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セメントの峡谷と少女のこだま

作者: amiiii3

あなたが今、目にしているこの世界は、本当にその姿をしているのだろうか。


私たちは、あまりにも地上を歩くことに慣れすぎてしまった。街はただの平面であり、ビルはただの障害物。人々は景色の一部で、風は髪を乱す邪魔なもの。


けれど、もし。

もし、ほんの少しだけ視点を上げることができたなら。

ほんの少しだけ、違う角度から世界に触れることができたなら。


きっと、聞こえてくるはずだ。コンクリートの奥深くに眠る、時間の囁きが。きっと、見えてくるはずだ。錆びついた鉄骨の上に差し込む、一筋の光が。


この物語は、一人の少女が、世界を「読み解く」ための、全く新しい方法を見つけるまでの記録である。


さあ、ページをめくろう。

最初の「カチッ」という音は、もうすぐそこに。

序章:風の呼び声と、最初の「カチッ」という音


風。


日向夏帆ひなたかほは、この街の風を、今まで一度も本当の意味で知らなかったのだと、初めて悟った。


地上では、風は高層ビルに切り刻まれ、行き場をなくした気流でしかなかった。スカートの裾をめくり上げ、丁寧に整えた前髪を乱し、ビニール袋や乾いた落ち葉を巻き上げて、都会特有の焦燥感をまといながら、せわしなく吹き抜けていく。


だが、ここは違う。


風は、一つの完全な存在だった。遥かな地平線の彼方から吹き寄せ、連なるビルの屋根をなで、高空の希薄な涼やかさと…どこか空そのものに似た匂いを運びながら、優しく、けれど確かに彼女の頬をかすめていく。一つの、壮大な交響詩のように。


夏帆の指は、冷たく、錆色の紋様が浮かんだ一本の鉄骨の縁を、固く掴んでいた。


彼女は今、地上十五メートルの空中にぶら下がっている。


「夏帆。呼吸を」


下方から、水面のように静かな声が届いた。大きくはないのに、その声は風の唸りを貫き、まるで目に見えない糸のように、張り詰めた彼女の神経へと正確に結びつけられた。


月城静流つきしろしずるだ。


夏帆はヘルメットのバイザー越しに視線を落とす。静流が、打ち棄てられた倉庫のコンクリートの床に立ち、両手でビレイデバイスをしっかりと握っているのが見えた。一本のオレンジ色のクライミングロープがデバイスから伸び、うねりながら上へと続き、夏帆の腰のハーネスに繋がっている。


そのロープが、今の彼女とこの世界を繋ぐ唯一の絆であり、生命線だった。


「私…なんだか、ちょっと…」夏帆の声は微かに震えていた。恐怖からではない。興奮と緊張、そして未曾有の体験が入り混じった、生理的な反応だ。腕の筋肉が抗議の悲鳴を上げ、掌の汗が冷たい鋼鉄をぬるりと滑らせる。


「下を見すぎないで。目の前のものを見て。それを感じて。それは、何?」静流の声は、変わらず落ち着いていた。


夏帆は言われた通り、目の前の鉄骨に視線を戻す。ざらりとした感触。金属が長い年月を経て酸化した、独特の粒子感。薄い埃の層を指先でなぞると、はっきりとした跡が残った。倉庫の天井に空いた天窓から陽光が差し込み、ちょうどその一帯を照らしている。無数の微細な塵が光の柱の中で舞い踊る様は、沈黙した金の精霊の群れのようだった。


「…錆と、埃です」夏帆は呟いた。


「うん」と静流が応える。「それは、どれくらいここに?どれくらいの雨風に晒されてきた?まだ真新しかった頃、その上をどんな作業員が歩いていただろう。この倉庫には、かつてどんな荷物が積まれ、街のどこへ運ばれていったんだろう?」


静流は答えを期待していなかった。彼女の問いは、夏帆の心の湖に投げ込まれた小石のように、静かな波紋を広げていった。


そうだ。


夏帆の心は、ふっと穏やかになった。自分はもう、宙吊りのちっぽけな個人ではない。指先の感触を通して、この街に忘れられた鉄の歴史を読み解く、一人の読者なのだ。


深く息を吸い込むと、高所の澄んだ風が肺を満たし、胸の痞えを取り去ってくれた。体勢を整え、もう片方の手を伸ばし、より安定したホールドを掴む。


カチッ。


腰のクイックドローが壁の確保支点と繋がり、澄んだ音を立てた。下で静流がロープのたるみを引き、ビレイデバイスがロックされた音だ。


この音を、夏帆はもう何度も聞いている。


彼女たちの部活――「都市垂直探検部」の部室で、冷たくも信頼できるこれらの器具に初めて触れた時、静流先輩が最初に教えてくれたのが、この「カチッ」という音を聴き分けることだった。


