デパートのひとびと
アパレル OPERA
なぜ、よりにもよって雨の日の土曜日に開店の担当なんか回ってくるのだろう。
水原瑞季は、自分の口の両端をかなりの角度でへの字にすることでかろうじて平静を装いながら、新作の花柄プリントシャツのディスプレイの袖口をピン、ピン、と直しながら美容師のような角度でマネキンの様子を確認し、編み縄に囲まれた店内を見回す。勤務して丸2年。一通りの作業には完全に慣れたが、社員になる気持ちはまだ沸かない。
実は、雨の日に早出するのは得なことが多い。
まず、客が少ないから1日中声を張り上げなくて済む。その辺りはなあなあになっている店舗だ。第2に、店舗内が涼しい。今は5月初めだが、すでに汗ばむ日も出てきている。が、まだまだ雨の日は涼しいし、じめじめした路面店舗と違い、in店舗は他の店舗もたくさん入っているので、自分たちで店舗のエアコンを調節したり、傘立てを用意したりする必要がなく、そこはin店舗の最大のメリットと言える。
そして、トイレも近い。これが実に大きい。
瑞季がイライラしているのは、雨のせいで通勤中にヘアスタイルがぐちゃぐちゃになるからだ。
早出分の給料もきちんと出るような売り場で、私がなぜイライラしなきゃならないんだろ。大体、狭いから他にやることがない。要は、ヒマ。
レジはギリギリまで開けないし、新作は今月1着きり。正直つまらない。事務処理は他の担当がいるから受注発注の仕事もなく、そもそも、あまり早出の意味はないように感じる。
『まもなく、オープン10分前です』
いつもの音楽と共にデパート店舗スタッフ用の録音アナウンスが流れ、瑞季はカウンターからバッグをひったくるように手にした。行く先は、もちろんトイレだ。
瑞季のいる店舗は3階だから、ちょうどトイレと同じフロアでラッキーなのだ。混む前に済ませなきゃ。
足早に女子トイレに向かうと、すでに中から女性たちの話し声が聞こえてきて、イラッとした。なんなのよ、朝っぱらから。ひま人。
3つある鏡のうち、2つの前で他の店舗の若い女性たちがお喋りしていたが、瑞季は気にせず奥の鏡の前に陣取った。
思った通り、前髪めちゃくちゃ。 舌打ちしたくなるのを堪えて、前髪を直しにかかる。
「でもさー、6時はキツイよね」
「だねー」
他店舗の女性たちも、瑞季などいないかのように話を続けていたが、自分たちも髪型や服装を整え始めた。まるで、トイレの鏡なんかで必死にヘアスタイルやメイクを整えるのは恥ずかしい行為であるとでもいった感じ。
ふん、おばさん。瑞季は口の端で笑った。相手には見えていない。
瑞季はハタチだが、この、旅行代理店の女性従業員たちはみないくつか歳上なのは分かっていた。なぜなら、あちらは大卒の社員たちばかりだからだ。しかも狭き門、らしい。
たまに見かける中には、結婚指輪をした人もいる。噂によると、研修期間も長いしかなりキツイ仕事らしい。英語を話せないとなれないとか、なんとか。
けれど、そのブランド名だけは誰もが知っているし、大企業なのもあり、彼女たちは一様にプライドが高いように感じて、瑞季は前からあまり好きではない。気のせいかもしれないが。
するかしないかのお辞儀をして、女性たちは次々にトイレを去っていった。一方で瑞季は、マスカラのつけ直しに入っていた。
あと5分くらいかな。
ふと、背後の個室で水を流す音が聞こえて、別の女性が1人出てきた。瑞季はもちろん知らんふりだ。だって、他にあと2つも洗面台空いてるじゃん。
「あのぅ・・・」
ところが、地下店舗のパン屋の店員の格好をしたあまり若くないその女性が、気まずそうに瑞季に近寄ってきた。
「え、はい?」
「あ、すみません、そこしか水出ないらしくて・・・」
うっそ。
「あ、そうなんですね!すみませーん」
瑞季はニッコリ笑ってすぐに隣に移動した。すみません、と言いながら女性は、手を洗い、きちんとハンカチで拭いて、鏡はチラッとしか見ずに、ペコリ、と去っていった。
よくよく見れば、瑞季のいた洗面台の真正面に、
『右の2つは只今断水中のため、ご協力お願いします』
という手書きの注意書きがちゃんと貼ってあった。やってしまった、と思ったが、まあ、ちゃんと譲ったんだし、いっか。
それにしても、鏡も見なくなっちゃうんだ。嫌だなぁ、歳取るのって。
マスカラバッチリで手荷物をまたひったくるようにしてトイレを出ると、ちょうど開店前の巡回の警備員に、うっかりぶつかりそうになってしまった。反射的に、
「すみません!」
と謝ったが、若いのか若くないのかよくわからない陰気な警備員は、ムスッとした顔のまま、軽く頭を下げて通り過ぎた。
なんなのよ!
