プロローグ〜ノクターンの扉は静かに開かれた〜
俺だって美少女は好きだ。みんな好きだろう。だけれど、どうして彼女と出会ってしまったのか。
「待ちくたびれたわ」
目を開けた俺の前にあったのは、夢の残り香のように静謐に佇む、美しい顔の――”少女の生首”だった。
◇
「こんなとこに喫茶店なんて、あったか?」
そんな独り言を呟いたのは、曇り空の午後のことだった。
俺は大学に向かっている途中、曜日を勘違いしていることに気づいたのだ。結果としてゴミ出しのタイミングも逃してしまった。夏が近いのに、部屋で数日放置される生ゴミのことを思うと憂鬱である。
こうなったら気分転換に喫茶店巡りでもしてやろうと意気込み、気まぐれに裏道を選ぶ。すると、すぐにその店が目に入った。
『喫茶ノクターン』
このあたりではあまり目にしない、白い石灰岩でできた外壁。どこか異国風の目を引く外観だ。外からは中の様子が全く伺えないが、賑わっている気配はない。そこだけまるで時が止まっているような、不思議な静けさに満ちていた。
吸い込まれるようにして、店の前に立つ。
表にメニューは出ていない。ドアノブに下げられている木札には、控えめな文字で「OPEN〜当店は紅茶専門店です〜」とだけ書かれていた。
――紅茶専門店か。
周りにはコーヒー派が多いので、普段はコーヒー派に擬態している。しかし母の影響で密かに紅茶好きの俺としては、心躍る文言だ。
子どもの頃から台所に紅茶の缶が並んでいた。その影響で、俺も自然と紅茶派になった。なんとなく、男らしくない気取った趣味だと笑われそうだから、言ったことはないけれど。
期待の高まる中、お店の中はどんな雰囲気なのだろうと検索するも、それらしきレビューは見当たらない。
「最近、出来たばかりかな」
普段なら少し躊躇してしまうところだが、そう口に出し、無意識に自分の背中を押した。
曜日を間違え、ゴミ出しすらも失敗。喫茶店くらい当たりを引かなくては、割に合わない。きっと魅力的な店に違いない。今日の失敗を挽回しなければ、家に帰る気分にもなれないのだ。
◇
カランカラン―――
小さく鈴の音が鳴る。扉を開けた瞬間、ふわりと漂う紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。思わず、大きく息を吸い込んだ。その柔らかく甘いラベンダーのような香りに包まれた瞬間、なぜだかノスタルジックな気分になる。
ああ、なんだろう。家に帰ってきた、そんな感じがする。家とか実家の匂いとは全然違うはずなのに。
店内には、アンティーク調の家具が並んでいる。つやのある焦げ茶色で統一された店内には、俺の他に客の姿はない。
白髪を後ろでひとくくりにした店主がこちらに気づき、肘置き付きの椅子が並ぶカウンター席へと案内してくれた。こぢんまりとした店だし、一人で切り盛りしているのだろう。
「おすすめは当店オリジナルのブレンドティーです。うちのブレンドには、貴重な茶葉が使われているんですよ」
グラスに入った水とおしぼりをテーブルに置きながら、店主が言う。
手渡されたメニューには載っていなかったので詳細は分からなかったが、おすすめとあらば断らない主義だ。当然、”期間限定!”とか”新商品!”という言葉にも弱い。
「それをお願いします」
俺は迷うことなく、”おすすめ”を注文する。
ほどなくして、紅茶の用意を済ませた店主が、奥から茶器をトレイに載せてやってきた。
俺の前に茶器をセットし、ティーポットからカップへと丁寧に紅茶を注ぐ。立ち上る香りはとても甘く、それでいてかすかにスモーキーだ。深い赤褐色の液体が、店内の照明を美しく反射しながらゆらいでいる。
ティーポットのそばに添えられていたミルクは、ほんのりとあたたかかった。ミルクジャグを持ち、カップの中へと静かに注ぐ。手前にあったティースプーンを取り、くるりとひと混ぜした、そのミルクと紅茶の渦の中。
一瞬、誰かと目があったような錯覚に陥る。
背筋がひやりとして、カップの中をじっと見るも、その中には”誰も”いない。当然だ。俺は手に持っていたティースプーンを、ソーサーの上へとそっと置いた。ああ、やっぱり今日は疲れているのかもしれないな。
気を取り直し、カップの取っ手をつまむ。一口飲むと、深いコクと甘みのある味わいが全身へと染み渡っていくようだった。
「うまっ」
美味しすぎる。嘘みたいに”完璧”なミルクティーだ。
じんわりと、心地よい感覚に包まれていく。
ずっと前にもどこかで飲んだような……どこか、懐かしさを感じる味と香り。記憶の奥深くを撫で、思考がゆるりと解けていく。どこか遠い異国の絵画的な風景のような優美さ。
なんやかんやで新しいお店も見つけたことだし、案外ツイているじゃないか。出しそびれたゴミは一旦ベランダに置くとしよう。来週の俺よ、あとのことはよろしく頼んだ。
幻想的な雰囲気のティーカップの青色と金彩に視線を落とすと、自らの賭けに勝った余韻に浸りながら、カップをソーサーに置いた。
ふわり。
――あれ?