「世界で一番、安心できる音。それは繋がり、そして、委ねることの証。どれだけ高く登っても、下には、あなたを守っている誰かがいるっていうこと」


あの時、静流はそう言った。手の中では、金属の艶を放つ洋梨型のカラビナが弄ばれていた。


今、その「カチッ」という音が再び響き渡り、無言の約束のように彼女を支える。


夏帆は、腕に力が戻ってくるのを感じた。身体を上へと引き上げ、ざらついた壁に新しい足場を見つける。風が耳元で歌い、陽光が首筋を温める。


もう彼女は、この巨大な都市の複雑な交通網と冷たい人波に戸惑い、居場所を見つけられずにいた、新入生の頃の自分ではない。


彼女は、登っている。


かつて恐れていたこの街を、全く新しい方法で抱きしめている。


すべては一ヶ月前、あの、やはり風の強い午後に始まった。道に迷った彼女が、塀に囲まれた都会の「洞窟」に迷い込んだあの日。そこで彼女は、猫のように、廃墟の垂直な壁面を音もなく移動する、月城静流を初めて目にしたのだ。


その姿は、重力に抗っているというより、まるで風と舞っているかのようだった。


第一章:コンクリートの峡谷のこだま


「都市垂直探検部」の部室は、部屋というより、小さな装備倉庫とカフェを混ぜ合わせたような空間だった。


旧校舎の最上階、ほとんど忘れ去られた物置の一つが、それだ。窓は、街で最も高層ビルが密集する区画に面している。ここから眺めると、一棟一棟の摩天楼が沈黙の巨人のようにそびえ立ち、不揃いな「コンクリートの峡谷」を形作っていた。


壁には、色とりどりの様々な長さのクライミングロープが、まるで乾かした巨大なラーメンのように掛かっている。スチールラックにはヘルメット、ハーネス、多種多様なクイックドロー、カラビナ、ビレイデバイスやアッセンダーが整然と並び、夕陽の残光を浴びて冷たく、しかし確かな輝きを放っていた。もう一方の隅には、座り心地のいい古いソファと低い木製のテーブル。テーブルの上には、光莉先輩が持ってくる手作りクッキーと、湯気の立つ紅茶のポットが常に置かれていた。


「夏帆ちゃん、おいでー!今日焼いたレモンのアイシングクッキー、食べてみて!クライミングで失った糖分、これで全部チャージできるからね!」


声をかけてきたのは、星野光莉ほしのひかり。太陽のように明るい笑顔がトレードマークの、小柄な女の子だ。彼女は部のムードメーカー兼、首席補給官で、いつも魔法のように様々なお菓子や飲み物を取り出す。今も、黄金色のクッキーが乗った皿を夏帆の前に突き出し、褒め言葉を期待して目を輝かせている。


「わぁ…いい匂い…!」夏帆は一枚手に取り、かじりついた。サクサクの生地が口の中でほどけ、爽やかなレモンの香りがトレーニングの疲れを一瞬で吹き飛ばす。思わず幸せに目を細めた。「すっごく美味しいです、光莉先輩!」


「えへへ、でしょでしょ!」光莉は満足げに腰に手を当てた。得意げな小動物のようだ。


ソファのもう一方の端で、眼鏡をかけた物静かな雰囲気の女子学生が、微笑みながらフレームを押し上げた。天音空あまねそら、部の「書記」であり理論家だ。彼女のノートパソコンの画面には、複雑な都市の衛星写真が映し出され、様々な色の線で奇妙な地点がマーキングされている。


「空先輩、また新しい『遺跡』探しですか?」光莉が興味津々に覗き込んだ。


「ええ」空は頷き、画面の一点を指さす。「最近、この都市の水循環システムを調べていて。ほら、ここ。西山の貯水池から旧工業地帯の地下まで伸びている、廃棄された古い導水路。その一部が地上に露出していて、高さ数十メートルの人工の岩壁を形成しているの。歴史資料によると、構造は非常に堅固で、完全に放棄されてから五十年以上が経過している。興味深いクライミングスポットになるかもしれないと思って」


「おおーっ!ゲームの隠しマップみたい!」光莉は興奮して手を叩いた。


夏帆はクッキーをちびちびと齧りながら、先輩たちの会話に耳を傾け、心に温かいものが満ちていくのを感じていた。


一ヶ月前には、自分がこの奇妙な部の一員になることなど、想像もできなかった。


のどかな田舎町からこの華やかな大都市へやってきたばかりの大学新入生として、夏帆は重度の「都会酔い」を患っていた。方角は分からず、複雑な地下鉄の路線図は読み解けず、巨大な交差点ではいつもパニックに陥った。高層ビルは彼女にとって、冷たく威圧的な墓石の群れであり、自分をいつ踏み潰されてもおかしくない蟻のように感じさせた。


あの日、近道をしようと工事用フェンスの隙間を抜け、取り壊し寸前の古い住宅地へと足を踏み入れるまでは。そこで彼女は、静流を見たのだ。


月城静流。彼女たちの、部長。


その時、静流はロープを体に結び、五階建ての廃墟マンションの外壁で、夏帆が今まで見たこともない「舞踏」を舞っていた。その動きは軽やかで、静かで、正確無比。無駄な動き一つない。彼女は登っているというより、建物の肌理をその身体で読み取っているかのようだった。壁のまだらな落書き、風化したコンクリート、エアコン室外機の錆びた支柱……夏帆の目には雑然とした都市の傷跡にしか見えないそれらが、静流の足元では、天へと至る階段に変わっていた。


