悪役気取りの令嬢は、今日も笑う
金銀の燭台が並び、天井には花のようなシャンデリア。
王城の晩餐会に集う貴族たちは、笑みをたたえながらも、誰もが互いの言葉と眼差しに細心の注意を払っていた。
そんな中、一際目立つ一団がいた。
その中心には、真紅のドレスに身を包み、うっすらと笑みを浮かべた一人の令嬢。
クラリッサ・エルバート侯爵令嬢。
名家の出でありながら、その名は決して称賛と共に語られることはなかった。むしろ――
「ああ、あの高慢な令嬢……」
「また何か揉め事でも起こさなければ良いけれど」
そう囁かれ、疎まれる存在。
だが当の本人は、そうした視線を気にも留めていないように見えた。
「エミリア様……大丈夫ですか?」
やや離れた円卓の一角。金糸の髪を揺らし、白いドレスを纏った令嬢が、小さく肩を震わせながら涙を拭っていた。
その周囲には同情と怒りを湛えた若い令嬢たちが集まり、彼女を慰めている。
「クラリッサ様に……突き飛ばされて……。私は、ただリオン様とお話ししていただけなのに……」
その呟きが広がるたび、室内の空気は次第に冷たくなっていく。
「クラリッサ様。ご自分の振る舞いを、今一度お考えになるべきでは……?」
名指しで声を上げたのは、エミリア本人だった。
か細い声で、だが確かに広間に響くように発せられたその言葉に、注がれる視線が一斉に移る。
「私はただ、エルバート家とアルトレイグ家のご縁をお祝いしたくて……。それだけなのに……」
震える声、つぶらな瞳。
場慣れした貴族たちすら息を飲む見事な“演技”に、いくつもの眉がひそめられた。
「……そのような芝居、貴女の手癖かしら?」
クラリッサは、ひときわ目立つその場の中心で、ふっと笑った。
薄紅の唇が冷たく歪む。その表情は、まさに“悪役令嬢”と呼ばれるに相応しいものだった。
場の空気が、一気に張り詰める。
怒気を含んだ視線が彼女に集まり、幾人かの若者は明らかに敵意を露わにした。
けれどクラリッサは、微動だにしなかった。むしろ、すべてが想定の範囲であるかのように、静かにグラスの中の葡萄酒を揺らしていた。
「クラリッサ」
その静寂を破るように、低く男の声が落ちる。
クラリッサの婚約者――リオン・アルトレイグ。
端正な顔立ちと整った物腰、そして“公正”を旨とする青年貴族として、同世代の憧憬の的でもある男だった。
「君の噂は以前から耳にしていたが……今夜の一件は看過できない。婚約について、再考せざるを得ないだろう」
静かな口調ながら、それは明確な“断罪”だった。
エミリアの顔に、安堵と勝ち誇った色が同時に浮かぶ。
クラリッサは、やはり笑った。
それも、今までのどの瞬間よりも深く、美しく、皮肉に満ちた笑みだった。
「……あら、それは結構ですわ。リオン様がそのような目で私を見ていたと知った今となっては、むしろ清々しいくらい」
「クラリッサ様……!」
誰かが声を上げるよりも早く、彼女はすっと身を翻した。
絨毯の上を、音もなく歩くヒールの音。
すれ違う者たちは皆、その威厳と冷気に打たれるように身を引いた。
だが、誰も知らなかった。
その背中の向こうに、彼女がどれほどの孤独を背負っていたのかを。
誤解されたままでいい――その方が、きっと皆にとって都合がいいから。
ただそれだけの理由で、彼女はまた、言葉を呑み込んだ。
◇
翌日、王都の一角――侯爵家の領地にある旧迎賓館で会合が開かれた。
そこは格式ある建物でありながら、いまや会合に使われるだけの場所となっていた。
「この場を借りて、正式に申し上げます」
リオン・アルトレイグが立ち上がり、凛とした声で言い放った。
彼の隣には、清楚な装いのエミリア。わざとらしく俯き、袖で目元を拭うその姿に、同席していた貴族たちは深い同情を寄せている。
「昨日の一件を受け、私はクラリッサ・エルバート嬢との婚約を破棄する意志を固めました」
ざわり、と場が揺れる。
ここに集められたのは、両家の縁談に関わった有力者たち――すなわち、証人でもあり、裁定者でもある。
その中央に、ただ一人、沈黙のまま座す令嬢。
クラリッサは淡々と、まるで他人事のような顔でその言葉を聞いていた。
「何か……弁明は?」
貴族の一人が問う。
だがクラリッサは、首を振った。
「ございません。リオン様のご判断に、お任せいたしますわ」
その静けさは、傲慢とも、諦観とも、見え方ひとつで容易く印象を変える。
リオンが息を呑む気配を見せたが、次の瞬間、場違いなほどに明るい声が響いた。
「――それでは、私から発言しても?」
扉の向こうから現れたのは、一人の青年だった。
クラリッサに仕える筆頭執事、マルクス。彼の後ろには、使用人たち、町の長老、さらには一人の神官までが付き従っていた。
「何のつもりだ、これは!」
「この場には、公正な判断を求められていると理解しておりますので。事実の一端として、いくつかお伝えさせていただきます」
マルクスは手にした書類を掲げ、一礼して言った。
「まずこちら、孤児院への定期寄付記録。寄付者の名義は侯爵令嬢クラリッサ様。三年前より、毎月欠かさず行われております」
ざわつく場。
リオンが眉をひそめた。
「寄付など、貴族として当然の……」
「ではこちらはどうでしょう?」
