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ダリルの話

孤児ダリルの生存記録


俺の名はダリル。人間と魔族の混血――それが俺の唯一の「特徴」だと言えるのならだが。生まれた時から、この世界は俺に何もくれなかった。いや、むしろ奪うばかりだった。俺には両親の記憶もなければ、故郷の温もりも知らない。ただ、物心ついた頃から、俺は一人で生きていた。


戦争はすべてを燃やし尽くし、灰色の世界を残した。冬が来るたびに、冷たい風が街を抜けていく。その風はいつも俺の体に容赦なく吹き付け、骨の芯まで凍らせる。周りの孤児たちもみな似たような状況だった。誰もが同じように寒さに震え、飢えに苦しみながら、何とか生き延びようと必死だった。だが、毎年冬が来るたびに、一人、また一人といなくなっていく。


彼らは何も言わず、消えていった。朝、目を覚ませば、隣にいたはずの友人の体が冷たくなっている。それが何度繰り返されたか、もう覚えていない。俺が次にいなくなる番かもしれないと、いつも思っていた。



俺の体には魔族の血が流れている。それは「恩恵」などではなかった。確かに人間より少しだけ頑丈だったかもしれない。骨は折れにくく、傷も少し早く治る。だが、それがどうしたというのだ。冬の冷たさには勝てない。食べ物がなければ腹は減り、体は痩せ細り、飢えと寒さが一緒に襲ってくる。


俺は町の裏路地でゴミ箱を漁る。腐りかけた野菜や、かじりかけで捨てられた硬いパンのかけら――そんなものを見つければ、今日一日を生き延びる希望がわずかに湧いてくる。しかし、ほとんどの場合、ゴミ箱は空っぽだった。俺のような奴が他にも大勢いて、わずかな残飯を奪い合っていたからだ。


手足はひび割れ、冷えた血が滲んでいる。裸足で歩けば、地面の冷たさが足裏を刺すように痛む。だが、そんな痛みさえも、俺がまだ生きている証だった。


街角では人間たちが俺を見るたびに目を背けた。魔族の血を引く俺を、彼らは忌み嫌っていた。助けを求める目を向けても、誰も応えてくれない。それどころか、俺を見た瞬間に顔を歪め、足早に通り過ぎていく。


「汚い混血め……」


そんな呟きが聞こえることもあった。それでも、俺は声を上げず、ただ顔を伏せて通り過ぎるのを待つしかなかった。何を言われても、何をされても、俺には反抗する力などなかった。



冬の夜、俺は瓦礫の影にうずくまっていた。冷たい風が吹き抜けるたびに、薄い服の隙間から容赦なく体温を奪っていく。空気は乾燥していて、鼻の奥が痛む。遠くで聞こえる犬の遠吠えが、静寂の中で反響する。


俺の体は痩せ細り、まるで骨と皮だけのようになっていた。空腹のせいで、胃がきしむ音が耳に響く。それでも、体を丸めて目を閉じれば、少しだけ寒さを和らげることができた。


だが、その瞬間、俺の頭に浮かぶのは、消えていった孤児たちの顔だ。彼らの最後の姿を、俺は忘れることができなかった。凍った瞳、動かなくなった体――それが次に俺の番だということを、嫌でも思い出させる。


「……俺も、もうすぐ……か。」


そう呟いてみても、何の感情も湧かなかった。死が怖いという気持ちさえ、俺の中から消え去っていた。ただ、この寒さと飢えから解放されるなら、それも悪くないと思った。


だが、どこかで――本当に深いところで、俺はまだ生きたいと願っていた。命にしがみつく理由がないのに、それでも消えたくはなかった。



朝が来るたびに、俺は自分がまだ生きていることに驚いていた。瓦礫の影から這い出し、薄明かりの中で自分の手を見つめる。指は冷え切り、震えていたが、動くことができた。それだけで、今日もまた生き延びるチャンスがあると思えた。


俺がこの世界にいることを、誰も気にしない。俺が消えたところで、世界は何一つ変わらない。それでも、俺はこの灰色の世界で、もう少しだけ足掻いてみるつもりだった。


「……次の冬まで、俺は生き延びられるのか。」


空を見上げると、雲が低く垂れ込めていた。重たく、冷たく、まるで俺の運命そのもののような空だった。それでも、俺は歩き出す。骨がきしむ音を聞きながら、一歩、また一歩と。