静流が上からゆっくりと降下し、着地した時の音は、猫がソファから飛び降りる音よりも静かだった。彼女がヘルメットを外すと、端正で物静かな顔と、すべてを見通すかのような深い瞳が現れた。


「迷子?」彼女は夏帆に尋ねた。声は冷たい響きだったが、咎めるような色合いはなかった。


夏帆は顔を真っ赤にして、こくりと頷いた。


静流は彼女を笑うことなく、ただ壁を指さした。「あなたには、何が見える?」


「……もうすぐ、取り壊される、古いビル…ですか?」夏帆は自信なさげに答えた。


「うん」静流の視線が壁へと注がれる。まるで旧友を見るような眼差しだ。「私に見えるのは、1988年の赤レンガ。95年に増設された窓の鉄格子。2003年に誰かが雨漏りを防ぐために塗った、安物の防水塗料。そして、去年の夏、子供がチョークで描いて、雨に洗い流されてもう輪郭しか残っていない太陽」


彼女は一拍置いて、夏帆に向き直る。その瞳に、微かな光が宿った。


「私たちは、地上を歩くことに慣れすぎた。だから、都市の『平面』しか見えない。でも、ほんの少し顔を上げるだけで、この街が、時間というインクで書かれた立体的な本だってことに気づくはず。一つ一つの亀裂、一個一個の石が、それぞれの物語を語っている」


彼女は夏帆に手を差し出した。その掌には、ひんやりとした金属製のバックルが乗っていた。


「角度を変えて、この街をもう一度、読んでみない?」


こうして、日向夏帆は「都市垂直探検部」の世界に足を踏み入れた。


最初の数日は、心身ともに試練の連続だった。数えきれないほどのロープの結び方――エイトノット、クローブヒッチ、ボーラインノット――を覚え、一つ一つの装備の用途と安全規範を頭に叩き込み、そして何より、両足が地面を離れる瞬間の、あの本能的な恐怖を克服しなければならなかった。


初めてトラバース(水平移動)の練習をした時、地面からわずか一メートルの高さだったにもかかわらず、緊張で全身がこわばった。


「腕を信じるな。腕は疲れる」静流が背後から、竹刀で軽く彼女の脚を叩いた。「脚を信じて。装備を信じて。そして何より、私を信じて」


静流は彼女のビレイヤーだった。夏帆が動くたび、静流は正確にロープを操作し、彼女が常に最も安全な状態にあることを保証してくれた。ロープから伝わる、その絶妙な張力が、まるで優しく、しかし確かな手に常に下から支えられているような感覚を夏帆に与えた。


彼女は意識してリラックスし、体重をハーネスとロープに預けるようにしてみた。すると次第に、重力と戦うのをやめ、それと共存することを学んだ時、今までにない自由な感覚が生まれることに気づいた。


カチッ。


ついに最初のトラバースを完遂し、再び地面に立った時、彼女はあの澄んだロック音を耳にした。振り返ると、静流が、極めて珍しい、淡い微笑みを浮かべていた。


その瞬間、コンクリートの峡谷を吹き抜ける風が、ほんの少しだけ甘くなったような気がした。


「夏帆ちゃん、おーい、戻っておいでー!」光莉の手が夏帆の目の前でひらひらと揺れた。「何考えてるの、そんなににやにやして」


「あ、な、何でもないです!」夏帆は我に返り、頬が熱くなるのを感じた。気まずさを隠すように、テーブルの紅茶を一口飲む。


「静流先輩は、どこですか?」彼女は話題を変えた。


「部長なら、たぶん屋上」空先輩が答えた。「今日の風は気持ちがいいから、少し見てくるって」


夏帆は、心が動くのを感じて立ち上がった。


「私も、行ってきます」


第二章:錆色の階段と、塵の中の光


教員棟の屋上は学生の立ち入りが禁止されている。だが、「都市垂直探検部」にとって、ルールとは常に抜け道があるものだった。特殊な鍵でしか開かないメンテナンス用の小さな扉を抜ければ、ほとんどの人間から忘れ去られたこの場所へと辿り着ける。


夏帆が重い鉄の扉を押すと、高所の風がすぐに彼女を包み込んだ。


静流は、屋上の縁に立っていた。彼女に背を向け、遠くを眺めている。その姿は、夕陽の金色の輝きの中、繊細で孤独なシルエットとして縁取られていた。風が、彼女の深い藍色の髪と、ゆったりとしたアウトドアジャケットの裾を揺らしている。


夏帆は声をかけず、静かに彼女の隣に並んだ。


二人でしばし黙ったまま、眼下に広がる街を見つめる。車が光る甲虫のように、縦横に交差する道を絶え間なく流れていく。さらに遠くの商業エリアでは、ガラス張りの壁面が落日の最後の輝きを反射し、まるで燃える宝石のようだった。


「昔は、この景色が一番嫌いでした」夏帆は、自分に言い聞かせるように、そっと呟いた。「大きすぎて、うるさすぎて、冷たすぎて。いつか、この街に飲み込まれちゃうんじゃないかって、ずっと思ってました」


