89.古き言葉と忠誠
『左様ですね。
ですがそちらの丞相が以前仰られたように、この顔は後宮においては並以下の可愛らしさ。
どうぞお気になさらず。
それよりも優先すべきは損失補填ですから。
それで、この離宮の敷地は後宮の物、しかしそれ以外の物は私が貴妃である間は私の物、この場でどのような利益があろうと、敷地をどう使おうと全ては私に帰属する、でよろしいのかしら?』
『ええ。
廃宮の扱いを取りやめ、復宮し、資産価値は一切無し。
故にこれを壊すも修繕するも全て個人資産でされるならばご随意に。
ただし貴妃でなくなった場合には、ここに建物が建っていてもそれは後宮の物となりますので、ご注意を』
『ふふふ、損失ばかりですね』
『ふん、ならば建てねばよかろう』
『それもようございますね』
確かこの後宮で初めて出会った破落戸に、頬を叩かれそうになった後にした会話です。
あの日の証文にはしっかりとそこを明記し、皇帝陛下と皇貴妃の印章も押されています。
「チッ、抜け目がない。
報告くらいはせよ」
「もちろん。
それも含めて、皇貴妃のお願いを叶える手筈は整わせておりますから」
「では……あの者を……」
にこりと微笑んで頷けば、皇貴妃も安堵したように1つ息を吐きました。
「……何故、大雪なのです?」
丞相が訝しげに、いえ、こちらの出方を窺うように尋ねてきます。
そうですね、内心では守銭奴とか思ってそうですし、それくらいには損得で動いた姿しか知らないのですから、無理もありません。
「情けは人の為ならず、です」
「何です、それは?」
そういえば、そのような言葉はこちら側にはありませんでしたね。
丞相が首を傾げるのも当然です。
「古き言葉ですよ」
「情けは人の為にならない、という意味ですか?」
「いいえ……」
「誰かに親切心を施せば、巡り巡って自分に返ってくる、か?」
「……」
はて、何故それに思い当たるのでしょう?
皇貴妃のように推察するのが2代目の頃よりの常でございましたのに。
私の言葉を遮って正答した陛下を見やれば、それこそ訝しげな顔です。
こちらの方こそ訝しむ顔になりそうですが、そこはグッと堪えます。
「ええ、よくご存知でしたね。
たまたま知った古い言葉ですが、気に入って使っております」
「……そうか」
情報源がわからないので、素直に認めてどうとでも取れるようにしておけば、陛下もひとまず引くようです。
「それに彼は最初から貴方の部下だったのでは?
そもそもがあの誓約紋は2重になっておりました。
恐らく1つは予め彼が自らに施した、何者かへの忠誠の証。
ジャオの者が使う、己に課す誓約紋です。
だからこそあの雑な隷属の紋の誓約を破りかけても、あの程度の痛みで済んでいたのですよ。
あれには破ろうとした瞬間、意識を刈り取る程の激痛を与える役割があるのに、暫く堪えていたでしょう?」
「ああ、そもそも意識を刈り取ったのはそなたの掌底であったな」
「まあ、何の事でしょう」
法律上の夫の茶々入れは誤魔化しても構いませんよね。
「それはともかく、紋は先に描いた方を優先する性質があります。
対隷属の紋ともなれば、主は別に、隷属されるより先に定めて描いていたと考える方がしっくりくるのです」
「しかし何故その主が私だと?」
あのようにおかしな行動を取っていて、今更ですね。
「危険な屋根の上の間者に率先して陛下を差し向け、紋が胸にあるのを知っているかの如く服を脱がせてらっしゃいました。
それに丞相でも解呪できると伝えたのに、危険かもしれない事を陛下にさせたのも腑に落ちなかったのですよ。
ジャオの者が自らに施す忠誠の紋は、主と定めた者が本人の同意なく解呪してしまえば、それこそ殺めかねないのをご存知だったのでしょう」
それ程にあの一族の方々の、懐を許した者への情は、深く重いのです。
「もちろん全てが繋がったのはそれ以降の彼の動きを観察していたからですよ。
ですが可能性を絞っていれば、幾ら隠すのが上手い間者でも、綻びを見つける事は容易くなるのです。
私が雇い入れて身近に置く者達は皆、私を雇用主と認めて手練れ揃い。
それに自らの主とは別の誰かを主と定めた者が身近にいれば、彼らはその違いに気づいてしまいますから」
何せ皆が皆、私に忠誠を誓ってくれておりますもの。