表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/56

アマスギ村

平原の村アマスギ――荒廃と悲嘆の中で


広大な平原の中心に位置するアマスギ村。かつては黄金色の小麦畑が一面に広がり、その豊かな実りが村人たちの生活を支えていた。甘い砂糖ビートの香りが風に乗って漂い、どこからともなく聞こえてくる笑い声が村を包み込んでいた。しかし、今やその景色は遠い昔の夢のようだった。



村を囲む畑は、すでにその役目を失っていた。踏み荒らされた小麦の茎は泥にまみれ、ところどころで無残に引き裂かれている。白砂糖を作るビート畑も見る影もなく、腐敗臭が大地に染み込み、乾いた風に乗って村中を覆っていた。


道端では老人が土に腰を下ろし、空虚な目で遠くの荒地を見つめている。その背中は無力感に沈み、疲れ切った体を支えるように杖を握りしめていた。屋根の下では婦人たちが肩を寄せ合い、声もなく壊れかけた家の柱を指さしている。子供たちは砂埃が舞う道端で小石を蹴りつつ、ただ無表情に空腹を耐えていた。



村人たちを追い詰めたのは、年々大きくなり、凶暴さを増した巨大なイノシシだった。それはもはや自然界の生物とは呼べないほど異形だった。牛ほどの体躯、鋭く湾曲した牙、そして泥まみれの毛並み――その姿を見た者は誰もが息を呑んだ。


村の畑を蹂躙し、柵や納屋までも破壊するそれらの獣は、夜になると低い唸り声を響かせ、大地を震わせる足音とともに現れる。村人たちは夜の見回りすらできなくなり、ただ家の中で息を潜めてその恐怖に耐えるしかなかった。



村の中央にある小さな集会所。木製の扉は傷だらけで、窓にはひびが入っている。そこに集まった村人たちは、疲労に満ちた顔をしていた。村長のサトウは、古びた長椅子に腰を下ろし、重く垂れた肩を揺らしながら話し始めた。


「皆の者……」

その声はかすれ、力なく響く。

「わしらの村も、もう長くは持たんじゃろう……。」


机の上には村人たちが持ち寄った証拠の品が並んでいた。かじられた麦の穂、折れたスコップ、そして泥にまみれた柵の一部――それらは村の苦境を象徴していた。


「麦は育たん。田畑も枯れ果てた。それに……あの化け物じみたイノシシどもが、わしらの最後の希望さえ喰い散らかしておる……。」


サトウの目が潤んでいたが、彼はそれを悟られまいと顔を伏せた。村人たちは、沈黙の中でただその言葉に耳を傾ける。すすり泣きの声がどこからともなく聞こえ、希望のない空気が場を覆った。


「もう神に祈るしかない……。」


その言葉は絶望そのものであったが、誰も反論できなかった。村人たちは一人、また一人と集会所を後にし、重い足取りで自分の家へ戻っていった。その後ろ姿は、まるで運命を受け入れた敗者のようだった。


どの家の窓からも光は漏れず、静寂が支配していた。時折、遠くからイノシシの唸り声が聞こえる。その音が、まるで村人たちの心の中にある恐怖を具現化したかのようだった。


一軒の小さな家から、少女カンミがそっと外に出てきた。彼女の手には、硬くなった黒いパンの欠片が握られている。それは、今日の家族の全ての食事だった。彼女は妹たちにそのパンを分け与え、自分は空腹を耐えていた。


夜空には厚い雲が広がり、一筋の光も差し込まない。冷たい風が吹きつける中、カンミは拳を握りしめ、乾いた畑をじっと見つめた。ひび割れた大地が彼女の目の前に広がり、遠くでイノシシの影が揺らめいている。


「こんなところで、終わりたくない……。」


その声は、風にかき消されるほど小さかったが、彼女の中では確かな決意だった。妹たちを守るため、村を救うため、何かを変えなければならない――その思いが、彼女を突き動かしていた。


カンミは一歩前へと踏み出した。枯れた畑に足を踏み入れるその瞬間、大地が微かに震えたように感じた。彼女はその震えに一瞬足を止めたが、すぐに自分を奮い立たせ、さらに一歩を踏み出した。



