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「漸、どうしたの?」


同じ研究室で友達の夏川亜佐奈がそう話し掛けてくるまで、漸は机に伏せ気味に座っていた。


ゼミまではまだ時間があるせいか教えてくれる大学院生は来ない。先輩たちが数人いるくらいだ。


季節は梅雨に差し掛かる頃、この時期はちょうど新学期にも慣れてきて、生徒達に怠惰な空気が流れ始める頃でもある。

だがこの度重なる事件により、生徒達の間には今までにない、不安とも恐怖とも取れる空気が漂っていた。

それはこの研究室でも同様で、先輩たちの顔もどこか暗く見える。

漸はそんな教室を見回しつつ、ゆっくりと起き上がるとやがて目の前の娘に目を向けた。

セミロングくらいの黒髪を真っ直ぐおろした、可愛い雰囲気を持つその娘は、黒く大きい瞳で漸をじっと見ている。

同じ研究室に所属が決定し話し始め仲良くなったが、それまでは全く話したことがなかった。今になってようやく冗談も言える仲になったが、少し前までは会話すらもそう長くは保たなかった。

亜佐奈はどちらかというと人とつるんだりはしないほうで、以前まではおとなしい子なのかと思っていたのだが、話してみると明るく、素直な性格の持ち主だった。

「どうしたって…特に何もないけど。俺何か変?」

「うん…なんか……いつもの漸と違う気がして…。気のせいかな」

漸はそう言われて今さっき自分が体験した事を思い出した。

いつもの悪夢でさえ恐怖を感じるのに、さっき体験した事はどう考えても異常だ。

しかし、そんな夢みたいな事を言うわけにはいかない。漸は普通に答える。

「ああ…気のせいだろ。精々違うといえば、今日は買ってきた飲み物が……」

「漸ー!!!」

突如、自分を呼ぶ声がして漸は嫌な予感がしながらも振り替える。


そこには、雑多な教室でさえも一瞬中世ヨーロッパ王宮かと思うほどに、場違いな男が立っていた。


格好は白くパリッとしたワイシャツに黒いタイトなパンツ、少しハードなベルトにブーツというファッションだが、肩まである金色の波打つ髪に、すらっとした立ち姿は、まさに貴公子と呼ぶのに相応しいくらいの気品をかねそろえていた。


そして、男は今、眉間に皺を寄せて漸の事をじとっと見ている。

「………玲」

漸はようやく口を開いた。

そのようすを見て、さらにその男―――四宮玲は眉間の皺を深める。

「何で今日はいつもの電車に乗らなかったんだい」

そう話す玲の声は少し怒りを含んでいるように聞こえる。

「何でって…案外早く電車に乗れちゃったからだよ」

「いつも僕と同じ電車の同じ車両に乗って大学まで行くのが日課じゃないかっ!」

そう言って玲はぷいっとそっぽを向いた。

黙っていればかなりの色男だろうに、これでは気品も台無しだ。

「玲は漸のこと大好きだもんね」

亜佐奈が笑いながら突っ込む。

「なっ…何を言ってるんだ亜佐奈!僕は別に漸が好きとかそういうのではなくてだね……」

「漸から昨日の夜メールの返信が返ってこないからって心配して私にわざわざ電話までしてきたくせに」

そういえば玲からメールが来ていたんだった。

メールを見た時間も時間という事もあり、どうせ亜佐奈あたりから聞くだろうと返事を返さなかった事をすっかり失念していた。

「寝ていてメール返すの忘れてた。ごめんな」

「玲ったら11時頃にいきなり電話してきてねー。"漸から返事がない"って泣きながら言ってきたんだから」

「泣いてなんかいなかっただろっ!」

「かなり心配はしてたくせに」

「それは今日パソコン使うか聞きたかったのに漸から返事がなかったから、パソコン準備しなきゃいけないのかどうなのか困ってたからだっ!!この僕が漸の心配なんかするわけないだろっ!」「ふぅん…そうなんだぁ」

