75.性悪、馬鹿、年増〜凜汐side
「そう、つまり私の為にあの性悪の元に潜りこんだという事?」
椅子に腰かける蘭花宮の主たる私の目の前には、右頬に火傷の痕がある男がかしずいている。
お父様から後宮へ入宮する時に譲り受けたこの間諜には、体中に火傷の痕がある。
肌の色は浅黒いし、醜いこと。
けれど顔を見ながら眉を顰めるのは、既に見慣れてしまった火傷の痕があるからではないわ。
だってあの性悪のいる水仙宮の様子を探るよう指示を出した後、この男は連絡も寄越さす消息を断っていた。
にも関わらず、突然あの日の茶会で現れたのだもの。
よりによって水仙宮の性悪の護衛として。
間諜としての腕前はもちろん、この男は八つ当たりするのにも何かと重宝していた。
流石に未だ清い体なのもあって、男の裸体を見るのは気が引けたから、火傷の痕がうっすら窺える程度の薄い衣を羽織らせて、背中だけを向けさせていたけれど、腹が立ったり、やるせなさを感じる度に血を滲ませるまで何度も鞭で背を打った。
鍛えた体躯をしていたし、女官のようにうっかり動けなくしてしまう事もなく、何かと重宝していたのよ。
だって一々この宮の外れにある古井戸まで運ぶのは疲れるもの。
いくら元が高貴な身分である皇帝陛下の妻たる貴妃であっても、何人かを動けなくしてしまったのが明るみになるとまずいもの。
でも悪いのは私じゃないわ。
妻として後宮に招きながら、初夜にすら訪れなかった陛下。
皇貴妃という位にありながら、未だにお子すら授からないのに、夫を独占し続ける年増女。
陛下の幼馴染で丞相という立場でありながら、義理とはいえ妹である私の元へ、夫を寄越さない義兄。
義兄は、晨光は更に罪深い。
私の女としての自分に向けられる恋心を知っていながら、いつも距離を取る。
初夜にすら訪れない陛下の妻にする為に、後宮へ入るのを阻止してくれなかったのだから。
そりゃ、昔は分家の使い捨ての子供が血の繋がりがないにも関わらず、私の兄になったのが許せなくて意地悪をしたわ。
けれどそんなの子供の悪戯よ。
いつから恋心を抱いたのかわからないけれど、あんな綺麗な顔で、丞相となるくらいには仕事もできるし、私が入宮する頃にはこの帝国の皇帝陛下の最側近となっていた。
晨光さえ望めば、年増女に入れあげるような夫だもの。
清い体のまま、下賜してくれるに決まっている。
時折、冷たいながらも色気を持った瞳を私に向けるのだから、憎からず想ってくれているのだってわかっているの。
なのに動いてはくれない臆病っぷりには本当にやきもきさせられる。
それに密かに想い合う私達の仲を裂こうとしていた梳巧玲も気に入らなかった。
だからせめて目の届く所に置きつつ、自分より格下の妾となる夏花宮の嬪に推挙してやったわ。
初夜で必死に顔を取り繕わせていた馬鹿な女には、胸がすくような思いだった。
以来、立場を解らせる為に何かにつけて呼びつけてやっている。
そもそもお父様が馬鹿女の父親と仲の良い従兄弟だったから、昔から何かと気にかけてやっていたのに、よりによって風家の男に取り入ろうとする事自体が間違っている。
養子であっても関係ないし、むしろそれなら血と家との繋がり的にもこの私と結ばれる方が良いに決まっているのに。
「もちろんです。
美しい凜汐貴妃の側で、それなりの報酬を得ながら仕える方が良いに決まっている」
ふと、私の質問に答えた男の声で我に返る。
そういえば、まだいたわ。
にしても、下賤な者はこれだから扱いやすい。
優秀な間諜とはいっても、美貌と大金に釣られるのだもの。
あの時はこんな使い捨ての平民に裏切られた気になって思わず睨んでしまった。
誰にも気づかれなかったから良かったけれど、流石に夫となった陛下と初めて顔を合わせて語らう場には相応しくはなかったと反省し、その事にもまた苛立ってしまった。
そのせいで身近に置いて世話をさせていた女官が1人動かなくなったのは記憶に新しい。
「そう。
それで、手土産くらいは持って帰ったのよね?」
年増女ばかり寵愛していたはずの陛下が、見てくれは並程度でしかない、若いだけの性悪と親密な関係となったのは、正直口惜しい。
あの勝ち誇った小憎たらしい顔でふざけた牽制を仕掛けてきた事を思い出すだけで……直接動けなくしてやりたくなる。