今日を生き延びるために。



冷たい冬の空気が街を覆い尽くしていた。瓦礫の間に隠れるように座り込んでいた俺の前を、人々が通り過ぎていく。彼らの足音が雪を踏みしめる音に混じり、俺には耳障りでしかなかった。俺は膝を抱えながら、もう慣れっこになった寒さに体を縮める。今日もまた、空腹を抱えながら夜を迎えるのだろう。


そんな時、不意に声をかけられた。


「君は一人なのかい?」


その声は低く穏やかで、寒さの中でもなぜか耳に心地よく響いた。俺は顔を上げる。そこに立っていたのは年老いた男性だった。


彼の身なりは整っており、明らかに裕福な人物だった。黒いコートの襟元には白いマフラーが巻かれ、丁寧に磨かれた革靴が雪の上に跡を残していた。銀色の髪が月明かりに照らされ、皺の刻まれた顔には優しさが漂っている。


俺は何も言わず、その男を見つめ返した。こんな俺に声をかけてくる理由が分からなかった。路地裏で膝を抱えるただの孤児。それ以上でも、それ以下でもない俺に、関わる理由などあるはずがない。


男は俺の沈黙を気にする様子もなく、さらに言葉を続けた。


「寒いだろう。こっちに来なさい。」


その声には、不思議な温かさがあった。俺は驚いた。これまでの人生で誰からもそんな言葉をかけられたことなど一度もなかった。彼の言葉にどこか戸惑いを覚えながらも、内心では諦めに似た気持ちが渦巻いていた。


「……行ってみるか。」


どうせこの世から消えるのなら、この男について行くのも悪くないかもしれない。そう思いながら、俺は無言で彼の後をついて行くことにした。



俺の運命がその日、大きく変わるとは、もちろん思っていなかった。


彼の名前はベルトと言った。そして、俺を暖かい屋敷へと招き入れた彼は、ただの年老いた男ではなかった。彼は王都でも名の知れた権力者で、尊敬される人物だったのだ。


最初は信じられなかった。この屋敷が、俺のために用意された場所だということも、彼とその妻ルシールが俺を「養子」として迎え入れたいと言ったことも。


「……俺を? 本当に?」


汚れた服を着たままの俺が、暖炉の前でそう呟いた時、ルシールがにっこりと微笑みながら答えた。


「もちろんよ。これからは、ここがあなたの家よ。」


その笑顔は、俺がこれまで見たどんな光よりも眩しかった。



俺の新しい生活は、これまでの人生とはまるで違っていた。広い家には暖炉があり、部屋には柔らかいベッドが用意されていた。テーブルには温かいスープや焼きたてのパンが並び、飢えに苦しむことはもうなかった。


だが、それ以上に衝撃だったのは、ベルトとルシールが俺に注いでくれた愛情だった。


彼らは俺を本当の息子のように扱ってくれた。俺がどんなに不器用で、過去にどんな生活をしていようと関係なく、彼らは俺を受け入れてくれた。


「ダリル、これからは君の人生を新しく作っていくんだよ。私たちは君のそばにいる。」


ベルトがそう語りかけた時、俺は何も言えず、ただ頷くだけだった。俺は彼の言葉の意味を完全には理解できなかったが、それでも、初めて自分が「家族」と呼べる存在を手に入れたのだと感じた。



ある夜、俺は冷たい星空を見上げていた。広い庭に立ち尽くしながら、凍えるような空気の中で、ただ空を眺める。


暗い夜空に広がる星々。その光は静かで、俺の心をどこか遠くに連れて行くようだった。


かつて俺が生きていた世界――それは飢えと寒さ、孤独しかない場所だった。ゴミを漁り、誰にも見向きもされず、消えることを待つだけの毎日。その世界が、今ではまるで遠い夢のように感じられる。


俺の胸には、一つの思いが湧き上がっていた。


「……俺を救ってくれた。この人たちのために、俺も何かを返さなきゃならない。」


星空を見つめながら、俺は心の中で静かに誓った。


「俺もいつか、誰かを守れる存在になりたい。」


その言葉は、冷たい夜風に乗って消えていったが、俺の胸の中には、確かにその思いが刻まれていた。俺の過去は俺を縛らない。ベルトとルシールに救われた俺の未来は、今、この瞬間から新しく始まったのだ。