そんな二人の会話を聞きつつも、俺は先輩たちの方へと視線を移した。


3年が研究室に所属されてからまだ1ヶ月も経っていない。この研究室に所属されているのは漸、玲、亜佐奈の三人だけである。

この月曜一時限目のゼミもつい二週目前から始まった事であり、その為先輩たちとはほぼ話したことはなかった。

今いる先輩たちは三人。

話したことが余りないせいで詳しい人となりは知らない。名前をやっと覚えたくらいだ。


今時らしく肩にかかる程度のボブカットを金色に染めているのは烏川未来子からすがわみきこ。ショッキングピンクの何やら色々デコレーションが施されているTシャツにスキニージーンズ、右が黄色、左がオレンジの左右色が違うスニーカーがまた妙に似合っていて、彼女の明るい性格を物語っている。



黒く少しクセのある髪を横分けにし、褐色色の前あきシャツに細身のブロークンジーンズ、黒いブーツという服装の男は龍野花郎たつのはなろう。程よくついた筋肉に、少し日に焼けた肌のせいか、小柄ながら全く小柄に見えない。確かテニスが上手で小学生向けのテニススクールで講師をしていると言っていた気がする。


カチューシャで前髪をとめている紅茶色の髪の男は石本宗明いしもとむねあき。灰色のパーカーに大きめのジーンズ、オレンジのクロックスというどちらかといえばラフな服装である彼は花郎とは非対称に白い肌で、その白に妙に映える髪色と同じ紅茶色の瞳が不思議と印象的である。

三人はやはり固まって話している。普段つるむ程ではないのかもしれないが、きっと三人とも仲はいいのだろう。


漸がそうして儚と4年生らを見ていると、宗明がふいにこちらを見た。


―――やばい。見てんの気付かれたのか。


瞬時に眼が合う。

紅茶色の深い眼が、漸を捉えた―――。


その一瞬。

どうしてだろう。

漸の脳裏に、今朝視たあの映像―――縄で首をくくり、俯瞰へと飛び降りるあの感覚が、一瞬のうちに戻ってきた。

背筋が凍ったように、寒気が走った―――。

そして。

初めて体験する感覚が漸の脳内に、無理矢理押し入るように入り込んでくる。


空気が

空間が

自分を取り巻く全てのものが

凍り付き、砕け散っていく感覚―――。

自分の躯さえも心さえも散り逝く恐怖。

そして、目の前が瞬時暗くなった―――。



ふいに、永遠とも思えるような一瞬が終わった。宗明が微かに笑っているのが分かった。



気が付けば漸の中から恐怖が消えてなくなっていた。屋上にいた時とは違う。あの時は恐怖で震えが止まらなかったのに、今は単なる記憶として平然と捉えている自分がいる。


「…………?」

「ぜーんっ!どうしたのっ」

亜佐奈が漸の髪を目の前で手をひらひらさせる。

漸ははっと我に返った。玲も心配そうにこちらを見ていた。

気が付けば、宗明も普通に未来子たちと話している。

「いや、何でもねぇけど…」

「そう?ならいいんだけど…あ、そういえば漸、今日飲み物ミルクティーじゃないじゃんっ」

そういって亜佐奈が机の上に置いてあるペットボトルを指差す。

いつもはミルクティーを買うのだが、今日は気分でジャスミンティーにしてみたのだ。

「何か気分でな。こうやって飲んでみると結構ジャスミンティーも上手いかも」

「…確かに漸はミルクティーっていうよりかはジャスミンティーだね」

玲がジャスミンティーのペットボトルを手にとって見ながら言った。

「俺っぽい…?」


「うん。何か漸ってジャスミンティーっぽい」


一体どこがなんだろう。


それを聞こうと漸が口を開こうとしたとき、教室の扉がガチャンと音をたてて開いた。

「皆さん、ご機嫌よう」

そういって入ってきたのはスーツ姿の女性だった。院生の杉浦美奈子だ。彼女が有志でゼミの講師をしてくれている。

年は二十代後半といったところだろうか。長い髪を横の方で一つにまとめている。

3年も4年も、その姿を見て席に着く。「遅れてごめんなさい。じゃあ早速始めるわ」

そういって杉浦はプリントを配り始める。

そしてゼミが厳かに始まった。


―――さっきのは何だったんだ?


