故安倍晋三国葬儀にみる悲劇性
歴史にイフは禁物ですが、もしこのとき安倍氏が、弁連からの抗議要望を受け容れて、反日カルトとの関係を断ち切っておれば、犯行後になにが起こるか正確に見極めていたと思しき山上氏のことですから、
「統一教会との関係を断ち切った安倍氏殺害にもはやメリットなし」
と判断し、安倍氏を標的から除外した可能性は高かったのではないでしょうか。
対話拒否の政治姿勢が事件につながった(逆に言えば、対話に応じてさえおれば事件を回避できた)との見立てが、決して突飛な発想だとはいえないことが分かります。
頭突き芸をせがみ、空頭の先生の頭を爆発に追いやったバカボンパパや、満身創痍の三沢選手に四天王プロレスを求め、リング禍に追いやった当時のファン。
そして、話を聞かない安倍政治に喝采を浴びせ煽り立てた安倍シンパが、安倍氏を非業の死に追いやった悲劇の図式です。
故安倍晋三国葬儀で弔辞を読み上げたのは菅元総理でした。
「天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を召し上げてしまったのか」
弔辞の一部を抜粋したものです。もちろん式典の一幕ですから修辞的要素もあるでしょうが、それでも敢えて
「なぜこんなことになってしまったのか」
と問われるならば
「対話が成り立たなかったから」
という身も蓋もない回答をするしかありません。
菅氏といえば、安倍政権で長く官房長官を務め、立場の異なる者の言葉に耳を傾けなかった安倍政治の一端を担った人物でもありました。
その答弁スタイルは米国政治家の著書より引いた
「彼等は聞きたいことを聞いてくる。こちらは答えたいことに答えれば良い」
とする一節を実践したもので、菅氏こそが対話が成り立たない安倍政治の具現者だったといっても過言ではありません。
もっとも、対話拒否が事件に直結した自覚は菅氏からは欠落しています(自覚していれば弔辞なんか読み上げられない)。
だからこその悲劇。
安倍氏が、悪意のないシンパに煽られて対話なき政治を推し進めたことや、その姿勢こそが事件を引き起こした動かしがたい現実。
そして、その結果死んだ安倍氏の国葬儀で弔辞を読み上げた人物が、よりにもよって対話拒否を明確に標榜し悪びれることさえなかった菅氏だったことが、本件の悲劇性をよりいっそう増幅させているように感じるのは、果たして私だけでしょうか。
(おわり)