夜風が静かに庭を吹き抜け、木々の葉がさらさらと揺れる音が響く。星明かりだけが地面を薄く照らし、空気はひんやりと冷たかった。その庭の片隅で、俺はじっと星空を見上げていた。


暗い空に散りばめられた星々。それを眺めるたび、俺はかつての自分を思い出さずにはいられない。路地裏で凍え、飢え、孤独と絶望だけが友だったあの頃。誰にも愛されず、必要ともされず、ただ生きているだけの存在だった俺。


「俺は救われた……」


小さな声で呟くと、自分の息が冷たい空気に混ざり、白く漂って消えた。胸の奥で強く熱い何かが込み上げる。それは感謝の念だった。


この手を握り、暖かい家へ迎え入れてくれたベルトとルシール。その優しさが、どれほど俺を救ったか。思い出すたびに胸が締め付けられるような思いがする。彼らがいなければ、俺はとうに凍え死んでいただろう。俺のような孤児に、彼らは惜しみない愛情を注いでくれた。その愛に応えることが、今の俺にとってのすべてだ。


「……俺は何かを返さなくちゃいけない。」


声に出すことで、その思いはさらに強く心に刻まれる。俺は両手を拳に握り、冷たい風を受けながら静かに誓った。


「2人を楽にさせてやるんだ……俺の手で。」



それからの日々、俺は自分を限界まで追い込んだ。


早朝、庭での鍛錬は寒さに耐えることから始まる。裸足で土の上を駆け、剣術の基本を一つひとつ学び直す。手のひらにできた豆はやがて潰れ、血が滲んだ。だが、その痛みさえ、俺を強くするための代償だと思えた。


書斎では、ベルトが用意してくれた書物に没頭した。文字が読めなかった俺は最初、ルシールに手を引かれながら学び始めた。彼女の穏やかな声が、未知の世界を俺に教えてくれる。その時間がどれほどありがたかったか。


「ダリル、分からないところがあったら聞いてね。」


ルシールの優しい声が、耳に残っている。彼女の言葉に応えたい一心で、俺は何度も文字を書き、読み、計算を覚えた。夜遅くまで灯る明かりの下、目をこすりながらページをめくる音だけが響く。その音が、俺が前に進んでいる証だった。



だが、それは簡単な道ではなかった。


時折、自分の過去が重くのしかかる。俺が彼らにふさわしい存在になれるのか、自信を失う瞬間もあった。夜中、目が覚めた時、暗闇の中に昔の路地裏の記憶が浮かぶ。空腹と寒さで朦朧としながら、消えていった孤児たちの顔を思い出す。


「……俺は本当にここにいていいのか?」


そんな迷いが頭をよぎるたび、俺は自分に問いかける。だが、その答えはいつも同じだった。


「俺を選んでくれたのは、あの人たちだ。」


ベルトとルシール――彼らが俺を家族として受け入れてくれた。それだけで十分だ。俺は彼らに恩を返すために、これからも進むだけだ。



ある日、ベルトが俺に言った。


「ダリル、君はもう私たちにとって息子なんだよ。」


その言葉が、どれほど俺の胸に深く響いたか。俺はその瞬間を忘れることができない。


「……ありがとう。」


それだけを伝えるのが精一杯だった。だが、その言葉には俺のすべての感謝が込められていた。



夜、再び星空を見上げる。暗い空に浮かぶ星たちは小さく、冷たい光を放っている。それでも、俺にとってその光は、これからの希望のように見えた。


「俺は強くなる。」


その言葉は、夜空に誓ったものだった。過去の俺を否定し、この家で生きる俺を肯定するために。


「2人のために……俺は絶対に強くなる。」


冷たい夜風が頬をかすめ、木々の間を通り抜けていく。俺はその風を全身で受けながら、静かに拳を握り締めた。ベルト夫妻がくれたこの人生を、俺は決して無駄にはしない。この家族の一員として、生きる意味を証明するために、俺はこれからも前に進むのだ。


星空の下、俺の決意は揺るぎないものとなった。



朝はいつも早かった。東の空が薄く白み始める頃、ダリルはすでに起きていた。窓を開けると、ひんやりとした冷たい空気が部屋に流れ込み、まだ眠る街並みの匂いが漂ってくる。彼は目をこすりながら立ち上がり、最初の鍛錬に取り掛かるのが日課だった。


