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海と再会

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 朝の舞鶴駅は、まだ午前八時前だというのに、熱気がじわじわとホームを包み込んでいた。

 セミの鳴き声が、駅の屋根の隙間から降ってくる。空は高く澄み、早くも陽光がアスファルトを白く照り返している。

 蓮は手に持ったペットボトルを口元に運び、ひと口水を含んだ。ひんやりとした冷たさが喉を通るが、すぐに体温で温まってしまう。


 今日はアルバイト初日だ。

 行き先は、福井県の若狭高浜にある城山海水浴場。その砂浜に面した海の家で、夏の間だけ働くことになっている。

 サークルの先輩から「人手が足りないらしいぞ」と紹介され、最初は気軽な気持ちで引き受けた。だが、前夜は妙に眠れなかった。

 夏の海という非日常の空気に期待しているのか、それとも、何か漠然とした不安があるのか——自分でもわからない。


 舞鶴から高浜までは電車で三十分ほど。発車してしばらくは住宅街や小さな商店の並ぶ景色が続くが、やがて視界が開け、右手に海が現れる。

 朝の光を受けた海は、淡く青く、ところどころ銀色に輝いていた。小さな漁港には、網を干す漁師の姿や、波間に揺れる白い船が見える。

 潮の匂いが、窓から流れ込む風に混じって鼻腔をくすぐった。


 高浜駅に着くと、ホームはこぢんまりとしていて、観光案内の看板が立っていた。

 そこには、真っ白な砂浜と透き通った海水、そして海の向こうにこんもりとした緑の小山——城山が写っている。


「蓮くんやな? 島崎ですわ」

 声をかけてきたのは、日に焼けた顔に笑い皺を刻んだ男性だった。海の家の店主、島崎さんだ。

「はい。今日からお世話になります」

「こっちや。荷物積んで」

 軽トラックの助手席に乗り込むと、車は駅前の通りを抜け、すぐに海沿いの道へ出た。

「これが城山や」

 顎で示された先、緑の小山が海に突き出している。その裾野には白い砂浜が広がり、もう何人かがパラソルを立てていた。

 その景色は、蓮の暮らす下宿の近くの海とはまったく違った。水の透明度が高く、岸辺がエメラルド色から沖の濃い藍へと滑らかに変わっていく。


 海の家「しらはま」は砂浜の中央にあり、白い木造の建物に青いテントが張られている。軒先にはカラフルな浮き輪やビーチボールが吊るされ、風に揺れていた。

 初日の仕事は、レンタル用の浮き輪やパラソルの準備、かき氷機の動作確認、テーブル拭きなど。

 日差しは容赦なく肌を焼くが、時おり吹き抜ける海風が汗を冷ましてくれる。


 昼前には観光客が増え、浜はにぎやかになった。水着姿の子どもたちが歓声を上げ、ボールを投げ合い、波打ち際を走り回る。

 蓮はその光景を眺めながら、自分も子どものころは夏休みによく海で遊んだなと思い出す。——ただ、その記憶はいつも、ある一点から先が曖昧になる。


 午後、少し長めの休憩時間をもらった蓮は、建物の裏手から岩山のほうへ歩いた。

 砂浜が途切れると、足元はごつごつとした岩場になる。岩山のふもとには、小さな入り江があり、波がゆっくりと打ち寄せては引いていく。

 岩肌には小さな貝殻や海藻が貼りつき、潮の香りが強くなる。


 そのとき、視界の先に白い影が立っているのが見えた。

 岩山の上、海を見下ろすように立つ女性。

 肩までの茶色がかった髪を高い位置で束ね、白いワンピースを着ている。陽光を受けて輪郭がほのかに輝き、背景の青に溶けそうだった。

 彼女はしばらく動かず、ただ海を見つめていた。


 蓮が近づくと、ふいに彼女が振り返った。

「……あれ、今日から入った人?」

「あ、はい。海の家でバイトしてる蓮です」

「そっか。私は美空。この近くの民宿を手伝ってるの」

 微笑んだ顔は健康的に日に焼け、瞳は夏空のように明るいのに、どこか奥底に影を含んでいるように見えた。


 美空は岩山からの景色を教えてくれた。

「ここからだと、海水浴場が全部見えるんだよ。パラソルの色も、人の動きも、ぜんぶ」

 蓮も見下ろした。砂浜に並ぶ色とりどりのパラソル、浮き輪を抱えた子どもたち、波の音と笑い声が入り混じる。

「きれいですね。舞鶴の海とはまた違う」

「水が澄んでるからね……でも、あの辺は流れが速いんだよ」

 美空が指差した沖合は、光の反射が不思議と薄暗く見えた。


 それから蓮は、仕事の合間や帰り際に美空と顔を合わせるようになった。

 民宿「みそら荘」は海の家から歩いて五分ほどの場所にあり、木造二階建てで、玄関先には風鈴が揺れている。

 夕方になると、美空は浴衣姿の宿泊客を笑顔で見送り、風に吹かれて髪の先が揺れていた。


 ある日、蓮は帰り際に声をかけた。

「よかったら、明日の休憩時間にまた岩山に行きませんか」

「うん、いいよ」

 その笑顔は、日差しよりも暖かかった。


 翌日、二人は岩山に並んで座った。

 波が岩肌を洗い、潮のしぶきが風に混じって頬を濡らす。

「蓮くん、泳ぎは得意?」

「まあまあですね。子どものころはよく海に行きました」

「私は……あんまり」

 美空の声がかすかに震えた。

「小学生のとき、一度、怖い思いをしたことがあって」

 それ以上は語らず、視線を海に落とした。


 その夜、下宿に戻った蓮は母からの電話を受けた。

「そういえば、悠真くんのこと、まだ話してなかったわね」

 悠真——蓮の従兄。八年前の夏、海での事故で亡くなったとだけ聞かされていた。高校二年生、陸上部のエース。

 美空の言葉と影を含んだ瞳が、蓮の胸にざわめきを残す。

 八年前、美空が小学六年生だった夏——何があったのか。そして、それは悠真と関係があるのか。


 窓から入り込む夜風が、潮の香りを運んでくる。

 波音の奥から、まだ知らない過去の気配が、静かに忍び寄っていた。



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