荒れた大地を覆う夕闇が、カンミの小さな影を長く引き伸ばしていた。彼女の足音は乾いた砂を擦る音となり、平原にただ一つ、響き渡る。風が吹きつけるたびに、薄い布をまとった肩が小さく震える。冷たい風は、希望を奪うかのように彼女の髪を乱し、頬を打った。



背後に広がる村は、どこか静かすぎた。家々の窓はしっかりと閉じられ、隙間からは生活の気配さえ漏れてこない。荒れた畑の端に並ぶ納屋は、崩れた屋根を晒し、まるで見放された記憶の亡霊のように立ち尽くしている。時折聞こえるイノシシの低い唸り声が、村全体を呪縛する鎖のように感じられた。


カンミの足元で、小石が乾いた音を立てて転がる。彼女は立ち止まると、軽く息をついた。胸の奥にある焦燥感が、彼女を突き動かしている。



歩みを進めながら、カンミの脳裏に浮かぶのは家で待つ妹と弟の顔だった。乾燥した唇と、空腹に耐えるようにお腹を押さえる小さな手。痩せ細った身体を無理に動かし、笑顔を作る弟の声が胸を締めつける。


「お姉ちゃん、お腹すいたけど……平気だよ。ぼく、我慢できる。」


その言葉を思い出すたび、カンミの目には涙が滲む。彼女の歩みは次第に重くなるが、それでも立ち止まるわけにはいかなかった。小さな拳を握りしめ、カンミは自分に言い聞かせる。


「何か……何かを見つけなきゃ……。」



村を抜けた先に広がる畑は、かつての黄金色の海とは似ても似つかない光景だった。ひび割れた地面に黒ずんだ麦の茎が、まばらに立ち枯れている。かつて風にそよいでいた小麦は、今や泥に塗れ、イノシシの巨大な足跡が点々と荒々しく刻まれている。


カンミは立ち止まり、静かに膝をついた。小さな手で土を掘り返してみるが、指先が触れるのは、乾燥した根や腐った植物の破片ばかり。土は固く、彼女の力では掘り進めることすら困難だった。



カンミの手は次第に動きを止め、掘り返す手を見つめる。その爪には土が入り込み、指先が赤く腫れていた。それでも彼女はもう一度、土を掘ろうと力を込めた。しかし、空っぽの手のひらに残るのは、ただの乾いた土だけ。


「……何も……ない。」


かすれた声が風に流れ、彼女の肩が崩れるように下がる。その場に座り込んだ彼女の視界は、霞んで揺れていた。歯を食いしばり、涙を堪えようとするが、胸の奥で渦巻く絶望が声となり、笑いとともに漏れ出す。


「はは……は……何やってんだろ……。」


その笑い声には、哀しみしか含まれていなかった。風が吹き抜け、髪を乱し、埃が頬を掠める。その瞬間、膝が崩れ、彼女は地面に倒れ込んだ。



冷たい土が頬を包み、彼女の身体を覆うように静寂が広がる。顔を動かし、視線を上げると、赤く燃えるような夕陽が見えた。その光景は、美しいはずなのに、彼女の心をさらに締めつけるだけだった。


「……もう、だめ……。」


小さな声が風に溶ける。力尽きた彼女の身体は、土の上で静かに横たわる。風の音と遠くから響くイノシシの唸り声だけが、その場を支配していた。


暗闇が徐々に広がる中で、カンミの小さな身体は無力に横たわったまま動かない。彼女が探し求めていた希望は、まだどこにも見つからなかった。冷たい夜の風が、彼女の髪を優しく揺らしながら、平原を吹き抜けていった――。



荒野の風が乾いた土埃を巻き上げ、カンミの小さな体を覆い隠していた。地面に伏した彼女の頬には冷たい土の感触があり、意識は闇の中でかすかに揺れている。耳の奥に響く自分の微かな息遣いと鼓動。それだけが現実と繋がっている唯一の証だった。


(もう……終わり……)


心の中でそう呟くと、深い絶望が彼女を飲み込んでいく。その時だった。突然、どこからか軽やかな歌声が耳をかすめた。


――フンフフンフフーン――


それは明るく、どこか滑稽で、今の彼女の世界には不釣り合いなほどに楽しげな旋律だった。ぼんやりと意識を引き戻され、彼女は微かに眉を動かす。


(……歌声?……誰かがいる?)


