エリス・ラウベルの話
第1章:盲目の少女
エリス・ラウベル──天使族としてこの世に生を受けた少女。光に包まれた純白の翼と、星の欠片を閉じ込めたような澄んだ青い瞳は、かつて彼女を「天使族の宝」と称される存在にした。しかし、その歌声が「魅了」の力を持つと知れ渡ると、彼女は宝ではなく、脅威とみなされた。
今、彼女が暮らしているのは、森の奥深く。巨大な木々が空を覆い隠し、薄暗い陽光が細い筋となって差し込む場所だ。木漏れ日の光が地面に踊り、苔むした石や瑞々しい緑の葉に反射するたび、森全体が静かに呼吸しているように感じられる。この森は静寂に包まれながらも、生命の営みが細やかに響いていた。鳥たちのさえずりは高く澄んでいて、どこか遠い夢のような感覚を誘う。そして、木々を渡る風の音がそれを優しく包み込み、まるで遠い昔の子守唄のように心を和らげる。
エリスはその森の中央、小さな草原に立っていた。足元には柔らかな苔がじんわりと足裏を包み、陽光をたっぷりと浴びた花々が彼女の周りで咲き誇っている。彼女の白いドレスが風に揺れるたび、その柔らかな布地が陽光を弾き返し、まるで淡い光の花びらが空中を舞うようだ。
エリスの声が静かに響く。最初はほんのささやきのような音。それはやがて旋律をまとい、森全体に溶け込んでいった。歌声は、耳に触れるだけではない。それは森の木々を揺らし、花々をそっと震わせ、小鳥たちのさえずりをも静めた。その声はまるで森の空気そのものに命を吹き込むかのように広がり、聞く者すべての心に直接届いた。
動物たちが、彼女の声に引き寄せられるように集まってくる。鹿がそっと草むらから顔を出し、リスが高い枝の上で動きを止め、耳を傾けている。小さなウサギがエリスの足元で無邪気に跳ね回り、やがて彼女のドレスの裾に鼻を擦り寄せる。彼女の手がゆっくりとウサギの頭を撫でると、その肌触りが温かくて柔らかい感触が指先に伝わる。
彼女の後ろで弟のサリタルがそっと見守っている。その瞳には、姉への敬愛とどこか誇らしげな光が宿っていた。「姉さんの歌は、世界一だよ」と何度も口にしたその言葉が、彼の胸の内でまた響いているかのようだ。
さらに少し離れた場所では、メイドのクララが微笑みながらエリスを見守っている。彼女はエプロンを握り締め、まるでその歌声に自分自身が包み込まれるような感覚を楽しんでいるようだった。
エリスの歌声が途切れると、森は再び静寂に包まれた。しかし、それはただの静けさではない。まるで彼女の声が森そのものに刻み込まれたかのような、柔らかく、安らぎに満ちた空気が辺りに漂っている。
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。森の香りが彼女を包み込む。湿った土の匂い、木々の青い香り、そしてかすかな花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。この平穏──家族と共に暮らし、森で歌を紡ぐ日々──こそ、エリスにとって何よりも大切なものだった。
その瞬間、彼女は自分がこの世界にいる理由を感じていた。この醜い世界であっても、美しい瞬間を紡ぎ出すことができると信じて。
戦争の火種が天界全土に広がり、平穏だった森にもその影が及んだ。空を焼くような赤い光が遠くに揺らめき、爆発音が風に乗って響いてくる。エリスはその場に膝をつき、震える手で胸を押さえた。耳を塞ぎたくなるような不吉な音が、彼女の静かな世界を容赦なく侵食していく。
「お前の力が必要だ。」
冷たい声でそう告げられたのは、天使族の将軍だった。真っ白な甲冑に身を包み、彼の瞳はまるで氷のように冷たく、感情の欠片も見せない。「拒否すれば、お前も家族も戦犯として裁かれる。それがどれほどの意味を持つかは、理解しているだろう?」