瑞季はまたしてもイラッとしたが、なんとか我慢した。
じじいのくせに。じじいなんだから、若い子にはヘラヘラするもんじゃない?何あれ。ちょっとアレな感じ?前からちょっとキショって感じだったけど。
全く、どいつもこいつも。特に何をされたわけでもないのにイライラが止まらない。
私は絶対に、おばさんになんかならない。いや、いずれはなるんだろうけれどもそのスピードはものすごく下げてやるし、アパレル店員なんか一生やるつもりないし、めちゃくちゃイケメンを見つけて早めに結婚して、でもやっぱりそのあとはちゃんと仕事して・・・・・、
まあ、いいや。
店に戻ると、ちゃんとセッティングしたはずのマネキンが、ちょっと気に入らない角度になっている気がしたが、開店直前なのでシャーッと店の周りのカバーを開け、レジを開け、準備がすべて整ったときにはもう10時を回っていた。
瑞季の時間はなぜか、いつもギリギリなのだった。
どうせ雨だし、なんだっけ。閑古鳥?とかいうやつでしょ。昔っぽい言い方も知ってるって賢い感じ。
お母さんの口癖だ。
「あんな店、いっつも閑古鳥鳴いてるくせに。偉そうにしないでもらいたいわ」
父親が、ある飲食店の店長をやっていて、そこそこ儲かっているらしいのに、お母さんはいつも愚痴ばかりだ。脱サラ、とかいうやつらしい。3年前のことだ。
「サラリーマンのまんまでよかったのにさぁ、絶対手伝わないから私」
いつだったか、かなり酔ったお母さんがテーブルでぶつくさ言っているので、スマホで動画を見ていた瑞季は思ったことを言ってみた。
「でも、けっこう儲かってるんでしょ?レレナビとかでもすごい評価いいし、友達もけっこう知ってるよ」
「そりゃね。そうだけどそういう問題じゃないじゃない?」
「は?」
瑞季にはあまり意味がわからなかったが、つまりサラリーマンみたいに安定した収入じゃないからなのかな、と思った。が、違った。
「◯◯商事を退職して飲食店経営なんて、あり得ない!」
ドン!と置かれた缶ビールの口からちょっと泡がこぼれ、
「あ、あんたも飲む?」
と、母はハタチになった娘に缶ビールを取りに行って戻ってきた。仕方がないし面倒なので、苦手なビールのプルトップを開け、ちょび、と口をつけたが、やはり、瑞季は甘いお酒のほうが好きだなと思った。 ビールは大人な味すぎ。
「つまり、◯◯商事に勤めてたほうが良かったから?」
瑞季にしてみれば、そりゃあ◯◯商事はけっこう有名だから肩書きはいいかもしれないけど、今のほうが個人的な羽振りは良いのは明白だったので、自分ならそっちがいいなと不思議だった。
「当たり前じゃない。どこのバカがあんないい会社辞めるわけぇ?」
母は口をひん曲げて笑いながら言った。まあ、そのバカはあなたの旦那さんだよね、と瑞季は思う。
「あんたも、ほんっとに見る目は養いなさいよね」
「・・・はぁ、うん、そうだね」
反論するのも面倒なので、とりあえず同調しておく。
実際のところ、父親はけっこう見た目もいいし、優しい上に頭の回転も良く、『◯◯商事に勤める父親』ではなくなったものの、最近ではますます輝いているように見えた。瑞希は父親がけっこう好きである。