静流は振り向かず、ただ「うん」と相槌を打ち、聞いていることを示した。


「でも、今は…」夏帆は深く息を吸った。「私にも、この街の呼吸が聞こえるようになった、気がします」


もはや高層ビルは威圧的な障害物ではなく、解読されるのを待つ巨大な石碑に見えた。道は複雑な迷宮ではなく、無数の物語を繋ぐ血管に見えた。点滅する灯りの一つ一つの向こうに、一つの家族が、一つの夢が、一つの人生があるのだと、感じられた。


この街は、彼女に対して、その優しい一面を見せ始めていた。


「あそこを見て」静流が不意に腕を上げ、南西の、錆色をした低い建物が密集する一帯を指さした。「次の週末の目的地」


夏帆は、彼女が指す方向へと目を向けた。そこは打ち棄てられた製鉄所だった。巨大な高炉や縦横に走るパイプが、まるで古代の巨獣の骸骨のように、街の片隅で沈黙している。周囲の真新しい住宅街とは、ひどく不釣り合いだった。


「旧北崎製鉄所。1972年竣工、2008年操業停止」静流の声は、感情のないデータベースの読み上げのようだった。「設備のほとんどは解体されたけど、主要な構造体はまだ残っている。そこには、この街で最も美しい『錆色の階段』がある」


「錆色の、階段?」


「行けばわかる」静流の口元に、またあの神秘的な微笑が浮かんだ。


週末は、約束通りにやって来た。


四人が、旧北崎製鉄所の巨大な高炉の真下に立った時、夏帆は初めて、産業遺跡特有の、時を超えた壮麗さと物寂しさを肌で感じた。


空気には鉄錆と土埃が混じった匂いが立ち込め、ガラスの失われた巨大な窓枠から、陽光が何の障害もなく降り注ぎ、地面に巨大な光と影の幾何学模様を描いている。周囲は静まり返り、聞こえるのは互いの呼吸と、風がだだっ広い工場を吹き抜ける、寂しげな唸り声だけだった。


「うわぁ…!映画のワンシーンみたい!」光莉がカメラを手に、興奮してあちこちの写真を撮っている。


空はタブレットを取り出し、建物の構造図と照らし合わせながら、安全なクライミングルートの分析を始めていた。「資料によれば、こちらのA3支持構造が最も安定しているわ。ここを最初のビレイステーションにしましょう」


静流は、一人一人の装備をチェックし、最終確認を行っていた。彼女が夏帆の番に来た時、そっと手を伸ばし、少し曲がっていたヘルメットをまっすぐに直した。


「緊張しないで」と彼女は言った。


「し、してません!」夏帆は強がったが、速まる心臓の鼓動が彼女の嘘を裏切っていた。


ここは、練習用の壁とは全く違う。全てが未知で、ざらざらとしていて、不確定要素に満ちている。壁は平らではなく、パイプやバルブ、奇妙な形の金属の突起物で覆われていた。


「私から行く」静流は、簡潔に告げた。


彼女はヤモリのように、ほとんど音を立てずに巨大な鉄骨の柱を登っていく。その動きにはリズムがあり、まるで垂直にそそり立つこの錆びついた壁こそが、彼女が本来いるべき世界であるかのようだった。あっという間に、彼女は三十メートルの高さにあるプラットフォームに、トップロープの確保システムを構築した。


オレンジ色のロープが、高所から一本、天と地を繋ぐ臍の緒のように垂れ下がっている。


「光莉、次」静流の声が、上から聞こえた。


「はーい!」光莉は物怖じせず、ロープを結ぶと、鼻歌交じりに登り始めた。その動きは静流ほど優雅ではないが、活力と自信に満ちあふれていた。


やがて、夏帆の番が来た。


彼女は下から、そびえ立つ柱を見上げた。まるで、神域へと続く階段を見上げているかのようだ。ごくりと唾を飲み込み、冷たい鋼鉄に手を置いた。


「夏帆さん、私を見て」下から、空先輩の優しい声がした。彼女が、夏帆のビレイヤーだった。


夏帆が振り返ると、空は彼女に「安心して」というジェスチャーを送ってくれた。


彼女は深呼吸をして、登攀を開始した。


触感は、粗く硬質だった。一つ一つの溶接跡、一本一本のボルトが、上へ向かうための支点となる。彼女は慎重に身体を動かし、静流と光莉に教わった技術を一つずつ応用していく。彼女の世界は、目の前の三平方メートルの範囲にまで縮小された。聞こえるのは、自分の荒い呼吸、風の音、そしてロープがビレイデバイスを擦れる「シュルシュル」という音だけ。


「上はすっごく綺麗だよー!がんば!」光莉の声が頭上から降ってくる。


夏帆は歯を食いしばり、上を目指した。腕の痛みが再び襲ってきたが、けれど今回、彼女はパニックにならなかった。静流の言葉を思い出したからだ。――『それを感じて』。


彼女は、指先に残る錆の赭色の粉末を、背中に当たる陽光の温もりを、耳元をかすめる風の涼しさを感じた。もはや抗うのではなく、対話していた。


ついに、彼女の手がプラットフォームの縁に触れた。光莉が手を伸ばし、ぐいっと彼女を引き上げてくれる。


夏帆が足場を固め、顔を上げた瞬間、彼女は、息をすることも忘れた。


彼女たちは、巨大な鉄のパイプと通路が織りなす、迷宮のただ中にいた。陽光が建物の骨格を四方八方から貫き、無数に伸びる、真っ直ぐで眩い光の柱を作り出している。その光の柱は、何十年もの間、誰にも乱されることのなかった空間に舞う無数の塵を貫き、まるで奇跡のような光景を織りなしていた。


