扉はすんなりと開いた。
絵画の扉へ駆け寄り、手を掛ける。
こちらも鍵は掛かっていなく、くるりと静かに開いた。
漸は何も言わず、中に足を踏み入れた。
「来ると思ってたよ、漸」
昨日漸が横になっていたソファの上には、今高崎が脚を組んで座っている。
「その様子だと、昨日の帰りも視たんだろう?"死痕"を」
高崎は目の前に立つ漸を見上げながら言った。
「シコン……?」
「そう、死痕。
漸、人間はな。そう簡単には消えてなくならないんだ。
肉体としての死だけを言うならそれこそ一瞬で消えてしまえるが、存在としての死はそう簡単には迎えられい。
誰かがその人間の存在を覚えている限り、その人間は"記憶"として生き続けるんだ。
誰か、というのは生物に限った事ではない。建物や道路、空、水など、全てに記憶は刻まれる。そういったように、生命ではなく、景色に刻まれる人の記憶を死憶という。」
「つまり、人は死を迎えて肉体としての実像は無くなっても、"記憶"として存在は残っている…」
そういう事、と高崎は頷くと白衣の胸ポケットから煙草のケースとライターを取り出して、ケースから一本取出し火を点けた。
「他人の記憶が見えないように、本来なら景色に残る死の記憶は人間には見えない。当たり前だけどね。
だから通常の人間が見ることの出来る"死"は、肉体死までだ。自分の中に残る記憶を思い出す事は出来るけど、人の記憶なんて曖昧な蜃気楼みたいなもんだから、実際見ているとは言い難い―――」
確かにそのとおりだ。死における過程の捉え方は人それぞれで、故に死体という確固たる結果がそこに存在しているという事だけでしか、人間が"死"を理解する事は出来ない。
けれど―――。
漸はあの映像を再び思い出す。
あのようなものを理解する必要などがあるのか。
そんな漸の考えを知ってか知らずか、高崎はその後暫く黙って煙草を吸っていたが、やがて灰皿で火を揉み消すとソファから立ち上がり、窓を背にして寄りかかった。
逆光のせいで、高崎の顔はよく見えない。
「…漸、死痕を視るという事―――視痕の能力は、人が辿った軌跡の最期を、自分の中に取り込む事が出来るという事だ。」
「………」
「具体的にいうならば、君の能力―――"視痕"は、物や人に残留した何者かの最期を"視る"事が出来るという事だ。死んだ者そのものになって"視る"事すら出来、結果その者がその時感じたこと、思い巡らせた事―――果ては人生までも"視る"事が出来る」
直接言われなくても、漸はこの一言が、漸が昨日見た映像が催眠などではなく、自分自身が勝手に見たものだと、異質なのだと、そう伝えていることを悟った。
「………何故、解った。俺が視たモノが―――人の、人の………」
言葉を繋げる事は出来なかった。手が震えている。
「それは、俺も能力者だから、ね。君同様」
漸は震えている手から目を離し、顔を上げた。
「あぁ、勿論君とは違う能力だよ。俺の能力は、"詠読"だ。例えば昨日みたいに、誰かが君たちに"催眠"の能力を発動させたとしよう。そうしたら君達には必ず、"催眠"という能力の痕跡が残ってるわけだ。被害者だけじゃなくて、能力を発動させた場所とかにもその痕跡が残ってるから、そういうのを"読"める。
あともう一つの"詠"むは―――まぁそのうち話すよ」
そう言って高崎は手をひらひらとさせた。相変わらず、その表情は読めない。
「…今まで」
気が付けば漸は口を開いていた。
高崎は黙って聞いている。
「今までずっと、こんなものが視えた事は無かった。なのに昨日、朝学校に行って屋上に上がったら頭ん中がフラッシュ焚いたみたいになって…。
気が付いたら俺は飛び降りようとしてた。縄をフェンスと自分の首に括り付けて、それで…」
「…学校の、屋上か」
「その次は紫苑棟だ。
それで終わりかと思ったら、今度は家のマンションの近くで視た。
こんなもの…こんなもの、視えなくて済むなら、そのほうがマシだ…!!」
漸はそう言ってしゃがみこみ、頭を抱えた。
高崎は何も言わなかったが、やがて窓の外の景色を眺めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「恐らく視えはじめた原因は、"催眠"の能力に触れたからだろう。"催眠"にかかったせいで漸の中に眠ってた"視痕"の能力が覚醒された。そして身体が自身の"視痕"の能力の負荷に耐え切れず、結果視た後に気絶する。その繰り返し。ほうっておけば精神にも影響を及ぼす。」
「………この能力を棄てる事は?」
「無理だな。目醒めてしまった以上、どうするコトも出来ない」
「なら…………っ!」
どうしたらいい。
今見える道は、何処に行こうが泥沼だ。
漸は絶望を隠すことは出来なかった。
高崎はそんな漸をその透き通るような緑色の瞳で見つめ。
そして静かに言った。
「簡単だよ。漸、君の能力を俺に貸せ」
「………貸、す?」
「そうだ。俺は君の精神状態を、君が"視痕"を使っても正常レベルを保てるようにしてやる。
その代わり、俺が頼む依頼をその能力を使って解決してほしい」
依頼?
