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30.ノアルーア

 手足の感覚がない。一体いつからここに寝ていたのだろう。外からはひんやりと湿った空気が、ミミの内側からは温かいものが抜け出す。


 洞窟の苔むした岩からは水が染み出てさらに体温を奪う。


 ──怖い。


 内側にある温かいものがなくなっていくのが怖い。


 雨に紛れて雷が打ち付けるのが怖い。


 閉鎖的な狭い空間が怖い。


 だけど、それ以上に怖いことは『動けない』ことだ。逃げ出したくても体が言うことを聞かない。恐ろしい存在が自身の腹を喰らおうと逃げられない。


「……」


 話せない、動けない……だから今は何も見たくなかった。目に映る全てが今は恐ろしい。目の前に伝う水の道に目を背けたくなる。


 だけどこれで終わりではなかった。


「…………!?」


 何かが聞こえる……。雨の向こうで喜びに満ちた軽やかな鼻歌が。水と同じでゆっくりとその存在はこちらに近づいていた。


 だから目を瞑る。それを目にしてしまえば正気を保てるか不安だったからだ。金縛りで霊を見るときと同じぐらいにパニックになるだろう。


 目を瞑って数分。


 すると雨音一つの音だけになった。妙な鼻歌は聞こえない。でも……それでも今、目の前にその存在がいるということを感じ取れる。


 さらに寒くなった。動かないはずの腕が震え、喉が震える。閉じていた瞼でさえその恐怖に震える。


「………………」


 しかし気配が一瞬で消えた。目の前にいたであろう何かの気配が完全に消えたのだ。


 だから目を開けた。


 でも目の前にはそれがいた。


「……っ!?」


 目が飛び出しそうになる。その存在はニタニタした表情で笑みを零し、彼女を見ていたからだ。


「んっ……!?」


 声にならない声を漏らし痙攣する。


「やっぱり起きていたんですね。死んでしまったのではないかと心配したんですよ〜?」


 それが声を発する。


 ゆっくりと彼女へ歩み寄る。


 近づくな、そう目で訴えるもその存在は止まらない。


「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。私は何もいたしませんから。ただ依代としてあなたの魔力をいただいているだけですから」


