八重垣姫
歌舞伎三姫のうち八重垣姫を元にしたシナリオです。
○長篠・野原
草が生い茂る平野。
鳴り響く銃の音。
ナレーション「一五七五年……天正三年。長篠の戦い」
鉄砲……種ケ島を構え、打ち続ける織
田軍。倒れて行く武田軍。武田騎馬隊。
武田家兵士A「おい、なんだ、あの織田軍の戦い方は! 鉄砲を三段構えだ!」
武田家兵士B「ひとたまりもねぇ、退却しろ! 退却だ!」
武田家兵士C「退却だ!」
逃げようとする武田家兵士A・B・C。
武田家兵士A「うっ」
武田家兵士B「うわああああ」
鳴り続ける銃の音。倒れる武田軍兵士AとB、C。武田騎馬隊。一方で、火縄銃を撃ち続ける織田軍兵士。
羽柴秀吉(39)が手を上げ、合図を送る。
羽柴「撃ち方やめ!」
鳴り止む銃の音。
火縄銃を下ろす織田軍兵士。
兵士達の後ろから、マントを翻して織
田信長(41)が現れる。
羽柴に話し掛ける織田。
織田「猿、どうだ」
羽柴「ことは呆気なく終わりました」
織田「うむ」
羽柴「武田軍は新しい武器に恐れおののいて、敗走しております。それにしても、南蛮から手に入れた火縄銃、凄まじい威力ですな。それに、こちらには、清州の同盟により手を結んだ徳川家康もおりますしな」
織田「武田の憐れなことよ。だが、追随の手を緩めるつもりはない」
○長篠・野原(夕)
野に武田の兵士や馬の死体が転がり、折れた刀や槍や旗があちこちに突き刺さり、煙が立ち込める。
焼野原を、羽柴秀吉と徳川家康(33)がやって来て見つめる。
徳川「……甲斐の武田も憐れなものだ」
羽柴「なんじゃ、狸。武田を憐れんでおるの
か」
首を振る徳川。
徳川「武田勝頼。あの者の父親……。甲斐の
虎、武田信玄は獰猛で知略に長けておった。
だが、禍根を残しすぎた。勝頼は父の残し
た禍根の代償を払うことになった」
羽柴「何の事じゃ」
徳川「わしは今川の地、駿河で教えを受け、
育てられたのでな。武田信玄が、桶狭間の
後、今川の地を横取りしたのを許せずにい
る。……駿河の地は、私が貰う」
羽柴は、口許に笑みを浮かべる。
羽柴「……その、桶狭間で今川を討ったのは殿であらせられるがな。狸も、さすがの殿には頭が上がらぬか」
徳川「猿。それはお主も同じであろう」
羽柴「……フッ。確かにな」
○同・(夜)
ナレーション「甲斐武田は、織田信長に加え、何れ天下人となる、羽柴秀吉、徳川家康の連合軍に敗れたのである。この長篠の戦い以降、甲斐武田家は多くの家臣が離反し、滅亡を迎える」
○天目山
ナレーション「一五八二年……天正十年、織田信長は嫡男、信忠に甲斐の地を治め、武田家一門、親類、重臣を探し出し、これを全て処刑するように言い渡した。この年の初春。甲斐の国、天目山では、霧が立ち込める中、武田勝頼が残り少ない家臣と共にいた」
服がボロボロな出で立ちの武田勝頼
(36)と、山本勘太郎(35)。武田家臣A・B。
武田家臣B「殿……」
山本「最早、残る家臣も、五十人に満たなくなってしまいました」
武田家臣A「殿、多くの武田の者が、織田の手で殺されました。ここまで我々に付いて来た女達も、自害して果てました。私の妻
や子も……」
勝頼「……お前達、良くここまで俺について来てくれた。ありがとう」
武田家臣A「……殿」
武田家臣B「……当然でございます。殿。私
達は殿について、ここまで参ったのです」
武田「すまないな、お前達」
武田家臣A「殿……」
勝頼「元々、庶子の俺は一番上の義信と違い、家臣達に好かれんかった。俺が親父の死後、武田を継ぐことに反対する者が多かった。そのせいか、随分と多くの家臣達が、離反していった。ああ、それでも、俺は俺なりにやったつもりだ。領地も、親父の時代の最大のときよりも、より大きく広げてやった」
山本「殿……。殿は十分、お役目を果たされました。私は、そう思います」
勝頼「ありがとう、勘太郎」
山本「……私めは、何も」
勝頼「いいや、勘太郎。お前の親父……山本勘助は本当に良く、俺に仕えてくれた。俺には、父の武田信玄よりも、父付きの軍師であった山本勘助の方が、ずっと父親に思える」
山本「……殿」
勝頼「俺にとっては、ここまでついて来たお前達、そして、親父の代から、俺に傍仕えてくれる山本勘太郎。お前達が、俺に残された最後の宝だ」
武田家臣B「……殿」
勝頼「だが、織田の兵士が近付いて来ている。最早、俺達は終わりだ。ならば、敵方の手に掛かって死ぬよりも、自らの手で命を絶ちたい」
山本「殿……」
勝頼「それが、俺のギリギリの織田に対する悪あがきだ。だが、お前達には無理強いはしない。お前達は、好きに生きるが良い」
武田家臣A「私達も殿に付き従います」
武田家臣B「殿……」
勝頼「……そうか。馬鹿ばかりだな」
苦笑いで溜息を吐く勝頼。
心を決めたように、山本を見つめる。
勝頼「まず、俺が腹を切る。山本勘太郎、お前が介錯してくれ」
山本「殿……。わかりました。私が殿の介錯を致します」
武田、懐刀を取り出す。
脇差を抜く山本。
武田、懐刀を腹に突き立てる。
勝頼「ぐ、ぐっ……ぐおーっ!」
家臣「殿ぉー!」
○上杉景勝の館・八重垣姫の部屋
室内で、武田勝頼の似顔絵が描かれた
掛け軸を見つめる、赤い内掛け姿の八
重垣姫(18)。鈴が付いたかんざし。
横でそれを見つめる濡れ衣(25)。
八重垣姫「ねぇ、ねぇ、濡れ衣。見て、見て!」
濡れ衣「なんでございましょう、八重垣姫様」
八重垣姫「この掛け軸の絵!」
掛け軸を指差す八重垣姫。
掛け軸には、武田勝頼の絵が描かれて
いる。
濡れ衣「あらぁ、美男子でございますね」
八重垣姫「そうでしょ、美男子でしょ! 私の許嫁の、武田勝頼様の絵を、絵師に描かせたの!」
濡れ衣「それは、ようございましたね」
苦笑いする濡れ衣。
八重垣姫は頬を膨らませる。
八重垣姫「……反応が薄いわね」
濡れ衣、溜息を吐く。
濡れ衣「それはもう。毎日毎日、勝頼様、勝頼様と、勝頼様の水墨画を見ては、嬉しそうにしてらっしゃったではありませんか。あの水墨画はどうしたのですか」
八重垣姫「水墨画?」
八重垣姫、思い出しながら言う。
八重垣姫「見つめ過ぎて、ぐしゃぐしゃになっちゃったから、私が絵師に特徴を言って、新たに掛け軸に、色付きで描かせたのよ」
濡れ衣「はぁ。色付きで」
八重垣姫「だって、私は越の国にいて、武田勝頼様は遠くの甲斐の国のお殿様でいらっしゃるから、会えないんですもの。仕方ないじゃない」
濡れ衣「はあ」
八重垣姫「だから、わたくしは毎日こうして、勝頼様の絵を見て、勝頼様、勝頼様と言うしかないのよ!」
濡れ衣、溜息を吐く。
濡れ衣「時代は変わりましたね。昔は、私たち、越後の上杉と甲斐の武田は、何度も川中島で刃を交えた敵同士だったんですけれどね」
八重垣姫「越後の竜、上杉家と、甲斐の虎、武田家か。でも、それは、私や勝頼様のお父上の時代でしょう」
濡れ衣、頷く。
濡れ衣「そうですね。その通りです。今は、新しい時代なのでしょうね。塩の道を通れば、勝頼様に会いに行けますよ」
八重垣姫「塩の道?」
聞き返す八重垣姫に、答える濡れ衣。
濡れ衣「はい、塩の道です。八重垣姫様。越後の国と甲斐の国、二つの国の間を結ぶ道です」
八重垣姫「ふーん」
濡れ衣「今は亡き、我らが上杉謙信様が、甲斐武田家が飢えているのを憐れんで、塩を送るのに使わせた道のことでございます。普段は、商人達が塩や海の物を運ぶのに使っていますね」
八重垣姫「ああ、上杉が武田に塩を送った話ね」
濡れ衣「また、塩の道の途中、諏訪湖がございます。この諏訪湖を渡れば、より早く着くのですけれど」
八重垣姫「……塩の道。諏訪湖」
濡れ衣「ええ」
八重垣姫「そう言えば私、縁談の席で、勝頼様と少し話した時、聞いた覚えがあるわ。勝頼様のお母上の名は湖衣姫と言うのですって。昔、諏訪湖の傍、少ない家臣や母と共に育ったと。諏訪は自分の故郷なのだと」
濡れ衣「さようでございますか」
溜息を吐く八重垣姫。
八重垣姫「諏訪湖かぁー。一度、行ってみたいわね」
濡れ衣「神聖な湖だとお聞きしますね。古い神が住んでいるのだと」
濡れ衣に感心しながら目を向ける八重
垣姫。
八重垣姫「濡れ衣。貴方、最近入ってきたのに、色々と詳しいのね」
濡れ衣、少し気まずそうな顔。
濡れ衣「……えっ。いえ、まぁ、それほどでも」
八重垣姫、溜息を吐く。
八重垣姫「(つまらなそうに)あーあ。いつになったら、勝頼様にお会い出来るのかしら」
外の廊下からドスドスと歩く音。
部屋の襖を思い切り開いて、上杉景勝
(26)が入って来る。
景勝「八重垣姫、八重垣姫はおるか」
八重垣姫「あら、兄上だわ」
濡れ衣「お、お館様」
慌てて座り直し、こうべを垂れる濡れ
衣。
八重垣姫「どうなさいました、兄上。相変わらず無表情ですわね。お義姉様の菊姫様は、もっと、にこやかな殿方かと思った、とぼやいておりましたよ」
景勝「悪いな。俺は昔からこの顔だ。それより、お前に報せねばならんことがある」
八重垣姫「はぁ。報せねばならんこととは?」
景勝「うむ。それなのだがな」
八重垣姫「はい」
