第2話
春に咲く花が色をつけ、緑の葉が茂る森に、隻眼の男が歩いてくる。戦闘中に負傷した左睛の視力は喪失していたが、もう片方は無事につき、足取りはしっかりとしていた。膝下まである長い上衣の胴に細帯をしめ、肩からたすき掛けにした革製ベルトに鞘を取りつけ、幅広の片刃剣を背負っている。切れ長の右睛で主人のユグム・ファーデンを探しだすと、近くの岩場に腰かけた。
「やあ、リューベック、きみもいっしょにどうだい。水が冷たくて気持ちがいいよ」
枝葉の隙間から、太陽の光が針のように刺す大きな水湖がある。裸身になって腰まで浸かるユグムは、隻眼の男を「リューベック」と呼び、静かに微笑えんだ。艶のある細い黒髪が、そよ風にゆれている。白い肌は瑞瑞しく、齢十八にしては華奢な骨格だが、由緒正しい貴族の少年である。ユグムと主従関係にある通称「リュベク」は、主人の無防備な姿を見つめ、微かに眉をひそめた。
現在地は、大陸の東緯にあるヒンメルという町である。救世軍アスピダの拠点があり、古くは激しい争奪戦が展開された土地だが、王族の末裔であるアレッツォ家の守備力は高く、いちども攻め落とされたことはない。町全体の建物は赤砂岩でできており、礼拝堂のあるエンドレ城と共に守りを固めている。
「ふう、気持ちよかったぁ」
水辺にあがるユグムは、両腕をひろげて深呼吸をくり返した。傷ひとつ見あたらない躰であっても、平和な暮らしを悪しざまに灼きつくされた過ぎし日は、いつまでも心を苛む記憶として残されている。夜、悪夢にうなされて飛び起きる姿は、同室に控えるリュベクの胸を幾度となくしめつけた。
島国出身のリュベクは、ファーデン家が行商人のすすめで買い取った傭兵のひとりで、領地を侵略されたさい、唯一の生き残りである。大陸では「生命ある道具」として奴隷の扱いを受ける身分だが、剣の腕と運動能力が高いため、曾祖父の意向により、幼いユグムの従者となった。やや世間知らずで危なっかしい性格のユグムは、いつもあとをついてくる従者を兄のように慕い、やがて、特別な存在となってゆく。
胸もとに植物の刺繍をあしらった単衣に着がえをすませたユグムは、岩場にもたれるリュベクをふり向き、「お待たせ」といって笑顔を見せた。戦火のさなか、アスピダの騎士長グウェン・アレッツォによって救出されたユグムは、ヒンメルの町に身を寄せている。もとより、ファーデン家とアレッツォ家は旧知の仲で、互いに面識のなかったユグムとグウェンのあいだにも、親しみやすい空気が流れた。
オアシスのある森を抜けると、監視小塔つきの城門が見えてくる。騎士の間の一室で暮らすユグムとリュベクだが、グウェンの世話になってばかりはいられない。生活に必要な金銭を貯める目的で、こっそり町で働いた。
夜、洋燈の灯りで紙幣を数えるユグムは、「あともうちょっとかな」とつぶやき、すでに半裸の状態でベッドに横たわるリュベクに寄り添った。
安全な場所にいても、咽び音は弔いの鐘を鳴らし、おし秘めて眠ることを血が拒む。動乱の地平に死者の涙が降るかぎり、ユグムの心の痛みはやまない。幸福を砕かれた苦しい別離は、少年に決断を迫る。ひややかな大地の下で十字架の影を踏んだとき、生きのびた理由を知る。
「ぼくはいかなくちゃ……。空っぽになった町や村で、貧困に耐える人々はどれほどいるのだろう……」
ユグムの旅はリュベクと共に始まる。熱い砂漠を越えて。
✓つづく
[蛇足]
✦アスピダの拠点(領地)は、砂漠内の湖の周辺にあるリゾート地「ワカチナ」(ペルー南西部)のイメージです。
✦主人公ユグムの格好は、モロッコの民族衣装のイメージに近いです。ある意味、一張羅。
※人物や世界設定の自作イラストは機会があれば載せたいと思います。
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