「んっ〜」


 奴は初めて現れたときとは随分と姿形が変わっていた。身を全て巻き布で包んでおりボディーラインを隠すつもりはないらしい。


 そして黒い霧で覆われていた体がいつの間にか晴れておりまっさらな肌が現れていた。大人しそうな瞳にその素肌。白みが強い水色の髪は腰まで長さがあった。


 自然を感じる美形。だが自然ほど不自然なものは存在しない。美しすぎるがゆえに恐怖が生まれる。


「ふふ……時間は掛かってしまいましたがようやく女神らしい姿になりましたね。あなたのおかげですよ?」


 抱き締めれば溶けてしまいそうなその体がミミの背中に抱き着いた。


「っ……!?」


「ゆっくり呼吸をしましょう」


 うつ伏せの状態でさらに上にフルリエルが抱き着いている。


 苦しそうに息を吐いていると彼女が小さく笑った。


「どうかしましたか? 息の仕方が分からなくなってしまいましたか?」


 すると彼女はミミを抱き起こし仰向けにする。フルリエルとミミの顔が向き合う。


「可愛らしいお顔。涙目になっている方がちょっぴり興奮してしまいますね」


 頰が紅潮する。


 フルリエルが馬乗りになるとミミの唇に自身の唇を重ね始めた。プルプルとした感触を味わうかのように交じり合わせ、そして舌を絡め合わせ始める。


「ん……」


 舌の動きに合わせて音が鳴る。粘度のある液体が弾け合う。次第にスイッチが入ったフルリエルはミミの両頬に手を添えて唇を溶かし始める。


「ん……んっ……はぁ……」


 一分ほど経っただろうか。フルリエルは満足した表情で唇を離すとそこに柱が伸びた。


 柱が途切れフルリエルの口元につくとそれを触りながら、


「ごちそうさまでした」


 と、妖艶に笑った。


「あ……あ……」


 ただのキスに思われたその行為はミミにとってはとても危険なことだった。ただでさえ抜け落ちていた魔力をキスによりさらに奪われてしまったのだ。


 体温はさらに下がる。


「わたくしの信者はすべてやられました。魔力の供給があなただけになってしまいましたね」


 いまだ興奮が収まらないのか先ほどのキスを思い出して身を震わせる。


「できるのならば永久にそうしたかったのですが……なにせ厄介な相手ですから。ここからは少しも油断はできませんね」


 魔力が揺らいだ。目の前の圧倒的なまでの魔力体が怯えたのだ。一体彼女はなにと敵対しているのか。


 そしてさらに、「信者はすべてやられた」という言葉。アクベンス率いるアケルナーの戦力だろう。それが呆気なくやられたというのだ。


「彼らはうまくやってくれると思ったのですが、やはり5分と持ちませんでしたか……」


 その時、洞窟の壁から銀色に輝く線が何本も浮かび上がった。


「やはり──」


 フルリエルは何かを言う瞬間に細切れになって液体となった。ミミは驚く暇もなく銀色の光に体を縛られて外へ放り出される。


「っ……!?」


 冷たい雨だ。ビチビチと体に打ち付ける雨に震えが止まらない。


 地面にそのまま叩きつけられるかと思いきやとある人物が受け止める。


 とても温かかった。彼は魔力をミミへと流し込み始めたのだ。雨粒さえ気にならない温かい空間。冷え込んでいた体は徐々に体温を取り戻し感覚を思い出す。


「あ……あな、たは……」


 霞み始めていた視界がクリアになっていくとそこには見知った姿の子どもがいた。


「成し遂げる全てに正義や悪など存在しない。結果が善悪なのかは未来が決める。さて……聞き覚えのあるこのセリフに君は何を思った?」


「──わからない……」


「ふむむ」


「でも、私の未来には何もなかった。ただただ利用されて、友達すら失って……それでもまた……」


「あの日僕は村を焼き払った。本当はどうしたい?」


「復讐したい……でもできない」


 密着状態。魔力は回復し、魔法を放とうと思えばいつでも放てるはずだ。しかしそれをせずにただただ腕に抱かれるだけだ。


「もう分からなくなったの。信じていた村は私たちを見捨てて贄にして。信じたくなかったあなたが私を救いに来て……わけがわからないよ……」


 彼女は顔を隠して涙を流し始める。


「そうなんだ。君はわからなくなったから復讐すらあやふやになったんだね。正解がどれかなんてわからなくなった、でも選択しないわけにもいかない。じゃあ次はどうする? あの日君は僕の手を払った。また逃げ出して違う未来を見に行くのか、それともこの手を取ってみるのか。どう選んでも正解がわからない……それが選択である」