八重垣姫、居住まいを正して聞く。
言いづらそうな景勝。
少し言葉を詰まらせながら、言う。
景勝「……お前の婚約者、甲斐の武田勝頼が自害した」
八重垣姫「えっ」
信じられない顔の八重垣姫。
八重垣姫「あの、兄上、今、何と」
景勝「武田勝頼が、自害した」
一瞬、何を言われたかわからない八重
垣姫。
八重垣姫「(酷く吃驚して)ええっ?!」
茫然とする八重垣姫。
八重垣姫「そ、そんな……」
濡れ衣「あの、お館様。それはどういう……」
景勝「長篠の戦いで、甲斐の武田が、織田方にズタボロにやられたとは耳にしていたが……」
濡れ衣「はあ」
景勝「その後、織田信長は信忠に甲斐の国を任せ、武田家一門を探し出し、処刑するように命じたらしい。追い詰められた武田勝頼は、残り少ない家臣達と共に、天目山にて自刃したという」
手から、掛け軸をぽとりと落とす八重
垣姫。
八重垣姫「……自刃。そんな。勝頼様が」
酷くショックを受けている八重垣姫。
濡れ衣「姫様……」
八重垣姫「嘘……。そんなの嘘よ!」
景勝「残念だが、嘘ではない」
八重垣姫「そんな……」
濡れ衣「姫様……!」
茫然とする八重垣姫。
○同・(夜)
灯篭に火が入れられ、夜の闇を照らし
ている。
部屋の奥、仏壇のように棚の上に、勝頼の掛け軸を置きかれている。
蝋燭には火が灯され、十種類のブレンドした線香を焚いている。
数珠を握り、手を合わせて泣く八重垣
姫。
八重垣姫「まさか、勝頼様の絵を描いた掛け軸を、こんな風に使うことになるなんて……」
濡れ衣「八重垣姫様……」
ぽろぽろ、涙を流す八重垣姫。
八重垣姫「……うっ、うっ。酷いわ。酷すぎるわ。私は、十代のうちから、まともに恋をすることもなく、未亡人として暮らしていかなければならないのね……」
濡れ衣「八重垣姫様……」
八重垣姫「私、女中達や姉妹の話を聞いたり、色んな恋愛の話を見て、いつか私も恋愛することが出来るんだと信じていたわ」
濡れ衣「や、八重垣姫様……」
少し気後れする濡れ衣。
八重垣姫「いつか、きっと私にもって。なのに、酷い。酷いわ。酷すぎるわ。私だって恋愛したかった。してみたかった! 恋に胸を躍らせてみたかった。あーあ、でも、もう二度とそんなことないのね!」
濡れ衣「八重垣姫様……」
八重垣姫「私は、一生恋愛出来ないまま、死んだように生きて行かなきゃならないのね!」
濡れ衣「は、はあ……」
泣き続ける八重垣姫。
八重垣姫「私だって、まっとうに現実的に恋愛してみたかった!」
濡れ衣「そ、そうですね」
八重垣姫「あー、私と違って、まともに恋愛経験を積んできた女共が恨めしい! このまま死んだら、もう恨みが溜まりに溜まって、祟って出て来る存在になりそうな気がするわ」
苦笑いする濡れ衣。
濡れ衣「……あー、何かもう、そんな感じですね」
濡れ衣のツッコミを無視して、泣き喚
く八重垣姫。
八重垣姫「知っている? 恨めしやって羨ましいって意味よ。羨ましい羨ましいって言っているのよ!」
濡れ衣「いや、そのまんま、恨めしいっていう意味じゃないですかね」
少し落ち着きを取り戻して、八重垣姫
は呟く。
八重垣姫「お香も、十種類のお香をブレンドした、いいお香にしたわ。昔、お婆様から貰ったものが箪笥の奥にあったから」
濡れ衣「ちょっと奮発いたしましたね」
八重垣姫、溜息を吐く。
八重垣姫「勝頼様、生き返らないかしら」
濡れ衣「(何か言いたげに)……」
八重垣姫「濡れ衣?」
濡れ衣「いいえ。何でもございません」
八重垣姫「本当に?」
苦笑いを向ける濡れ衣。
鼻水を垂らしている八重垣姫。
濡れ衣「ええ。雨みたいに泣いてらっしゃる
なとは思いますが。鼻水も垂れてらっしゃ
いますし」
八重垣姫「あ、本当だわ」
八重垣姫、鼻を袖で拭く。
濡れ衣「あ、汚いですよ!」
散々、泣き喚いて気が済んだのか、少
し考え込む八重垣姫。
八重垣姫「私、ちょっとお庭に出て来るわ」
濡れ衣「お庭に、ですか?」
八重垣姫「ええ」
八重垣姫、庭の方に目を向ける。
八重垣姫「奥庭に、小さなお社があるの。昔
に、お婆様が立てたものらしいのだけれど」
濡れ衣「気を付けて下さいね」
八重垣姫「お城の庭だもの。平気よ。皆が見
回りしているし」
八重垣姫、そう言うと、提灯に灯りを
入れて、線香の束を一束持ち、提灯を
手に戸を開け、庭の方へ出る。
○同・庭(夜)
八重垣姫「うー。寒い」
八重垣姫、白い息を吐く。
○同・奥庭(夜)
奥庭に佇む小さなお社。
陶器の湯呑みに水が入っている。
線香の燃えカスがある。
八重垣姫は線香の先を提灯の火に入れ
て、線香を置き、手を合わせる。
八重垣姫「お婆様。勝頼様が死んでしまいま
した。私はどうしたら良いでしょうか」
八重垣姫、肩を落とす。
八重垣姫「お婆様ぁ~」
草むらからガサガサ音がする。
八重垣姫「えっ、何かしら」
ガサガサ、音は大きくなる。
八重垣姫「ええっ、な、何? お、お化け?」
草むらからぴょんと、白い子狐(10)が
飛び出して来る。
八重垣姫「あ、可愛い。狐だわ。それも、真
っ白な狐。ちょっと小さいわね。きっと、
白狐の子供ね」
白い子狐が八重垣姫の傍に近寄ってく
る。
八重垣姫「わー、可愛い。あ、ちょっと、待
ってね」
八重垣姫、その場を離れて飯炊き小屋
に駆け込む。
○同・飯炊き小屋
料理人「おや、八重垣姫。どうしました」
八重垣姫「ちょっと、油揚げを一枚ちょうだ
い」
料理人「油揚げですかい。ちょっと待って下
さいよ。まあ、使い掛けのものなら、一枚
ありますがね」
八重垣姫「ありがとう!」
八重垣姫、料理人から油揚げを一枚貰
うと、奥庭に戻る。
○同・奥庭
小さなお社の傍で、白い子狐が尻尾を
振っている。
八重垣姫「はい、油揚げ」
白い子狐、油揚げを口に咥えてモグモ
グ食べると、そのまま草の茂みの中へ
行ってしまう。
八重垣姫「あ、行っちゃった」
いなくなる子狐。
八重垣姫「私も部屋に戻りましょう。濡れ衣
が心配するわ」
○同・廊下(昼)
八重垣姫と濡れ衣が廊下に座っている
と、廊下の向こうで、景勝と菊姫(23)
が談笑している。
近くの庭で、ツツジの花や枝をハサミ
で手入れする、庭師姿の勝頼。
八重垣姫と濡れ衣、景勝と菊姫に目を
やりながら話す。
八重垣姫「兄上様とお義姉様、本当に仲がいいわよね」
濡れ衣「さようでございますね」
八重垣姫「羨ましい」
濡れ衣「お館様は他に、妻を娶ったりもされませんし。妻は菊姫様お一人と、決めておられるようですよ」
八重垣姫「そう。兄上って本当にお義姉様に一図なの。全く、お義姉様が羨ましいったらありゃしないわ」
濡れ衣、フフッと笑う。
濡れ衣「菊姫様も元は武田家の姫君。勝頼様の妹君であらせられますから、きっと武田のことで、胸を痛めてらっしゃるでしょうね」
何だか、笑いあっている景勝と菊姫。
八重垣姫「お二人は一体、何の話をしている
のかしら」
濡れ衣「さあ?」
八重垣姫「ちょっと聞きに行ってみましょう」
濡れ衣「ああ。や、八重垣姫様。余り、お二人のお邪魔をしてはいけませんよ」
八重垣姫「ちょっと聞くだけよ」
濡れ衣「はいはい」
赤い内掛けの袖を振って、八重垣姫、
立ち上がり、兄夫婦に近付く。
近くの庭では、日笠を被った勝頼が、
庭ばさみを手に、ツツジの花の手入れ
をしている。
八重垣姫「ツツジが綺麗ね」
濡れ衣「そうですね」
八重垣姫「兄上、義姉上、何を話してらっしゃるのですか?」
菊姫と談笑していた景勝、八重垣姫に
目を向ける。
景勝「ああ、八重垣姫。いや、まあ、少しな」
八重垣姫「お二人の間に、水を差してしまったでしょうか」
景勝「いや」
菊姫「……ちょっと、あそこでツツジの手入れをしている庭師が、気になって」
八重垣姫「……庭師?」
八重垣姫、菊姫の視線を辿って、ツツ
ジの手入れをしている勝頼の方を見る。
勝頼は黙々と、ハサミを動かしている。
濡れ衣「ああ、彼は最近、雇った蓑作という者です。長年、うちで庭師をしていた田後作が、もういい歳で腰を痛めてしまったので、雇い入れたという話ですよ。田後作が色々と教えています」
菊姫、懐かしそうにツツジを見つめる
菊姫「甲斐武田の館は躑躅ヶ崎館と言い、たくさんツツジが咲き誇っていました。だから、懐かしくてツツジを見ていたんです。そうしたら、何だか、あの庭師が、甲斐に住んでいた頃、ほんの少しだけ共に時を過ごした……腹違いの兄に似ている気がして」
八重垣姫「兄……?」
菊姫「ええ。兄、勝頼に」
八重垣姫「勝頼様……。勝頼様ですか?」
菊姫「そんな筈はないのにね。……兄、勝頼は織田に追い詰められて、自刃したのだから」
八重垣姫「義姉上……」
上杉「……武田勝頼、か」
○同・廊下(夕)
景勝、菊姫が去り、庭の岩の上で座り
手拭いで汗を拭く勝頼に、話しかける
八重垣姫。
手には笹の葉でくるんだおむすび。
八重垣姫「貴方、蓑作っていうお名前なの?」
勝頼「……はい」
八重垣姫「お腹空いたでしょう。はい、これ。おむすび。こっそり飯炊き場に行って、余ったもので作って来たの」
勝頼「……どうも」
勝頼、日笠を下ろして、おむすびを食