耳を澄ませようとしたその時、低い地響きが近づいてきた。ズシーン……ズシーン……。地面が震え、頬に伝わるその振動が彼女を不安と恐怖で包み込む。


(何……この音……?)



軽やかな歌声と重い足音が不思議な調和を奏でながら、どんどん近づいてくる。振動が強くなるたびに、カンミの身体が微かに震えた。意識は遠のきそうになりながらも、その奇妙な音に引き戻される。


足音と歌声が完全に彼女の近くで止まった時、風が一瞬静まり返った。そして、その直後に聞こえたのは、少女の可愛らしい声だった。


「ねぇ、ダリル、ここ誰かいるの?」


その声は無邪気で柔らかく、カンミの胸を少しだけ温かくした。しかし、それに続く男の声は低く、落ち着いているが、どこか力強い響きを持っていた。


「おい、大丈夫か?」


その瞬間、カンミは何かに引き寄せられるように、かすかに目を開けた。視界はぼやけ、光と影が混ざり合っている。だが、徐々に焦点が定まると、そこには巨大な影が立ちはだかっていた。




逆光に輝くその影は、まるで物語の中の巨人のようだった。肩幅は広く、強靭な体躯が夕陽に照らされている。その肩の上には、小さな少女が楽しげに座っていた。その一方で、彼女の視線が巨人の足元に向かうと、驚愕に目を見開いた。


「……え?」


そこには、巨大なイノシシの死骸が横たわっていた。まるで牛ほどの大きさのそれが、巨人の肩に軽々と担がれている。まだ体からは微かに湯気が立ち、地面に引きずられた尻尾が砂埃を巻き上げていた。


カンミの全身に恐怖が走った。目の前の光景が現実だと理解した瞬間、喉から叫びが漏れる。


「ぎゃあああああ!」


その叫び声は静かな荒野に響き渡り、遠くの空にいた鳥たちが一斉に飛び立った。カンミの体はそのまま力尽き、再び地面に崩れ落ちた。



カンミの悲鳴に驚いた少女が、巨人の肩の上で足をバタバタさせながら叫んだ。


「え?え?何?どうしたの?」


彼女の足がリズムよく揺れるが、巨人はその動きにも動じず、穏やかに言った。


「おい、大丈夫だ。そんなに怖がるな。」


彼はイノシシを肩からゆっくりと地面に下ろし、少女を慎重に肩から降ろす。その仕草は、彼の体格に似つかわしくないほど優しいものだった。


少女は無邪気な笑みを浮かべているように見えたが、目は焦点を結んでいなかった。彼女は手を空中で軽く動かしながら、周囲の気配を探るような仕草をしていた。


「ねぇ、踏んじゃった?どこか痛いの?」


彼女の言葉に応じる余裕もなく、カンミは再び瞼を閉じた。巨人はその姿をじっと見下ろし、しゃがみ込むと、カンミの額にそっと手を当てた。彼の手は大きく、暖かかった。


「……まだ生きてる。」


その言葉に、少女はほっとしたように息をつき、鼻歌を歌い始めた。


――フンフフンフフーン――


その旋律は、奇妙に場違いな明るさを持っていたが、カンミの胸にじんわりとした安堵を広げた。彼女の耳に響くその歌声は、まるで嵐の後の静けさのように心を包み込んでいった。


彼女が最後に感じたのは、その歌声と巨人の手の温かさだった。荒野の中で、カンミの絶望は、ほんの一瞬だけ柔らかく和らげられたように思えた。



夕焼けに染まる平原に、低く響く足音が連続して地面を揺らしていた。村の見張り台に立つ青年は、遠くの地平線を眺めながら、額に冷や汗を滲ませる。その目に映ったのは、巨大な影。沈みゆく太陽に照らされ、その輪郭が不気味に浮かび上がっていた。