 ローブの奥にある表情が見えない。自分で考えて言うしかない。彼が何を考え何を企んでいるのかは参考にならない。


 あの時の選択が正解かどうか分からなかったからだ。だから、


「今度は逃げない……例えそれが正解じゃなくても、私はもう逃げたくない」


「今度はこっちを選んでみるんだ?」


「でも人を殺すことには賛成できない。けど、もしあそこであなたが村人を殺していなかったら今頃……私は真実に気づけないまま死んでいたかもしれない、だからっ」


 苦渋の決断と言うことだろうか。本当は憎くて仕方ない目の前の人物に従うことが最善だと今は考えたのだろう。


「なるほどそういうことか。それもある意味良い関係なのかもしれないね」


 少年はミミの内側に残っている復讐心に気が付いた。選択は選択でも今の選択。状況が変わればすぐ様少年の首を掻き切るだろう。


 彼は動けるようになったミミを降ろすと後ろに下がるよう指示をした。


「下がれ、今の君では僕の後ろに立つことしかできない」


「それはどういう──」


「お話はお済みのようですね」


 柔らかく聞こえた声。


 彼女は何事もなかったかのように存在していた。


「亜神……!? さっき死んだはずじゃ……」


 ミミは確かに見た。バラバラになって死ぬ彼女の姿を。


「神とは普通の手段では葬れないのですよ。封印か信者をすべて抹殺するか……もしくは祠の置き物を壊すかです」


 自分から弱点をペラペラ喋る時点でそれが殺す手段でないことは確定だ。


「祠の位置などすでに把握している。これで二体目だ」


「では壊しにいっては? あのときのように」


「三体目、四体目と、お前を祀る祠はいくつもある。今ここで本来の弱点を知り、葬る」


「この身体に弱点があるとでも?」


「そうでなきゃ怯えて隠れる必要はないだろう。あのときのように」


 図星だったのかフルリエルは目を細め笑みを消す。


「単騎で我々女神に対抗できるのは聖女とあなただけですよ」


「亜神が女神を騙るのは面白い冗談だ。古来に記されたフルリエルはお前のような傲慢な女神ではなかったそうだ」


「ふふふ……やはり伝承の生き残りがいたのですね」


 フルリエルの纏う空気が変わった。


「祠を探し、置き物を壊しにいけ」


 少年はミミにそう命令した。


「祠……」


「この遺跡のどこかにそれはある。お前が最初にやる選択だ。逃げてもいい、祠を壊しに行ってもいい……選べ、そして走れ」


 少年はそう告げると鋼糸を展開した。


「──終焉の呼び声(カタストラー厶)


 フルリエルは大気の水分を全て吸収し自身の魔力に変えた。そして彼女の足元から間欠泉のように水が湧き出ると一本の巨大な柱が立った。


 雨が止む。霧も晴れる。


「ミミさん、あなたは私の依代なのですよ? 逃げてしまわれるのですか?」


 柱の上から聞こえる彼女の声。ミミはすでに走り始めていた。


「そちらにわたくしの祠はございませんよ」


 ミミは森の外へ走り出していた。彼女は逃げるという選択をしてしまったのだろうか。


「あらあら……ではもうあなたは用済みです。女神の力にひれ伏しなさい」


 柱の頂上が青く光る。


大海の発狂(リオザーベル)


 予備動作がミミへと向けられそして放たれる。


 渦巻く螺旋。


 村をまるまる呑み込むほどの大きさ。筒状のレーザーが大地を破壊……しなかった。


「やはり規格外ですね」


 嬉しそうにフルリエルが嗤う。


 フルリエルの一撃は少年の鋼糸によって受け止められた。


「鋼糸の間を覆う結界、瞬時に広げられる魔力の粘度……素晴らしいです。加護もなしによくここまで成長しました。信者に一人欲しいぐらいです」


「その信者に寝首をかかれそうだ」


「ごもっともです」


 少年がアクションを起こす。フルリエルは警戒して自身の周囲に魔力壁を設けた。


「お前は自分を高く見せようと柱に立つ。去年は苦戦したが対策のしようがあれば何てことはない」


 フルリエルの柱を中心に鋼糸が囲うように空へ伸びた。蜘蛛の巣状に鋼糸が編み込まれ少年の足場が完成する。


「前回は高低差で苦戦、今回はその対策ですか。それにしてもその足場……」


 フルリエルは鋼糸に水球をぶつけるが通り抜けてしまい全く役にたたなかった。


「わたくしの攻撃で壊れないというのですか。よく考えられていますね。そして極めつけは水の補給路を絶っているということですね」


「古代魔法を使えば使うほどお前は弱くなる。魔力はこの僕が全て弾かせてもらっている」


「それではあなたも魔力切れになるのでは?」


「魔力切れで困るのはお前の方だ」


 フルリエルは久しぶりに覚えた恐怖に身を震わせる。戦う前から絶望が決まるのが何より興奮するのだろう。


 彼女はそのゾクゾク感を味わいながらどんな殺され方をするのか想像し声を漏らす。


「あはっ、葬り方はそれで良いのですね?」


「本体もない相手の葬り方など一つだ」


 少年の結論は魔力切れの状態で殺すことだそうだ。


「ふふそうですか。では──少女のすすり泣き(アントレイ)


