第10話
朝霧のなかを歩くふたりの人影を、エンドレ城の見張り塔からながめるグウェンは、階段をのぼってきたナズリィに「泣いているのか」と、揶揄われた。
「まさか、そんなわけないだろう。……感慨深くはあるけれど、ユグムの旅は、きっと、すばらしい経験になると信じている」
「まあな。あの戦闘奴隷がそばにいるかぎり、チビスケはそう簡単には斃れないさ」
彼は奴隷などではないよ、と云いかけてやめたグウェンは、リュベクとユグムの関係に変化を認めた。従者が主人の横を歩くことは、禁じられている。しかし、リュベクはユグムのとなりで歩調を合わせていた。
「つまらんな。あいつとの決着は、しばらくおあずけか」
槍使いのナズリィは、リュベクと手合わせしたさい、引き分けている。ナズリィは手かげんをした覚えはないが、勝つことはできなかった。リュベクとしても、顔を合わせるたび挑発されるため、渋々と手合わせに応じた。しかし、無名の傭兵が、正義の盾の騎士を打ちのめすわけにはいかない。リュベクは引き分けという方法を選び、手かげんをした。
「さようなら、ユグム。また逢う日まで元気でね」
騎士長のグウェンは、自由に動きまわることはできない。ユグムと共に旅立てる従者の存在を、ほんの少し羨ましく思った。
ファーデン家が治める領地は山に囲まれた内陸に位置しており、海を見たことがなかったユグムは、いくつかの町と大きな港がある西緯へ向かうことにした。これから、果てしなく遠い旅をするふたりは、うっすらと青い波のような雲がひろがる空の下を西緯へと進んでゆく。
数時間ほど前、リュベクの腕に抱かれたユグムは、無表情で「平気か?」と問われた瞬間、思わず顔をしかめた。丁寧な前戯は気持ちよく感じたが、初めての性交渉は痛みのほうが強く、緊張と興奮のあまり、ただ喘ぐことしかできなかった。
「あのさ……、ぼくは、きみとちがって足腰丈夫じゃないんだ。きのうのきょうで、平気だと思うの?(おしりが痛い……)」
「ならば、おれに云ったことばを取り消せ」
「だから、そうじゃなくて! 次は、もう少しやさしくしてねって意味だから!」
ベッドのうえで恋人として扱ってほしいと告げたユグムは、ふたりきりのときは性的な行為におよぶことを許している。
「ねえ、ちゃんとわかってる? リュベクはさ、これまでどおりの従者じゃなくて、ぼくの恋人なんだよ?」
「ああ、そうだな」と淡泊な返事をして、リュベクはあっさり話題を変えた。
「西緯へ向かうのはいいが、道中に治安が悪そうな山間部がある。少し手前の町で、情報を集めたほうがいい」
ユグムは、となりにならび歩調を合わせて会話をするリュベクの横顔を見あげ、「……うん」と、うなずいた。グウェンからもらった地図へ視線を落とすリュベクは、ユグムを安全に目的地へ連れていくため、思考をめぐらせている。こんなとき、非力なユグムは切ない気分に捉われた。エンドレ城の図書室で得た知識の多くは、ユグムの記憶に刻まれている。しかし、体力づくりは失敗に終わり、無理して寝込むこともあった。心配したグウェンは、剣術の稽古をつける予定を変更し、ダンテスに裁縫や料理を教えるように指導した。さいわい、ユグムの手先は器用なほうで、細かい作業を愉しめた。
「さようなら、グウェン、ダンテス、ナズリィさん、……みんな、またね」
ヒンメルの町をふり返ると、朝陽に照らされた見張り塔の屋根が、まぶしく輝いていた。
同時刻、港町の宿屋で小さな鏡を見つめていた青年は、「これは……」と、つぶやいた。「ファーデン家の血は、一滴も残らず消えたはず……」目立つ銀色の髪を隠すため室内でも頭巾をかぶる青年は、占者見習いである。近づく奇蹟の波動を感じた青年は、向かいのベッドで眠る師匠の肩をゆすった。
「一大事です、起きてくださいっ!」
とつぜん終わったファーデン家の命運は、ひとりの少年を見捨てなかった。長くつきない悲しみの夜を越え、遥かな旅へと誘う。変革の風が大陸に吹き渡るとき、勇敢なる白い刃が、征服者の喉首を打ち落とす。悲劇の宮殿で生まれた気高い血潮は、平和な大地が甦るまで、その歩みをとめることはないだろう──。
✓つづく