「ぎゃーっ! 敵襲だーーっ!」


彼の叫びは瞬時に村中に広がり、家々の中で静かに息を潜めていた村人たちが、恐怖に突き動かされて飛び出してきた。大地を震わせる足音は次第に近づき、村全体を包むように響いていた。その音はまるで、地獄の底からやって来た巨獣の咆哮そのものだった。



村人たちの間にパニックが広がり、子供たちは泣き叫び、大人たちも右往左往するばかりだった。村長のサトウは、杖を握る手を震わせながらも、必死に声を張り上げる。


「わしが村を守る! みんな、急いで逃げろ! 早う!」


その震える声に、村人たちは動揺しつつも、なんとか互いを支えながら安全な場所を探し始める。しかし、村長自身の目は、遠くで揺れる巨大な影に釘付けだった。その影が、ついに村の入り口へと現れる。


サトウの目に飛び込んできたのは、巨大なイノシシだった。その体高は成人男性の倍以上もあり、鋭い牙が赤い夕陽を反射して鈍い光を放っている。その圧倒的な威圧感に、サトウは思わず膝をつきそうになりながら、叫んだ。


「ぎゃーーっ! でけぇぇぇ!!」


だが、次の瞬間、サトウの目に不思議な光景が映る。イノシシは自ら動いているわけではなく、地面を引きずられていた。そして、それを担いでいるのは一人の巨漢――どこか無骨で力強い雰囲気を漂わせる男だった。



その男は片手で巨大なイノシシを軽々と引きずり、もう片方の腕には気を失った少女を抱えていた。その肩には、小さな少女が乗っており、周囲の騒ぎを気にする様子もなく、鼻歌を口ずさんでいた。


――フンフフンフフーン――


その軽快な旋律は、まるで村の混乱を嘲笑うかのように響き渡る。村人たちはその奇妙な一行を呆然と見つめるしかなかった。


村長のサトウは震えながらも声を絞り出した。


「あ、あんたは……いったい何者なんじゃ? その……脇に抱えとるのは、カンミじゃろう? で、その肩の上の子は?」


巨漢の男は面倒くさそうに眉をひそめながら答えた。


「旅の途中だ。このカンミは途中で拾った。肩の上にいるのは、俺の娘だ。」


その淡々とした返答に、村人たちは再び驚きの声を上げた。娘だと名乗った少女――リリィは、無邪気に鼻歌を歌いながら首をかしげる。


「ねぇ、ダリル、この人たち、怖がってる?」


ダリルと呼ばれた男は小さくため息をつき、静かにイノシシを地面に下ろした。その動きは慎重で、大地が再びわずかに揺れる。


サトウはイノシシに目を向け、驚愕と興奮を混ぜた声を上げた。


「そ、そのイノシシはどうしたんじゃ……? まさか、お前がこれを……」


ダリルは肩車しているリリィを見上げ、淡々と答えた。


「リリィが腹減ったと言うから捕っただけだ。」


その言葉を聞いた村人たちは、一瞬口を開けたまま呆然とし、次の瞬間、一斉に笑い出した。その無茶苦茶な理由と、目の前の非現実的な光景が、彼らの恐怖を吹き飛ばしたのだ。


リリィは手を伸ばしながら明るい声で叫んだ。


「ごはん! ごはん! みんなでごはん~!」


その無邪気な声に、村人たちの間に笑顔が広がり始める。村長のサトウは、ついに手を振り上げ、大声で叫んだ。


「ま、ま、ま、祭りじゃ~~~!!」



夜が更ける頃、村の広場では大きな焚き火が焚かれ、巨大なイノシシの肉が焼かれ始めた。その香ばしい香りが漂い、村全体を包み込む。子供たちは笑顔で走り回り、老人たちは若者に焚き火の燃え木を指示している。