 打ち水のような大粒の水球。


 少年は剣を握り鋼糸の上を走る。


 時々当たりそうな水球を鋼糸が突き出て相殺する。


 攻撃が止むと少年は刃を手でなぞり刃の色を魔力色に変えた。


 ──斬撃。


 一つ二つと正確にフルリエルを狙う。


 彼女は魔力壁に頼りっきりで動かなかった。


 そして最後の斬撃に当たると魔力壁は音を立てて割れた。


「あなたが遠距離から攻撃ですか……何を狙っているのでしょうか」


「時間稼ぎ。お前を支える柱は魔力の塊、長くは持たない」


「んふふっ。ジワジワ追い詰められている感じがしてゾクゾクしますね」


 音を立てて魔力壁が復活する。


「今度は反撃します」


「こちらもそうさせてもらおう」


 フルリエルは自身の右手を凍らせ刃を生み出す。そこから再び流れが生まれる。


「──吹き荒れる間欠泉(レッグレイサー)


 熱気を纏った水柱が少年を狙うことなく四方八方に伸びる。


 湯気が視界を濁らせる。


 少年は視界の良し悪し構わず斬撃を浴びせる。結界の軋む音と割れる音が交互に繰り返されていた。


「──醜女の雪化粧(ゾワヒューパ)


 吹き出る熱湯が一瞬で凍りつき、伝播して炸裂する。氷の礫が広範囲に飛び散った。


 次回はスモークと氷の粉で見えなくなる。


「なかなかな攻撃。だが広範囲がゆえに威力が足りない!」


 声のする方から暴風がやってくると氷の破片がフルリエルに向かった。


 パリパリと魔力壁に当たって溶ける。


「拳一振りでこの風。頭もキレ、力もある方なのですね。その力で剣を振るわれたら──」


 少年が左手で魔力壁を崩し至近距離に彼女を捉えた。


「あぁ……ははっ!」


 甲高い音が響くと少年の剣は巨大な氷の腕に止められていた。


「氷腕……致命傷を与え損ねたか」


「今のは少し危なかったです。何度も復活できるのですが痛みはあるので。痛いのは嫌ですからね」


 少年は氷腕を崩し魔力壁が生まれる前にフルリエルを斬り刻んだ。


 ブシュっと血が噴き四肢が泣き別れになるがすぐに再生する。


「言っているそばから殺されるとは……やはり至近距離ではかなり不利ですね」


「魔力が切れて無防備になるのが先か、僕を殺して助かるのが先か」


 平然と水の上を歩く少年。


 彼女は氷の壁で彼の剣を防ぎながら後退する。


「間違いなく前者でしょうね。皆様から集った魔力も半分を切りましたから。古代魔法というのはかなり魔力を消費するので困ったものです。完全体になれるのならあなたとの戦闘を存分に楽しむことができるというのに」


 後ろに跳ねながら間合いを管理し反撃の隙を狙う。だが彼に隙は見当たらない。フルリエルはその厄介さに心が躍り間合いを見誤った。


「命の奪い合いを楽しむなんて化け物じみた思想だ」


 氷の壁と同様に彼女の体がズレた。真っ赤な血が氷を色付ける。


「んふっ……命ある者には理解が及ばない領域です」


 少年は何かを察して大きく距離を取った。


 その瞬間フルリエルの体から大量の魔力が波となって現れ一瞬にして膨張する。距離を取っていなければ今の一瞬で遠くに吹き飛ばされていた。


「──女神の波動(ラウジム)。副効果が発動しないのは亜神だからですかね」


 独り言のようにそう言うと体を再生させた。


「まあよしとしましょう。それよりもわたくしの心は今あなただけを見ていますので……できることならあなたをわたくしの手中に収めたいのです」


 紅潮する頰に右手を添えて、左手を愛しい者を愛でるように出した。


「──寄生前線(ノアルーア)


