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逃亡生活

冷徹なるアルテミスの指令


天使族の司令部とされる大聖堂。その堂々たる石造りの建物の中、冷たく乾いた空気が張り詰めていた。窓から差し込む光は鈍く曇り、長い影を床に落としている。その中心で、アルテミスが玉座のような椅子に腰を下ろしていた。


彼女の存在感は圧倒的だった。白銀に輝く髪が肩を滑り落ち、その冷え冷えとした美貌は、見る者を恐れさせると同時に魅了した。鋭い青い瞳は、まるで相手の心の奥底を抉り取るかのようにじっと見つめている。彼女の姿は天使というよりも、冷たい裁きを下す死神そのものだった。


「エリスが……消えた?」


その声は静かだったが、冷たさの中に狂気の刃が隠されていた。その一言だけで、部屋の温度がさらに下がったように感じられる。報告をした部下の天使は震え、冷や汗を滲ませながら一歩後ずさった。


「申し訳ありません……現在、全力で捜索を――」


その言葉を最後まで聞くことなく、アルテミスは細い指を軽く持ち上げた。まるで糸を操るかのような仕草だ。


「黙れ。」


その一言が放たれた瞬間、部下の天使は息を止め、目を見開いたまま動けなくなった。彼の心の中に潜む恐怖が、アルテミスの意のままに引き出されているのだ。その姿はまるで操り人形だった。


「私が命じたのは、『全力で』ではない。『結果を出せ』だ。」


彼女の声は低く、鋭い氷の刃のようだった。指を軽くひねる動作とともに、操られた天使の体が無意識に動き、膝を地面につけた。その目は虚ろで、汗が滴り落ちる。


アルテミスは立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。彼女の足音が石畳の床に響くたび、周囲の天使たちは息を潜めて後ずさった。


「エリスがどこにいるかは重要ではない。重要なのは、彼女の力が『私たちの』ものとして確保されることだ。」


彼女は操られた部下の頬に手を当て、冷たい指先を滑らせるように触れる。その仕草は一見優しげだが、その目は氷よりも冷たく、慈悲の欠片も感じられない。


「もし彼女が村に隠れているなら、村ごと焼き払え。」


その言葉が放たれた瞬間、部屋全体の空気が凍りついた。指を離された部下の天使は地面に崩れ落ち、息を荒げながら恐怖に打ち震えている。


「……村ごと……ですか?」


かすれた声で他の天使が恐る恐る確認を試みた。しかし、その瞬間、アルテミスが振り返り、鋭い視線を向けた。その瞳が彼の心を瞬時に捕らえ、恐怖を深く刻み込む。


「質問を許した覚えはない。」


冷たい一言が部屋全体を覆い尽くした。その言葉に含まれる威圧感と、抗えない絶対的な力。誰一人として彼女に逆らおうとする者はいない。


「エリスが消えたということは、誰かが彼女を匿っているのだろう。そのような裏切り者が存在する土地は、もはや価値がない。」


アルテミスの指が再び宙を滑り、まるで目に見えない糸を巻き取るように動く。その動きに呼応するかのように、部屋の中にいる天使たちは一様に体を硬直させた。


「命令は明確だ。エリスを連れ戻せ。方法は問わない。――全てを焼き尽くせ。」


その声には一切の迷いも感情もなかった。ただ、冷酷な意志と合理性だけがあった。彼女の言葉に従わなければ、次に消されるのは自分たちだという恐怖が部屋全体に漂う。


アルテミスは背を向け、窓の外を見やった。そこには彼女が支配する広大な領土が広がり、薄暗い雲が影を落としている。彼女は静かに呟いた。


「エリス……逃げるなど無駄だ。私の糸から逃れることなどできはしない。」


その声は風に溶け、残酷な宣告のように広がっていった。部下たちは即座に動き出し、命令を実行すべく部屋を後にする。その背中を見送りながら、アルテミスは微かに微笑んだ。


その微笑みは、誰が見ても分かる。慈悲など欠片もない――ただ、人を弄び、自らの支配欲を満たすための冷酷な笑みだった。



冷たい夜の風が森を包み込む。月光は薄雲に覆われ、木々の影が揺れている。クララはその影の中に溶け込むように立っていた。黒いマントが風になびき、彼女の輪郭を曖昧にする。影に属するその存在は、暗闇の中でこそ本領を発揮し、完全に息を潜めていた。