リリィはダリルの膝の上に座り、焼きたての肉を頬張っていた。頬を膨らませ、嬉しそうに笑う彼女の顔に、ダリルは小さく微笑みながら次の肉を差し出す。


「おいしい! もっとちょうだい!」


その声に応じて、周囲の村人たちも歓声を上げた。


「こりゃすげぇ! この村でこんな祭りができるなんて思わなかった!」「ダリルさん、あんたすごいな!」


広場に響き渡る笑い声と歌声、そして漂う肉の香り。久しぶりに取り戻された平和の中、村人たちは心から笑い、踊り、歌った。


その夜、村は久しぶりに心温まる平和と幸福に包まれた。そして、ダリルとリリィの存在が、村人たちに新たな希望をもたらしたのだった。



焚き火の炎が、夜空に赤々と揺らめいていた。星が薄雲の隙間から顔を覗かせ、村広場を包む温かな光と混ざり合う。広場には、長い間失われていた賑わいが戻ってきていた。イノシシの肉が大きな串に刺され、炭火の上でじっくりと焼かれている。その香ばしい香りが夜風に乗り、村中を覆っていた。


村人たちの表情は、久しぶりの祝祭に染まった喜びと安堵に満ちている。子供たちは焚き火の周りを駆け回り、大人たちは焼き上がった肉を頬張りながら杯を重ねていた。笑い声と歓声が入り混じり、この夜の空気をさらに明るくしていた。



広場の端、粗末なテーブルに座ったカンミは、小さなパンの欠片を指先でつまみながら、隣に座るリリィに目を輝かせて話しかけた。


「リリィちゃんのお父さん、本当にすごいね! あんな大きなイノシシを倒すなんて、まるで英雄みたいだよ!」


その言葉に、リリィは口元をほころばせ、大きくうなずいた。焚き火の赤い光が彼女の頬を照らし、輝くような笑顔を際立たせている。


「でしょでしょ! ダリルはなんでもできるの。強いし、優しいし、かっこいいんだよ!」


リリィの声は無邪気で、その自慢げな口調にカンミもつられて笑った。彼女はパンをひとかけら口に運びながら、少しだけいたずらっぽい声で話を続けた。


「ねえ、リリィちゃん。もうすぐこの村で収穫祭があるんだよ。その時に出る『スイートパン』っていうのが、本当に最高なの! 一口食べたら、天国に行けちゃうくらい甘いの!」



その言葉を聞いた瞬間、リリィの耳がピクリと動いた。興奮したように前のめりになり、カンミの声のする方をじっと見つめる。


「スイートパン!? それ、どんな味なの!? どれくらい甘いの!? 早く教えて!」


リリィの顔は焚き火の光を反射してきらきらと輝き、その好奇心の強さにカンミは思わず吹き出した。


「うーん、砂糖とバターがたっぷり入ってて、ふわっふわで、口に入れると溶けちゃうの! しかもほんのり温かいんだから!」


その説明を聞くたび、リリィの目はますます大きくなり、ついにはぽたんとよだれが一筋垂れた。


「な……なんだと!? そんなものがこの世に存在するなんてずるいよー! 私も食べたい! 今すぐ食べたい!!」


リリィは椅子に座ったままテーブルに突っ伏し、手足をばたつかせて駄々をこね始めた。その姿はまるで幼い子供そのもので、カンミは椅子から転げ落ちそうになりながら必死に笑いを堪えた。


「リリィちゃん、落ち着いて! 収穫祭までまだ少しあるんだから!」



しかし、リリィはカンミの言葉を聞かず、顔をくしゃくしゃにして泣き出しながら歌い始めた。


♪スイートパン~た~べたいな~

ふわふわ甘い~夢のパン~♪

♪スイートパン~た~べたいよ~

おなかがぐ~ぐ~泣いてるよ~♪


その声は、泣き声混じりながらもどこか優しく、広場中に響き渡った。村人たちはリリィの歌声に耳を傾け、次第にその歌を真似する子供たちの声が重なっていく。


「スイートパーン! たーべたーい!」

「ぐーぐー泣いてるよ~♪」


村全体がリリィの歌声で賑やかに包まれ、笑い声が止まらない。



少し離れた焚き火のそばに座るダリルは、焼き上がった肉を片手に、その騒ぎを静かに見守っていた。リリィの泣き叫びながらの歌声に、彼は呆れたように頭を振りながらも、口元には微笑みが浮かんでいた。