漸は杉浦の話を聞きながらも、頭の奥底でその疑問をかき消すことは出来なかった。



***


一時間半のゼミが終わった後、杉浦が最初に出ていくと、生徒たちは一斉に立ち上がった。

「じゃ…みきちー、あっきー。俺先行くわ。中谷先生に用あるし」

「後でね花郎ー!」

「またなー」

未来子と宗明が花郎にそう言い手を振る。

花郎は漸たちにふいに顔を向けると手をひらひらと振った。

「漸くんに玲くん、亜佐奈ちゃんもまたなー」

突然の事だったので三人ともすぐ反応出来ない。

「あ…は、はいっ!さよならですっ」

最初に反応したのは亜佐奈だった。それに続いて玲も頭を下げる。

「また…また今度!」

漸も咄嗟に頭を下げた。

「お疲れ様でした!…龍野さん」

―――確か名字龍野でいいんだよな…?

そんな漸の心配をよそに花郎はカラカラと笑いながら言った。

「名字じゃなくて…花郎でいいよ!じゃあねー!」


***


「花郎さんいい人だったね」

玲がそう呟く。

ゼミをやった教室を出、二時限目の薬理学の教室へ向かうため、三人は桔梗ききょう棟へ向かっていた。

甲南大学は全部で5つの棟により構成されており、東西南北の順に桔梗棟、紫苑しおん棟、躑躅つつじ棟、撫子なでしこ棟があり、中央に棘薔薇いばら棟がある。


甲南大学は敷地が異常に広いため棟を挟む移動はとてつもなく大変だが、三人が今いたのが棘薔薇棟で、棘薔薇棟はどの棟にも繋がっているため移動はまだ楽であった。


「まさかあんなに花郎さんがフレンドリーだったとは知らなかったねっ。それに私たちの名前まで覚えててくれたなんて…」

亜佐奈が満面の笑みでそう言う。

―――確かに花郎さんはいい人だったな。

だが漸には今花郎以上に気になっている事があった。宗明のことだ。

先程あんな風に不可解な事が起こったばかりだ。気にならないはずもなかった。

漸はさり気なく二人に聞いてみることにした。

「あのさ、石本さんってどんな人なんだろ?」

「石本さん?石本…宗明さんだっけ。あのカチューシャの人だよね?」

亜佐奈が言った。続いて玲も言う。

「石本さんって確かうちの大学の寮に住んでるって聞いたよ」

「へぇ……」

甲南大学には一応寮があるが漸のように一人暮らししてしまったほうが意外にも安くすむため入っている生徒はそこまでいない。

漸はまだ建物自体は見たことがないが、確かその辺の高級住宅街に建っているマンションよりも高級だとか。

「あと…」

玲が声を落として言った。

「石本さんって…伊藤彩乃さんと遠い親戚らしいよ」

漸の頭に、一瞬痛みが走った。

「えっ!あの屋上から首吊り自殺した…?」

「亜佐奈!声が大きいよ」

玲にたしなめられ亜佐奈はまわりを見た。幸いにして誰にも聞かれていなかったようだ。

一連の自殺については、今大学内では暗黙の了解で口にすることはタブーとされていた。

「本当か、玲?」

漸は声を落として聞いた。

「ああ。警察の事情聴取にも呼ばれたみたいだしね」

「…一体お前それどっから聞いてくるんだ。そんなの大学の関係者しか知らないだろ?」

漸は半ば感心しつつもあきれ顔で聞く。

すると、玲は得意の王子スマイルでウインクしながら言った。


「僕の一番上の兄貴、この大学の教授だから」

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