少年
「洗剤と柔軟剤とゴミ袋と...半袖のシャツに...」
開いた手のひらの指を一本づつ折り、今日買うものを忘れまいと独り言をぶつぶつと唱えていたが、「ミーン! ミーン! ミーン!」と毎年聴き慣れた、合唱に思考を遮られる。
「このクソ暑いなか、お前らは元気だなぁ...」
セミの寿命は1週間だそうだが、元気に鳴いてるのか、悲しくて泣いてるのか分からん。風鈴の逆でセミの鳴き声は、より暑さを感じさせる。
ただ、幸い家から徒歩5分圏内にショッピングモールがある。インドアな人間からすれば非常にありがたい限りだ。
熱気に晒されたアスファルトと、共にゆらゆらと揺られながら目的地へと足を運ぶ。
ショッピングモールは2階がファッションコーナーで1階が日用品売り場となっている。半袖シャツを先に買い、日用品売り場で必要なものをかごに入れる。
「洗剤と柔軟剤と...あと、なんだっけ?」
これだ。昔から衝動的で物忘れが激しい。ADHD気質があることに悩んでいる。そのため、スマホにメモを書くのが習慣になっている。時代の最先端に頼り、目的の品を教えてもらう。
「あとは、ゴミ袋とシャンプーか」
スマホをポケットに入れ、残り2つのターゲットを探しに行こうとした時だった。ドンッ!とお尻に衝撃が走る。咄嗟のことに声が漏れる。
「痛った...!」
何が起こったのか分からず、よろけた体を何とかこらえ、反射的に後ろを振り向くが誰もいない。恐る恐る視線を下に落とすことで状況を理解した。小学3年生くらいのボーダー柄の長袖の服とデニムを履いた男の子が尻もちをついている。見るだけでこちらも暑くなりそうな格好だ。
「痛った~!ごめん、おじさん!」
おじさん?どこにいるんだよ、おじさん。
こちらに非は無いとはいえ、年上の“お兄さん”として、小さな子どもに手を差し伸べるのは当然だ。
「君こそ、大丈夫?」
少年に右手を差し出すが、ひどく怯えている。手を取ってくれるどころか、拒絶の意味なのか左手を後ろに隠し、崩れた態勢のまま少年は後ろへ遠ざかっていく。
「大丈夫!俺は大丈夫だから...!」
そう言うと少年は“何か”から逃げるように走り去る。妙な胸騒ぎと違和感を覚える。呆気にとられ立ちすくんでいると、遠くから走ってくる人に声をかけられる。どこかで聴いたことのある声、いや聴いたことある声はもっと穏やかだった。
「君!さっきボーダーの長袖を着た少年を見なかった?」
以前、耳栓を無くしイヤホンをあげた少女がゼーゼーと息を切らし、膝に手をついている。状況が理解できず、思ったことが声に出る。
「あの時のイヤホン女...なんで、子どもを?」
イヤホン女が鼻に付いたのだろう。嫌悪な表情を向けて、俺の問に答える。
「イヤホン女...今は君の問に答えてる暇はない。子ども見たなら、どこに行ったか教えて。」
語りかける口調は不自然に冷静だ。まるで、急ぎ焦っている感情を隠すように。
「先に状況を教えてほしいんだけど。あの少年が何かしたのか?」
彼女のさっきまでの態度は一変し、口調も荒々しくなる。
「状況は後で説明する!少年を死なせたくないなら、早く教えて」
死...普段聴き慣れない言葉に唖然とする。
ゆっくりと少年が走った方向を久し指で向ける。
少女は教えた俺への、お礼も一瞥もなく、指で示した方向へ駆け出す。
気がつくと俺も駆け出していた。そして、彼女を追い越し、少年に追いつく。
中学の頃に陸上をしてたのが、ここで役に立つとは思わなかった。
「こっち!」
少年の手を引き、大きなショッピングモールの人混みを掻き分ける。
「ちょっと、おじさん危ない...!」
体格差があるため、少年は手を引かれ転けそうになる。当然だ。
咄嗟の判断で小さな体を背中に背負い、どこかのアメフト漫画のように人混みを避け、颯爽と駆け抜ける。
遠くから「待ちなさい!!」という、女性の声が聞こえるが、次第に小さくなる。
「うわ!おじさん、速ぇー!!」
背中で少年が興奮してるが、こんな小さな子どもが本当に死ぬのか?