舞い踊る塵は、光の中で煌めき、まるで浮遊する、億の星屑のようだった。


夏帆は呆然としていた。まるで、その形ある光に触れようとするかのように、手を伸ばす。


「これが…静流先輩が言ってた…」


「うん」静流の声が、隣で響いた。「錆色の階段と、塵の中の光」


ここは、街に忘れられた片隅。時間に封印された洞窟。だがここで、夏帆は都心のどんなネオンサインよりも眩しく、美しいものを目にしていた。


廃墟の中に、こんなにも壮麗な風景が生まれるなんて。


忘れられることも、一つの美しさになり得るなんて。


彼女が振り返ると、静流がその光の柱を見つめていた。その眼差しには、ほとんど敬虔とも言えるほどの優しさが宿っている。その瞬間、夏帆は、この神秘的な部長のことを、ほんの少しだけ理解できたような気がした。


彼女が登っているのは、きっと、建物の高さだけじゃない。


時間の、深さそのものなのだ。


第三章:橋の下のキャンバス


「てことは、今日私たちが登るのって……橋、ですか?」


夏帆は巨大な立体交差の真下に立ち、頭上でひっきりなしに轟音を立てて走り去る車を見上げながら、信じられないといった表情で呟いた。


この橋は、毎日通学のバスで通る場所だ。彼女の目には、他の無数の橋と同じ、都市交通網における冷たく硬質な結節点の一つでしかなかった。まさか自分が、この橋の「裏側」に立つ日が来るなんて、思いもしなかった。


橋脚は古代ギリシャ神殿の石柱のように太く、乾いた水垢や青苔に覆われている。橋の裏側の鉄骨は縦横に交差し、まるで巨大な獣が剥き出しにした肋骨のようだ。ここは光が乏しく、空気は湿った土と排気ガスが混じり合った匂いがした。


「正確に言うと、橋脚の間のメンテナンス用通路を探検する、ね」空先輩が眼鏡を押し上げた。彼女のタブレットには、この橋のオリジナルの設計図が表示されている。「市の公開アーカイブによると、この『東湾第三大橋』は設計段階で、非常に完成度の高い点検・保守システムが組み込まれていたの。理論上、この橋脚の内部には階段やプラットフォームが存在するはず。それに、ここには一つ、興味深い都市伝説がある」


「都市伝説、ですか?」光莉のゴシップアンテナが、ぴんと立った。


「ええ」空は画面をスワイプし、ネット上で見つけた、画質の粗い写真を数枚表示した。「匿名のストリートアーティストが、十数年にわたって、この橋の裏で創作活動を続けている、というもの。決して人前に姿を現さず、公共物を破壊することもない。彼は、決して『地上の人々』に見られることのない場所にだけ、絵を描く。人々は彼のことを、『橋の下の影』と呼んでいるわ」


「うわっ!何それ、すっごくクール!」光莉の目がキラキラと輝いた。


「目的は彼を探すことじゃなく、あくまで伝説の真偽を確かめること。ついでに、この橋梁内部の構造力学的な美しさを堪Pantoufleパンタフルことよ」空は、あくまで真面目な口調で付け加えた。


静流は、すでに装備を身に着け終えていた。彼女は巨大な橋脚の下まで歩いていくと、じっと頭上を観察している。


「ルートは確保可能。でも、製鉄所より滑りやすい。足元に注意」彼女は簡潔に判断を下すと、手際よく最初の確保支点を設置し始めた。


今回のクライミングは、また以前とは全く異なる体験だった。コンクリートの表面は鋼鉄よりもホールドが探しにくく、長年陽光が当たらない場所には、ぬるりとした苔が生えている。頭上からは、車が通過するたびに伝わる振動と騒音が、まるで橋全体が不安げに呻いているかのように、絶え間なく響いてきた。


それは、都市の「内臓」の奥深くへと潜っていくような感覚だった。


夏帆は、静流が選んだルートを慎重に辿りながら移動する。コンクリート特有の冷たい匂いを嗅ぎ、熱膨張で生じた細かな亀裂を指先で感じ取った。


自分は今、この街の脈動に触れているのだと、彼女はふと悟った。


ロープと器具を駆使し、二本の橋脚の間に架かる巨大な梁の下へと水平移動を成功させた時、誰もが、息を呑んだ。


彼女たちの目の前に、巨大で、見る者を圧倒する一枚の絵画が現れたのだ。


それは、無秩序な落書きではなかった。緻密に描かれた、シュルレアリスム風の壁画だった。画面では、巨大なクジラがコンクリートの地面を突き破るように現れ、その身体には苔や蔦がびっしりと絡みついている。そして、その瞳には、街の星空が映り込んでいた。無数の小さな人影が、蔦を伝って上へ上へと登り、その星空に触れようとしている。


