第41話
海を見たことがなかったユグムは、ヒンメルの町での平穏な暮らしをやめにして、リュベクと共にギタールを目ざし、やってきた。自己の知識や経験を増やすことで世上を学び、亡ぼされたファーデン家の墓標を大地に立てることが、最終目的でもある。できることから始めていくつもりが、奴隷商のシャダ王と接触したユグムは、ひとりの性奴隷をめぐり、心が乱れた。
「……ギルは悪くない。リュベクだって、必要なことをしただけだ」
頭では理解しても、気持ちがゆらいでしまう。ラーギルの買収を誰よりも強く希んだのは、ユグムである。従者で恋人のリュベクと性交渉をしようとも、ラーギルを仲間に迎える考えは変わらなかった。
「ギルは正直に話してくれたのに、こんなに落ちこむなんて、ぼくって、心がせまいのかなぁ……」
宿屋の食堂で、ひとりパンをかじるユグムは、コーンスープを飲んで深い溜息をついた。そこへ、見知った顔があらわれて、ぎょっとなる。
「よう、坊主。なんだ、冴えない顔しているな。寝不足か?」
「あなたは、酒場の……」
「そういや、名乗ってなかったな。おれはハインリヒだ」
ラーギルを紹介した酒場の亭主は、「がははっ」と豪快に笑い声をたて、ユグムの正面へ坐った。
「おまえひとりか。隻眼の男とギルはどうした。……さては、上の階で愛し合ってる最中か?」
「ち、ちがいます。そんなんじゃ……」
「じゃあ、もう済んだんだな」
「……ハインリヒさんは、こうなることをご存じだったのですか」
「まあな。性奴隷を買収するには、肉体関係の事実を証明できなければ成立しない。ついでに云うと、おれは簡易宿で何度かギルを抱いたことがある。あいつの嗜好は中年おやじだから、あの若い戦闘奴隷が寝取られる心配はねぇだろうさ。……例外もあるだろうが、躰の相性の問題だ。ギルは、なんでも受けいれるのが仕事だからな。従者を誘惑しても、あいつを悪く思わないでやってくれ」
おとなの余裕ぶりを見せるハインリヒは、ラーギルの性癖をユグムに伝えるため、わざわざ宿屋まで足を運んできたのだろうか。なぜ宿泊先がわかったのか、ユグムに訊ねる気は起こらなかった。ギタールはシャダ王の監視が行き届く町につき、第三者の動きには注意するべきである。
「なんで、そんなことをぼくに……。もしかして、ハインリヒさんは、ギルのことが好きなんですか?」
「その逆だよ。あいつには、さっさと町から消えてもらいたくてな。ギルが発狂するまえに、坊主とリュベクのふたりで、人間らしさを取りもどしてやれ。あの見た目は世間的に有利だろうし、そばに置いておけば役に立つはずだ」
酒場の亭主の提案は、ラーギルに対する個人的な意見も含まれていたが、誰かを救う方法はひとつではない。
「ぼくたち、最初からハインリヒさんの計画に乗せられてたんですね?」
「そう云うなよ。ギルを手なづけておいて損はしないさ」
なにもかも亭主の思惑どおりだとしても、ラーギルの利用価値は高い。ユグムやリュベクにはない社交性があり、柔軟な対応も身についている。性奴隷という立場上、他者を魅了する特技も備わっていた。「役に立つから連れていけ」という亭主のことばに、ユグムはうなずくしかなかった。
「ほらよ」
「これって……」
「知り合いの宝石商に、高く売りつけてきてやったぜ。床板の修理代は引いてあるからな。残りは全部おまえのものだ」
「ありがとうございます」
紫水晶の耳飾りを換金したハインリヒは、パッセをまとめて差しだした。紙幣の束は分厚い。「これだけあれば、まちがいなく性奴隷を購えるぜ」という。用事がすんで腰をあげる亭主は、「健闘を祈る」とばかり口笛を吹き、宿屋をあとにした。
「すごい、こんなにたくさん……。父さま、母さま、どうかお許しを……」
ファーデン家の形見と引き換えに、ひとりの性奴隷を買収するユグムは、手巾に紙幣をつつんで、室にもどった。リュベクの長衣に着がえたラーギルは、腕組みをして立っていた。
「わ、ギル。その恰好、似合うね!」
「男らしさ倍増ってな」
「うん、カッコいい。でも、ギルには、ぼくが選んだ服を着てもらいたいな」
「いいぜ。従者のだと、露出が少なくて窮屈だしよ」
「ギルったら……」
恵まれた容姿のラーギルは、その特徴を最大限に活かす方法を心得ている。わざと衿をひらいて胸もとをちらつかせ、リュベクのほうへ腰をひねって見せると、「裸身同然の恰好で歩かれるよりはマシだ」という戦闘奴隷は、肩をすぼめた。
✓つづく