エリスは答えることができなかった。ただ、弟のレオンとメイドのクララがその背後から心配そうにこちらを見つめているのが分かった。家族を守るため、彼女は震える手をぎゅっと握りしめ、ただ静かに頷いた。
戦場に連れて行かれたエリスを待っていたのは、死の匂いに満ちた荒れ果てた大地だった。空は重く垂れこめた灰色の雲に覆われ、地平線の向こうには黒煙が螺旋を描きながら昇っている。焦げた土と血の混ざった臭いが、冷たい風に乗って鼻を突いた。耳には甲高い金属音と、断末魔の叫び声が響き続ける。戦士たちの叫び声は、恐怖、怒り、そして何かに突き動かされるような狂気に満ちていた。
「歌え。」
命令は無情だった。エリスは震えながら立ち上がり、喉を震わせた。その瞬間、彼女の内側から湧き上がる力が波紋のように広がり始める。甘く、優しく、そしてどこか心を掻き立てるような旋律が戦場を覆っていった。その声は単なる音ではなかった。心の奥底に染み渡り、聞く者の理性を塗りつぶすかのように響き渡る。
「負けないで。勝つまで倒れないで。」
その言葉に込められた力は、戦士たちを魔物へと変えていった。目に光を宿した天使族の兵士たちは剣を握り直し、荒れた地面を踏みしめて前へ進む。敵を恐れることなく、体が斬られようと倒れることなく、ただひたすらに前進を続ける。その姿は、まるで人形のように感情を失い、ただ「勝利」だけを求めて動く機械だった。
エリスは目の前の光景に息を呑んだ。自分の歌が作り出した地獄だった。折れた剣を手放すこともなく、倒れた仲間を見向きもしない。何度倒されても、血まみれの体を引きずり、何かに取り憑かれたように立ち上がる。それを見た敵兵は、恐怖のあまり武器を捨てて逃げ出す者もいた。それでも彼らは逃さない。ただ戦い、ただ勝つ。それだけのために。
勝利の旗が掲げられるたび、エリスの心には新たな傷が刻まれていった。戦士たちの歓声が上がるたび、彼女の魂は冷たく、暗い闇に包まれていく。彼女が望んだ平和は、こんな形ではなかった。
戦場から帰還する夜、エリスは震える指先で自分の喉に触れた。歌うたびに、何か大切なものが削り取られているようだった。鏡を見れば、そこに映る自分の瞳はかつてのように輝いていない。代わりに、どこか空虚で、深い影を宿している。
「エリス様、少しお休みになられては……?」
クララの優しい声が耳に届いた。彼女の手は温かく、震えるエリスの肩を支えていた。その優しさに触れた途端、涙がこぼれ落ちる。エリスは声を上げて泣くこともできず、ただ無言で涙を流した。
彼女の心には、ある言葉が深く突き刺さったままだ。
「歌をやめたら、家族はどうなる?」
その言葉が、彼女の生きる理由をすべて覆い尽くしていた。歌うことでしか守れない家族。そしてその歌が、さらなる地獄を生む矛盾。その狭間で、彼女の心は少しずつ崩れていく。
「こんな歌を歌いたくなかった……」
夜の静寂の中、そうつぶやいた彼女の声は、誰にも届くことはなかった。
戦場の喧騒を後にし、帰路につく森の小道は、静けさの中に張り詰めた緊張を孕んでいた。日が沈みかけた空は茜色に染まり、森の木々がその光を吸い込むように黒い影を伸ばしている。足元の土は乾いているはずなのに、遠くから漂う血と煙の匂いがまだ鼻を刺し、戦場の余韻を薄れさせることはない。
私は無言のまま歩いていた。足音が地面を踏むたび、小石が転がり、枯れ葉がわずかな音を立てる。クララが私のすぐ隣を歩き、その存在感が静かな安心感を与えてくれる。彼女の黒いマントは風に揺れ、森の影と一体化しているかのように見えた。
そんな中、不意に足が止まった。前方に人影が立っていた。長い道を塞ぐように、一人の人間が立ちはだかっている。
彼の姿は目を引かざるを得ないほど異様だった。泥と血にまみれた服、荒れ果てた戦場で何日も過ごしたのだろうか、髪は乱れ、肌は灰色に近いほど疲弊していた。それでも、その瞳だけは鋭く光を放ち、真っ直ぐに私を見据えている。まるで何かに取り憑かれたかのように、その視線は揺るがなかった。
