タイムカプセルに一片の
三月の夜は冷える。息を吐けば眼鏡がくもる。「コンタクトで来れば良かった」なんて思いながら、日曜の夜にひとり、母校の小学校へと歩く。
小学校の通用門を開けて中に入ると、七分咲きの桜が待ち構えていた。赤い煉瓦塀に薄紅色のソメイヨシノがよく似合う。
僕はソメイヨシノの下をとおり、中庭にそびえる一本のカイドウザクラへと向かった。満開のソメイヨシノと違い、カイドウザクラはツボミも膨らんでいない。変だな。もう花が咲いていると思ったのに。
リュックから折り畳み式のシャベルを取り出し、通用門の鍵をズボンのポケットにしまう。……鍵は地元のスポーツ少年団に関わる叔父から借りた物だ。なくしてはいけない。「今回だけだぞ。直哉」と、僕を信用して借してくれたのだから。
作業に入る前に、携帯電話を見た。表示された時刻は三月二十七日(日)夜の七時。
僕はかつての同級生にメッセージを送った。
『高上。これから、あのタイムカプセルを掘り出すよ』
地面を掘る。土の音が響く。この音は、たぶん小学生のころに一番聞いた。普段は土いじりをしていない。
桜の下にタイムカプセルを埋めてから十年。
開封日を過ぎていると気づいたのは、つい先週のことだ。
◇◇◇
小学校を卒業してから十年後の春。
三月の連休時に、六年生時のクラスの同窓会が開かれた。開催場所は地元の居酒屋で、集まったメンバーは十二人くらいという、ささやかな同窓会。
幹事のナベやんが乾杯の音頭で「エー、誠に突発的な同窓会にご参加いただきありがとうございまーす!」と言ったのを、よく覚えている。その音頭のとき、僕ひとりだけ笑えていなかったから。
ナベやんの音頭のあと、各自が料理と酒を楽しみつつ、思い出話に花を咲かせていた。
僕は隅のほうで、当時の親友と飲んでいた。小学校のころ一番仲がよかったのは、すこし体が弱かった拓海。
拓海が生中二杯とお冷を一杯飲む間に、僕はハイボール一杯しか飲まなかった。あまり料理も食べずにちみちみ飲んでいたら、拓海に聞かれた。
『直哉……やっぱりあれ? 向井さんが結婚したから、ビミョーなの?』
認めたくないけれど、その通りだった。
僕は小学六年生のころ、拓海のほかに「向井紗矢」という女子と仲が良かった。
向井は赤いフレームの眼鏡をかけていて、体育嫌いで、すこし斜に構えた性格。大人が読むようなミステリーや現代小説を、しょっちゅう読んでいた。僕も読書好きだったので、しだいに話すようになった。教室にいるときは拓海と過ごしていたが、図書室にいるときは向井と一緒にいた。
よく本の感想を言い合ったし、家族や友人との悩みも打ち明けた。僕が落ち込んでいると「『春遠からじ』だよ。追川くん」と励ましてくれた。寒い冬が来たなら、春はもう遠くないと。故事で知ったらしい言葉。
友達だったけれど、ときどき可愛く見えた。
向井とは違う中学校へ進学することになったので、卒業式の前日に、ふたりで会った。
ふたりだけの思い出として、タイムカプセルを埋めた。
タイムカプセルを埋めたのは「寒の戻り」と呼ばれるような、肌寒い春の日。卒業式前日の三月十六日だ。その日はまだソメイヨシノは咲いておらず、カイドウザクラが満開だった。
僕たちは、中庭に一本だけ生えているカイドウザクラの木の下に、カプセルを埋めた。
カイドウザクラはソメイヨシノと違い、濃いピンクの花を咲かせる。
ソメイヨシノはいっぱいあって、ありきたり。珍しい桜のほうが好き。……向井はそう言って、濃い色の桜を喜んだ。
タイムカプセルの容器に選んだのは、蓋つきのバケツ缶。もとはクッキーの缶だったのを、向井が大切に取っていたものだ。その缶に、本や手紙を入れた。
カプセルを埋めたあと、僕は向井に苺ミルクのキャンディーをあげた。向井はセミロングの髪を耳にかけて、キャンディーを食べていた。
――十年後の同じ日に掘り起こすの。
――覚えていてね。追川くん。
鮮やかな桜の下で笑う彼女は、ただ可愛かった。
……その向井紗矢が大学卒業後に、年上の彼と入籍して「高上紗矢」になっているんだから。なんだかな。僕も高校、大学と、他の子と付き合っていたけれど、同窓会では自分の知っている向井に会いたかった。
面白くなかったので、向井とはあまり話さなかった。しかし彼女が旦那の転勤によって、もう地元を離れると知ったので……帰り際に聞いてみた。
カイドウザクラのタイムカプセルを覚えている? と。
向井は酒に酔った顔で「知らない」と笑った。
◇◇◇
シャベルで地面を掘る。シャベルの刃が、石や桜の根に当たるのが邪魔くさい。邪魔くさいけれど、根は傷つけないようにしないと。
深さ一メートルほどの穴を、もう三個も作ったが、向井と埋めたタイムカプセルは出てこない。カイドウザクラの木の下、西校舎側。場所は合っているはずなのに。……植え替えがあったのだろうか?