べる。
八重垣姫「ねぇ。あなた、誰かに似ている気がするのだけれど」
勝頼「はぁ」
八重垣姫「ああ、もう。面倒だから言いうけれど、あなた、本当は武田勝頼って名前でしょう」
二人の間に沈黙がおりる。
勝頼「えっと」
八重垣姫「そうでしょ。勝頼様でしょ! 私の顔をお忘れですか! わたくしは八重垣姫。上杉謙信の姪で上杉景勝の妹。甲斐武田勝頼の婚約者、八重垣姫です」
勝頼「はぁ」
八重垣姫「あなたは武田勝頼様でしょう。武田勝頼様ですよね! 間違いありません! だって凄く似ていますもの。ですよね。勝頼様ですよね!」
勝頼「いや……あの。すみません。人違いです」
八重垣姫「(強気で)いいえ、嘘です」
勝頼「えっと……」
八重垣姫「だって私、婚約の席を終えてすぐ、絵師に似顔絵を描かせて、その似顔絵を毎日毎日見つめ続けていましたもの」
勝頼「そ、そうですか」
八重垣姫「あなたは勝頼様です! ほら、見て下さい! この似顔絵、貴方にそっくり!」
八重垣姫、色のついた掛け軸の絵を蓑
作に見せる。
勝頼「……えーっと、これは」
八重垣姫「仏壇用とは別に、普段持ち歩くために絵師に描かせたものです。他に、布教用と影響保存用がありますけれど」
戸惑いながら、苦笑いをする勝頼。
勝頼「……えーっと。ああ、あの。影武者っているでしょう。それぐらい、世の中には似ている人間がいるものですよ。俺はきっと、顔の見た目が、その、武田勝頼って人に似ているだけだと思います」
八重垣姫「(悲しそうに)ええー? ……そんなぁ」
勝頼「いやぁ、俺、きっと武田勝頼の影武者になれそうだな」
八重垣姫、がっくりと肩を落として、
館の中へ入る。
○同・(夜)
夜、灯りも付けず、庭の岩に腰掛けて
いる蓑作。
ボロを着た山本が、音もなくやって来
る。
山本「殿……」
勝頼「勘太郎か」
山本「はい」
頷く山本。
勝頼「全く。庭師に扮して越後の上杉家に忍び込んだら、許嫁の八重垣姫に出くわして、勝頼だと見破られてしまった」
山本「……おや、武田勝頼だと、正体がバレ
てしまったのですか」
勝頼「いいや。しつこく勝頼だろうと言われ
たが、どうにか違うと言い張って事なきを
得たわ」
山本、愉快そうに笑う。
山本「随分と、お元気な姫君ですな」
勝頼「それより、勘太郎、外の様子はどうだ。上杉の家臣や使用人達は、どうも口が堅くて、な」
真剣な勝頼の表情に、山本も笑いを引
っ込める。
山本「亡き信玄様がかつて使っていた、臆病者の耳役共が生きており、役に立ちました。六月に、明智光秀が本能寺にて謀反を起こし、織田信長を討ったとのことです」
勝頼、少し息を詰まらせながら言う。
勝頼「……信長が……倒されたのか」
山本「……はい。……ですが、その光秀の天下も余り長くもちはしませんでした。今は、信長を失ったことで、あちこちが混乱しています。ですが、それも、じきに収まるでしょう」
勝頼「そうか……。あの、信長が」
勝頼、溜息を吐く。
勝頼「全く、何故、俺は生き残ってしまったのだ。毎日、そればかり憂鬱に考えている。刺しどころが良くなかったな。逆の意味で」
苦笑いをする勝頼。
山本「私も、どうしても殿を介錯することが出来ませんでした。けれど、私はそれで良かったのだと今は考えております」
勝頼「勘太郎……」
山本「どうにか、殿には甲斐武田、本家の血
筋を残して、お家復興をはかって頂きたい
と。今、世間では表向き、殿は死んだこと
になっております」
勝頼「武田家復興か……」
山本「勝頼様。武田家には古くから先祖代々に伝わる、諏訪法性の兜という家宝がございました」
勝頼「……諏訪法性の兜」
山本「……ええ。この兜がある限り、武田は無敵でした。しかし、川中島の合戦を繰り返した時代、何者かに盗み出され、以来、武田は衰退の道を辿ることになってしまいました。この、諏訪法性の兜。前々から、上杉の忍びに盗まれたのだと言われておりました。まずはこの兜を上杉から取り戻して、お家復興をはかるべきかと存じます」
溜息を吐く勝頼。
勝頼「……ああ、そうだな。だから、俺はそのために、今ここにいる」
○同・八重垣姫の部屋(夜)
灯篭に火が入れられ、灯りが燈されて
いる。
坐っている八重垣姫と濡れ衣。
八重垣姫「ねぇ、濡れ衣。最近、新しく入って来たという庭師が、勝頼様にそっくりなの」
濡れ衣「勝頼様に? そう言えば、確かに、絵に似ておられる気がいたします」
八重垣姫「(思い詰めたように)私、絶対に勝頼様だと思うの。だけど、そう言ったら『違う』の一点張りで」
濡れ衣「絶対に勝頼様だと、八重垣姫様は思われるのですか?」
八重垣姫、頷く。
八重垣姫「もちろんよ。絶対に間違いないわ。蓑作は私の婚約者、武田勝頼様です」
濡れ衣「はぁ、そうですか」
濡れ衣、溜息を吐く。
八重垣姫「絶対、勝頼様本人に決まっているんだから。私、どうにか認めさせてみせるわ。だから、濡れ衣も手伝って」
濡れ衣「……いや、あの。そうは申されましても」
八重垣姫「お願いします、この通り」
濡れ衣「八重垣姫様……」
濡れ衣、苦笑いで溜息を吐く。
濡れ衣「全く。仕方ありませんね」
八重垣姫「(期待を込めた目で)濡れ衣?」
濡れ衣「わかりました。この濡れ衣。どうにか、八重垣姫様の恋を成就すべく、お手伝いさせて頂きましょう」
八重垣姫「ありがとう! 恩に着るわ、濡れ衣」
濡れ衣「八重垣姫様」
八重垣姫「なあに、濡れ衣」
濡れ衣「姫様は、本当に勝頼様がお好きなのですね」
八重垣姫「……ええ、うん。まあ」
何だか憂いを帯びた濡れ衣。
八重垣姫「濡れ衣、どうしたの?」
濡れ衣「いいえ、何でもございません。ちょっと、八重垣姫様を羨ましく思ったのでございます」
八重垣姫「私、少し庭に出て来るわね」
濡れ衣「また、奥庭ですか」
八重垣姫「ええ。すぐ戻って来るわ」
八重垣姫、灯りが燈った提灯を手にす
ると、庭に出る。
○同・奥庭(夜)
小さなお社。
陶器の湯呑みに水が入っている。
提灯を地面に置き、火を点けた線香を
お社の前に置き、手を合わせる八重垣
姫。
八重垣姫「お婆様、勝頼様にそっくりな人が現れました。あの蓑作という庭師は、本当に勝頼様ではないのでしょうか」
八重垣姫、溜息を吐く。
八重垣姫「……って、本当はお婆様のお墓はもっと、別の場所にあるんだけれど。まあ、いいわよね。お婆様が立てたお社なんだから」
八重垣姫、再び手を合わせてお祈りを
する。
○同・廊下(朝)
庭で、勝頼が日笠を被り、手拭いを首
に掛け、鼻歌を歌いながら手入れをし
ている。
濡れ衣が廊下から庭に出て、手を上げ
て蓑作を招く。
○同・庭(朝)
濡れ衣「蓑作や。これ、蓑作。こっち、こっち。ちょっとお前に話があります」
気付いて、濡れ衣の傍に近寄る蓑作。
勝頼「これは、濡れ衣殿」
濡れ衣「お前が来てから、田後作の腰もずいぶん、良くなってきたようですよ。良かった、良かった。って、そんな話じゃなかった」
濡れ衣、真剣な顔で勝頼を見る。
濡れ衣「蓑作。八重垣姫様が、どうにも貴方を、甲斐の武田勝頼様だと言ってきかないのです。貴方は本当に、八重垣姫様の亡き婚約者、武田勝頼様なのですか」
勝頼「いいえ、違います」
濡れ衣「本当に、武田勝頼様ではないのですね」
困ったように、溜息を吐く勝頼。
勝頼「そう言っているのに、八重垣姫様が俺を武田勝頼だと言うので、私も困っているのですよ」
濡れ衣「本当に、違うのですね」
勝頼「そう、何度も言っているじゃありませんか」
濡れ衣も、困ったように溜息を吐く。
濡れ衣「そうは言っても、私も八重垣姫様の恋を手伝うと言った手前『ああ、別人なのですね、そうですか』で終わらせるわけには参りません。蓑作、とにかく、八重垣姫はお前が気になるのです。お前だって、美人に言い寄られて悪い気はしないでしょう。八重垣姫様はまだ十代と若いし、かなりの美人ですからね」
勝頼「……いや、うーん」
濡れ衣「これ。八重垣姫は菊姫に並ぶ、この上杉の美姫ですよ」
勝頼「……はあ」
勝頼「貴方は、本当に勝頼様ではない、と言い張るのですか」
勝頼「いや……えっと」
言葉を濁す勝頼に、溜息を吐く濡れ衣。
濡れ衣「仕方ありませんね」
庭の木陰から、こっそり二人の様子を
見つめる八重垣姫。
濡れ衣、八重垣姫の傍に行き、話し掛
ける。
八重垣姫「どう? 濡れ衣」
濡れ衣「どうでしょうか……」
八重垣姫「どうなの」
濡れ衣「自分は蓑作だと言い張っていますよ」
八重垣姫「……そう」
濡れ衣「八重垣姫。ちょっと思うのですけれどね。もし、蓑作が本当に武田勝頼様でなく、ただの蓑作ならば、少し可哀想じゃありませんか」
八重垣姫「え……」
八重垣姫、濡れ衣を見つめる。
濡れ衣「だって、そうしたら、自分は蓑作以外の何者でもないのに、お前は勝頼だ。白状しろと、言い募られているわけですからね」
八重垣姫「……そ、そうね」
濡れ衣「ね」
八重垣姫「確かに、悪いことをしているわね」
濡れ衣「そうですよ。蓑作に悪いですよ」
八重垣姫「うう……」
黙り込む八重垣姫。