庭に出ると、まだ露が残る芝生が足裏を冷たく刺激する。木剣を握り、軽く息を吸い込む。新鮮な空気が肺を満たし、体の隅々まで血が巡るのを感じた。


「よし、始めるか。」


声に出して言うことで、眠気を吹き飛ばす。素振りを繰り返し、額に汗が滲む頃には、空は徐々に明るくなり始めていた。木剣が空を切る音、風を切る感覚――それらが、彼を新しい一日へと集中させる儀式のようだった。


鍛錬が終われば、今度は書斎へ向かう。

ダリルの机の上には、分厚い本が何冊も積み重なっている。数学、歴史、魔法理論――どれも彼にとって難解だったが、ベルトが与えてくれた学びの機会を無駄にするつもりはなかった。ペンを握り、紙の上に何度も計算を書き、答えを導き出す。


ペンの走る音、紙が擦れる音、時折聞こえる鳥の囀り。それらが静寂の中で心地よく響く。彼の眉間には汗をかいた時以上に深い皺が刻まれ、その目は真剣そのものだった。


「……よし、できた。」


一つ問題を解き終えるたび、ダリルは小さく自分を褒めた。そしてまた次の課題へと進む。



その努力が結実したのは、王都の王立学園への首席合格という形だった。


発表の日、ダリルは広場の掲示板に貼られた結果を見た。自分の名前が一番上に載っているのを確認した瞬間、胸に広がったのは達成感よりも、ベルトとルシールの顔が浮かんだことだった。


「……これで、少しは恩返しができたかな。」


そう呟きながら、彼はそっと拳を握りしめた。


帰宅後、彼が結果を報告すると、ベルトとルシールは目を見開き、次の瞬間には顔をほころばせてダリルを抱きしめた。


「ダリル、すごいわ! あなた、本当に頑張ったのね!」


ルシールの声は弾んでいた。その喜びに満ちた顔を見て、ダリルの胸には温かいものが広がった。


「父さん、母さん、ありがとう。俺、2人のおかげです。」


そう言った瞬間、ベルトが大きな手でダリルの頭を撫でた。その感触は、いつもと変わらない優しさに満ちていた。


「ダリル、本当におめでとう。自慢の息子だよ。」


「……俺も、愛してます。父さん、母さん。」


その言葉を、ダリルは照れることなく口にした。それは彼にとって、自然な感謝の表現だった。



その夜、ダリルは星空を見上げながら、かつての自分を思い返していた。路地裏で凍え、飢え、生きることに意味を見出せなかった日々。それが今ではどうだろう。この温かい家に住み、愛する家族がいる。この生活を与えてくれたのは、ベルトとルシールの無償の愛だった。


「俺は、絶対に2人に恩を返す。」


ダリルは心の中で再び誓った。


彼が努力する理由は、自分のためではなかった。ベルトとルシールが誇れる息子であり続けること。それが彼の原動力だった。



ダリルの家は、他とは違っていた。

その家には、愛情と尊重が満ちていた。ベルトとルシールは、ダリルが努力し、成功することを誇りに思っていたが、それ以上に彼の思いやりや優しさを大切にしていた。


「ダリル、あなたが周りの人を大切にしてくれること、それが何よりも嬉しいわ。」


ルシールは微笑みながらそう言った。その言葉に、ダリルは静かに頷いた。


「母さんがそう教えてくれたからです。」


家族としての絆は、ダリルを強くし、彼にさらなる知恵と力を与えていく。それは裕福さや地位とは無関係だった。そこにあるのは、ただ純粋な愛だった。


彼の家族の愛が、これからもダリルの人生を支え続けることだろう。



王立学園の広大な校庭は、朝の光を受けて輝いていた。青々と茂る木々の間を抜ける風は心地よく、芝生の上には朝露が煌めいている。学園の白亜の建物は荘厳な佇まいで、そこに集う生徒たちの活気が、学び舎全体に生命を吹き込んでいた。


その中を歩く一人の青年――ダリルの存在は、自然と周囲の視線を集めていた。

鋭い顔立ち、引き締まった体躯、そして魔族の血を引く者特有の瞳の輝き。その一歩一歩に力強さと落ち着きがあり、彼の背筋の伸びた姿勢からは、揺るぎない自信と誠実さが感じられた。


「あれがダリルだ。」


「首席で入学したあのダリルが2年生棟にいるって本当?」


廊下を歩けば、生徒たちのひそひそ話が自然と耳に入る。しかし、ダリル自身はその言葉に何の興味も示さず、視線をまっすぐ前に向けたまま歩みを進める。その無関心さが、さらに彼を謎めいた存在として周囲に印象付けていた。