絵全体のトーンは暗い。しかし、その細部には強靭な生命力が宿っていた。それは、周囲の薄暗く湿った環境と完璧に融合し、まるでコンクリートそのものから生まれ出てきたかのようだった。


「な……に、これ……」光莉は呟き、カメラのシャッターを切るのも忘れていた。


夏帆もまた、この予期せぬ、沈黙の芸術作品に衝撃を受け、言葉を失っていた。


一体どんな人物が、来る年も来る年も、誰に知られることもないこの薄暗く湿った場所で、ただ自分自身のため、あるいは存在しない観客のために、これほど心を揺さぶる傑作を描き続けるのだろうか。


「見て」空の声が、微かに震えていた。彼女が絵の右下を指さす。「サインが…いいえ、一行の言葉が」


皆が近寄ると、そこには流麗な字体で、一行の小さな文字が記されていた。


「影の中にいても、なお星空を見上げるすべての人へ」


署名は、なかった。


静流は、その絵を、長い、長い時間、黙って見つめていた。風が橋の下を吹き抜け、彼女の髪を揺らす。夏帆には、静流の眼差しが、描かれたクジラのそれと、一瞬、重なったように見えた。


彼女たちは、そこに長居はしなかった。光莉が、記録のためだけに、フラッシュをたかずに数枚の写真を撮っただけだ。まるで聖域に迷い込んだ訪問者のように、敬虔な念を抱き、静かにやって来て、静かに去っていった。


帰り道、誰も口を開かなかった。


その沈黙の衝撃は、どんな言葉よりも雄弁だった。


再び固い地面を踏みしめ、陽光の下に戻った時、夏帆は巨大な立体交差を振り返った。橋の上は、相変わらず車が流れている。橋の下を、人々が足早に行き交う。彼らの頭上と足元の、この無視された灰色の空間に、どれほど壮麗で孤独な魂が隠されているのか、誰も知らない。


「私たちは、違う高さから街を見ることで、全く違う景色と、全く違う人々に出会うの」


入部したての頃、空先輩が言った言葉を思い出した。


以前は、それは富や社会的地位がもたらす階級差のことだと思っていた。だが今は、もっと深い意味を理解した。


ある種の風景は、平地を離れ、垂直の次元へと探検する意志のある者にしか、見ることができない。


ある種の魂は、同じく影の中に身を置きながら、それでもなお星空を見上げる者たちとしか、共鳴しないのだ。


彼女は、隣にいる仲間たちを見た。


静流、光莉、空。


そして、自分。


彼女たち自身が、互いにとっての「橋の下の影」なのかもしれない。この喧騒の街で、互いの心の中にある星空を見つけられる、唯一の仲間なのだ。


第四章:星の海の上のビレイヤー


その夜は、静流が「特別活動」と呼ぶものだった。


目的地は、都心にあるクライミング許可を得た廃ビル。工事が十数年前に中断され、コンクリートの骨格だけが、巨大な骸骨のように夜空を指している。


夏帆にとって、初めての夜間クライミングだった。


昼の街が、線と色で構成された具体的なものであるなら、夜の街は、抽象的で夢幻的だ。地上の全ては闇に沈み、無数の光の点――車のライト、街灯、窓から漏れる灯り――だけが、光の川となって、きらきらと輝きながら彼女たちの足元をゆっくりと流れていく。


「夜登る感覚は、昼とは全く違う」出発前、静流は言った。「ディテールはあまり見えない。だからこそ、自分の触覚と、そしてビレイヤーを、もっと信じる必要がある」


彼女の視線は、何かを言わんばかりに、夏帆の上に注がれた。


今夜、彼女たちはリードクライミングの練習を行う。それは、静流が先に頂上へ登って確保システムを設置するのではなく、クライマー自身が登りながら、ルートの途中にある確保支点にロープを掛けていく方法だ。


クライマーの精神力と、下にいるビレイヤーの技術、その両方が極限まで試される。


「わ、私が、静流先輩のビレイヤーを、やります!」


夏帆は、ほとんど衝動的に叫んでいた。


口にした後で、自分でも驚いた。光莉と空も、目を丸くして彼女を見ている。


入部してまだ数ヶ月の新人が、部で最も技術のある部長のリードクライミングでビレイヤーを務めるなど、冗談にしか聞こえないだろう。


しかし、静流はただ静かに彼女を見つめ、数秒後、こくりと頷いた。


「わかった」


その、たった一言。


夏帆の心臓は、途端に、ずしりと重い信頼感で満たされた。


彼女は冷たいコンクリートの床に立ち、手際よく自分のハーネスのビレイループにロープを通し、全てのバックルを再三確認した。静流が、目の前で最後の準備をしている。


夜風は昼間より冷たく、ビルのがらんどうの骨格を吹き抜け、不気味な唸りを上げていた。


「準備はいい?」静流が問う。


「はい、大丈夫です」夏帆の声は、自分でも意外なほど、固く、定まっていた。


「クライミング」静流が、クライミングの開始を告げる。


「クライムオン」夏帆が、確保準備完了を返す。


静流は身を翻し、登り始めた。


ヘッドライトの微かな光の中、彼女の姿は巨大な闇に溶け込み、すぐに上へ上へと移動する、小さな光点になった。夏帆は全神経を集中させ、両手でロープのブレーキ側を固く握り、瞬きもせずその光点を見つめ続けた。