おかしい。音がしない。カツンと、陶磁器同士の触れ合う音が聞こえない。その空間だけが透き通って消えてしまったかのような感覚。なにか、嫌な予感がした。
先程まで流れていたはずの、クラシックBGMも聞こえない。すべての音が、どこかに吸い込まれたかのように消えていた。
なんだ?
……コポコポコポコポコ……
耳元で、湯が沸き立つような音が聞こえ出す。それは、だんだんと大きくなっていく。視界の隅に、煙とも靄ともつかない、白色が見えた。
「湯気、か……?」
違う、湯気ではない。手で振り払っても、まとわりつく湿り気や温度を感じられないのだ。謎の靄の向こうから、誰かにこちらを見られているような、そんなひんやりとした感覚が背筋を伝う。
ゴシゴシと目をこする。しかし靄が晴れることはない。だんだんと視界いっぱいに広がっていくそれは、現実を侵食していく。もう一度目をこすろうとするが、手に力が入らない。腕が、上がらない。
そう感じた瞬間。
身体が沈み込むように重くなり、世界が暗転していく。
――俺の意識は、暗闇の中にゆらいで溶けていった。
誰かが俺を、呼んだ気がした。
不思議な紅茶が選んだ、”封印された世界”へ。
◇
「あれ……? どこだここ」
意識を取り戻したとき、口の中にはほのかな甘みがまだ残っていた。
ぼんやりとした頭で周囲を見渡す。白い石灰岩でできた壁、つやのある焦げ茶色の家具たち。なにやら、ぐにゃぐにゃとした装飾……もしかすると文字だろうか。模様のような何かが書かれた木札が壁に貼り付けられているのが見える。
先程までいた場所と、とても良く似た雰囲気のインテリアだが……。
似ているのに、どこか違っている。空気も、さっきと全く違う。カラリとしている。というかこんなに店内広かったっけ。窓も増えているし。
窓の外をみると、日が沈みかけていた。夕日と夜の境目が紫色に染まる空は、雲一つない快晴だ。うっすらと、オレンジ色の三日月が見える。
そしてその空の下にあったのは、見慣れない、異国の風景。
背の高い緑の木々と洋風の建築。白い石灰でできた建物がぽつぽつと並んでいるのが見える。
というか、さっきは昼だったのに、いつの間にこんな時間になったんだ? えっ俺、ここで寝落ちしてた?そんなことある?
脳内は大混乱中だが、とりあえず現状を把握しようと店内へと視線を戻す。間違い探しのようでもあるが、先程までと明らかに違うのは――カウンターの上、銀の台座に、生首の少女のオブジェが置かれていることだった。
リアルすぎる”彼女”に、思わずぎょっとする。
一瞬、本当に生きているのではないかと錯覚してしまったからだ。ありえないとわかってはいるが、いや、なんて精巧なんだろう。そしてものすごく、美人だ。少女のオブジェとして作られたのだと思うが、どこか大人っぽくもある。
真っ白で陶器のような肌。金髪の長い髪は、肩……ではなくテーブルに流れるように広がり、長いまつげが呼吸するようにわずかに揺れている。
なるほど、この柔らかな動きのせいでより本物っぽさが増しているのか。
"彼女"から視線を外し、俺はここに来る前のことを思い起こす。
あの紅茶。さっきの店で、確かに飲んだはずだ。現に、口の中にはまだ甘みが残っている。その後に起きた謎の現象。あれは何だったんだ? ここの店員さんに聞いてみようか。……いや、変なやつだと思われるかもしれない。やめよう。というかここは、どこなんだろう。
誰かを探すように、再度、人気のない店内を見回したその時。
紅い瞳と、目が合った。
まるで紅茶を思わせる、深いルビー色。
悲しみと好奇心の入り混じったその瞳に、なぜだか俺は強く惹かれる。ずっと会いたかった人に、再会できたような、そんな気持ち。
――だが、ちょっと待て。ここには、さっきまで俺の他に誰もいなかったはずだ。
「待ちくたびれたわ」
静けさの中、凛とした声が響く。
ティーカップの中に、真っ白な角砂糖を落としたかのように静寂が揺らいでいく。
その形の良い唇が動く瞬間を、俺はただ眺めていた。カメラが引いていくように”彼女”の全体像を俺の目が捉えた瞬間。思考が、フリーズした。
「――――え?」
喋っているのは、カウンター上の“生首”だ。