彼は自分に向けられる尊敬や憧れの視線を意識することなく、ただ一つの目的のために動いていた。それは、ベルトとルシールに恥じない自分であり続けること。



教室に入ると、すでに席についている生徒たちの視線が一斉にダリルに集まる。彼はそれを感じ取りながらも気にする素振りを見せず、自分の席に静かに腰を下ろした。


机の上には分厚い教科書とノート。彼はその一ページを開き、ペンを握る。窓の外から聞こえる鳥の囀り、教室に差し込む陽光――その中で、ダリルは集中し、文字を綴っていく。ペン先が紙を擦る音が静寂を切り裂くたび、彼の周囲には自然と緊張感が生まれる。


クラスメートたちもまた、彼の努力に触発されてか、次第に雑談を止めて筆を動かし始めた。ダリルの存在が、周囲を変える力を持っていることを、彼自身は気づいていなかった。



授業が終わると、ダリルは訓練場へ向かった。

広い訓練場は、校庭の一角に位置し、剣術や格闘技の訓練に使われる場だった。ダリルが到着するやいなや、周囲の生徒たちが訓練を中断し、彼に視線を向けた。


「ダリルが来たぞ。」


「どれだけの腕を持っているか見てみたい……」


その囁きが耳に届くが、ダリルはそれを無視して剣を手に取った。

木剣の質感が手の中に馴染むのを確認し、彼は深呼吸をした。空気が肺を満たし、全身に力が漲るのを感じる。


「ふっ……」


軽く息を吐きながら、ダリルは剣を振った。その一振りは鋭く、訓練場に風を切る音が響く。それだけで周囲の生徒たちは息を呑み、彼の動きに見入った。


ダリルは周囲の反応など意に介さず、黙々と稽古を続ける。剣を振るたびに、彼の額には汗が滲み、全身が鍛え抜かれた肉体をさらに研ぎ澄ますように動いていた。


彼にとって、鍛錬も学びも、すべては自分を支えてくれた家族――ベルトとルシールのためだった。


「彼らの期待に応える。それが、俺の使命だ。」


その思いが、ダリルを限界以上の努力へと駆り立てる原動力となっていた。



ある日、学園の教師がダリルにこう言った。


「ダリル、君は本当に素晴らしい生徒だ。他の誰もが君を見習うべきだと思っているよ。」


その言葉を聞いた時、ダリルは少しだけ微笑んで答えた。


「ありがとうございます。でも、俺はまだまだです。」


その謙虚な返答に教師は驚き、さらに深い敬意を抱いた。ダリルは自分の成功を誇ることはなく、ただ次の努力へと目を向けていた。



夜、自室の窓辺に座り、ダリルは静かに星空を見上げた。広がる夜空の冷たい輝きは、幼い頃に感じた孤独を思い起こさせた。しかし今、その孤独はもう彼の中にはなかった。


心にあるのは、家族の温かい笑顔だけだった。ベルトとルシールが自分に向けてくれる愛情、それに応えたいという決意。それが彼を動かしていた。


「俺は、この愛情に報いるために生きる。」


彼は小さく呟き、星空の下でそっと拳を握りしめた。その目は、未来を見据えた強い光を宿していた。


ダリルの歩む道は、決して平坦ではないだろう。それでも彼は、家族の愛に支えられ、成長し続ける。

その存在は、学園の誰にとっても憧れであり、目標であり、そして彼自身にとっては家族のために捧げる人生そのものだった。


自信家ミケル、挫折と出会い


王立学園の1年生棟は、朝から活気に溢れていた。整然とした制服をまとった生徒たちが談笑しながら廊下を歩き、教室には新しい友人同士の笑い声が響いていた。その中で一際目立つ存在だったのが、天使族の血を誇るミケルだった。


ミケルの整った顔立ちは、どこにいても人目を引く。金色の髪が陽光を浴びて輝き、その笑みは自信に満ち溢れていた。


「俺はモテる、なぜなら顔がいいから。俺はモテる、なぜなら天使の血が混ざっているから。」


鏡を見ながら口元を整え、周囲の視線を一身に集めるつもりで歩き出す。ミケルはこれまでの人生で、他人からの称賛を当然のように受けてきた。それが学園でも同じだと信じて疑わなかった。