何の事だろうか。
「漸、この世界にはね」
漸が理解出来ていないのを察したのか、高崎は口元に笑みをうかべながら言う。
「漸や俺みたいに、人とは違う特殊能力を持った人間が様々な場所にいるんだ。
彼らは自らの特殊能力に気付いている者もいれば、気付いていない者もいる。
どちらにせよ、その者たちが力を行使し暴走したら、手が付けられなくなってしまうだろう?
そういう者たちの暴走を止め、一般人に能力の事を知られないようにする事。
それが俺の役目であり、俺が所属している機関の目的だ」
言いたい事は分かった。
だが高崎の事、そのバックにある機関の事―――。
謎が多すぎる。
信じられるわけがない。
だが―――。
「……引き受けるのを拒否したら?」
「お前の精神は悪化するだけだ。何しろ、覚醒した能力が大きすぎる。能力者にも力の差が色々あるが、お前ほどの力は類をみないな」
「その依頼とやらは…危険なものなのか?」
「能力の力量にもよるが…まぁ危険には違いないな」
そう言い放って高崎は煙草を吸い殻入れに火をもみ消し捨てる。
危険な依頼など、出来れば協力したくない。
高崎は詳しくは言っていないが、様々な能力を持った者と戦うことになるのだろう。
「生憎俺の能力は今現在は人の能力の痕跡を読むことしか出来ないからね。」
―――それだけ出来れば充分な気がするが。
「そんな事言ったら俺だって死の記憶を視ることしか出来ねえだろ」
「いや、漸。君の能力はね―――一番恐ろしいところはさ、死をもたらす根源さえも視えてしまう事なんだよ」
「死をもたらす、根源?」
「要はさ、能力っていうのは躯の何処かがエネルギー発生源になってて、そこから全身に作用する事で能力を使えるんだ。
つまりそのエネルギーの根源を封印してしまえば…」
「能力も封印してしまえる、という事か?」
「そういう事だ。まぁ根源を視るにはもっと修業が必要みたいだけど」
そう言って高崎は立ち上がり漸の前に立った。
「で、どうするの?
その視痕の能力を活かすか、精神ごと朽ち果てるか」
「どっちにしろ、選択肢なんてあってないようなもんじゃねぇか」
そう。こうなってしまった以上、もう覚悟を決めなければならない。
漸は高崎の目を見ると、口を開き言った。
「俺は、お前に協力する。俺の能力が必要だと言うのなら、好きに使え」
高崎の口元の笑みが、気のせいか深まったような気がした。
***
「…で?俺が死痕を視てもぶっ倒れないようにしてくれんだろ?」
「勿論。依頼の度にぶっ倒れられちゃ俺もたまったもんじゃないからね。」
一体どうしてくれるというのだろうか。
高崎は漸の目をじっと見た。
吸い込まれそうな、深い瞳。
「身体の力を抜いて。俺の眼に意識を集中させるんだ」
漸は言われた通りに高崎の眼に意識を集中させた。
このまま、時間がいつまでも経ってしまいそうで―――。
ふいに、高崎の緑色の眼に何かが浮かんだ。
金色の、糸のような、入り乱れ舞う光。
「―――"灰から灰へ"」
高崎の放ったその言葉が、やけに響いて聞こえたような気がした。
その言葉に反応するように、高崎の瞳の中にあった金糸が、漸の眼の中へと入っていく。
それは、今まで体験した事のないような、不可思議な感覚だった。ただ不思議なことに、違和感は何も感じない。
視界に何とも表し切れぬ美しい輝きが舞いながら満ちていくのが分かった。
暫くするとその光は次第に消えていき。
漸の視界は元に戻った。
「―――もういいな。漸、終わったよ」
「今のは……?」
「まぁ要は君がぶっ倒れないようにするおまじないってとこさ。」
「……へぇ」
高崎の適当な説明ではよく分からなかったが、要は今の金糸が俺の中で枷として働いている―――そういう事なのだろう。
「じゃあ等価交換って事で、早速君には仕事をしてもらおうか」
「……わかった」俺が素直にそう返事すると高崎は嬉しそうに微笑んだ。
―――何故この男は、こんなにも俺にものを言うときに楽しそうな表情をするのだろう。
***
「…で、仕事って?早速"能力者"とやらと戦わされるのか?」
「まぁその通りだね」
そう言って高崎は物が山ほど散在している机の上からA4サイズの髪を三枚ほど取り出し漸に手渡した。
「履歴書…?」
「そう。見てのとおりそれはある共通点のある人物たちの履歴書だよ。さて、彼らの共通点は何かな?」
俺は履歴書を三枚目の前にあるガラス机の上に並べた。
考えるまでもない。彼らの共通点は―――。
「…この大学で、ここ最近自殺した生徒……」
「ご名答。」
名前を見ただけで分かる。いや、むしろこの大学内で分からない者などいないだろう。皆表立って口には出さないが、この一連の自殺事件は生徒たちの心に少なからず陰を映し出しているのだから。
「この三人が、どうしたっていうんだ?…一応、警察が調べて自殺だって分かったんだろ?」
「確かに自殺には違いないんだ。結果的に手を下したのは彼ら自身だからな。
でも、もしそう操作した者がいたとしたら?
直接手を下さずに、自殺させる能力を持った者がいたとしたら…?」
高崎の言葉が、脳内でやけに響いて聞こえた気がした。