紅い瞳の持ち主と、見つめ合ったまま少し間が空いたあと――それがオブジェではなく、本物の生首で、しかも生きている。そう、思い至った。混乱しながらも、なぜか”彼女”から視線をそらすことができない。
本物、なのか?……いやでも、そんなこと、ありえるはずがない。一体どんな仕組みで喋っている? というかそもそも、そういうレベルの問題でもないだろう。頭大丈夫か俺、落ち着け。
瞬きすら忘れそうだった。
少女の不完全ゆえに完全な美しさに圧倒され、言葉が出ない。
喫茶店というどこか馴染みのある風景の中に、ぽつんと、本物の生首。そんな異常事態にも関わらず、彼女の優雅で落ち着いた声色のせいか、それとも、なぜだか懐かしさを感じる瞳のせいか。
あれ……? おかしいな、思ったよりも全然怖く、ない。
本来なら恐怖心を感じるべき状況なのに、正直自分でも戸惑うほどに冷静さを取り戻していった。
考えてみたら、この人ってこのままの状態で放っておいていいのかな。それに、一体どうしてこの姿に。
というか彼女が存在できるということは……。ここってどこだ? 俺が元いた世界とは違うんじゃないか? もしかして、彼女が呼んだから俺はここに来てしまった、みたいなことだったりする?
生首の少女は、考え込む俺を無表情で見ながら、またしても口を開く。
「ミリアと呼んで」
「あっ、ミリアさん」
堂々とした自己紹介に、俺は思わずその名前を復唱する。
いや、めちゃくちゃ普通に自己紹介してきたけど、誰だよ。まず先に首のこととか説明してくれよ。なんで喋れるんだよ。ツッコミどころがありすぎて、どこから処理すればいいのか分からない。
そうだ、確認したいことがあった。彼女から正しい回答が来るかは分からないが。
「あの、ミリア……さん、ここって一体どこですか?」
「喫茶ノクターンに決まっているでしょう」
当然、といった口調で彼女は言い放つ。
「ノクターン? でも俺、さっきまでこことよく似たノクターンにいて……」
そこに、あなたはいなかった。
混乱する俺に「珍しい人ね」と淡々と言う彼女は、傍から見れば明らかに”珍しい側”だろう。
「ええ、ここは喫茶ノクターン。けれど、あなたの世界のものではないわ」
「あなたの世界のものではない?」
「あなたって、ぎりぎりここの世界の住人じゃないもの」
ぎりぎりって何? ミリアは彫刻のように美しい顔のまま、大真面目といった様子でこちらを見ている。
見覚えのない風景に、生首のオブジェ……ではなく、ミリアという少女がカウンターに”置かれて”いて。
「あの、それってもしかして、ここが異世界ってことですか?」
「そうかもしれないわね」
「そうかもしれないんですか……」
あまりにも急な展開に頭が痛くなって、思わず天を仰ぎ見る。
でも……なんか地味じゃない?! 本で読んだり想像していた異世界と違うというか、生首じゃなくてもっとかっこいい剣士がいたり、きらきら魔法少女とか、そういうやつじゃないの?! いやそもそもこれを現実だとなぜ認めてしまっているんだ? 夢、それこそ悪夢なのかもしれないし。
夢であれと願いながら、ふと手に触れたテーブルの木目。そのあまりにもリアルすぎる質感とぬくもりが、これは現実だと告げている。
思わず自分の頬に触れる。ああ、残念なことに、しっかりと感覚がある。そして、ここまでの事実を客観的に見ると、認めざるを得ないのではないか。
「ああああ俺、どうしてこんな変なところに」
俺、帰れるのか……? ここには俺と、謎の”彼女”しかいないのに。
諦めて現実を受け入れようと努力するも、口の中が、急にカラカラに乾いていくのを感じた。
「来たばかりなのに悪口をいうのはやめてくれるかしら」
「はい……すみません……」
「私だって、首を長くして旅人を待つのも疲れてきたところなのよ」
うつむき呻く俺の思考に追い打ちをかけるように、真顔で言われる笑っていいのかどうなのかわからない生首ジョーク。思わず、引きつった笑みを浮かべた。
どうやら俺は、生首が喋る異世界に迷い込んでしまったらしい。
この出会いが、俺の人生とミリアの呪われた運命を変えることになるなんて、このときは知る由もなかった。
今はまだ、ほんの一杯目。