八重垣姫「ああ、もう。わかった。わかったわよ。じゃあ、私が行きます」
濡れ衣「余り、しつこくしては困られてしまいますから、程々に。何故、勝頼様だと思うのか、という論点をちゃんと説明した方がいいですよ。ちゃんと論理的に」
八重垣姫「あー、もう。わかったって言っているでしょ! 何なのよ、全く!」
八重垣姫は勝頼の傍に近寄る。
八重垣姫「蓑作。あなたは武田勝頼様ではないと、どうしても言い張るのね」
勝頼「はい。私はただの庭師、蓑作です。それ以上でも以下でもありません」
八重垣姫「貴方はそう言うけれど、私には貴方が、どう見ても武田勝頼様にしか見えないのです」
勝頼「姫様……」
八重垣姫「……さっきの、下手くそな鼻歌」
勝頼「えっ」
八重垣姫「下手くそな鼻歌を、歌っていたでしょう」
勝頼「き、聞いていらっしゃったのですか」
八重垣姫「以前、婚約の席で、勝頼様とお庭を散歩したとき、勝頼様は、音を外しまくった下手くそな鼻歌を口ずさんでいました。間違いありません」
勝頼「そ、そうか」
八重垣姫は肩を落とし、悲しげに言う。
八重垣姫「私、ずっと勝頼様と再会して、祝言を上げることを楽しみにしておりました。私はこれまでまともに恋もなく、周囲の女達の恋愛話を聞いて、本当に羨ましくて仕方がなかったんです。私も、勝頼様との婚姻で、やっとまともに恋愛が出来るんだと、喜んでいたんです。だから、私、勝頼様が死んだなどと絶対に認めたくなくて。もう、許せなくて、許せなくて、許せなくて、許せなくて」
勝頼「……は、はあ。そ、そうですか」
たじろぎ、後ずさりする蓑作。
八重垣姫「私、勝頼様が死んだなんて絶対認めません。というか、絶対死んだなんて許しません。生きて私と恋愛して頂きます。それまで絶対死ぬなんて許しません。生きて、私といっぱい、いちゃいちゃして貰います」
勝頼「……え、えーっと」
八重垣姫「はい、とか、えーっと、とか以外のことも、何かおっしゃって下さい」
困り顔の勝頼。
勝頼「……八重垣姫様」
八重垣姫「はい」
勝頼「俺は、蓑作。ただの庭師で花造りです」
八重垣姫「……どうしても、違うって言い張るのね」
勝頼「……俺は」
八重垣姫「……違うんだ」
勝頼は、溜息を吐く。
勝頼「はい。違うと何度も言っています」
八重垣姫「……違うのですね」
勝頼、溜息を吐く。
勝頼「あー、全く。このわがまま姫は」
八重垣姫「え……?」
勝頼「もう、仕方ありませんね」
勝頼、苦笑いして日笠を外す。
八重垣姫「み、蓑作……?」
勝頼「八重垣姫様。以前、会ったときより、ずっと美しくなられましたね」
八重垣姫「……え」
勝頼「私に、あなたは勿体ない」
八重垣姫「それじゃあ、あなたは、やっぱり……」
勝頼「……はい」
八重垣姫「やっぱり、勝頼様、勝頼様なのですね」
勝頼「そう」
少しためらいながら、勝頼は口を開く。
勝頼「そうです。俺は、勝頼。武田勝頼です。俺のことを、覚えていらしたんですね」
八重垣姫「当たり前です!」
勝頼「姫……」
八重垣姫「数年前、上杉が跡継ぎ問題で、戦い合っていたとき。兄、景勝は武田と同盟を組みました。その証として、兄上は武田家の菊姫を妻とし、私は勝頼様と婚姻を結びました。ただの、政略結婚。それはわかっています」
勝頼「……八重垣姫」
八重垣姫「でも、それでも、私は……。勝頼様のことを、ずっと、ずっと想い続けていました」
勝頼「……八重垣姫、聞いて下さい」
八重垣姫「はい」
沈痛な面持ちの勝頼。
勝頼「武田家は滅びました。今、俺が正体を隠して上杉の館にいるのは、諏訪法性の兜を取り戻すためです」
八重垣姫「……諏訪法性の兜?」
聞き返す八重垣姫に、勝頼は頷く。
勝頼「はい。諏訪法性の兜です。八重垣姫は聞いたことはありませんか?」
八重垣姫、申し訳なさげに言う。
八重垣姫「……すみません。私は、聞いたことがありません」
勝頼「……そうですか」
八重垣姫「……はい」
勝頼「諏訪法相の兜とは、武田家伝来の家宝なのです。川中島の戦いを繰り返した時代、上杉家の忍びに盗まれたと言われています。あれを、守りとして取り戻したいのです」
八重垣姫「諏訪法性の兜ですか……」
重々しく呟く八重垣姫。
そこへ、直江兼継(21)がやって来る。
直江「蓑作、殿がお呼びだ。俺と一緒に来い」
勝頼「……はっ。それでは、申し訳ありませんが……失礼いたします」
蓑作、直江兼継に頭を下げ、八重垣姫
にも頭を下げて草履を脱ぎ、廊下に登
り、直江兼継の後をついて行く。
ちょうど、傍の廊下を濡れ衣が通り掛
かる。
八重垣姫「あ、濡れ衣。ちょっと」
濡れ衣「はい、八重垣姫様」
八重垣姫「ちょっと聞きたいことがあるんだけれど……」
濡れ衣「はい」
八重垣姫「濡れ衣。貴方、諏訪法性の兜って聞いたことない?」
濡れ衣「……諏訪法性の兜。いいえ。申し訳ございませんが……」
八重垣姫「そう」
濡れ衣「でも、そうですね。私も、少し興味
があります」
二人の目の前を、菊姫が通る。
八重垣姫、菊姫に声を掛ける。
八重垣姫「あの、義姉上」
菊姫「……あら、八重垣姫。どうなされたのですか」
八重垣姫「……えっと。あの、武田の家宝だ
ったという、諏訪法性の兜って、知りませ
んか?」
菊姫「諏訪法性の兜?」
菊姫、八重垣姫に目を向ける。
菊姫「……ええ。聞いたことがあります。川
中島の戦いを行っていた時代に失ってしま
った、武田家の家宝です。上杉の忍びが盗
んだと聞き及びますが、本当にそうかはわ
かりませぬ。……それが?」
八重垣姫「いいえ、ちょっと。すみません」
菊姫「……諏訪法性の兜ですか。あれを失っ
てから、武田は滅びの道を歩むことになっ
たと言われています。あれが再び手に入っ
たら、武田家も再興出来るかもしれない。
でも、異母兄の勝頼が亡くなってしまいま
したから……」
八重垣姫「……そうですか」
菊姫「異母兄上が、生きてさえいてくれたら。
今でも、つい、そう思ってしまうのですよ」
八重垣姫「義姉上……」
八重垣姫、沈痛な面持ち。
濡れ衣、菊姫を見つめる。
濡れ衣「(何か言いたげ)……」
○同・本丸
溜息を吐いて坐っている上杉景勝。
戸を開けて入って来て、坐し、頭を垂
れる直江。
その後ろ、庭に控える勝頼。
直江「殿、蓑作を連れて参りました」
景勝「…うむ。蓑作、頭を上げよ」
勝頼「はっ」
勝頼、顔を上げる。
景勝「蓑作。お主が武田勝頼なのではないかという、話が出ている。俺の妻、菊姫もそう言っている。相違ないか。お主は、武田勝頼か」
勝頼「……いえ。全く関係ございません」
景勝「例え本当に勝頼であっても、そう申したであろうな」
勝頼「私は、武田勝頼ではございません」
直江「殿……」
景勝「勝頼だったら、俺も直江も、同盟を組
む席で顔を合わせた。互いに知る仲だ。そ
うだな、直江」
直江「ええ。私も……武田勝頼と顔を合わせ
ました」
景勝「直江、お前はどう思う」
直江「私は……そうですね」
直江、何と言うべきか悩み顔。
勝頼、じっと黙る。
直江「うーむ。なんとも。もし、勝頼殿だと
言うのであれば、きっと、何か事情があっ
てのことでしょうから。どう申したら良い
ものか悩みますな」
景勝「武田家の事情は充分過ぎる程に、わか
っているつもりだ。お主が武田勝頼であろ
うとそうでなかろうと、俺自身は何もする
気はなかったのだが……。勝頼とは同盟関
係であったからな。だが、その話がどこか
ら漏れたのか。家臣達の間で広まって、お
前を処分するべきだという声が出ている。
不穏分子は排除するべきだと」
勝頼「私めを、処分……ですか」
景勝「……うむ。蓑作よ。ちょうど、俺の手
紙を届ける使いが欲しかったんだが。蓑作、
お前、このつとめ、果たしてくれるか。急
ぎの用事でもない。俺が昔に住んでいた、
塩尻の城の様子を少し知りたいというだけ
のことじゃ。お前がこのつとめを果たして
くれたならば、俺はこの件を不問に伏そう」
勝頼「手紙……」
景勝「頼めるか」
勝頼「……はっ。御意に」
景勝「(重々しく)蓑作。もしも、お前が本当
に武田勝頼だと言うならば、俺は喜んで良
いものか、悲しんで良いものかわからん。
勝頼は俺の好敵手で、友であった」
勝頼「……私は」
景勝「……旅の無事を祈るぞ」
○同・門の前
出掛けようとする勝頼の傍に、八重垣
姫が走って来る。
八重垣姫「……待って!」
勝頼「……八重垣姫」
八重垣姫「勝頼様。兄上に言われて使いに出
ているんでしょう? それならば、これを
持って行って下さい。おむすびを笹で包ん
だものと、お守りです」
八重垣姫、勝頼におむすびと錦の布切
れを渡す。
布切れは、毘という字が刺繍してある。
勝頼「……『毘』って書いてあるな」
八重垣姫「毘沙門天のお守りです。私が文字
を縫いました。叔父の上杉謙信……長尾景
虎は、毘沙門天が大好きだったから、その
お守りです」
勝頼「ありがとうございます。八重垣姫様。
何だか複雑ですが」
少し間を置いて、八重垣姫が言う。
八重垣姫「えーっと。あの、『風林火山』って
書いてある方が良かったですか?」
勝頼、少し黙り込む。