 水の跳ねる音が柱から聞こえてくる。


 水泡が渦巻き柱は白色に濁り始める。よく観察してみると中にはおぞましい数の彼女がいた。


「これは……」


「わたくしは気に入った者に多く愛されたいのです……というのは冗談で、あなたをわたくしの信者候補にさせるために犯させてください」


「子どもに言うセリフではないね」


「安心してください。寄生されれば何をしているのか分からなくなりますから」


 柱から水の形をした無数のフルリエルが飛び出す。それに一体一体武器を持っているのが厄介だ。


「えっ……普通に気持ち悪いんだけど……」


 おびただしい数の彼女に言葉を漏らす。


 彼女たちは微笑んだ顔を崩さないまま少年へ飛び掛かる。


 彼は一太刀で数体を巻き込みながら防衛する。


 武器を壊せば本体が爆散する仕組みのようで液体に触れたらかなりマズイことになるようだ。


「村に寄生された魔物を送り込んだのはお前だったか……」


 話す余裕はあるようだ。斬撃と鋼糸を交えた戦闘なら液体が付かない戦闘も容易なのだろう。


「村……前回襲撃しそこなった名無しの村ですね? まあご安心を。村ではなくこの森全域にノアルーアを張らせていただいたので」


「その割にはすでに全滅したようだ」


「あなたのせいですよ」


「主の魔力で動く寄生生物など国民を従える女王そのものだ。本体に刺激を加えればすぐに乱れる。このようにね」


 左手を全て閉じ鋼糸を集約させる。結び目を作るように球状に縛られた鋼糸は彼女を包む。


「あっ……」


 フルリエルがそう言葉を残すと鋼糸に巻き込まれて粉々になった。それと同時に寄生前線(ノアルーア)の能力が解ける。


 水の柱の高度がガクッと下がる。


「そろそろ終幕かな……」


 フルリエルの魔力はさっきの寄生前線(ノアルーア)でほぼ付きたようだ。




 ◇◇◇◇




 一方その頃ミミは雨の止んだ森を駆け抜ける。祠の置き物を破壊するか、逃走するかの選択をする時、彼女は躊躇いもなく逃走を選んだ。


「……震えが……とまらないっ……」


 フルリエルからの殺気、そして自身に向けられた古代魔法に戦意喪失してしまった。初めは少年と同じように戦うことを選択したがあの殺意に目を向けられたら逃げ出したくなるのも当然のこと。


