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2.

 メイヨー! 岩月が独特の掛け声で、赤べこの尻を優しく叩いた時、いつもは女房の尻と同じく餅のように弾き返してくるのに、今日に限っては鉄のように固くなっているのをひどく訝んだものだが、それというのも村長の尻が赤べこの背中に触れた時点で、既に燃えるような怒りも牛へと伝染していたからであり、ああ、この調子じゃ、村長が戻る頃にはべこの奴、コロナに罹った普通の牛のように、マスクを涎で汚すような、死んだ爺さんみたいな情けない事になっちまうんじゃねえかと半ば本気で心配したものだが、一方の赤べこはそんな繊細な親心など知る由もなく、それというのも岩月は人でも動物でも、凡そ「女」というものについては全くの「うぶ」だったからで、乱暴に扱ってこそ満足するという女の性の秘密などは夢にも知らずに、幼児のようにただ可愛いがっていれば女は喜ぶものと無邪気に信じていたからで、そんな訳で赤べこも常々、主人の嫁と一緒になって、密かに自身の身体を虐めては、まるで血管を淫靡な血液が巡るよう、震える程に狂おしい欲求不満の火照りを鎮めていた矢先のお出掛けでもあったので、グッ・モ〜ッ!と絶頂のような西洋かぶれした鬨の声を上げると、いきなり後足で勇ましく立ち上がり、ズシン、ズシンッ! そのままの二足歩行でスキップでもするように飛び跳ねて行ったものだから、アレ、地震だ、どうしたら良いづらっ!? 埃っぽい昼の惰眠を貪っていた村人たちは乱暴な大地に叩き起こされ、すると梓川のイワナたちは不意に水流に生じた予測不能な乱れに、先祖代々から伝わるコンパスの針を狂わされ、魚は川では溺れない!とアメンボや蛙が必死になって止めるのも聞かずに、ある者は水中の岩に頭を打ち付けて、また大多数は無闇に跳ねて川岸へと落ち、そのまま空気に溺れて死ぬという恥ずかしい最期を迎えている頃、同じように大糸線と上高地線を登山客やら松工の生徒などを腹に納めて泳いでいた汽車も、イギリスの無敵艦隊に蹂躙された海賊船のように、登山客らのピッケルの足掻きも物ともせず、カリブの地中深くへと呑み込んでしまったものだが、そんな遠く松本平までをも震わせるような絶叫と揺れに、それでも憎い長野市に助力を仰ぐよりはマシと、結局は誰もがこの世の終わりを信じて疑わず、金目の物を持ち出す暇もあらばこそ、洟垂れた乳飲み子を抱きかかえるのが精一杯といった、着の身着のままの村人たちが死んだような午後の村に見たものは、村長と云うよりはむしろ、学芸会のピエロのような衣装を纏った、誇大妄想で肥大したフランスの将軍で、今まさに寒い国へと進撃するところらしく、我々はそれで長い戦争が始まるのだと覚悟して、徴兵やらこの先の飢饉などを憂いて震え上がったものだが、ところがその騎馬が戦に猛る軍馬などではなく、岩月の家で飼ってる、大きいだけのただの牛だと分かると、ホッと胸を撫で下ろし、なんだ、いつもの村長じゃあねえか、とそれで幾らか安心し、しかしこの先子供たちに、フランス語と露西亜語の、どちらを先に学ばせるべきかと真剣に悩んだもので、そんな事もあり、村に一本の目抜き通りに寄生するように並んだ、屋台やらみすぼらしい掘っ立て小屋は、その余りの勢いに怯えてバッタバッタと倒壊していったのだけれど、にわか亭主の騎手にとってはそれどころではなく、さすがの村長もこの地獄のロデオのような暴れっぷりには堪らず、牛の首やら腹やらにその万力のような手足を絡ませると、まるで藁をも掴む子供とばかり、それをギューと抱き締めれば、不覚にも内股の疼きに犬っコロの如き無鉄砲な射精を晒してしまい、それは又、遠い昔、わざわざ町まで下りて行って観た、世にも恐ろしい見世物小屋の、振り返るも躊躇われた帰り道の侘しさをも思い出させ、ああ、あの頭だけが人間の姿をした、蛇女も蜘蛛の少女も、当時どうしてあれほどまでに寂しげな表情をしているのだろうと不思議に思ったものだが、今ならばそれも理解出来ようと云うもの、あれはもう、二度と誰からも抱き締めて貰えないといった諦めであり絶望であったのだ、と長かった疑問にようやくピリオドを打ち、やはり人間、抱き締められるものがあるってのは、幸せなことなのだなあと、しみじみと噛みしめては、腐ったような甘い吐息を漏らすのであった。すると村長の気分に敏感な赤べこは、俄に自身の中の牝を意識して、心もち内股に前足を地に付けると、まるで生まれた時のような真剣な四足歩行に戻ったのだが、それでも走ることは止めずに、その間にも村長は、先ほどのあの登り棒のような素敵な感覚は、果たしていつ以来だったろうかと指折り勘定を始め、それで再びバランスを崩し、赤べこの背中から落ちそうになったので、止むなく断念したのだが、実際のところ、彼は指の数以上の数は不浄な数と軽蔑して、いっそ男らしく「いっぱい」と答えるだけで済ますようになっていたのだ。

 それにしても、「いっぱい」生きてきても、やはり思い出とは良いものだなあ、時の流れで朽ちもせず、寝かせば寝かすほど、その輝きも増すとくる、まるでかかあの造るどぶろくか、それとも裏山で採れる、太陽と月の光をたっぷり咥え込んだ、あの不老不死の馬鈴薯か、田畑の敵の金剛石のようじゃあないか、ああ、クソ、こんな事なら「ラジ男」を持って来るんだったなあ、今ほど懐メロを聴きたいと思った事も無いほどだ!と、そう考えている内にも小学校脇の登り棒が見えてきたので、やれ有難や、と何時になく風流な思いにも駆られ、『下腹部に、精通の喜びと悲しみ、二つ吾にあり』など、自然と狂歌めいた詩を口づさんだというのも無理からぬ事で、きっとこれから行く寺子屋には、失くした童心を取り戻す何かがあるのだろうと、200年前にひょうきん者の弥次喜多と東海道の旅路で見た、今も変わらぬ夕焼け空を見上げれば、今日の自身の行動とて、さては運命に導かれたものであったかと、そう確信せずにはいられないのであった。


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