しかし、その心は嵐のように揺れていた。


エリスお嬢様。


クララの心に浮かぶのは、ただ一人の主だった。かつて静かな森で歌うエリスの姿が、何度も頭の中に蘇る。


その歌声は、まるで闇を切り裂く一筋の光だった。私のような闇族にとって、光は痛みをもたらすもの。それでも、エリスお嬢様の声だけは違った。あれは私にとって唯一の希望であり、癒しだった――私が何度でも立ち上がるための力。


「エリスお嬢様……あなたのためなら、私はどんなことでも……」


低く、静かに呟く声が風にかき消される。影の中に潜む彼女の瞳は、鋭い決意に満ちていた。



エリスがアシュトンと共に逃げることを決意した夜、クララはその二人を見守っていた。草木が押し分けられる音、土を踏みしめる音――彼女は音だけで二人の姿を正確に追うことができた。


「お嬢様……」


自分の心臓の鼓動が強く響く。エリスが本当に逃げ延びることができるのか、クララはその一点だけを考えていた。もし彼女が捕らえられたら――もし、アルテミスのような冷酷な存在に見つかったら――彼女はどうなるのか。


――いや、考える必要はない。私は守る。それが私のすべて。


クララは闇の中から静かに現れた。その姿はまるで夜の帳から抜け出した影そのもの。黒いマントが風に翻り、長い銀の髪が月光を反射して一瞬だけ輝く。


エリスは彼女に気づくと、目を大きく見開いた。


「クララ……!」


その声には驚きと戸惑い、そして少しの安堵が混じっていた。クララは軽く膝を折り、いつものように頭を下げた。


「お嬢様、私も同行いたします。」


エリスは一瞬言葉を失ったように見えた。彼女の唇が震え、小さな声で呟く。


「でも、クララ……あなたが一緒にいてくれたら……安心だわ……」


クララはその言葉に、わずかに微笑んだ。その微笑みは、エリスが森で歌っていた頃の平和な日々を思わせるような穏やかなものだった。


「お嬢様、私は闇族です。影に隠れることは私の得意とするところ。そして……お嬢様の歌があれば、私は何にでも立ち向かえます。」


その言葉には揺るぎない信念が込められていた。彼女にとって、エリスの存在はただの主人ではない。闇に生きる彼女の人生に光を差し込んだ唯一の人だった。


「クララ……」


エリスの目が潤む。その瞳には、彼女が背負っているものの重さと、クララへの感謝の念が浮かんでいた。


アシュトンが前に一歩出て、真剣な声で言った。


「君が影に隠れられるのは分かる。でも、これは危険だ。下手をすれば命を落とすかもしれないんだぞ。」


クララはアシュトンに視線を向け、その瞳には一切の迷いがなかった。


「危険であることは承知しております。しかし、私が生きる理由は一つしかありません。それは、お嬢様を守ることです。それ以外に、私が存在する理由はないのです。」


アシュトンはその言葉に押され、反論を飲み込むしかなかった。クララの目の奥にある覚悟が、彼の心を打ったのだ。


クララは再びエリスに向き直り、そっと彼女の手を取った。その手は冷たく、それでいてどこか安心感を与える感触だった。


「お嬢様、どうかご安心ください。この命が尽きるその瞬間まで、私は必ずお嬢様をお守りします。」


エリスは小さく頷き、震える声で答えた。


「ありがとう……クララ……」


クララは微笑み、再び影の中に溶け込むように姿を消した。風が吹き抜ける音だけが残り、その場の空気が静寂に包まれる。


闇族の忠誠と愛。それは、クララという存在を象徴するものであり、エリスのために全てを捧げる決意の現れだった。


森の奥深く、太陽の光さえも届かないような静寂の中に、小さな小屋が佇んでいた。そこはまるでこの世から切り離されたかのような場所だった。苔むした木々が取り囲み、鳥のさえずりさえも聞こえない夜、その小屋の中には、わずかな暖かさだけが灯っていた。


薪がはぜる音が静寂を裂くたび、穏やかな空気がその場を包む。かすかな煙の匂いが部屋中に漂い、暖炉の火が揺れる影を壁に映し出している。エリスは木製の簡素なベッドの上に横たわり、汗ばんだ額をほのかに紅潮させながら、腕の中で眠る小さな命を見つめていた。