地面を掘るのをやめて、携帯を見る。
メッセージを送ったが向井からの反応はない。
連絡先の交換はしてくれたが返事はくれないし、タイムカプセルも「知らない」と言った。
ざ、と夜風が吹く。体が一気に冷える。
誰もいない小学校で、ひとりでいる自分。足元は穴ぼこだらけ。
……一体なにをやっているんだろう。二十二歳にもなって。
……こんなんだから独り身で、第一志望の会社も落ちたんだろうか。駄目だ悲観的になっている。
夜空に白い息を吐く。
四月からは社会人になる。
その前に、小学校の同級生に会いたくなっただけだ。向井が僕を見てくれたらと、淡く期待しただけ。振り返って、タイムカプセルを開けたくなっただけ。
向井からの返事は来ないけれど、タイムカプセルの中には十年前の向井と僕がいる。
もう一度地面にシャベルを入れよう――。
「あー! いた! 追川くん、ちょっと待って!」
甲高い声が響いたので、あやうくシャベルを爪先に当てそうになった。
声の主は向井紗矢。……いや「高上紗矢」というべきか。
彼女は小学生のころは赤いフレームの眼鏡をかけていたが、コンタクトに変わった。
セミロングだった髪は、ショートカットになった。
「……高上」
「え? 昔みたいに『向井』って呼んでくれていいよ」
白のスラックスを履いた向井が、すたすたと僕のほうに来る。
「遅れてごめん。はい、おわび」
向井は明るく笑い、僕に、苺ミルクのキャンディーをくれた。白地に赤い苺がプリントされている包み紙が、なんとも子供っぽい。
「あ、ありがと」
「ううん。いろいろ準備していたら、出るのに時間かかっちゃった。連絡も返せずごめん」
僕は拍子抜けした。もらったキャンディーを受け取り、口に入れる。舌が痛くなるような甘味が広がる。
向井は地面の穴を見ている。
「……これ全部、追川くんひとりで掘ったの?」
僕はまだキャンディーを舐めているので、無言で頷いた。
「そう」
向井が溜息をつく。そして、哀れみの目を僕に向けた。
「大変だったね」
彼女は同情するふりをして、僕を小馬鹿にしていた。
僕は喋りたかったので、急いで口の中のキャンディーを転がした。小さくなった段階で、無理矢理に飲みこむ。
「……ひょっとして」
「うん」
向井が真実を告げた。
「言いにくいんだけど、追川くん、掘る場所を間違えているよ」
……タイムカプセルの位置を記す地図も、用意するんだったな。
僕はカイドウザクラの下にあけた穴を埋めたあと、向井に連れられて、十年前のタイムカプセルのもとへ向かった。
「私が来なかったら、ずっとあそこを掘り続けていたのかな」
「………」
「追川くん。カプセルが出てこなくて、おかしいと思わなかったの?」
「思ったよ。思ったけれど」
情けなくて向井と目が合わせられない。
「タイムカプセルなんてそんなものだろ? いずれは当たると信じて、頑張っていたんだ」
「変なの」
「変じゃねえし」
向井が反対側の中庭に向かう。視界に植物の色が飛び込んでくる。濃い薄紅色と、赤みがかった若葉色。
「……カプセルを埋めたの、三月だったでしょう。カイドウザクラは四月下旬の花だから、季節はずれでも三月には咲かない」
タイムカプセルの場所についたとき、僕の記憶がよみがえる。
「早咲きの桜は、カワヅザクラだよ」
向井が好きだと言ったのは、カイドウザクラではなく、春のはじめに咲くカワヅザクラだ。盛りを過ぎた今は、たくさんの花びらを散らせて、かわりに若葉を伸ばしている。
……花が濃いピンク色というだけで、覚え違いをしていた。
「じゃ、夜も遅いけれど、タイムカプセルの開封式をしよっか」
桜が舞い散る中で笑う向井は、やっぱり魅力的だ。
小学校卒業前に、タイムカプセルを埋めた。場所はカワヅザクラの根元で、西校舎側。
僕は折り畳み式のシャベルを使って、向井はプランターに放置されていたスコップを使って、地面を掘った。
「聞いていいか? 向井、どうして同窓会で『タイムカプセルを知らない』って言ったんだ」
「みんなの前だったし」
あたりに土の音が響く。
「それに追川くん、あのとき『カイドウザクラのタイムカプセル』って言ったよね」
「……言いました」
「カイドウザクラじゃないもの」
「間違えてごめん」
「いいよ」
地面が掘りにくくなってきたので、腕に力を込める。
「私こそ謝らなきゃ。……実はさ、タイムカプセルを掘りに来るか、迷ったんだ」