「君はそれでも天使なのか!」
彼の声が森に響いた。怒りと悲しみが入り混じった震える声。その言葉は矢のように私の胸を貫いた。
私は無意識に足を止め、彼の顔を見つめ返した。その叫びに込められた感情の重さが、私の心の奥に小さな揺れを生じさせた。しかし、その揺れを表に出すことはできない。私の表情は冷静を装い、声を低く抑えた。
「……? 何の用? 人間。」
その瞬間、私の隣にいたクララが素早く一歩前に出た。彼女の体が影のように動き、黒いマントが音もなく揺れる。まるで一陣の風が彼女を形作っているようにすら見えた。その動きは滑らかで、しかし鋭い。
「お嬢様、私の後ろに。」
クララの声は冷たく静かで、周囲の静寂をさらに際立たせた。彼女の目は鋭く、目の前の男を一瞬で切り裂けるような凍てついた光を放っている。彼女の手は腰に添えられた短剣の柄に触れ、わずかに力がこもる。その仕草は、次の瞬間にでも行動を起こせる準備をしていることを示していた。
しかし、その威圧感にも関わらず、男は怯むどころか、一歩前に踏み出した。その瞳は赤く充血し、唇が震えながら絞り出すように言葉を続ける。
「君が歌ったからだ。君の歌が、どれだけの人間を地獄に追いやったか分かっているのか?」
私の背中を冷たい何かが駆け抜けた。喉の奥が引きつり、言葉を発することができない。ただ、彼の言葉が私の心の中で鈍い痛みとなり、響き続ける。
「君の力で、戦争は天使族の勝利だ。でも、僕たちの家族は? 子供たちは? みんな……みんな君の歌で死んだんだ!」
その瞬間、彼の顔に浮かぶ怒りと悲しみが一体となった感情が、私の目を射抜いた。その表情は、目を背けたくなるほどに生々しく、痛々しかった。
クララがすっと私の前に立ち、冷えた声で言い放つ。
「これ以上、エリス様を冒涜するようなことを言うなら、その命、ここで終わらせる。」
男はクララの威圧にわずかに体を震わせたが、視線は一度も私から逸らさない。その目に宿る憎しみは消えることなく、むしろ強さを増していた。
風が吹き抜け、木々のざわめきが耳をかすめた。その音が、緊張感をさらに引き立てる。私は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に染みる。その間にも、男の視線と言葉の余韻が心の中を揺らし続けている。
「……もういい、クララ。」
震える声でそう告げると、クララは一瞬驚いたように振り返ったが、私の意思を感じ取り、黙って頷いた。私は男を見据えたまま、わずかに口元を引き締める。
「……私の歌が、君の憎しみを生んだのなら、それは私の罪だ。」
その言葉が吐き出された瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。それでも、私は目を逸らさなかった。彼の瞳が揺れるのを感じながら、自分の内側で生まれる苦しみを噛み締めた。
そして、その場を去る足音だけが、森の中に虚しく響いていた。
夕暮れの薄明かりが森の中を染めていた。木々の影は長く伸び、深い緑が赤茶けた光を吸い込むように沈黙している。風はぴたりと止み、鳥たちの囀りすら聞こえない不気味な静寂の中、アシュトンの声だけが鋭く響き渡った。
「君にとって、僕たちなんておもちゃと同じなんだろう! こんなことをして、楽しいのか?」
その言葉は重く、痛みを剥き出しにした刃のようだった。彼の拳が震え、血に染まった服が緊張で引きつる。彼の瞳は怒りで燃え上がりながらも、どこか壊れた光を宿していた。
私は無意識に眉をひそめた。胸がざわつく。それでもその感情を押し殺し、冷たい声で問い返す。
「……何を言いたいの? よく分からない。」
その瞬間、彼の顔が苦痛に歪むのが見えた。瞳には滲むような涙が浮かび、荒い息の中で拳を胸に押し当てる。嗚咽が漏れ始め、ついには声を上げて泣き出した。その姿は、これまで見たどんな戦場よりも痛々しかった。