彼女の胸に抱かれているのは、わずか数時間前に生まれたばかりの赤ん坊。彼女の名はまだなかったが、その小さな存在は、エリスにとって光そのものだった。


「この子は……私たちの新しい光……」


エリスは声を震わせながら、小さな命のぬくもりを確かめるように頬を寄せる。彼女の目には涙が浮かび、穏やかな笑みを浮かべながら、小さな赤ん坊の顔をそっと撫でた。


その場にはアシュトンとクララもいた。クララはエリスの横にひざまずき、その目には深い感動が宿っていた。彼女は涙を拭うこともせず、震える声で呟いた。


「おめでとうございます……お嬢様、旦那様。」


その声には、全てを捧げる覚悟と、心からの喜びが込められていた。


アシュトンはエリスの傍らに腰を下ろし、赤ん坊の頬にそっと指を伸ばして触れた。その触感は柔らかく、温かかった。彼の目には微かな光が宿り、静かに微笑んで言った。


「エリスに似て、とても可愛い子だ。」


その言葉に、エリスは優しく微笑み、小さな声で赤ん坊に鼻歌を歌い始めた。その旋律は、かつて森で動物たちに囲まれて歌っていた頃のような、穏やかで優しいものだった。クララはその歌声に耳を傾けながら、深い安堵を覚えた。


「あなた……この子に名前を付けて。」


エリスが期待を込めた目でアシュトンを見上げる。彼はしばらく考え込み、やがてその名を口にした。


「リリィ……リリィがいい。」


その名前が小屋に響くと、エリスの表情が柔らかく和らぎ、彼女は赤ん坊を見つめながら、静かにその名を繰り返した。


「リリィ……素敵な名前。」


クララも微笑み、心からその名を喜んだ。


「素敵な名前ですね、お嬢様。」


小屋の中は穏やかな幸福に包まれ、焚き火の明かりが3人と新しい命を照らしていた。しかし、その平穏は長くは続かなかった。



夜が更けた頃、森の遠くから低く重い音が響き渡った。地面がわずかに振動し、小屋の窓ガラスが微かに揺れる。クララの表情が一瞬で引き締まり、影の中に潜むように姿を消した。


「……来たわ。」


クララの冷静な声が、暖かかった部屋の空気を一瞬で凍りつかせる。


エリスは疲労に重い体を起こそうとするが、産後間もない彼女の体は言うことを聞かなかった。それでも、彼女は目の前にいるアシュトンを見つめ、切実な声で懇願する。


「逃げて……お願い……リリィを連れて……」


アシュトンは赤ん坊を優しく抱き上げると、何かを決意したように静かにエリスを見つめた。そして、赤ん坊をクララに手渡し、力強い声で言った。


「クララ、リリィを頼む。」


その言葉にクララは目を見開き、涙を堪えきれずに声を震わせた。


「……お嬢様、旦那様……!」


エリスはアシュトンにしがみつこうと手を伸ばすが、彼女の体は重く、思うように動かない。彼女の声が震え、涙が頬を伝う。


「どうして……どうして行ってくれないの……?」


アシュトンはエリスの手をそっと握り、静かに微笑んだ。その微笑みは、全てを理解しているかのような、優しく穏やかなものだった。


「宝物を置いて、僕が行くわけないだろ。」


その言葉が、エリスの心に深く突き刺さった。彼女の目から涙が溢れ、声にならない嗚咽が漏れる。


「私にとって……あなたも宝物なのに……」


エリスの言葉に、アシュトンは黙って微笑み、そっと彼女の額に口づけをした。そして、クララに向き直り、毅然とした声で命じた。


「行ってくれ、俺達のためにも。」


クララはリリィを抱きしめ、涙を拭う間もなく影の中へと消えていった。


小屋の中に残された二人。迫りくる天使族の追っ手の足音が次第に近づいてくる。それでも、二人は最後まで手を取り合い、互いの目を見つめながら、静かに微笑んでいた。


――それが、彼らが共に過ごした最後の瞬間だった。



その後、小屋の跡地からエリスとアシュトンの姿を見る事はなかった

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