「ったく、ほんとどうしようもないな……」


そのつぶやきは誰にも聞こえなかったが、彼の目はどこか温かく、無邪気なリリィの姿を愛おしそうに見つめていた。



リリィの歌声が広場に響く中、村人たちは笑い合いながら肉を焼き、パンを分け合っていた。子供たちは歌いながら踊り、大人たちは酒を酌み交わし、老若男女すべての顔に笑顔が浮かんでいた。


夜空には満天の星が輝き、焚き火の煙がゆらゆらと空へと昇っていく。その光景は、かつてのアマスギ村が誇っていた豊かさと平和が一時的にでも戻ったように思えた。


収穫祭当日


収穫祭の当日、リリィをカンミに預けたダリルは、イノシシ狩りに出かけていた。村人たちは祭りの準備に忙しく動き回っていた。


村長のサトウは、村人たちを集めて言った。


サトウ

「今年は全く収穫がなく、この村はもうダメかもしれん。これが最後の祭りとなるかもしれんが、ダリルさんとリリィちゃんには楽しんでもらいたい。ダリルさんが大量にイノシシを駆除してくださったので、今年はこの肉で祭りじゃ〜!」


サトウの言葉に村人たちは、悲しみの中にあっても少し希望を感じ、祭りの準備を進めていった。リリィの歌声が響く中、村は活気を取り戻し、期待に満ちた雰囲気で包まれていた。



アマスギ村の祭りの真っ只中、カンミとその妹たちがリリィのもとへ駆け寄ってきた。カンミの手には、小さくて可愛らしいパンが握られていた。


カンミ

「リリィちゃん、これ、食べて。」


リリィはカンミの手の動きを感じ取り、差し出されたものを受け取った。目が見えないため、何かを理解するには時間がかかったが、期待が胸を膨らませた。


リリィ

「なーにこれ?」


カンミ

「スイートパンだよ。」


その言葉を聞いた瞬間、リリィの心が弾んだ。彼女がずっと憧れていた、村自慢の「スイートパン」。しかし、手に触れたパンが小さなものであることを感じ、少し戸惑った。


リリィ

「でも……これ、みんなの大事なパンじゃないの?私が食べていいの?」


パンを持つリリィの手は微かに震えていた。彼女はその小さなパンの重さを感じていた。それが、村中の人々が何とか工面して作り上げた、貴重なパンであることを知っていたからだ。


カンミ

「大丈夫だよ、リリィちゃんが食べて。私たちは、いつもこれを食べているんだから!」

カンミの妹

「リリィちゃんに食べてほしいの」


カンミの声は明るく響いたが、リリィは何か違和感を覚えた。パンを差し出すカンミの手は、痩せてガリガリで、まるで力がないことに気づいた。リリィは目が見えないが、その触感から彼女がどれだけ疲れているか、弱っているかを理解した。そして、彼女の妹たちの声も、元気がないことに気づく。


リリィ(心の声)

「みんな、私のために……無理して、この大事なパンを作ってくれたんだ……。」


リリィの心には温かさと、申し訳なさが交差した。目には見えないけれど、彼女はそのパンに込められた村人たちの気持ちを強く感じていた。


リリィはそっと、パンを口に運んだ。柔らかいパンの感触が口の中に広がり、ほんのりとした甘みが舌に伝わる。しかし、同時にリリィの目からは涙が溢れ出し、そのパンに染み込んでいく。甘いはずのスイートパンが、塩味を帯びて、まるで塩パンのような味わいに変わってしまった。


カンミ

「どう?美味しい?」


リリィは涙を流しながら、声を震わせて答えた。


リリィ

「うん……おいしい……すっごく、おいしいよぉ……。」


リリィの言葉には、心からの感謝と村人たちの優しさへの感動が詰まっていた。彼女の涙は止まらず、それでも笑顔を浮かべて「おいしい」と伝えた。カンミや妹たちは、その答えに安心したように笑みを浮かべた。



祭りの最後、リリィは村の人々の前で、スイートパンの歌を歌い始めた。彼女の歌声は、ただ「食べたい」という欲望を超え、村人たちの優しさや温もり、そして感謝の気持ちを込めたものへと変わっていた。歌うたびに、リリィの心には村の人々の温かさを思い、目は見えなくても、その一人一人の存在を感じ取っていた。


