第17話
ぐったりと地面にしゃがみこんでしまったユグムは、大きな樹の幹に寄りかかり、従者へ呼吸が苦しいと伝えた。山間部の標高はまばらで、現在地はいちばん高い山の頂上付近である。
「高山病か」
リュベクの体調に異常はないが、ユグムの顔色は青ざめて、歩けそうにない状態だ。
「深く息を吸って、ゆっくり吐いてみろ。軽い酸欠を起こしているはずだ。ほかに、どこか痛むところはあるか」
「……足が痛い。頭もくらくらする。……きょうは、もう歩けない」
「わかった。今夜はここで野宿しよう。横になっていいぞ」
「ごめんなさい……」
「おれにあやまる必要はない。先を急ぐ旅ではないのだろう?」
「……山賊は……」
「おまえは気にしなくていい。おれが対処する」
リュベクは手荷物のサックから掛け布団を取りだしてユグムの肩へあてがうと、水筒の蓋をはずし、ひと口飲んだ。幅広の片刃剣を足もとへおき、茂みの陰を利用して身を隠すように腰をおろす。半日と体力がもたないユグムは、まぶたを閉じて仮眠した。カサカサと聞こえる葉音に耳をそば立てるリュベクは、ギタールの町へたどりつくまで、いっさい気の抜けない状況がつづいた。整備の行き届かない山道は足場が不安定につき、肉体疲労は蓄積されてゆくばかりか、消耗は激しくなるいっぽうだ。休めるときに少しでも体力を回復する必要があり、ユグムにとって困難を極める経験だった。
「おまえは、よくがんばっている。……どんな人生を強いられようと、非道のやからは、おれが斃す。おまえが希んだすべてのことは、おれが生きる理由になる」
まだ幼さが残る寝顔を見つめるリュベクは、めずらしく本音を吐露したあと、自嘲ぎみに笑った。失われなかった右睛の奥ぞこに在る光は、ユグムの姿を形づくる。生まれたままの裸体が眸に浮かびあがると、リュベクは眉をひそめた。いちどきりとはいえ、ユグムを抱いた腕は、やわらかな人肌の感触を憶えている。ゆさゆさと腰をふって主人を喘がせた夜を思いだすたび、リュベクの躰は制しがたく、気持ちはゆらいだ。
「……まいったな」
性交渉は合意の恋人同士とはいえ、主人に欲情する戦闘奴隷など、従者失格である。誰にも悟られてはいけない関係なのは、まちがいないだろう。ユグムの肌へ自由にふれることが許されるリュベクだが、そう簡単に抱けるはずもなかった。
「おまえは、そこにいてくれ」
手をのばして救われるのは、ユグムのほうだけとはかぎらない。愛されたリュベクの肉体は、太陽よりも熱く、しずかに燃えさかっていた。
すっかり寝過ごしたユグムは、用を足しに草叢へはいり、こっそり放尿するつもりが、リュベクに見つかって赤面した。あわてて尻を隠したが、においまではごまかせない。
「……あ、……お、おはよう。ぼく、がまんできなくて……、おしっこしちゃった……」
「ああ、尿意なら、がまんしなくていい。おれも適当にすませている。大便の場合は、上から土をかけておけよ」
しれっと返されたことばに絶句するユグムは、差しだされた水筒で手を洗うと、ボサボサの髪を手ぐしで梳いた。体調はよくなっていたが、足の痛みは残っていた。筋肉痛くらいで、立ちどまるわけにはいかない。「調子はどうだ?」と訊かれ、「だいじょうぶ!」と即答した。
ふたたび歩きだすふたりは、八日目の朝、ついに検問施設へたどりついた。交通の要衝などには、通行人の荷物を調べたり、身分を確認する窓口が設置されていることが多い。ヒンメルの町をでるとき、グウェンの義弟として発行した証明書を受けとったユグムは、出自を偽って旅をしなければならなかった。ファーデン家の生き残りだと気づかれないよう、グウェンの血縁者を名乗ることが最善策だった。
「ユグム・アレッツォに、従者のリューベックだな。まずは手荷物を検査する。……ふむ、問題なし! 次は問診だ。質問には正直に答えるように。あとから感染症といった病が判明した場合、処罰の対象となるからな!」
やけに鼻息が荒い男による検問を通過したふたりは、ようやくギタールの町へと足を踏みいれた。まだ海は見えない。ザーン、ザーンと、波の音が響いてくる。ユグムは、だんだん速歩になった。
✓つづく