勝頼「まあ、俺は……」
苦笑いをする勝頼。
勝頼「そうだな。確かに。ずっとその『風林
火山』という四文字を、子供の頃から眺め
て、いつの間にやら背負うことになった」
八重垣姫、驚いて勝頼を見つめる。
少し黙り込んで、八重垣姫、話す。
八重垣姫「……そう。そうです。私は上杉家
の姫。貴方は武田家の武将。私の後ろにあ
るのは毘の旗。貴方の後ろにはるのは、風
林火山の旗」
少し笑う勝頼。
勝頼「毘の印のお守りか。上杉らしい」
二人の間に、暫く沈黙が流れる。
八重垣姫「旅の途中、何があるかわからない
から。どうか無事に、帰って来て下さいね」
勝頼、去ってゆく。
ずっと、その後ろ姿を見送る八重垣姫。
それを、後ろから密かに見つめる直江。
直江「こんなところ、来とうなかったー!」
八重垣姫、驚いて後ろを振り返る。
八重垣姫「えっ」
直江は弓の訓練をしていたらしく、弓
を手にしていた。
直江「あの蓑作という男。ずっと、そんな顔
をしておりましたが、姫にしつこくされて
から、少しは変わったようですな」
八重垣姫「直江殿……」
八重垣姫「はあ」
直江「あの者は、私とは違いますよ。それに
しても、あの者の身辺、気を付けた方がい
いですよ」
八重垣姫「そ、そうですか……」
直江「姫様も、身辺、気を付けて下さいよ。
姫様は我が上杉家、美少女プリンセスです
からね」
八重垣姫「ありがとう、直江殿」
○同・奥庭
八重垣姫。小さなお社の前で手を合わ
せる。
お社の前には、水が入った陶器の湯呑
み。
八重垣姫「お婆様。蓑作は勝頼様でした。で
も、これから兄上の命令で、お使いに行か
なければなりません。お婆様、勝頼様をお
守り下さい」
八重垣姫は、手を合わせながら考える。
八重垣姫「それにしても、このお社。何を祀
っているのかしら。小さいし」
○道中
手紙を懐に、旅人姿で歩く勝頼。
勝頼「随分、歩いたな。少し、そこの岩で休
むか」
勝頼、傍の岩に腰掛ける。
そこに、黒い衣装を纏った山本が近寄
る。
山本「殿……」
勝頼「勘太郎か」
山本「武田の殿であられる勝頼様が、上杉の
使いとは……。おいたわしい」
勝頼「……何。幼き頃、母と共に諏訪の地で
暮らし、父の信虎から放置されていた時代
を思えば。あの頃と、余り何も変わらぬ」
山本「殿……」
勝頼「俺は自分の国を、氏族を滅ぼした男な
のだ。大切な者達を、俺は守りきれんかっ
た」
山本「殿、私も旅に同行いたします」
勝頼「ありがとう。でも、今は少し休んでい
る。お前もそこの岩に座れ」
山本「そうさせて頂きます」
勝頼の傍にある岩に座る山本。
勝頼、懐から笹で包んだおむすびを出
す。
勝頼「勘太郎、飯だ。食うか」
山本「いえ、私は私の食糧をちゃんと持って
おりますので」
勝頼「どうせ干し飯か干物だろ」
山本「はい」
勝頼「全く」
山本「まあ、少し行ったら茶屋がありますか
ら、そこで少し休んで茶でも飲むつもりだ
ったんですよ」
勝頼、少し呆れる。
勝頼「呑気なものだな。お前の親父はもっと
生真面目な男だったぞ」
山本「まあ、それはそうですが」
勝頼「お前は食わんのか」
山本「その内に」
二人の間に、沈黙が流れる。
山本「殿……」
勝頼「なんだ」
山本「その……」
勝頼「言え」
山本「ずっと、悔いているのですね」
勝頼、面食らったような顔をしたが、
物憂げに俯く。
勝頼「何を」
山本「武田が滅びたことを」
勝頼、押し黙る。
勝頼「ああ、悔いている。当然だ」
山本「そう、当然ですね」
勝頼「ずっと、悔いている。逃れられるもの
ではない」
山本「それでも残った家臣、数十人が生き伸
びました。私は彼らを探し、連絡を取り合
っています」
勝頼「……武田のお家再興か」
山本「……お家、再興」
勝頼「……なあ、勘太郎よ。お前は本当に、武
田のお家再興が叶うと思うか」
沈黙が流れる。
山本「……なんとも」
勝頼「……俺は、少し疲れた」
山本「殿……」
勝頼「武田の名を継ぐことに。何をしても、
父の幻影が付き纏うことに。常に、父と対
比させられることに。俺の前にはいつでも
父、信虎の姿があって、俺はいつだって、
その陰に翻弄されていた」
山本「……ここ数十年、ずっと戦国の乱世が
続いています。けれど、抜きん出た初代に
比べて、二代目以降が育ち辛いとも言わ
れてもいます。初代がやりたい放題やって、
そのツケを、その次の代が払う羽目になる
からです」
勝頼「ツケか……」
山本「野心の赴くままに、侵略や政略結婚で、
領地を広げる。製鉄地域を抑える。食糧や、
金品や女を他の土地から奪う。そこには、
たびたび怨恨が付き纏う。それがツケです」
勝頼「……ツケな」
山本「織田も今、跡継ぎが現れるわけでもな
く、今や羽柴秀吉が天下取りを目論んでい
る。上杉家は跡継ぎ問題が浮上したものの、
二代目以降、上手く行っている良い例だと
思います」
勝頼「……上杉景勝か」
山本「上杉景勝は生真面目で強い野心もなく、
ただ、自分の領地の平和を愛している」
勝頼「そうだな。景勝は上手くやってると思
う」
勝頼、溜息を吐く。
勝頼「無闇に、父を気にして、父を超えるこ
とばかり考えるのは、もう疲れた。父を気
にし過ぎるのが良くないのだろうな」
山本「殿……」
勝頼「……でもな、勘太郎。俺は時々、思う。
もし、長兄の義信が生きていて、俺でなく
兄が武田の跡を継いでいたら、こうはなら
なかったのではないかとな」
山本「義信様ですか……」
勝頼「ああ」
おむすびを手に、空を見上げる勘太郎。
勝頼「俺と違って、嫡子の義信は家臣に愛さ
れていた。母親の三条夫人が京都の人間で
あっから、京の人間の洗練された匂いがし
たな。駿河の姫を大事にして、その姫も今
川で、京の色に染まった教育を受けていた。
だから、二人とも、家臣達に憧れられてい
た。田舎者の俺とは大違いだ」
山本「そんな」
勝頼「でも、だからだろうな。父は兄貴が怖
くなったんだ。誰にも自分を超えられたく
なかったんだ。だから、父は兄貴を謀反だ
と言って、自害させたんだと俺は思う」
山本「……覚えています。そもそも、勝頼様より前から、信虎様の時世から、家臣達の離反は始まっていたのです」
勝頼「そうだな。でも、たびたび思ったよ。
もし、父が兄を自害させなかったら、武田
はどうなっていただろうと。少なくとも、
兄は俺ほどに、家臣らに嫌われはしなかっ
た筈だ」
勝頼は苦笑する。
勝頼「ああ、でも勘太郎。お前の親父は、父の
軍師でありながら、きっと俺のお袋が、好
きだったんだろうな。たびたび諏訪に訪れ
てくれたし、俺に良くしてくれた。俺を守
ってくれた。感謝している」
山本「……そうですね。確かに。俺の父は諏
訪の地を愛して、湖衣姫や勝頼様を大事に
しておりました」
勝頼「俺の母は、物静かな美人だったからな」
山本「八重垣姫とは真逆ですね」
何だかむっとする勝頼。
勝頼「何故ここで、その名を出す」
山本「いや、別に。何となく」
勝頼「勘太郎、お前には妻はおらんのか」
山本「いや、そのようなことは、どうでも良いではありませぬか」
○上杉景勝の館・八重垣姫の部屋
灯篭の火が周囲を照らしている。
赤い内掛けの八重垣姫。
その傍に濡れ衣がいる。
八重垣姫「どう? 濡れ衣。誰か、諏訪法性
の兜について知っている者はいた?」
濡れ衣「ええ。名前を聞いたことがある、と
いう者は何人かいました。けれど、後はさ
っぱり」
八重垣姫「そう」
濡れ衣「武田の家宝、諏訪法性の兜。全く、
どこへ行ってしまったのでしょうね」
八重垣姫「本当。どこに行ってしまったのか
しら。兄上は、ずっと家来と話してばかり
で、中々相手をしてくれないし」
濡れ衣「景勝様でしたら、きっと何か知って
らっしゃるかもしれませんが……」
八重垣姫「でも、お兄様も怪しいわ。だって、
川中島の戦いを繰り返していた頃の話でし
ょう」
濡れ衣「そうですね。川中島の頃です」
八重垣姫「叔父の上杉謙信……長尾景虎には子がなかったから、北条家から養子に景虎様を貰って、それで、上杉謙信の姉の息子である、私の兄、景勝と跡継ぎ問題になったんじゃない。北条家や武田家を巻き込んで」
濡れ衣「そうでございますね」
頷く濡れ衣。
八重垣姫「叔父の長尾景虎には良くして貰ったけれど、いっつも話せるわけではなかったわ。兄上が、諏訪法性の兜の話を聞いているかなんて怪しいわよ」
濡れ衣「はあ。そうでしょうか」
八重垣姫「でも、私、頑張るわ。頑張って、どうにか諏訪法性の兜を手に入れて、勝頼様が武田家復興出来るようにお力添えするの!」
濡れ衣「……八重垣姫様は、よっぽど勝頼様がお好きなんですね」
八重垣姫「そうよ。いけない? 私、本当に友人達から恋愛話を何度も聞かされて聞かされて、もう羨ましくてウンザリしているんだから」
濡れ衣「はいはい、それはようございました」
八重垣姫「ちっとも良くないわよ!」
濡れ衣、笑うが少し悲しそう。
八重垣姫「濡れ衣? どうしたの」
濡れ衣「いいえ、何でも。あっ、私は呼ばれ
ているので、行かなくては。申し訳ござい