リリィの歌声が響き渡る中、ダリルはその様子を静かに見つめていた。彼には、リリィの歌声が光となり、まるで空に打ち上がる花火のように眩しく輝き、村中を包んでいるのが見えていた。その光は、夜空に広がり、まるで祝福の花火のように美しく散っていった。



翌朝、ダリルとリリィは村を去ることになった。村人たちは二人を見送りに集まり、カンミもその中にいた。別れの時が近づき、カンミはリリィに言葉をかけた。


カンミ

「リリィちゃん、またね。それまで元気でね!」


リリィはその声に微笑みながら、元気に答えた。


リリィ

「うん!目が見えるようになったら、スイートパンを食べにまた来るね!」


ダリルが軽く手を振りながら、リリィを肩に乗せて歩き出す。


ダリル

「んじゃ、行くか。」


リリィはダリルの肩の上で、明るい鼻歌を歌いながら村を後にした。


ダリルたちが去った後、カンミは心にぽっかりと穴が開いたような気持ちで、いつものように畑へ向かった。


カンミ(心の声)

「リリィちゃん可愛かったなぁ〜、はぁ……なんだか寂しいなぁ……。どうせ畑に行っても、作物は育ってないし……。」


そう呟きながら、畑へと向かったカンミは、そこで驚くべき光景を目にした。目の前には、麦が見事に生い茂り、今まで見たこともないほど大きく成長したサトウキビが立ち並んでいたのだ。


カンミ

「ぎゃーー!!」


驚きのあまり、カンミはその場で気を失ってしまった。


リリィの歌声がもたらした奇跡。その光が村を照らし、村人たちに新たな希望を与えていた。リリィの目は見えなくても、彼女の心が感じ取った村の人々の優しさが、その歌声と共に村全体を包み、奇跡をもたらしたのだった。



村長のサトウは、カンミの叫び声を聞いて慌てて畑へと駆けつけた。カンミが何か興奮している様子で、彼女の姿を見つけると、その口から飛び出した言葉に驚きを隠せなかった。


カンミ

「村長ー!すごいことになってる!麦が、すごい、すごいよー!」


サトウは息を切らしながら、彼女の言葉に戸惑いを見せつつ、畑を見た瞬間、目を大きく見開いた。


サトウ

「な、なんじゃこりゃ!……こ、こんな大きな麦畑、いつの間に……!」


目の前には、金色の麦の海が広がっていた。小さな村の畑が、まるで倍以上に広がったかのように、どこまでも続いていたのだ。サトウはその光景に圧倒され、興奮を隠せなかった。


サトウ

「大収穫じゃー!!これでこの村は救われる!みんな、村を挙げての収穫だー!」


村中の人々がすぐさま呼び集められ、総出で収穫が始まった。村人たちは驚きながらも歓喜の声を上げ、協力して麦を刈り取っていった。しかし、どれだけ収穫しても、次から次へと麦が現れ、終わりが見えない。


カンミ

「……え、え?うちの畑、こんなに広かったっけ……?」


畑が果てしなく広がり続けるその光景に、カンミは次第に現実感を失い、目の前がぐらりと揺れた。彼女は、驚きと興奮のあまりその場にふらふらと倒れ込んでしまった。



村中はカンミの驚きと同じく、この奇跡の光景に戸惑いながらも、リリィの歌によってもたらされた豊かな収穫に心から感謝していた。村は一夜にして恵みの土地となり、サトウや村人たちはこの奇跡の収穫に大いに驚きつつ、未来への希望を胸に抱いていた。


リリィの見えない目から広がる歌声が、村に奇跡をもたらした。彼女の無邪気な声が村人たちの心に響き、その優しさが村全体を包み込んでいた。麦の香りが立ち込め、笑い声が響き渡る中で、村人たちは互いに助け合い、喜びを分かち合っていた。


この日、アマスギ村は新たな希望と共に、豊かさに包まれていった。人々の心にはリリィの歌声が刻まれ、彼女の優しさと村人たちの絆が強く結ばれていくこととなる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