「おじさんじゃなくて、お兄さんだ!まだ結婚もしてねぇのに!」
俺の背中では、さっきまでの興奮が静まり返っていた。
「なんだよ、あんた、チェリーボーイかよ」
乾いた声を背中に浴びせられたはずが、貫通して胸が痛い。どこで覚えたんだよ、そんな言葉。
反省しているのか、少年が言葉を詰まらせながら質問してくる。
「兄ちゃんは、なんで俺なんか助けるんだよ。」
走っていて、うまく言葉が出てこないが必死に答えを絞り出す。
「分からないから、君が死ぬ理由が!」
ぜーぜーと息を切らしながら答えたが、返答は無かった。
ただ、背中から聞こえる小さな嗚咽だけで、俺が走る理由は十分だ。
「うふん♡かわいいボーイ2人みーつけた♡」
筋骨隆々の、デカ男が前に立ちはだかる。少女の仲間だろう。ノースリーブのシャツに短パンで、筋肉がより際立っている。捕まったらまずい。
後ろからは少女が追いかけてきている。少年を背中から下ろし、即座に叫ぶ。
「走れ!」
何秒もつだろうか、デカ男の腰に手を回し、がっしりとホールドし、必死に食い止める。
「あんた、可愛くないわね!!」
デカ男は俺の二の腕を力づくで、こじ開けようとする。
「お兄ちゃん!!」
少年が俺の心配をしているが、今は優しい声掛けはできない。
「いいから走れ!!遠くへ行け!!」
少年は前に走った。それでいい。
お腹に衝撃が走る。デカ男の膝が腹に食い込み、踏ん張りが効かない。床に膝がつく。
だが、行かせてはいけない。絶対に!
「うぁぁぁぁ...!」
全力を振り絞り、電柱のように太い脚にしがみつく。
2秒は持っただろうか。
「しぶといわね!あんた!」
大きな、脚の一振りに成人男性の体が吹き飛ばされる。
「上手く、逃げてくれ...」
そう願いながら、体をゆっくりと起こす。
少年を追うデカ男の後を追う。
「兄ちゃんこっち!!」
横から、少年の声がする。
回り道をして、デカ男を撒いたらしい。
安堵の声が漏れる。
「よかった、無事で」
少年は、深刻そうに答える。
「兄ちゃんは無事じゃなさそうだね...ごめん」
後ろを追っていた少女も、来る気配がない。見失ったのだろう。
「帰る場所は?」
少年は答えられなかった。理由は聞かない。
「ついてきて」
これ以上、ここにいたらまずい。ショッピングモールを後にする。結局買ったTシャツもどこかに落としてしまった。ただ、大切な何かは落とさなかったような気がする。正しい選択だったと、そう思える。
少年の手を取り、マンションの前に行くが、警察がいる。少女かデカいオカマ男に通報されたのか。
少年が不安そうに俺の袖を引っ張る。
「どうしよう、これじゃ帰れない...」
少年の顔を見て、笑顔で答える。
「一つ、ツテがあるから大丈夫。」
少し街から外れた場所だが、大きな一軒家の戸を叩く。
「いらっしゃい。待ってたわ。」
笑顔で優しそうな、40代くらいの女性が出迎えてくれる。
俺の後ろに隠れている少年を前に出す。
「紹介します。ええーと」
そういえば、少年の名前知らないな。
「ユウトです。」
そう言うと、少年は家に入っていく。ユウト君か...