「返してくれ!」
その一言が、私を貫いた。何か冷たいものが胸の中で音を立てて崩れるような感覚がした。私は驚きで目を見開き、言葉を失った。彼の叫びが何を意味するのか、頭の中で渦巻く疑問が整理できないまま、ただ立ち尽くす。
「……何のこと?」
私の声は震えていた。すると、アシュトンはその場にひざまずき、両手で土を掴む。その指先が泥に埋もれ、かすかに爪が擦れる音が耳に届く。彼の体は肩から崩れるように震えていた。
「天使族が奪ったんだ! 僕の大切な家族を!」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の胸に鋭い痛みが走った。まるで見えない手に心臓を掴まれたように息が詰まる。目の前の男の悲しみが、自分の知らない深淵を覗かせる。
「私が……?」
その問いは、誰に向けたものでもなく、ただ震える声で漏れ出た。アシュトンは顔を上げる。その目は真っ赤に充血し、頬には涙が流れ落ちている。それでも彼はその涙を拭おうともせず、私を真っ直ぐに見据えた。その目には怒り、悲しみ、憎しみ、すべての感情が渦巻いていた。
「そうだ! 僕の家族! 僕の宝物を返してくれ!」
その言葉が私の中の何かを壊した。私は足元が崩れるような感覚に襲われ、その場に崩れ落ちた。目の前の土が揺らいで見えた。自分の手を震える目で見つめる。この手で、いったい何を奪い、どれだけの命を壊してきたのだろうか。
「私が……あなたの宝物を……」
その呟きは、ただ自分に言い聞かせるような震える声だった。視界が滲み、涙がこぼれそうになる。心の奥から湧き上がる後悔と罪悪感が、私を飲み込もうとしていた。
その私に向かって、アシュトンは冷たい声で言い放つ。
「それができないなら、僕も家族と同じ場所に送ってくれ……今すぐに!」
その言葉は、森の中に突き刺さるように響いた。私の目の前でひざまずく彼の姿が、胸の中に深く刻み込まれる。彼が土を掴むその指先、その震える肩、そのすべてが私にとって耐え難いほど重かった。
風がまた一陣、冷たく吹き抜けた。その音が私の髪を揺らし、耳元で低く囁くようだった。その風に乗るかのように、私は自分の罪を思い知らされる。そして、返す言葉も、逃げる術も見つけられないまま、ただ彼の言葉の重みの中で押し潰されていくのだった。
私の内に押し込めていた全ての感情を弾けさせた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出た。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
私は両手で頭を抱え、膝を折った。罪悪感が胸の奥で嵐のように渦巻き、苦しみが喉の奥を締め付けた。泣き叫ぶ声が自分のものとは思えないほどだった。涙はとめどなく頬を流れ、土に吸い込まれていく。指先が震え、肩が小刻みに揺れる。冷たい土の感触が膝を通じて伝わり、世界の残酷さをさらに突きつける。
目の前に立つアシュトンは、困惑した表情を浮かべていた。彼の顔には怒りの影がまだ残っているものの、その瞳には混乱と戸惑い、そしてほんのわずかだが同情が見え隠れしていた。彼は荒い息を整えながら私を見下ろし、震える声で問いかける。
「なぜ君が泣くんだ? 今さら何をしているんだ? 君は一体……何なんだ?」
その問いは、刃となって私の心を貫いた。しかし、答える言葉が見つからない。自分自身をどう説明すればいいのか、何を言えばこの苦しみを伝えられるのか、分からなかった。涙が視界を曇らせ、彼の姿さえもぼやけていく。
私は震える手を土に押し付けながら、どうにか言葉を絞り出した。
「私だって……こんなこと、したくない! もう誰の宝物も奪いたくない!」
その言葉が口をついた瞬間、胸の奥に押し込められていた痛みがさらに溢れ出た。私は息が詰まるような感覚に襲われながら、それでも声を震わせ続けた。