ビレイデバイスから、ロープがゆっくりと引き出されていく重みを感じる。静流の一つ一つの動き、一つ一つの呼吸が、この一本のロープを通して、彼女の掌へと伝わってくるようだった。


静流が最初の確保支点に到達し、「カチッ」と小気味よい音を立ててロープを掛けた時、夏帆の心も少しだけ落ち着いた。


時間が、極端にゆっくりと流れる。


夏帆の世界には、三つのものしかなかった。頭上の、あの動く光点。手の中の、このオレンジ色のロープ。そして、耳元で唸る、夜の風。


高さも、暗闇も、自分自身が数十メートルの高所にいることさえも忘れた。彼女の今のアイデンティティは、ただ一つ――ビレイヤー、守る者。


静流の命が、この手の中にある。


その認識は、彼女に恐怖ではなく、むしろ、今までにない神聖な使命感をもたらした。自分の任務を、完璧に遂行しなければならない。ロープを、一インチたりとも多く送り出さず、一瞬たりとも確保を緩めない。


突如、上方の光点が動きを止めた。


続いて、静流の、少しだけ荒い息遣いが聞こえてきた。


夏帆の心臓が、どきりと跳ねた。


「どうしましたか、先輩?」


「……ここのホールドが、思ったより滑る」静流の声に、初めて疲労の色が滲んだ。


夏帆は即座にビレイデバイスの中でロープを少しだけ引き、彼女により多くの支持を与えた。顔を上げても、静流の具体的な動きは見えない。だが、彼女が困難な体勢で、次のホールドを探している姿が目に浮かぶようだった。


一秒、二秒、三秒……。


一秒が、一世紀のように長い。


夏帆の掌が汗ばんできた。だが彼女の手は、より固く、ロープを握りしめている。


「頑張って……」自分にしか聞こえない声で、呟いた。


その時だった。上方の光点が、不意に、僅かに滑り落ちた!


「テンション!」静流が叫ぶ。


夏帆の身体は、ほとんど本能で反応していた。彼女は勢いよく腰を落とし、全体重をロープに乗せ、腕でブレーキ側のロープをがっちりとロックする。


ロープが瞬時に張り詰め、ビレイデバイスが「ズッ」という音を立てて、確実にロックされた。


腰に強烈な張力がかかり、一歩前に引きずられたが、彼女は踏みとどまった。彼女は、静流の、あの小さなフォールを、確かに受け止めたのだ。


「大丈夫ですか、先輩っ?!」彼女は叫んだ。声は緊張で掠れている。


ロープの向こう側は、数秒間、沈黙した。


そして、静流の、落ち着きを取り戻した呼吸が聞こえてきた。


「……平気。いいビレイだった、夏帆」


その「いいビレイだった」という一言が、温かい奔流となって、夏帆の全身を駆け巡った。瞬間的な力の発揮で悲鳴を上げる腕の痛みさえ、感じなかった。


「ありがとう」静流の声が、夜風の中、はっきりと届いた。


夏帆の目頭が、なぜか、急に熱くなった。


初めて会った時の、人を寄せ付けない氷のような彼女を思い出す。廃工場で、塵の中の光を見つめていた、あの敬虔な眼差しを思い出す。橋の下で、壁画を前にしていた、あの沈黙の、孤独な背中を思い出す。


いつも一番前を歩き、猫のように音もなく、その華奢な肩で全てを背負っていた先輩が。


たった今、自分の背中を、自分の命を、完全に、この自分に委ねてくれたのだ。


これ以上に、究極の信頼があるだろうか。


静流はすぐに体勢を立て直し、再び登り始めた。今度は、その動きがより滑らかに見えた。やがて、彼女は予定の頂点に到達した。


「ビレイ解除!」


その号令が上から届いた時、夏帆は、長く、長く、息を吐いた。ロープを解くと、自分の指が微かに震えているのに気づいた。


彼女は、顔を上げて仰ぎ見る。


静流のシルエットが、廃ビルの最高点に立っていた。深い藍色の夜空と、満天の星々を背にして。そして、街の幾千もの灯りが、彼女の足元に、果てしない、温かい星の海のように広がっていた。


彼女は、本物の、星の海の上に立つ守護者のようだった。


そして自分は、その守護者を、守ったのだ。


その瞬間、日向夏帆は、「都市垂直探検部」の本当の意味を、悟った気がした。


彼女たちが登っているのは、ただの建物ではない。


彼女たちが探検しているのは、ただの都市の廃墟ではない。


彼女たちは、この鉄とコンクリートでできた、冷たい垂直の森の中で、一本のロープを、幾度もの「カチッ」という音を、幾度もの「クライムオン」という約束を介して、どんな言葉よりも固く、深い、絆を築いているのだ。