だが、学園生活は彼の思い描いたものとは大きく異なっていた。


廊下を歩いても女子生徒たちは彼に見向きもせず、むしろ別の話題で盛り上がっていた。耳を澄ませば、聞こえてくるのは決まって同じ名前。


「ダリルって本当にすごいよね!」

「うん、優しいし頭もいいし、何でもできちゃう。」


その名前を初めて耳にした時、ミケルは困惑した。誰だ、それは?自分より目立つ存在などいるはずがない――そう思っていた。だが、その「ダリル」という人物が誰なのかを知った瞬間、ミケルの胸には嫉妬が芽生えた。


「……なんでだよ!俺の方が天使の血も入ってるし、イケメンじゃないか!あのダリルとかいう奴に負けるわけがない!」



ミケルは自分のプライドを取り戻すべく、ダリルという2年生を直接見定めることにした。自信満々で2年生棟へ向かう。だが、そこに到着した彼を待ち受けていたのは、想像以上の存在感だった。


廊下の先、ひときわ目立つ巨体の男がいた。


広い肩幅、彫りの深い顔立ち、鍛え抜かれた体――ミケルは思わず息を呑んだ。ダリルはただそこに立っているだけで周囲の空気を支配していた。その落ち着いた瞳には、どこか温かさと威厳が宿っている。


「……で、でけぇ……」


ミケルは足元がふらつくのを感じた。彼の中に芽生えたのは、自信ではなく圧倒的な威圧感への恐怖だった。


「顔も怖えぇ……!」


心の中で叫びながらも、足はすくんで動けなかった。その時、ダリルがふとこちらに目を向けた。


「っ!」


目が合った瞬間、ミケルは体が固まった。頭の中で「やられる!」という警鐘が鳴り響き、逃げ出したい一心で必死に足を動かそうとしたが、全身が震えて動かない。


「こ、こっち来た!やべぇ、漏らしそう!」


ダリルが彼の方へと歩み寄る。まるで巨人が近づいてくるような感覚に、ミケルは冷や汗が頬を伝うのを感じた。


だが、そのダリルの口から出てきた言葉は、彼の予想を裏切るものだった。


「君、大丈夫か?顔色が悪いぞ。」


低く優しい声だった。その瞬間、ミケルはさらに驚いた。彼の中で「強面の恐怖の巨人」というイメージが崩れ去り、困惑と恐怖の間で揺れ動いた。


「ひゃい!」


思わず漏れた情けない声が自分の口から出たのを感じたが、止めることができなかった。


ダリルは首をかしげながら、もう一度確認するように言った。


「君、1年生だよな?よし、俺が保健室まで連れて行こう。」


その言葉とともに、ダリルは何の躊躇もなくミケルを抱き上げた。


「……え?」


ミケルは状況が飲み込めないまま、宙に浮かんだ自分を見下ろした。そして、お嬢様抱っこ――という状況に気づいた瞬間、顔が一気に赤く染まった。


「ひゃん!」


ミケルの声が再び漏れる。


ダリルはそれを気にする様子もなく、まっすぐに保健室へと向かって歩き出した。彼の胸板は硬く、温かかった。ミケルは顔を埋めるような形で抱えられながら、恐怖と恥ずかしさで硬直していたが、次第にダリルの優しさと温もりに心が落ち着いていくのを感じた。


(……かっけぇ。この人、すげぇカッコいい……俺、だっせぇ……)


保健室に到着すると、ダリルはミケルをそっとベッドに寝かせ、毛布を掛けた。


「ここで休むといい。困ったことがあったら、いつでも俺に言えよ。」


その優しい言葉に、ミケルは完全に心を奪われていた。彼はもはや、嫉妬心も敵意も忘れ、ただ憧れの眼差しでダリルを見つめた。そして、口を開いた。


「ひゃい、アニキ!」


その言葉に、ダリルは一瞬目を丸くし、次に困惑したように笑った。


「アニキ……?」



その日から、ミケルはダリルに付き従うようになった。どこに行くにも彼のそばを離れず、まるで小さな弟分のようだった。そして、学園中の生徒たちの間で、彼には新しい二つ名が付けられることとなった。