アシュトンはその言葉に驚いたように目を見開いた。彼の瞳に宿っていた怒りが徐々に和らぎ、険しかった表情が少しずつ崩れていく。そして、彼は土を踏みしめ、一歩こちらへ近づいてきた。その動きは慎重で、それでも私に触れることをためらっているようだった。
「なら、なぜこんなことを?」
彼の声は以前のような鋭さを失い、かすかな悲しみが滲んでいた。その問いに私は顔を上げることもできず、震える手を胸に当てた。心臓の鼓動が早まり、痛みのように体全体に響く。
「私も……私の家族を守るため……」
声が詰まり、喉が痛む。それでも続けるしかなかった。
「こんな所に来たくなかった。逃げたかったのに……」
その言葉を吐き出した瞬間、私はまた涙が溢れ出すのを感じた。声にならない嗚咽が喉を締め付け、肩が震える。手に込めた力が抜け、土を掴む指先から砂粒がこぼれ落ちた。
風が森を通り抜け、木々をわずかに揺らす音が聞こえる。その音が、私たちの間の沈黙を埋めるように響いた。空気は冷たく、張り詰めた緊張感の中で、ただ彼の視線だけが私に注がれているのを感じた。
アシュトンは立ち尽くしたまま、言葉を失っているようだった。その目に浮かぶものは憎しみでも怒りでもない。何か理解しようとする思いと、抑えきれない悲しみが混ざり合った複雑な光だった。
その視線を受けながら、私はただ無力感に苛まれ、自分の心の中に沈んでいくしかなかった。
沈黙の中で、アシュトンの肩が微かに上下するのが見えた。長い間押し殺してきた感情を吐き出した彼は、少し落ち着きを取り戻したようだった。私の震える声がまだ空気に残る中、彼は目を閉じ、一度深く息を吐き出した。そして、静かに目を開き、私を見つめた。
「そうか……そうなんだ……」
その声はこれまでの怒りや憎しみとは違っていた。低く穏やかで、柔らかさすら感じさせるものだった。言葉を噛みしめるように話す彼の顔には、どこか優しさが滲んでいた。森の薄暗い光の中、その表情がかすかな安らぎを纏っているように見えた。
「それなら、僕と一緒に……逃げよう。」
その言葉に、私の心が一瞬止まった。驚きと困惑で顔を上げると、目の前の彼の瞳は真っ直ぐで、迷いが感じられなかった。その提案があまりに予想外で、私はただ彼の顔を見つめた。
「え……? 私を許せるの……?」
声は自然と震えた。自分のしたことの重さが彼の言葉を信じさせない。それでも、彼の瞳の中には憎しみはなく、ただ深い決意が宿っていた。
アシュトンはわずかに微笑み、首を軽く横に振った。その微笑みにはどこか悲しげな色が混じっていた。
「わからない……正直、まだ憎い気持ちもある。でも……苦しんでいる人を放っておけない。それが僕なんだ。」
その言葉が風に乗って静かに耳に届いた。彼の微笑みが、凍りついていた私の心に小さな温かい光を灯した。その光がどれほど小さくても、それは確かに私の胸の中で暖かく感じられた。
それでも、胸の中にはまだ疑問が渦巻いていた。戸惑いを押し隠せず、私は恐る恐る問いを続けた。
「私が……憎くないの? あなたの家族を奪った私が?」
その問いは、私自身の心に突き刺さるような重みを持っていた。私の歌が彼の人生を壊した。彼にとっての宝物を奪い去った。その事実を、私は否定することができない。
アシュトンは一瞬言葉を失い、目を伏せた。彼の表情には葛藤が見えた。その時間が永遠に続くかのように感じられたが、やがて彼は小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「憎いよ……正直、憎い。でも、それだけじゃない。君が家族を奪ったのなら……君が僕の家族になってよ。」
その言葉に、私の胸の中で何かが崩れた。それは長い間押し込めていた後悔や罪悪感、そしてどこかで願っていた救いだった。アシュトンはさらに言葉を続ける。