リビングの椅子に座っている男に、もてなされる。
「おう!待ってたぞ!安いウィスキーしかなくて、申し訳ないが」
菅原部長に、事前に連絡し、一夜だけ泊まらせてもらえた。
「突然にも関わらず、ありがとうございます。なんと、お礼を言ったらいいか...」
笑いながら、部長は答える。
「俺とお前の仲じゃねぇか、気にすんなよ。」
仕事でも、部長には助けてもらってばかりだ。生意気な後輩だと思うが、こんな俺を構ってくれるのは、この人くらいだ。
ユウト君も、椅子に座って部長と楽しそうに話している。
安心したからか、どっと疲れが出てきた。へたれこむように椅子に座らせてもらう。
「アキコ!ウィスキーロック2つとオレンジジュース1つ!」
アキコは部長の奥様の名前らしい。菅原部長が、キッチンに向かって叫ぶと
「はーーい!」
と、気前のいい返事が返ってくる。
いただいた、ウィスキーを飲みながら、少年の話を聞く。
「父ちゃんは俺が赤ちゃんの時に死んだから、覚えていないんだ。母ちゃんはヤツらに捕まって...」
ヤツらは今日追いかけてきた連中だろうか。あの少女も悪い人なのだろうか。
部長は俺に親指を向けて、宥めるように少年諭す。
「こいつも、小さい頃に両親を亡くしてる。俺も割と若い時に両親を亡くした。楽しいことばかりじゃねぇが、悲しいことが男を一人前にさせてくれる。強くなれよ。」
考え方が古臭いが、部長なりの叱咤激励なのだろう。
俺も6歳の時に両親が亡くなり、おじいちゃんに引き取られて育った。両親と過ごした記憶は曖昧だ。なぜ、父と母がいないのかも分からない。祖父母曰く、両親が亡くなったショックで記憶障害を起こしたそうだ。
コップの中身が氷だけとなり、カランという音を立てる。
部長が壁にかかった時計を眺めている。短針は11時を指している。
「そろそろ、寝るか。アキコが和室に布団敷いてるから、そこ使ってくれ」
部長はあくびをしながら、寝室へ足を運ぶ。
部長の背中に感謝の言葉を言う。
「ありがとうございます。」
部長は眠たそうにフラフラと右手を上げながら、寝室にら消えていった。
部長を見送り、ユウト君に話しかける。
「お風呂入って寝ようか」
ユウト君も眠たそうだ。
「うん」
返事に元気がない。
一緒にお風呂に入ろうと、服を脱がせると左手首に傷がある。不思議に思い、思わず訊いてしまった。
「ユウト君、これなに?」
さっきまで眠たそうだった。ユウト君が必死に左手を隠す。
「なんでもない!転んだだけだから...」
傷なら血が出るはずだが、出血は無く、まるで深い"ヒビ"のようなものが、そこにはあった。
ヤツらが追いかけてきたのも、この傷と関係しているのだろうか。
今訊くべきではないと判断し、詮索を止め、お風呂に入った。
和室には敷布団が2つ敷かれている。畳の上で寝るのは、じいちゃんの家で寝る時以来だ。
薄暗い部屋で仰向けで寝ていると、隣で小さな背中が僅かに揺れている。
「兄ちゃん、俺どこに帰ったらいいんだろう。母ちゃんに会いたい...」
和室の畳の匂いとユウト君の言葉に、過去の自分が重なる。
ユウト君の背中から目を背け、灯りの付いていない蛍光灯を眺める。
「近くにじいちゃんの家あるから、そこでしばらく泊めさせてもらおう。近くに美味しいアイスクリーム屋さんがあるから、今度行こう。」
取り繕った笑顔で答える。これが今言える精一杯の言葉だ。
すると、ユウト君はクルッとこちらに体を向けてくれた。
「ほんとに!何味のアイスがあるの!?俺はイチゴとチョコが好きだけど」
必死にメニューを思い出す。何味があったかな...
「たしか...ポッピングシャワーと...」
そう答えると、隣の少年はやけに不服そうだ。「それ結構あるお店だよ」
え、そうなの?
ユウト君は呆れた表情で、そう吐き捨てると再度クルッとそっぽを向ける。
「おやすみ、お兄ちゃん」
ポッピングシャワー美味しいんだけどな...
ユウト君の小さな背中は、もう震えていない。
「おやすみ」
久しぶりの投稿です!
これからも気ままにあげていきますので、気ままに読んでいただけると幸いですー!