「え」
「中に入れたの、けっこう恥ずかしいものだったから。でも追川くんを放っておけないし。やっぱり開けに行こう……て」
向井のスコップがなにかに当たり、カツ、と金属音を出す。
「あ、当たり?」
「やばい。きたかも」
僕たちは顔を見合わせ、それから、必死に土を掘りあげた。
タイムカプセルであるバケツ缶を発掘したときには、夜の空気が気にならないくらい、体が熱くなっていた。
バケツ缶は地面の結露で、びしょびしょに濡れていた。外側をゴミ袋、カプセルの中身をジッパー袋に入れていて、大正解。
「すごい泥だらけ。あまり触りたくない」
「言うな」
「土の中って水が溜まるねぇ……」
向井は泥だらけのジッパー袋をつまんでいる。憎まれ口をたたきながらも、いい笑顔だ。
彼女が持つジッパー袋の中には、乾燥剤と一冊の本が入っていた。
「その本、なに」
「知りたい?」
ジッパー袋から本が取り出される。表紙には、古いタッチの人物画が描かれていた。
「詩集よ。『西風に寄せる歌』で有名な、パーシー・ビッシュ・シェリーの詩集」
「シェリー……。ああ『春遠からじ』か」
向井が僕を励ましてくれるときに、言ってくれた言葉――寒い冬が来たなら春はもう遠くない――これは、シェリーの詩の最終行だ。
「向井、昔『春遠からじ』が故事とか言っていたよな? 思い出したぞ」
「言わないで」向井が苦い顔になる。
「なんていうか、物知りでいたい子だったのよ。本当はただ、追川くんに元気になってもらいたかっただけなのに」
向井は苦笑いをしながら、古い詩集をめくっていた。
地面を元通りにした僕は、地べたに座って、カプセルの中身を確かめた。僕がタイムカプセルに入れていたのは、大したものじゃない。当時の自分が未来に向けて書いた手紙だ。
僕は向井にのぞき込まれないように、彼女に背を向けて手紙を読んだ。
「どんなこと書いてあるの?」
「普通。ごく普通。将来も拓海や向井と友達でいるかとか、入りたかった学校に進めたのかとか、そんな内容」
「わぁ。素直」
「……あとは」
僕はジッパー袋の隅に、指を入れて探った。セロハンの包み紙にぶつかったので、それをつまんで向井に見せる。
「嘘。それ、入れてたの?」
十年前に食べたキャンディーの包み紙を見て、向井ははしゃいだ。白地に赤い苺が描かれたセロハンは、さっき食べたキャンディーの包み紙と、同じデザイン。
「やだ。私、昔から好きなもの変わってない!」
ぼろぼろのセロハンと新しいセロハンを並べ、向井はけらけらと笑った。
ひとしきり笑ったあと、彼女はカワヅザクラを見あげた。旬を過ぎたカワヅザクラは、風が吹くたびに、花びらを散らしている。一週間前に来ていたら、満開の花が臨めただろう。
「楽しかったね」
名残惜しそうに言い、向井が僕を見つめた。
「内田くんから聞いたよ。追川くん、今、彼女なしでやさぐれているんだって?」
「拓海め」
僕の知らないところで、余計なことを話しやがって。
「別にそういうわけじゃ……。どっちかっていうと、社会に出るから不安なんだよ」
「春先あるあるだ。私も旦那の出張先で、うまくやっていけるか心配」
向井が僕に、シェリーの詩集を差し出した。
「あげる」
詩集が遠くの常夜灯に照らされている。
「……なんで」
「もともと追川くんに渡すつもりで入れたの。中に手紙が入っているよ。『大好きな追川くんへ』って書き出しで」
「嘘つけ」
「嘘じゃないんだな、これが」
夜風が吹き、カワヅザクラが揺れる。花びらが宙を舞う。
「大丈夫。追川くんは昔から、好かれるひとだよ。元気出して」
「……なんだよ。大げさな」
僕は手についた泥を服で払い、向井から詩集を受け取った。
「言い忘れたけど、結婚おめでとう。引っ越し先でも頑張れよ」
気の利いた言葉を贈れなかったが「ありがとう」と言われた。
そして彼女は、車で迎えに来てもらい、家へと帰っていった。
僕は自宅に戻ってから、向井にもらった本を開いた。中表紙に手紙が挟まっていて、本当に『大好きな追川くんへ』という、くすぐったい文面からはじまっていた。元気がない日はこれを読んでくださいと。……ロマン派の詩は壮大すぎて趣味じゃないが、嬉しい。
詩集には偶然、一片の花びらが挟まっていた。濃いピンクの色からして、カワヅザクラのもの。小さな春の証。
僕は桜の花びらをそのままに、古い詩集を閉じた。
(終)