ません、姫様。ちょっとここで失礼致しま
す」
去ってゆく濡れ衣。
八重垣姫「何だろう。何だか、濡れ衣が少し
悲しそうな顔をしていた気がするわ」
八重垣姫、少し黙り込む。
八重垣姫「……悩んでいても仕方ないわ。行
動しなくちゃ。取り敢えず、兄上に聞いて
みよう。そろそろ、私の相手をしてくれる
かも知れない」
○同・本丸
上座に座る景勝。
その目の前に座る八重垣姫。
傍には、上杉家臣B・C。直江。
景勝「諏訪法性の兜?」
八重垣姫「はい。諏訪法性の兜です」
景勝「武田の家宝とな」
八重垣姫「はい。武田の宝だそうです」
景勝「何故、お前がそのようなことを聞くのだ」
八重垣姫「えっと。書物を読んで、そのような名前の宝が出て来たもので、一体どのようなものなのか。今は一体、どこにあるのかと、知りたいのでございます」
景勝「直江―」
直江「いや、私に振りますか。武田の宝とい
うのならば、私より殿の方がご存じでしょ
う」
景勝「うむ。まあそうだな。では、俺が知
っている限りのことを話すが」
八重垣姫「はい」
景勝「先代……叔父の長尾景虎から、少しだ
け話を聞いたことがある。何でも、忍びを
使って盗ませたが、古い神が宿っていると
いう話でな。叔父は神や仏を尊ぶ人であっ
たから、神社に祀らせたと聞いた」
八重垣姫「神社に……」
直江「どこの神社かは、わからないのですか」
景勝「うむ。そこまでは。叔父の時代から仕
えている者ならば、もしかしたら知ってい
る者も、いるかも知れんな」
○同・廊下
廊下の近く、庭で田後作(76)がハサミ
を手に、庭の手入れをしている。
八重垣姫、ガッツポーズ。
八重垣姫「ようし。諏訪法性の兜について、
聞き込みをしよう」
八重垣姫、傍の廊下を通る女使用人に
話しかける。
八重垣姫「ねえ、あなた。ちょっと聞きたい
んだけれど」
女使用人A「はい、なんでございましょう。
八重垣姫様」
八重垣姫「あのね、諏訪法性の兜って知らな
い? 武田の家宝の」
女使用人A「……ええと。申し訳ございませ
ん。私は、聞いたことがございません」
八重垣姫「じゃあ、知っていそうな人は?」
女使用人A「いいえ、ちょっと私には……。
年寄の方が、そういった物事には詳しいと
思いますが」
八重垣姫「そう。もういいわ。ありがとう」
女使用人A「知らなくて申し訳ございません、
失礼します」
八重垣姫「……はあ」
八重垣姫、溜息。
今度は廊下を家臣の男が通り過ぎ、八
重垣姫は声を掛ける。
八重垣姫「ねえ、ちょっと」
上杉家臣A「はい」
八重垣姫「諏訪法性の兜、というものを探し
てるんだけれど、聞いたことない? 武田
家の家宝らしいのだけれど」
上杉家臣A「さあ。ちょっと私めには」
八重垣姫「神社に祀られているらしいのだけ
れど」
上杉家臣A「神社ですか」
八重垣姫「どこの神社なのかわからなくて」
上杉家臣A「神社とかそういうのは、うーん。
意外と、古くから仕えている使用人などの
方が、知っているかもしれませんね」
八重垣姫「古くから……」
考え込む八重垣姫。
上杉家臣A「あの、用事があるので、これで
よろしいでしょうか」
忙しそうに去って行く家臣A。
溜息を吐く八重垣姫。
八重垣姫「……あーあ。誰も知らないのね」
○同・(夕)
八重垣姫、廊下の縁にぼんやり座る。
八重垣姫「はーあ。使用人や家来達に聞いて
も、皆、知らない、わからない、聞いたこ
とがない。……もう。どうすればいいんだ
ろう」
八重垣姫の後ろから、家臣BとCがや
って来る。
家臣A「どう思う」
上杉家臣B「何をだ」
上杉家臣C「あの、蓑作という男だ」
上杉家臣B「蓑作。ああ、武田勝頼ではない
かと嫌疑が掛かっていた庭師のことか」
上杉家臣C「景勝様は勝頼と同盟を組んだが、
我が上杉家とは古くから戦い合った相手。
景勝様の叔父、今は亡き上杉景虎様は、武
田を良き好敵手として見ていたが、川中島
の時代を忘れられず、恨みを強く抱く者も
いるからな」
家臣B「なるほどな」
去ってゆく家臣AとB。
八重垣姫「……勝頼様、大丈夫かしら」
○同・庭
庭で、使用人の子供が鶏を追い掛けて
転んでしまう。
子供「うっ、痛いよぉー」
八重垣姫「あら、大変」
女使用人B「ああ、もう泣かないの」
八重垣姫「坊や、ちょっとこっちおいで。傷
の手当てしてあげるから」
八重垣姫、部屋に行く。
○同・八重垣姫の部屋。
薬箱を出す八重垣姫。
○同・庭
八重垣姫、薬を子供の膝に塗っててあ
げる。
八重垣姫「はい、これで大丈夫」
子供「沁みるよぉ」
八重垣姫「がまん、がまん」
母親である、女使用人Bがやって来る。
女使用人B「八重垣姫様、ありがとうござい
ます」
八重垣姫「いいえー。このぐらいの傷だった
ら、ちょっと薬塗ればすぐ治るわよ。大丈
夫だから」
女使用人B「本当にありがとうございます」
子供を連れて去っていく使用人。
八重垣姫は縁側に腰掛けて、再びぼん
やりする。
八重垣姫「あーあ。本当にどうしよう。諏訪
法性の兜かー。はーあ」
八重垣姫、足をぷらぷらさせる。
空に、鳥の声。
八重垣姫「それにしても、濡れ衣、どこにいるのかしら」
八重垣姫の後ろから、濡れ衣がやって来る。
濡れ衣「八重垣姫様」
八重垣姫「濡れ衣! あなた、どこに行っていたの」
濡れ衣「ええ、少し」
八重垣姫「今、あなたがどこに行っているのかって考えていたのよ」
濡れ衣「申し訳ございません」
八重垣姫「……別にいいけれど」
濡れ衣「姫様。随分、諏訪法性の兜について探し回っておられるのですね。勝頼様のためでざいますか」
八重垣姫「……わからないわ」
濡れ衣「わからないのでございますか」
八重垣姫「多分、私がしたくてやっているこ
とだから」
濡れ衣「……でも、私は八重垣姫様が羨まし
いです」
八重垣姫「濡れ衣?」
濡れ衣「私がこうして、杉家の腰元になり、
八重垣姫様にお仕えする前の話ですが……。
ですから、そんなに昔の話ではありません。
私には夫がおりました。夫は……私の夫は、
戦で死に、帰って来ることはありませんで
した」
八重垣姫「亡くなったの?」
濡れ衣「……はい。決して、戻って来ること
はありませんでした。けれど、夫がしたく
てそうしたのです。自分の仕える主人のた
め、自分の国のために、夫は武士として命
を捧げたのです。わかってはおりますが、
やりきれなくて。武士の妻でありながら、
全く情けのうございます」
八重垣姫「濡れ衣……」
濡れ衣「私、八重垣姫様に仕えてすぐの頃は、
八重垣姫様の子供っぽさに呆れ返っておりました。けれど、今は……」
濡れ衣、溜息を吐く。
濡れ衣「申し訳ございません。このような話
を。私は、どうすれば死んだ夫の魂や、国
に報いられるか、ずっと考えて動いており
ます。だからきっと、これで良いのですよ
ね……」
八重垣姫「濡れ衣。いいえ。話してくれてあ
りがとう」
足音が聞こえる。
濡れ衣「それでは八重垣姫様。そろそろ日が
暮れて参りましたから、お部屋の方へお戻
り下さいまし」
八重垣姫「ええ……」
八重垣姫と濡れ衣に気付かず、二人の後ろから歩いて来る、
家老Aと、黒ずくめの刺客A・B。
八重垣姫「あら、誰かが来たようだわ」
濡れ衣「……あの者は」
八重垣姫「濡れ衣?」
濡れ衣「八重垣姫。少し、話しを聞いてみましょう」
八重垣姫「ぬ、濡れ衣?」
人差し指を口許に当てる濡れ衣。
家老A「良いな。元助。今の季節、諏訪湖は寒さに凍り付いて舟が出せん。あの、蓑作という男、恐らくは諏訪湖を迂回する道を
歩いている筈。早馬を出せば、一晩の内に
たやすく追い付くであろう」
刺客A「はっ」
家老A「あの蓑作という男。あの顔。忘れよ
うもない。間違いなく武田勝頼じゃ。御館の乱のとき、同盟を組んだときに、わしはあの顔を見た。わしはあの者に父や兄弟を討たれた。この恨み、晴らさずにおくべきか。良いか、必ず討つのじゃ。景勝様にはわしが命じたなどとバレぬようにな」
刺客B「御意に」
走り去ってゆく刺客A・B。
やがて、馬の嘶きと駆けていく音。
八重垣姫「そんな……」
家老A「うん? 誰じゃ」
八重垣姫。吃驚して口を抑える。
濡れ衣も、八重垣姫の口許を抑える。
家老A「気のせいか」
家老A、去って行く。
八重垣姫、はあ、と息を吐く
濡れ衣「ああ、八重垣姫様。申し訳ございません」
八重垣姫「いえ。ああ、でも、どうしよう濡れ衣。勝頼様が」
濡れ衣「あの者は、前々から良く勝頼様について色々と申しておりました。武田が滅んだ今も、よほど、武田に恨みがあるのでしょう」
八重垣姫「濡れ衣……。貴方は一体」
濡れ衣「……私は…」
濡れ衣、言葉に詰まる。
濡れ衣「私は……戦で夫を失ったばかりの、ただの情けない腰元でございますよ」
八重垣姫「濡れ衣、私はどうしたら……」
濡れ衣「そうですね」
八重垣姫「どうにかして、勝頼様の元に行って、命が狙われているとお教えしたいけれど。諏訪湖は凍り付いて舟が出せませんし、
女の足で追い掛けるのは難しいわ。相手は早馬を使っているし。……ああ、濡れ衣。私、どうしたら」