『ダリルの小判鮫』――そう呼ばれる彼は、いつもダリルの後ろをついて歩き、目を輝かせていた。


ミケルの目には、ダリルはもはや目標であり、憧れの存在そのものだった。



昼下がりの王立学園、穏やかな陽光が中庭を照らし、生徒たちの賑やかな声が響いていた。その中に、ダリルの姿があった。彼は騎士訓練の帰りで、額に汗を滲ませながらも、整然とした姿勢で歩いていた。その風格は、一目見ただけでただの生徒ではないことを物語っていた。


その時、突如現れたのは王家の紋章を刻んだ白馬と、それに乗る一人の青年だった。彼の登場に、中庭の喧騒は一瞬にして静まり返った。


「フィン王子だ……!」


誰かが囁き、それが瞬く間に広がる。王都の次期国王と名高い聖騎士団一番隊隊長、フィンが現れたのだ。


フィンは馬を降り、まっすぐにダリルの前へと歩み寄った。陽光を受ける金髪が輝き、その青い瞳には鋭い光が宿っている。


「君がダリル君か。」


その声は静かでありながら、どこか人を引きつける力を持っていた。フィンはダリルの顔をじっと見上げ、満足そうに頷いた。そして、力強く言葉を続けた。


「なるほど、噂通りの男だ。君の知性、力、そして何より、その優しさが私には必要だ。」


フィンの言葉が響いた瞬間、周囲の生徒たちの間にざわめきが広がった。


「王子が……ダリルさんをスカウトしてる……!」

「さすがだわ、ダリルさん!」


生徒たちの興奮した声が次々と上がり、ダリルの名が学園中に響き渡る。だが、ダリル自身は静かにフィンの言葉を受け止めていた。その態度は謙虚であり、誇りに満ちていた。


その時、一人の声が歓声を掻き消した。


「アニキ!さすがっす!俺もどこまでもついていくっす!」


ミケルだった。彼は興奮のあまり、思わず叫び声を上げ、ダリルに向かって手を振っていた。


周囲の生徒たちは笑いを漏らしながら、場が一気に和やかになった。ダリルも苦笑しながらミケルの方を見て頷いた。


「相変わらずだな、ミケル。」


フィンはその様子を見て微笑み、再びダリルに視線を戻した。


「君の未来がこれからどうなるのか、非常に楽しみだ。共に歩む日を待っているよ。」


そう言い残すと、フィンは再び馬に乗り、颯爽と去っていった。



その夜、ダリルは家に戻り、ベルトとルシールにその出来事を報告した。


食卓には暖かな料理が並び、ルシールの焼いたパンからは優しい香りが漂っていた。ランプの灯りが食卓を柔らかく照らす中、ダリルは静かに口を開いた。


「父さん、母さん、俺……聖騎士団に入ることが決まりました。」


その一言に、ルシールは一瞬驚いたようだったが、すぐに笑みを浮かべた。


「……そう。ダリル、あなたならきっと、たくさんの人を守れる騎士になれるわ。」


そう言って、彼女は静かに立ち上がり、ダリルのそばに歩み寄った。彼の頭にそっと手を置き、優しく撫でる。その仕草は、彼が幼い頃から変わらないものだった。


「あなたが誇りよ。」


その言葉に、ダリルの胸は熱くなった。


ベルトもゆっくりと椅子から立ち上がり、ダリルの肩に手を置いた。その目には、誇りと愛情がはっきりと浮かんでいた。


「嬉しいぞ、ダリル。お前がここまで来たことが……本当に嬉しい。」


ベルトの声は少し震えていた。年老いた彼の姿を見た時、ダリルは幼い頃の記憶を思い出した。路地裏で飢えに苦しんでいた自分を拾い上げてくれたその手。それが今は少し弱々しくなっているのを感じ、ダリルは目を伏せた。


「父さん、母さん……俺、やっと……やっとここまで来ました。これからはずっと、楽をさせてあげます。」


その言葉には、ダリルのすべての感謝と決意が込められていた。


ベルトは笑みを浮かべながら、力強く頷いた。


「ダリル、お前は私たちの誇りだ。これからはお前の人生を歩むんだ。それでいい。」


その夜、ダリルは家族の愛を再び胸に刻んだ。ベルトとルシールが自分に与えてくれた無償の愛。それに報いるため、そして彼らを守るため、ダリルはさらに前を向いて進むと決意を固めたのだった。


冷たい夜空に浮かぶ星々を見上げながら、ダリルの胸にはただ一つの思いが輝いていた。


「俺は、これからもっと強くなる。」


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