第32話
痴話喧嘩とまではいかないが、リュベクに妬かれたユグムは、なんとなく顔がニヤけてしまう。あからさまに眉を寄せて溜息をつく従者は、「人の話を聞いてなかったのか」と、しまりのない表情をする主人を注意した。
「聞いてたよ。でも、なんか勝手に顔が笑っちゃうんだもん」
「なら、意識して作れよ」
「じゃあ、リュベクの無表情も、意識してやってるの?」
「おれのは生まれつきだ」
「そっか。リュベクがいつもニヤけていたら、たしかにいやな気がする。ぼくの前だけで笑ってくれたら、いいもんね」
じぶんの頬をつねって表情を変えようとするユグムに、「よせ」といってリュベクが手頸を摑んだ。いちいち極端な主人の言動に、従者は即座に対処する。
「笑うなとは云ってない。他者の睛を気にしろという意味だ」
「えっと……?」
「貴族に社交性は大事だが、誰にでも愛想をふりまけばいいわけじゃない。時と場合や、相手を選ぶ必要がある」
「わ、わかった。勉強します」
ユグムが素直にうなずくと、リュベクは「よし」といって腕を引き、窓辺へ移動した。二軒目となる宿屋から、酒場までの距離は近い。地下施設の潜入はひとまず避け、外出予定のある性奴隷との接触を狙うユグムは、「ラーギルさんって、どんな男性だろう?」と、まだ見ぬ相手の姿を想像した。窓枠に寄りかかって市場の方角をながめるリュベクは、
「ラーギルってのは偽名だろうから、名前から人物像を考えるだけ時間の無駄だな」
という。授かった子に空虚と名付ける親がいたとすれば、滑稽でしかない。性奴隷の多くは仮称を名乗り、実名を伏せていた。ラーギルとは空虚を意味するため、酒場で耳にした瞬間、リュベクの気に障った。無知なユグムは聞き流してしまったが、知らないほうがよい俗語のほうが、世のなかには蔓延している。
「リュベクは、なんでも解っちゃうんだね。これからも頼りにしてるから、よろしくね」
「ああ」
「ねえ、いつもそうやって窓の外を見てるけれど、尾行とか監視を警戒しているの? ぼくたち、シャダ王にきらわれたのかな」
「その逆だろう」
「逆?」キョトンとするユグムを一瞥して、すぐに視線を外界へもどすリュベクは、ヒュドルについて思考をめぐらせた。単独行動を起こしたユグムと鉢合ったのは、はたして偶然だったのか。今となっては疑わしい出来事である。ヒュドルの目的は不明だが、ギタールの町に留まるあいだ、気をつけるべき人物のひとりだろう。
「リュベク」
名前を呼ばれてふり向く従者は、まぶたを閉じて待つ主人のもとへ歩み寄り、軽く口づけた。正しい判断をしてユグムの気持ちを充たしたリュベクは、ふたたび窓辺に待機した。市場へ向かう人影に、見知った顔を発見する。シャダ王の忠実なる部下で右腕のレオハルトである。
「あの男……」
白昼堂々と町を出歩く理由は、物資の補給や情報収集といった考えにおよぶリュベクは、レオハルトの背中を目で追った。しだいに大通りの群衆に紛れたが、黄金色になびく髪は遠くでも目立っていた。
✓つづく