「一緒に逃げよう。君も苦しみから逃れるべきだ。」
その提案は、信じられないほどに優しく、残酷だった。私にとって家族を守ることが唯一の生きる理由だったはずなのに、彼の言葉は私を揺るがす。森の冷たい風が髪を揺らし、遠くで葉擦れの音が微かに聞こえる中、私はただ彼を見つめ続けた。
アシュトンの目の中には怒りも憎しみもなかった。ただ一つ、強い決意が宿っていた。それは私に向けられたものであり、彼自身の苦しみを断ち切ろうとする意志でもあった。
その微笑みの温かさが、私の胸の奥深くに響いた。今まで感じたことのない感情に包まれながら、私は自分が次に何を言えばいいのか分からなくなっていた。ただ一つ分かるのは、彼の言葉が私にとって救いであり、また新たな責任の重さでもあったということだった。私が、彼に返せる物なんて、何もない、、、
森の冷たい静けさの中、私の影がわずかに揺らめいた。その瞬間、クララが音もなくその影から現れた。彼女の瞳は強い光を宿し、鋭い決意がその表情に浮かんでいた。薄暗い木漏れ日の中でも、彼女の存在だけははっきりと際立っていた。
「エリスお嬢様……」
彼女の声は静かで、それでも深い感情が込められていた。その声には、ただの忠誠ではなく、友人としての切実な思いが滲んでいた。
「私が残って何とかします。お嬢様も少しは自分の求める人生を歩むべきです。このまま言いなりになれば、いずれ心が壊れてしまいます……友人として、申し上げます。この男と一緒に逃げてください。」
その言葉が、私の心を強く揺さぶった。これまでの戦いの中で、クララは常に私を守り、支えてくれた存在だった。そんな彼女が、初めて自分の意思を私にぶつけてきた。私は震える声で必死に頼み返した。
「クララも一緒に来て……お願い……」
しかし、クララはわずかに微笑み、その笑顔の中に覚悟を滲ませて首を横に振った。
「大丈夫です。安全を確認して、必ず後から追いかけますから。」
その言葉の裏にある真意がわからないはずもなかった。それでも、私はその場で動けず、何かを言い返すこともできなかった。
クララは静かに向きを変え、アシュトンの方を見据えた。その瞳は鋭く光り、彼女の決意がその目に宿っていた。
「おい、人間!」
彼女の声は鋭く響いた。それは命令でもあり、懇願でもあった。
「お嬢様を頼む。もうこれ以上、お嬢様にこんなことはさせたくないんだ……お願いだ。」
その言葉は、まるで私が背負ってきた全ての罪と苦しみを一緒に背負ってくれるかのようだった。クララの言葉に込められた重みが、アシュトンにもしっかりと届いたのだろう。彼は一度深く息を吸い込み、目を閉じて決意を固めたように頷いた。
「わかった。行こう。」
アシュトンはそう言うと、私の手を優しく握りしめた。その手は温かく、冷え切った私の心に不思議な安心感を与えてくれた。彼の手の力強さに引かれるように、私はゆっくりと立ち上がった。
立ち上がった私を見たクララが、再び微笑む。その微笑みには別れの哀しさと、私への深い信頼が込められていた。
「お嬢様、すぐ追いつきます、お気をつけて」
その声を最後に、クララは森の影へと溶け込むように姿を消した。
アシュトンの手に引かれ、私は足を進めた。森の奥へと進むたび、冷たい風が髪を揺らし、木々のざわめきが遠ざかっていく。背後にはクララがいる。そして、そこに残してきたすべてが重く心にのしかかる。それでも、アシュトンの手の温もりだけが私を前へと進ませてくれた。
彼の手が私の手をしっかりと包み込む。そこから伝わる力と優しさに、少しずつ胸の奥に希望が灯るのを感じた。背後で揺れる木々の影を振り返りたい衝動を抑えながら、私はただ彼に引かれて歩き続けた。
木漏れ日の光がやがて途切れ、森はさらに深く暗くなる。それでも、彼の手の中にある小さな温かさが、私の歩みを止めることはなかった。その瞬間、初めて私は前へと進む決意をほんの少しだけ抱くことができた。