そこへ、庭師の田後作がやって来る。
田後作「……八重垣姫様。奥庭でございます」
八重垣姫「……えっ? 貴方は……」
濡れ衣「……田後作」
田後作「庭師、花造りの田後作でございます。あの蓑作って男、俺達みたいな庶民の匂いがせなんだ。きっと、どこかの由緒正しい
お坊ちゃんかなんかだろうと思っておりましたよ」
八重垣姫「田後作……」
田後作「奥庭でございます。姫様。昔に、景虎様のお母上が、奥庭に小さなお社を造らせました。その下に、武田家伝来の諏訪法性の兜があります」
八重垣姫「えっ……」
濡れ衣「……田後作、あなた」
田後作「……兜を持って行っておやりなされ」
八重垣姫「で、でも……」
田後作「姫様。あの兜には不思議な力がございます。信じなされ。どうにかなると」
八重垣姫「……田後作」
田後作「話は聞きました。早速、わしの息子を、早馬でやりました。あいつは剣の腕も立ちます。追手を食い止めるよう言ってあります。そこらの家臣でも捕まえて、馬を走らせて。蓑作に、諏訪法性の兜を持って行ってやりなさい」
八重垣姫「……田後作、あなた一体……」
田後作「さ、早く」
八重垣姫「……ありがとう」
八重垣姫、躊躇しながら奥庭へ走って行く。
田後作「濡れ衣。あんた、ずっとこの上杉のお館で、コソコソ嗅ぎまわって怪しく動いておったな。あんたも探していたのじゃろう。諏訪法性の兜を」
濡れ衣「……田後作。あなた」
田後作「そうじゃろう」
濡れ衣「(何か言いたげに)……」
濡れ衣は、フッと観念したように笑う。
濡れ衣「そう。その通りよ。私は……私は、武田家の忍びだった。天目山で武田家が自刃した後。軍師の山本は、腹を召した勝頼様の介錯をせず、介抱し、表向きは勝頼様が死んだように見せ掛けた。私の夫は、勝頼様に顔や姿が似ていた。だから、喜んで、自ら死んだわ。そして、夫の首代を見て、織田軍は勝頼様が死んだと信じた」
田後作「……お前は、八重垣姫様の腰元とし
て上杉家に忍び込み、武田の再興のために、諏訪法性の兜を、探していたわけか」
濡れ衣「勝頼様自身が、来るとは思わなかっ
たけれど。大事な身なのだから、どこかに潜んでいて欲しかったわ」
濡れ衣は溜息を吐く。
濡れ衣「それより、田後作。もしかして、あなたも」
田後作、フッと笑う。
田後作「お前と同じじゃ。わしも、わしの妻も、わしの子供も忍びじゃ。代々上杉家に仕える忍びじゃ!」
濡れ衣「田後作……」
田後作「諏訪法性の兜。あの兜を盗み出したのは誰でもない、このわしじゃ。だが、武田が滅んでゆく話を耳にして……。不思議なものじゃな。今となっては、わしは自分がしたことが本当に良かったのか、わからん。どこかで、あんなことせなんだらと、悔いていた。ずっとな」
○同・奥庭(夜)
奥庭の小さなお社に駆け付ける八重垣姫。
八重垣姫「お婆様、ちょっとお社の下を掘らせて頂きます」
八重垣姫、小さなお社を手で上に持ち上げる。
八重垣姫「ぬっ、ぬおぉー!」
だが、お社は持ち上がらない。
八重垣姫「うおぉー!」
お社、ぽこんと持ち上がる。
八重垣姫「よっこらしょ……っと」
八重垣姫、持ち上げたお社を隣に置く。
八重垣姫「はぁ、はぁ。良く考えたら持ち上げるより、押した方が楽だったかも知れない」
八重垣姫、息を荒げながらお社のあったところを見る。
八重垣姫「……ああ、何かあるわ。木箱かしら」
八重垣姫、木箱を取り出す。
八重垣姫「よっ、と……。はぁ、はぁ」
八重垣姫、木箱を見つめる。
八重垣姫「「何だか、色んなお札がたくさん貼ってある。虫に食われてボロボロ……。あ、蓋が開くわ」
蓋を開けると、中には立派な、古めかしい兜があった。
八重垣姫「これね……。これが、諏訪法性の兜」
八重垣姫は肩で息をしながら、諏訪法性の兜を手にした。
八重垣姫「……ずっと武田家を守って来た、武田家のお守りの兜。古い神様が宿っている兜」
八重垣姫、ぽろぽろと泣く。
八重垣姫「か、勝頼様……。勝頼様、今、ご無事かしら……。私は……。私は……」
嗚咽を上げる八重垣姫。
八重垣姫「……諏訪法性の兜。武田家を守る力があるというのなら……どうか、お願いします。あの人を、勝頼様を助けて。お願い。武田の宝なんでしょう。武田を守る兜なんでしょう。上杉の姫である私が言うのはおかしいのかも知れないけれど……。だったら、お願いします。どうか。勝頼様に追っ手が迫っているの。危ないって教えなければ。お願い……」
すると、どこからか鈴の音が鳴り響き、諏訪法性の兜が光り輝きだす。
兜から、小さい白狐が現れる。
八重垣姫「あ……。あなたはこの前の……」
火が燃える音。
周囲が、狐火で明るくなる。
鳴り続ける鈴の音。
八重垣姫「きゃっ、火がいっぱい……」
そして、白い襦袢姿の、長い黒髪の諏訪御料人(45)が現れる。
八重垣姫「あ、あなたは……」
諏訪御料人は白い子狐の頭を撫で、八重垣姫の方に手を向ける。
鳴り響く鈴の音。
宙に浮かび上がる八重垣姫。
八重垣姫「え……。きゃああっ」
諏訪御料人「……大丈夫。火達は狐火。この子狐はあなたを好いている。貴方を、きっと導いてくれる」
八重垣姫「あなたは……一体。……きゃあああっ」
更に、空高く浮かび上がる八重垣姫。
諏訪御料人「ほら、もう地上が遠い。真冬の夜空は月や星が凄く綺麗なのよ。でも、月と星の灯りだけでは心もとないでしょう。だから、この子が狐火で、道を照らしてくれる」
八重垣姫「あ、あなたは一体……」
諏訪御料人「……秘密よ」
八重垣姫「……そ、そんなぁ」
響き渡る鈴の音。
諏訪御料人「……行ってらっしゃい」
消える、諏訪御料人。
八重垣姫「……ああ、消えちゃった」
白い子狐「……諏訪湖に戻ったんじゃ」
喋り出す白い子狐に、八重垣姫は目を向ける。
八重垣姫「諏訪湖?」
白い子狐「諏訪御料人は諏訪湖に住んでおるからの」
八重垣姫「あなた、喋れるのね」
白い子狐「まあな」
八重垣姫「貴方は、兜の神様なの?」
白い子狐「うーむ。どうかのう」
鈴の音。
目の前に、狐火の道。
八重垣姫「狐火が、ずっと向うまで夜空を照らして、道になっている。勝頼様のところまで、続いているのかしら」
八重垣姫は白い子狐の方を見る。
鈴の音が鳴る。
八重垣姫「お願い、私を勝頼様のところまで連れて行って」
白い子狐が頷く。
白い子狐「……良いぞ」
八重垣姫「ありがとう」
白い子狐「さあ、行こう。じゃあ、もっと高く飛んで行くぞ」
空に浮かび上がる八重垣姫。
八重垣姫「きゃあー! わあ、凄い。私、飛んでる。空を飛んでるわ!」
白い子狐「その兜、離したら駄目じゃぞ」
八重垣姫「わ、わかってるわよ!」
兜を手に、白い子狐と共に、狐火の道を飛んで行く八重垣姫。
○諏訪湖(夜)
真っ暗な諏訪湖。
表面は一面に氷が張っている。
八重垣姫「ああ、諏訪湖は、やっぱり氷が張っているわ」
白い子狐「わしが、湖面を狐火で照らそう。それ」
鳴り響き続ける鈴の音。
火が燃える音。
どんどん、辺りが火の色に明るくなっていく。
八重垣姫「あなた、凄いのね」
白い子狐「妖怪の端くれだからのう。お、諏訪御料人が手を振っておるぞ」
諏訪湖で、手を振っている諏訪御料人。
八重垣姫「あの人は一体……」
白い子狐「諏訪湖に住んでいるわしの友達じゃ。何だか、随分とお主のことを心配していたぞ」
八重垣姫「何故……」
白い子狐「さあのう」
八重垣姫「あなたって、話をはぐらかすわね。あ、あれ……」
地上を見下ろす八重垣姫。
白い子狐「三人の男が、何だか追い掛けっこしておるのう」
馬の嘶きと走る音。刀で斬り合う音。
刺客A・Bと田後作の息子(30)が切
り結ぶ。
八重垣姫「あの二人、勝頼様を殺すよう命令されていた刺客だわ。あの二人を追っているのは田後作の息子さんかしら。あ、刺客二人の内、一人が馬で走り出した。勝頼様、一体どこにいるのかしら」
白い子狐「狐火の道の向こう。もうすぐじゃ。
ほら、あそこで焚火に当たっている二人じゃないかのう」
八重垣姫「ああ、本当だわ」
白い子狐「降りるぞ」
八重垣姫「ゆ、ゆっくり。ゆっくり頼むわよ!」
白い子狐「そーれ」
鳴りやむ鈴の音。
○山中(夜)
夜空の下、焚火を囲む勝頼と山本。
パチパチと火が爆ぜる音。
勝頼「あー。寒いな」
山本「諏訪湖も凍り付いて、舟が使えませんでしたからね」
勝頼「途中に村があって、宿を取れれば良かったんだが。もう、この際、民家の馬小屋でも良いな。まだ、暖かそうだ」
山本「この際、勝頼様と俺で暖め合いますか」
勝頼「もう、最終手段はそうする。今はまだ若干の余裕がある」
山本「そりゃあ、良かった」
勝頼「うーん。親父は、その道は凄かったな」
山本「ああ、武田信虎様ですか……」
勝頼「いや、その話はもういい」
山本「勝頼様が、言い出したんじゃないですか」
山本、枝を焚火に入れる。
山本「あー。寒いな。勝頼様、もう、一緒に暖め合いません?」
勝頼「いや、だからまだ、若干の余裕があってだな」
遠くから、八重垣姫の声。
八重垣姫「勝頼様―!」
山本「あれ?」
勝頼「どうした勘太郎」
