第4話
ヒンメルの町で生活を送りはじめたユグムは、とくになにもすることはなく、ふらふらと町を見物したりして過ごした。城内に図書室があることを知ってからは、一日じゅうこもるようになる。民俗学の研究や、さまざまな調査資料といった書物がたくさんあり、世上の事情にうとい少年にとって、知識の糧となる場所だった。
「◯◯年◯◯月、北緯のアウエル地方で雪を観測……、ぼく、雪なんて見たことないや。ねえ、リューベックは見たことある?」
窓枠に坐って膝のうえにのせた書物を読みふける少年は、ふと、顔をあげた。壁ぎわにたたずむリュベクは、無言で首をふる。ファーデン家の領地だった管区や、リュベクの生まれた島国の位置は大陸の南緯につき、年間を通じて温暖な気候に恵まれていた。ヒンメルの町では、雨季が到来する。
「そっか、リュベクも雪を見たことがないんだ……。それじゃあ、いつか、ふたりで見にいこうよ。でも、アウエル地方って、ここから遠いなぁ。何日も馬車にのって移動しなきゃ、たどりつけない。お金も、いっぱい必要になるよね……」
現在、収入の見込みがないユグムは、グウェンの世話になりっぱなしである。ニュクスの成人年齢は男女共に十六につき、ユグムの歳で職に就くことはできない。さらに、身分が奴隷のリュベクでは、まともな扱いを受けなかった。
「これから二年間も身動きできないなんて……、なにか、方法はないのかなぁ……」
「稼ぎが必要ならば、おれがひき受けてもいい」
「そ、それはだめだよ。リューベックは、ぼくのそばにいることが仕事なんだ。働くときも、いっしょじゃなきゃ……!」
古くから、貧民や奴隷階級の人々が支配層によって迫害を受ける背景を記した書物を読んだことがあるユグムは、リュベクの身を案じた。激しい社会変動は民衆の犠牲をくり返し、経済活動で巨利を得た者は、贅のかぎりを尽くす。圧制者は安らぎを求める反面、自己中心主義からの脱却が難しいようだ。
ユグムにとってリューベックは、信頼できる兄のような人物であり、誰よりも心強い従者である。戦闘奴隷としてファーデン家に買われた傭兵だとしても、家族を失った今、これ以上ない大切な存在となっている。「どんなときも、ふたりいっしょ」というユグムの考えは、リュベクの行動範囲を制限することになるが、それは主人として当然の権利だった。
ヒンメルの町で半年ほど経過したある日、ユグムの頭のなかで火花が散った。夜になりベッドで眠りにつくが、おどろいて飛び起きた。股のあいだから、得体の知れない粘液が流れでている。なにかの病気だと勘ちがいして青ざめるユグムは、同室に控えるリュベクに躰を調べてもらった。
睡眠中に起きたことは、性成熟の指標でもある。夢精は、まだ自慰行為をしたことがない男児に発生する事例が多く、思春期を迎えると本人の意識とは関係なく精通を経験する。はじめての身体作用に困惑するユグムに、リュベクが細胞の働きを説明した。
「安心しろ。これは、ただの生理現象だ。おまえは声変わりが完了したばかりだが、生殖機能も最終段階に達したようだ。……まだ出そうならば、がまんする必要はない」
歴然とした徴を撫でるリュベクの指づかいに腰がふるえてしまうユグムは、急に恥ずかしくなり、心拍数が速くなった。無表情で処理を進める従者は、一方的に主人を羞恥させたのち、寝間着とシーツを取りはらい、新しいものに換えた。やり方を教わったユグムだが、以降、不得手な作業となった。妙な緊張感を強いられたユグムは、なかなか眠つけなかった。リュベクは、何事もなかったかのように少年の躰に寄り添い、ひとつのベッドで朝を迎えた。
「お、おはよう、リューベック……」
「おはよう。起きるか」
「うん……、起きる……」
リュベクはいつも半裸で横になる。従者に添い寝をお願いしたのは幼いときのユグムであり、生殖機能が成熟した今、褐色の肌や胸板に目がとまり、困惑の表情を浮かべた。シュルシュルと細帯をしめる音がして、リュベクの着がえを見つめていた少年は、ベッドからすべり落ちた。
「なにやってるんだ。気をつけろ」
「ご、ごめんなさい……」
ひょいっと、上膊を摑んでユグムを立たせると、リュベクはサイドテーブルにおかれた洗面盥で顔を洗い、左睛の傷痕を隠すため木綿の布を巻いた。ふたたび、じっと従者の動きに見入っていたユグムは、ハッとして、衣装戸棚から着がえを引っぱりだし、リュベクが背中を向けているうちに寝間着を脱ごうとした。
「あれ……、なんか変……だ……」
軽いめまいがしてよろめくと、リュベクの腕がのびてきて、背後から胴体を引き寄せられた。
「どうした」
「ん……、わからない……けど……、頭がくらくらする……」
リュベクはユグムを抱きあげてベッドへ寝かせると、グウェンを呼びに向かった。
✓つづく