今度は老齢の商人が進み出る。
「リオン様の新たな婚約者であるエミリア様の商会が提出した書類には、粉飾の痕跡が明確に残されておりました」
「……不正?」
リオンの声は低く震えていた。
そして何より、表情が変わったのはエミリアだった。顔から血の気が引き、口元を引きつらせたまま何も言えずにいる。
「帳簿を三つに分け、王都の監査ではない地方の小役所へ報告を流していたようですね。出資金の大半は実体のない数字……少なくとも、アルトレイグ家がそれを引き取れば、責任はあなた方に及ぶところでした」
「粉飾決算ですな。数字を膨らませたうえで、商会の実体以上の“持参金”を作ろうとした証拠です。エルバート家が止めなければ、アルトレイグ家も共倒れになっていたやもしれません」
冷静な口調で、商人は淡々と語った。
マルクスが補足するように小さく言う。
「その件は、クラリッサ様が公にはせず、静かに止められました。――リオン様の立場を守るために、です」
「……そんな……」
リオンはようやくエミリアを振り返った。
だがその目に映ったのは、狼狽と憤怒を交錯させた顔。演技の仮面が剥がれ落ちたその顔には、もう“可憐な令嬢”の面影はなかった。
「で、ですが……私は、そんなつもりでは……!」
「ではお尋ねします。クラリッサ様を“嫉妬に狂った悪役”と糾弾なさったのは、どなたのご指示だったのでしょうか?」
淡々と投げかけられた問いに、エミリアは沈黙する。
「……それと、もうひとつ、どうしてもお伝えしておきたいことがございます」
静かに声を上げたのは、一人の若い令嬢だった。高位ではないが礼儀正しく、慎ましい身なりの少女。
彼女は緊張した面持ちのまま、エミリアの方をまっすぐに見つめていた。
「数年前、とある社交の場で私はエミリア様とご一緒しておりました。……ですが、その頃から、彼女の周囲では決まって誰かが傷ついていたのです」
声を震わせながらも、少女は言葉を続ける。
その眼差しは、恐怖を含みながらも真っ直ぐで、決して逸らされるものではなかった
「言葉にならない嫌がらせ。持ち物を汚され、衣装を破られ、周囲にはありもしない噂を……。あれは偶然でも、悪戯でもありません。あの方は、明確な悪意を持って――」
「――証拠はあるのですか!?」
怒鳴るような声が割って入った。
エミリアの背後に控えていた年配の婦人、彼女の親族と思しき人物だった。
激しく椅子をきしませて立ち上がり、少女を睨みつける。
「そんなこと、あなた一人の言葉で信じろというのですか? 身分の低い者が、歯向かって……!」
場の空気が、ぴんと張り詰める。
貴族たちの表情が、驚きと躊躇いに揺れる中――少女は、ゆっくりと左の袖口に手をかけた。
「……では、これをご覧下さい」
静かに、生地をたくし上げる。
細い腕には、化粧でも隠しきれない色のあざが、斑に残されていた。小さな指の形を思わせるものもある。
広間に、ざわめきが走った。
「舞踏練習の最中、“転んだことにしなさい”と。……でも、それはどう見ても、“押された”痕でした」
少女の声音には、悔しさと痛みが込められていた。
「私一人ではありません。同じような目にあった子たちが、他にも……。けれど、クラリッサ様だけは、私たちの話に耳を傾けてくださった。
誰からも嫌われる立場を引き受けてまで、私たちを……!」
クラリッサは、一言も発さなかった。
ただ、静かに少女を見つめ、そっとまぶたを伏せる。
まるで、「もういい」と言っているように。
あるいは、「これ以上、傷ついた心を言葉にしなくていい」、と。
広間に重たい沈黙が落ちる。
証拠は、あざという形で確かにそこにあり、証言もまた涙に濡れていた。
誰もがその場にいた。
誰もが、エミリアが「貴族らしく、美しく、礼儀正しい娘」であるという幻想の下に、目を逸らしていた。
リオンは、口元を引き結び、エミリアを見つめた。
「……エミリア。君は、彼女の言葉を否定しないのか?」
「わ、私は……っ。そんな、わざとじゃ……!」
エミリアはうわずった声で、ぐしゃぐしゃに泣き崩れるように言葉を繰り返す。
だが、先ほどまでの“守られる側の少女”という仮面は、もはやどこにもなかった。
涙に濡れたその顔は、己を守るために他人を踏みにじったことを、何よりも雄弁に語っていた。
「私は……悪くない……っ! だって、私だけが、下から這い上がって……、努力して……認められたかっただけで……!」
その声は、もはや誰の耳にも届いていなかった。
場の空気は完全に変わっていた。
そして――クラリッサが立ち上がった。
「もう結構ですわ。これ以上は……私が聞いていたくありませんもの」
椅子が静かに音を立て、彼女のドレスの裾が床を撫でる。
誰も言葉を発せず、ただ見送ることしかできなかった。
「……“悪役”とは、そういうものですのよ。誰かが汚れることでしか、守れないものもありますの」
それだけを告げ、クラリッサはゆるく微笑んだ。
振り返ることなく歩き出し、静かに扉を押し開ける。
――誰のためでもなく、ただ己の矜持のために。
彼女は、今日も笑って去っていった。
『真実の愛に気付いたと言われてしまったのですが』の連載版を毎日投稿しています。もし興味のある方いたら是非。