山本「いや、なんか。若い娘の声が聞こえたような」
勝頼「多分、女と暖め合いたいというお前の願望が、お前に幻を見せたんだ」
山本「酷いこと言いますね。俺、ちょっと傷付きました! 俺、ちゃんと奥さんいます!」
勝頼「お前の親父は、お前よりもう少し、軍師っぽいツラ構えだったぞ」
八重垣姫「勝頼様―!」
山本「あれ、やっぱり女の声がするな……ん?」
山本、空を見上げて驚く。
山本「か、か、勝頼様……」
勝頼「なんだ」
山本「そ、そ、そ、空から女の子が……」
勝頼「えっ」
山本「空から女の子が! 空から女の子が降ってきます!!」
八重垣姫「きゃー!」
山本「ぎゃー!」
勝頼「う、う、うわー!!」
ヒュー、ドスンと、空から八重垣姫が落っこちて、勝頼とぶつかる音。
勝頼「いっ、いたたたた」
八重垣姫「ひえー……。いた、いたたた」
勝頼を巻き添えに、地面に倒れ伏している八重垣姫。
手には諏訪法性の兜。
少し離れたところから、八重垣姫を指差して驚く山本。
山本「あっ、八重垣姫様だ! 勝頼様、八重垣姫ですよ! 八重垣姫!」
勝頼「えっ。あっ、本当だ。ちょっ、何やっているんですか姫、何で、そ、そ、空から落ちて来るんですか! 意味がわからない!」
八重垣姫「……い、いったー……。落ちて来たっていうか、空を飛んできたのよ! ……失礼ね」
八重垣姫、勝頼の上でむっくり起き上がり、立ち上がる。
八重垣姫「それより、勝頼様! 見て下さい!」
八重垣姫、諏訪法性の兜を勝頼に見せる。
勝頼「そ、それは……」
勘太郎「その兜……!」
八重垣姫「諏訪法性の兜です! 祖母が昔、奥庭に作らせた小さなお社の下から出てきました! お探しのものはこれですよね!」
勝頼「八重垣姫……」
八重垣姫「上杉の忍びが、昔に盗み出したそうです。武田家のお守りなのでしょう。どうか、大事にして下さい」
勝頼、八重垣姫から諏訪法性の兜を受け取る。
勝頼「ありがとうございます、姫」
山本も、地面に膝を付く。
山本「ありがとうございます、八重垣姫」
八重垣姫「貴方は……」
山本「私は山本勘太郎。武田家軍師、山本勘助の息子です」
八重垣姫「武田の……」
山本「武田家のため、裏で動いておりました」
勝頼「だが……俺達は、武田家再興と口にはしたが、結局、本当に武田家再興をするのは難しいと考えている」
八重垣姫「勝頼様……。何故」
山本、溜息を吐く。
山本「勝頼様の死後、甲斐武田の土地は、北条と徳川、その他様々な武将が加わって、奪い合いになりました。そして、各々の
武将に切り取られました。今は、戦いは収まって、それぞれに治められて落ち着いています」
八重垣姫「甲斐の国が……」
勝頼「俺が今、出て行ったら、また激しい争いになる。俺は、その複数の武将達を相手に、少ない手勢で戦端を開かなければならない。辛いことだが。結局、俺は……」
八重垣姫「勝頼様……」
山本「夢ですよ。俺たちの叶わぬ夢です。でも、全てを失った俺達には、動かずにはいられなくて、そういったものが必要だったんです。武田のため、自分達が失ったもののため。そうやって、手を伸ばすものが。俺達をどうにか、突き動かしてくれるものが」
八重垣姫「叶わぬ夢……」
勝頼「俺は、何度も思った。何故、俺を生かしたのか。なあ、勘太郎。何故、俺を死なせてくれなかったのかと」
山本「俺が軍師として出来たのは、勝頼様。貴方の血を繋ぐことだけでした。俺は、武田の血筋を残したかった」
八重垣姫「血筋を……」
勝頼「……俺は、死にたかった。他の家臣達と共に、死にたかった」
山本「申し訳ございません。でも、武田家を、
その血筋を残さなければならない。 滅ぼ
すわけには行かない。そうでしょう」
八重垣姫、勝頼を抱きしめる。
八重垣姫「私は勝頼様に生きていて欲しいで
す! 私は……私は、死んでもらっては困
ります! 私の……我儘かも知れません。
だけど、私は、私は……」
八重垣姫、泣く。
八重垣姫「生きて下さい! 私と共に生きて
下さい! お願いします!」
山本「俺からも頼みます。勝頼様!」
勝頼「……八重垣姫。勘太郎……」
勝頼、八重垣姫を抱きしめ返す。
勝頼「勘太郎」
山本「はっ」
勝頼「少し席を外せ」
山本「はっ? ……あ、はいっ! 席を外し
ます!」
そうっと、離れて木陰に隠れる山本。
腕をさする。
勘太郎「うう、さ、寒い。焚火に当たりたい」
白い子狐が山本に近付く。
白い子狐「火ならあるぞ」
山本「ん?」
白い子狐「ほれ」
白い子狐、狐火を出す。
山本「うわ、狐が喋った上に火を出した!」
焚火の傍で、抱き合う勝頼と八重垣姫。
勝頼「え、えーっと。や、八重垣姫」
八重垣姫「は、はい」
勝頼「えっと、その」
八重垣姫「勝頼様……。暖かいですね」
勝頼「そ、そうか」
八重垣姫「あっ! 思い出した。どうしよう!」
勝頼「何か」
八重垣姫「上杉家の家老の一人が武田を恨ん
でいて、勝頼様の正体を見抜いて刺客を放
ったんです。私、お教えしなければと思っ
て、それで……」
馬のいななき。
後ろからやって来る、田後作と、田後
作の息子。
田後作「それならば、もう大丈夫です」
八重垣姫「あ、田後作!」
田後作「わしの息子が刺客を追い返しました。
わしも、こうして早馬で駆け付けたのです
が、まあ、間に合ったようですな」
勝頼「田後作……。上杉家の庭師の。俺に花
作りを教えてくれた」
田後作「わしらは、上杉の忍びなのです。武
田方の濡れ衣殿と同じように」
八重垣姫「忍び……。濡れ衣? えっ」
田後作の後ろから、濡れ衣もやって来
る。
濡れ衣「姫様、それに……勝頼様。ご無事で
何よりでございます」
勝頼「苦労を掛けるな。濡れ衣」
八重垣姫「えっ……。濡れ衣、あなた」
勝頼「濡れ衣。彼女は武田の忍びだ。勘太郎の
命で、俺に先立って、上杉で諏訪法性の兜
を探しておったらしい。化粧をしていたか
ら、俺も初めは、うちの忍びの濡れ衣と同
一人物だとは気付かなんだ」
濡れ衣「八重垣姫。騙していて申し訳ござい
ません」
八重垣姫「いいえ。……濡れ衣。貴方は、勝
頼様の部下……武田の忍びだったのね」
濡れ衣「はい」
勝頼「それにしても、八重垣姫。急に、空か
ら降って来たものだから驚きました」
八重垣姫「諏訪法性の兜に祈ったら、白い子
狐と、諏訪御料人という美人な女の人が現
れて、私が空を飛べるようにしてくれたの
です。白い子狐が、狐火で周囲を照らして、
ここまで導いてくれたました」
勝頼「そ、それは奇怪な話だな」
八重垣姫「でも、お蔭で、私は勝頼様のとこ
ろまで、兜を持って飛んで来られたのです
……あら、あの白い子狐はどこへ行ったの
かしら」
後ろの方、木陰で狐火に当たる山本。
山本「あー。暖かい」
八重垣姫、勝頼と抱き合っていたが、
ちょっと離れる。
八重垣姫「あの、勝頼様は、もう行かれてし
まうんですか」
勝頼「そうだな。目的のものは手に入れたし、
上杉家にいる理由はない。一応、文は届け
るつもりだが」
田後作「その必要はない。景勝様はお前を武
田勝頼だと確信しておった。そのまま、自
由に行けとのことじゃ」
勝頼「景勝が……」
田後作「使いの話は、ただの理由付けじゃ」
勝頼「……そうか。景勝が。……上杉景勝が
な」
八重垣姫「あの。私このまま、勝頼様に付い
て行って駆け落ちしてしまっても良いです
か」
勝頼「いや、えっと……。少し待ってくれ」
八重垣姫「何でですか」
勝頼「こちらもやることがある。それから、迎えに行くから」
八重垣姫「わかりました。私も色々とありますし。勝頼様をお待ちしております。それに、いつまでも来ないならば、私から行きます」
田後作「姫様。景勝様が心配なさりますぞ」
田後作の息子「もしものときは、父上と私で説明すれば良いのではないですか」
濡れ衣「大丈夫なの?」
田後作「ふう。景勝様は、わしらが代々上杉
家に仕える忍びだと、ちゃんと知っておら
れる。わしらは、姫の動向が気になるから、
見張っているように仰せつかっていたのだ」
田後作の息子「八重垣姫を連れて、ちゃんと説明しに帰りましょう」
田後作「わかっておる」
濡れ衣「私も心配ですから、これからは、本当に八重垣姫様の腰元としてお仕えします」
歩いて来る、山本と白い子狐。
山本「甲斐の国のある村に、残った武田家の
家臣達が暮らしています。帰りましょう。
勝頼様。武田、本家の血筋はそこに残りま
す。結局のところ、お家再興は難しいでし
ょう。ですが、お家断絶にはなりませぬ。
諏訪法性の兜が、きっと守りになってくれ
るでしょう」
勝頼「そうだな。……俺達の故郷に帰ろう」
山本、濡れ衣に目をやる。
山本「今、俺、本当は奥さんいないんだけど、
どうですか?」
濡れ衣「……えっと」
苦笑いして、焼き芋をする濡れ衣。
近くの木陰までやって来て、ひっそり
と笑う諏訪御料人。
諏訪御料人「……勝頼。私の子。成長したわ
ね。どうか、あなたはあなたの道を行って
ね」
満足気に笑い、すうっと、消えてゆく諏訪御料人。
○武田の館・庭
笑い合う勝頼と八重垣姫。
〈終わり〉
二十字二十行・百枚5