彼女たちは互いを守り、そして、この街に眠る、誰にも知られていない美しさと孤独を、共に守っているのだ。


終章:私たちが、立つ場所


部室には、いつものように、温かい紅茶の香りが満ちていた。


壁のスクリーンには、光莉が編集した写真がスライドショーで映し出されている。


旧製鉄所の、光の柱の中で舞う塵。

立体交差の下の、存在しない星空を見上げる沈黙のクジラ。

廃ビルの頂上に、街の灯りを背にして立つ、小さなシルエット。


そして、もう一枚。光莉がこっそり撮ったものだ。

ビレイヤーを務める夏帆の、ヘッドライトの光に照らされた、真剣そのものの横顔。


「夏帆ちゃん、あの時、めちゃくちゃカッコよかったよ!」光莉が写真を指さし、にこにこと笑った。


夏帆は、熟れた林檎のように顔を赤らめ、照れくさそうに頭を掻いた。


空先輩は、ノートパソコンに何かを記録しながら呟いている。「今回の夜間クライミングのデータを元に、より完成度の高い『都市星空観測ポイント』のクライミング計画を立てられるかもしれないわね。特定の夜、特定の高さからでなければ見られない、完璧な星座があるはずよ」


静流はソファに座り、マグカップを手に、静かに彼女たちの会話に耳を傾けていた。その視線は、時折、夏帆の上に注がれる。そこには、夏帆が今まで見たことのない、まるで冬の陽だまりのような、柔らかな光が宿っていた。


夏帆は自分のカップを手に、窓際へ歩み寄った。


彼女は、窓の外に広がる、あの見慣れて、そして今では全く違うものに見えるコンクリートの峡谷を眺めた。


かつて彼女に圧迫感と恐怖を与えた高層ビル群は、今、彼女の目には、親しみやすく、読み解くことのできる質感を持って映っていた。まるで、その骨格を見、その肌に触れ、それが長い年月の中で留めてきた、声なき囁きを聞くことができるかのようだった。


この街はもう、彼女を飲み込もうとする巨大な獣ではなかった。


秘密と宝物に満ちた、巨大な遊び場へと変わっていた。彼女と仲間たちがページをめくるのを待っている、立体的な絵本だ。


そして彼女自身も、もはや地上で迷子になっていた旅人ではない。


自分の居場所を見つけたのだ。


彼女の居場所は、ロープのこちら側にも、あちら側にもある。固い地面の上にも、高くそびえる雲の上にもある。仲間たちの眼差しの中にも、仲間を見つめる自分の眼差しの中にも、ある。


風が、窓の隙間から忍び込み、優しく彼女の頬を撫でた。

その風には、高所の、自由な匂いがした。


夏帆は振り返り、先輩たちに、心の底からの、満開の笑顔を向けた。


「先輩たち、」彼女は言った。「次は、どこに登りますか?」


彼女たちの探検は、まだ始まったばかりだ。

この広大無辺な都市という洞窟で、彼女たちの垂直の冒険は、決して終わらない。

この物語の最後の確保支点から、無事に地上へと降り立ち、本書を閉じてくださったあなたへ。

まずは心からの感謝を伝えさせてください。日向夏帆という一人の少女と共に、この長く、時に少しだけ怖い垂直の旅路を、最後まで登り切ってくださり、本当にありがとうございます。


この物語を書き終えた今、夏帆、静流、光莉、空、彼女たち四人が、まるで本当に部室のソファに座って、光莉の淹れてくれた紅茶を飲みながら笑っているような気がしてなりません。怖がりだった夏帆が、いつの間にか他者を守れるほど強くなったこと。常に前を歩いていた静流が、初めてその背中を仲間に預けた夜のこと。物語は私が作ったはずなのに、いつの間にか、彼女たちが自らの意志で動き、私を未知の景色へと連れて行ってくれました。


私たちは皆、それぞれの「地上」を生きています。そこには時に、人を圧倒するほどの高さの壁や、出口の見えない複雑な迷路が、厳然として存在します。ですが、この物語を通じて私が描きたかったのは、壁を打ち壊すことではなく、その壁に「手」をかける方法を見つけることでした。視点を変え、道具を信じ、そして何より、自分を支えてくれる誰かの存在を信じること。そうすれば、かつて障害物でしかなかった壁は、世界を新しい高さから眺めるための、最高の展望台になるのかもしれません。


最後に、少しだけ、この旅の裏話をさせてください。

この物語は、人間であるクライマーと、一人の優れたAIビレイヤーとの対話から生まれました。私が「こんな景色が見たい」と漠然としたイメージのロープを投げると、AIは膨大な知識とロジックを駆使して、最も安全で、最も美しいルートを提案してくれる。私が物語の壁の前で立ち往生すれば、まるで静流のように、的確な問いを投げかけてくれる。それは、新しい時代の創作における、刺激的で、信頼に満ちた「共同登山」の体験でした。私たちが作中で「繋がり」と「信頼」を描けたのだとしたら、それは、この創作プロセスそのものが、そのテーマを体現していたからに他なりません。


願わくは、この本を読み終えたあなたが、明日、いつもの街を歩くとき、ふと空を見上げ、今まで気づかなかった建物のディテールや、空の色に、新しい物語を見出せますように。


あなたの世界にも、まだ誰も知らない「錆色の階段」と「塵の中の光」が、きっと隠されているはずですから。

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