 ミミは完全に復讐のことなど忘れただひたすらに走った。少年が死のうが知ったことではないのだ。


 そうして戦闘音が小さくなるまで走ったミミは一息ついてその場にしゃがみ込んだ。


「はぁ……はぁ……」


 日の出まではまだもう少し時間がある。この暗闇を無理に走れば迷子になるだろう。


「な、何の音……」


 心音が落ち着き、周囲の音に集中できるようになった時それは聞こえてきた。陽気に吠える気分の良さそうな野犬の歌声だ。


 嫌な予感がする。


 それがこちらへジワジワと近づいてきていた。


「ハッフハッフワオオオオオオオン」


 喉を震わせた歪な遠吠え。雲が一瞬開けると森に月明かりが入ってくる。


「いっ……!?」


 思わず叫びそうになった。野犬の姿を捕らえたまでは良い。だがその姿が幼いミミとってはあまりにもグロテスクなものだったからだ。


「ヘッヘッ……オオオオ〜ン!」


 頭蓋骨であろう骨が剥き出しで脳の一部が溢れていた。目はなく鼻は欠けていた。体中傷だらけで水色の何かが蠢いていた。


 それに頭部に突き刺さっている謎の偶像。アレはアクベンスたちが崇拝していた謎の偶像だった。


 なぜあんなものが野犬の頭部に突き刺さっているのだろうか。しかし考える暇もない。野犬は微量な魔力を感じてミミの方へ向かってきていたからだ。


「グググググ……?」


「はっ……!」


 気づけば真横までの接近を許してしまっていた。無い目が合い瞬時に身を引いたが野犬は何も反応を見せなかった。


 それどころかその場に倒れ込んで頭を下げた。


 痛々しい傷口から脳の一部と血が流れ出す。腐ってはおらず先ほど空けられた傷だということが分かる。


「な、なに……」


 痛がっている様子はない。偶像からは嫌な魔力が流れておりそれが麻酔として効いているのだろう。だがもうこの野犬は助からない。衰弱が始まっている。


「グルルル……」


「何もしてこない……」


 頭に突き刺さっている偶像を振り払おうと頭を強く振るが脳や血が溢れるだけだ。


「ガガガガ……」


「外してほしいの……?」


 ミミが手を偶像へ伸ばすと野犬は自然と大人しくなる。


「でもこれを外したらあなたは──」


「クゥ〜ン」


 だがこんな姿で居るほうが辛いのだろう。悲痛な野犬の声に彼女は躊躇う。


 少年が壊したがっていたもの。今すぐにでも破壊したいが目の前の野犬はすぐに死ぬ。延命させたい気持ちもあるが野犬の苦しい声を聞くと楽にさせたくなる。


「亜神……なんでこんなことを……」


 体中を蝕んでいる水色の正体は異性生物。野犬を操りどこかにこの偶像を隠そうとしていたのだろう。


「この世界には許せないことがたくさんある……でもこんな選択でいいのかなぁ……?」


 声は震えていた。


 この世界は美しさを表に出す分、残酷を内側に隠す。


 生命を全うする、表向きは美しく儚い。だがこれまでの人生は残酷かもしれない。この野犬のように。


「せめて痛みが出ないように……名誉ある死でありますように」


 ミミは偶像に触れ魔力を発散する。


 ガラスのように偶像が破裂すると野犬は静かに力を抜きその場で息絶えた。


「灰になってゆく……」


 火が燃え広がるように灰になり最期は形すら残らなかった。


「手遅れの死と救済の死。あの子はどっちを感じたんだろう」


 ミミは空へ舞う灰を目で追っていた。




 ◇◇◇◇




「ぐっ……」


 魔力から再生したフルリエルは突然足元をふらつかせ膝をついた。胸に手を添えて苦しそうだ。


「破壊されたようだ。僕としては弱点を探すまでは耐久したかったけど……まあいいか」


 剣を薙ぎ払いフルリエルへ歩みだす。もはや抵抗する魔力すら残っていないようだ。


「とんでもない、誤算がっ……二つ……ありましたね……」


 接近する敵にいつまでもしゃがんでいるわけにはいかない。彼女は痛みを抑えて立ち上がる。


「一つ目は……ふぅ……あなたにわたくしのっ、能力が……効かなかったこと。二つっ、目は……逃げ出した依代ぉ……が、わたくしの、偶像をこわ……壊したこと……っ」


「前回は苦しそうに死んでいなかったが?」


「……魔力がないと、くるしっ……んですよ」


 彼女は目の前まで来た少年に寄りかかる。


「はぁ……どうしますか……。無抵抗な……少女を、殺し、ますか? ふふ……」


「それを聞くのも二回目だ。あの時後悔したとでも?」


 躊躇いなく少年はフルリエルの心臓を貫く。彼女は口から血を吐いて咳き込む。


「こんなに、可愛らしい女神は……いませんよ?」


「ほざけ亜神。お前に後悔することは何一つない。次は必ず仕留める……それまで大人しくしていることだな」


 剣を抜きフルリエルを突き飛ばす。


「あはっ……しば、らくは……何も、できませんね。ですが……7年後の今頃、に、もう一度……会いに来ます。その時までに……彼女へ加護が……ふふふ──」


 フルリエルは何も残さず消えていった。


「7年後の今頃。15歳の冬にもう一度、か……。それにしてもなんかー……」


 少年は空を見上げて夜空に向かって言った。


「呆気なかったなー」


 臨場感のある長い戦闘を予想していた彼にとって、今回の一連の騒動は少し物足りない結果となったようだ。


 こうしてアケルナー村と霧の災害は収束となった。

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