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携帯のアラームが鳴る音で、漸は再び目覚めた。
時間は6時半。一時限目から授業がある日はこの時間に目覚めるようにしている。
頭痛はまだ少し残っていたが、息苦しさは消えていた。何より恐ろしい悪夢を見ることもなかった。
漸は起き上がると、ベッド横にある出窓のカーテンを開けた。部屋一面に光が満ちる。
梅雨時期には珍しく、清々しい朝だった。
気分も自然と晴れ晴れしくなる。
今日は朝イチから研究室のゼミの日だ。ゼミといっても大したことはやっていない。8月下旬にある資格試験の勉強会である。大学院生が有志で教えてくれるのだが、これが中々に有意義なのである。急いで支度をしようと、漸は寝室を後にした。
漸は一通りの支度を済ませると、鞄を持って玄関の扉を開いた。
時間はいつも家を出る時間よりも早かったが、早く着いたら少し大学で休んでいればいい。
マンションの部屋の鍵をしめ、漸は通路を真っ直ぐ歩きエレベータへと向う。
まだ時間も早いということもあり、エレベータはすぐに漸の住んでいる八階へと来た。案の定、誰もいない。赤い絨毯が敷いてあり、扉と対極にある壁一面が鏡になっている小さな個室の中に入ると、漸は一階のボタンを押した。ドアが閉まり、一瞬内臓が取り残されたような感覚がした後、エレベータは音を立てて下へと堕ちていく。
一階に着くのを待ちながら、漸はふと夢の事を思い出した。
あの夢は結局何なのだろう。何か意味があるのか。それともまた別の何かがあるのか―――。
一階に辿り着くと、漸は大理石の床のホールを抜け、マンションを出た。目の前には広い、けれど少し寂れた道路が広がり、あたり一面は漸が今出てきたマンション同様、まるで高層ビル街のように少し高級志向のマンションがそびえ立っている。
漸が通っている大学は歩いて15分位にある、最寄り駅から八駅先にある私立江南大学だ。
漸は現在そこの医療生命工学部臨床工学科の3年である。
漸は駅へ向かう途中、ふと建物の入り口のガラスに映る自分が目に入った。
暗めの赤い髪―――今時の若者同様、髪をワックスで盛っている。大きくすっとした目、耳にはピアスを幾つも付けている。背丈は百七十五センチくらいで、細身の体型。
よく知っているはずの自分なのに、まるで全く知らない男に感じる。最近ずっとこうだ。まるで、自分が自分でないようだった。
自己の確立とは、生きる上で最も重要な事だ。自己とはいわば木の幹みたいなもので、自分の行動の原点といえるだろう。
自分というオリジナルがあるからこそ、自分特有の、自分にしか選ぶことの出来ない「生」が全う出来る。
つまり自己の確立が成されていないという事は、自分がどう生きていけばいいのか何の為に生きているのか、それさえも解らないということだ。
―――そうか。
漸はそこまで考えてはっと気付いた。
つまり自分にとっての行動起源は、「佐々木漸」という男に到達する事なんだろう。
学校に着いたのは八時過ぎだった。時間帯が早いということもあり、交通機関もいつもよりも割とスムーズだったのだ。
玄関を抜け校舎内に入る。案の定人影は見当たらない。漸はこのまま空き教室でゼミが始まるまで寝ていようかとも思ったが、ふと思い立って屋上の方へと向かった。
屋上といえばここ二週間くらい前、首吊り自殺が起こった現場だ。以前は昼休みなど生徒達の休憩所として活用されていたが、自殺現場となってからは生徒達はあえて誰も近づこうとも思わなかった。
普段生徒が生活している階とは違い、屋上階に繋がる階段は、まるで人を拒むかのように、途端に埃臭くなる。蛍光灯もない薄暗い空間は、まるで別の世界に来てしまったかのようである。
屋上へ続く扉の窓ガラスから漏れる日の光だけが足元を照らす。
漸はその扉を開けると、俯瞰へと足を踏み入れた。
屋上は殺風景だった。
校舎自体は外装が煉瓦仕立ての、壁に蔦が生い茂る昔風の洒落た建物なのだが、屋上はコンクリートを打ち込んだだけの、何の変哲もない空間だった。
周りはフェンスが囲んであり、ちょっとやそっとでは乗り越えられそうもない。漸はフェンスの近くに寄ってみた。
ここに縄を括り付けて、フェンスを乗り越え首を吊るのはそう簡単な事ではないはずだ。
首を吊るならばもっと適任な場所は他にある。
そんなまでして空に飛び立ちたかったのか。ならば何故首を吊った?空に飛び立ちたいなら、縄という枷は要らない。そもそも死ぬのが目的ならば、ここからそのまま飛び降りればいい。
「屋上で」「首を吊る」ことに何か意味があるのか。それとも―――。
ここまで考え、漸ははっと我に返った。
「こんな事、俺が考える事じゃねぇよな…」
そう呟くと、その場に座り込み、漸は空を見上げた。何もかも吸い込んでしまいそうなくらい、青い空だった。
確かに、自分という存在がとても小さな、何の力も持たない無価値なものと思い込んでしまうほど、この空は広大で深く、人の心に言葉では表しきれない衝動を生む。
そう、時には唐突的に、死や生など考える間など与えないほどに、激しい「渇望」と言う名の衝撃―――この広大な空の一部に溶け込みたいと思わせるほどの、衝撃さえも。
その時だった。頭の中が、フラッシュを焚いたように光ったかと思うと、漸の眼の前に広がる景色が、まるで紙芝居をめくるかのようにがらりと変わっていた。
場所はこの屋上のようである。真夜中なのだろうか、月の光がコンクリートの床を薄暗く照らしている。
開けた扉もそのままに、ゆっくりと、真っ直ぐフェンスの方へと進んでいく。そしてフェンスのすぐ手前まで来たところで、ロープをフェンスの下へと結んだ。さらにロープの端を手に取ると、自らの首へと結び付ける。何の感情もなかった。ただ、自分のしなければならない事だけは分かっている。
そして漸は、フェンスを乗り越え、俯瞰へと飛び出した―――。
目の前にまた閃光が走る。空がさっきよりも少し遠い。
気が付けば、漸はコンクリートの床に仰向けになって倒れていた。
額から汗が滴り落ちる。自分の手が、ガタガタと震えているのが分かる。
空は明るく、朝の陽射しが眩しいくらいである。
今、確かに、自分は何かを見ていた。客観的にではない。確かに自分の目線だったのだ。夢にしては、やけに鮮明な―――。
眠りについているとき以外で、この恐ろしい悪夢を見たのは初めてだった。
ましてや、無理矢理夢の世界に引っ張られるかのような感覚。
息が、荒い。今こうして恐怖を感じ、息をしている自分は確かに生きている。ではさっきの自分は?さっき、あのフェンスを越え、飛び出した自分は―――。
漸は飛び起きた。気が付けば下のほうが騒がしい。生徒達が登校する時間になったのだろうか。漸は腕にしている時計を見る。時計の針は、8時45分を指していた。もうそんな時間になったのか。つまり、随分長い間気を失って倒れていた事になる。
漸は立ち上がった。まだ少し震えている。飛び出した感覚、堕ちる瞬間、首のロープに物凄い勢いで引き締められる激痛―――全てがまだ残っている。
今まで見た中で、こんなにも感覚が残っている夢は初めてだった。
漸は深呼吸すると、校舎へと繋がる扉へと向かい、汗ばむ手で扉を開けた。