もしかしたら、お母さんは、肩書きとか収入とかそういうんじゃなくて、単純に、羨ましいのかもな、と思った。母は長年、大手印刷会社の社員をしていたが、つい前年、もう疲れたからと、早期退職したのだが、まだ48歳なのだった。やることもなくヒマになったのは、夫の羽振りが良くなったからではあるが、少し更年期で身体が辛くなったからのようで、可哀そうではあったが、酔うとロクな酔い方をしないところが面倒になった。
大人がさらに歳を取ると、ロクなことない。というか、ロクな考え方にならない。なんだかコチコチに固まっちゃって、つまらない。若い人よりよっぽど、世間体とか将来性を気にする。少なくとも、瑞季にはそう見えた。だから、
私はマネキンみたいに、ぜーったいに歳を取るもんか。
地下惣菜
だから彼は続かないって言ったじゃないか。
すでに店の周りをうろうろするたくさんのご老人を尻目に、山野均はいわゆるワンオペ状態に陥っていた。しかも、まだ開店直後。10時過ぎから惣菜コーナーをうろうろする老人って、一体なんなんだろう。いつも不思議だ。
昼弁当分の惣菜の、しば漬けの仕込みがあと50近く残っているのに、なんと、
『昼にヘルプが来るまでなんとか耐えてくれ』
と、他店に出張中の店長から電話が来たのが9時半。信じられない思いで電話を切ると、緊急性の高いことからあと30分、必死に用意した。まるでコマがくるくる回るみたいな状態は、昼近くは1人でなくても普通だったが、今日は異常事態だ。無責任ヤロウ!
3週間前に入ったバイトの18歳の子が、今日から少し来られないらしい。たぶんそのまま2度と来ないパターンだ。惣菜あるある。
店長面接のときにチラッと見かけたが、絶対に続きそうにない、というのは山野の長年の勘で、外れたことはなかった。だから、1年前から新しく配属されたなんちゃって店長には、感想を聞かれ、素直にそう伝えた。彼は向かない。デスクでパソコンいじってるようなバイトのほうが向いてる。箱詰めだけとか。
というかそれ以外の想像がつかないような色白いひょろんとしたメガネ君だった。大学生で、土日は必ず入れるという話だったから採用された。土日の人手不足は深刻だ。
惣菜は過酷だ。完全な肉体労働で、おまけにうちの惣菜コーナーはひとつの店舗だから呼び込みしながら品出しや、入れ替えもする。初めての人は2時間くらいすればくたびれ果て、1日だけ来て翌日からすっとぼけ、なんてザラな世界で、圧倒的な人手不足の中、社員として7年目。チーフマネージャーなど名前だけだ。
あのメガネは初めからやる気がなかったが、厳しくすると誰も居着かないので頑張って優しく教えたつもりなのに。
何を教えても声が小さい。ミスが直らない。『お客様』に怖がり、責任感は皆無。教える身にもなってくれ。というか、俺の労力と時間を返してくれ。彼に費やした残業代は出ない。
「本日タイムセールは11時半より始まりまーす!」
店舗内から大声を張り上げながら、巾着しば漬け弁当の最後の仕込みと配膳を同時進行でやる。あり得ない。
ああ、もうこんなん配置なんかどうでもいいじゃないか。バーコードがありゃあとは買って食べるだけ。 なぜ、しば漬けのために弁当が出せないような事態になる?
・・・・・イライラすると悪循環だからやめた。
それにしても、うちはレジが別で本当に助かった。どっかのデパートでは、レジも兼ねているらしいが死ぬと思う。本当は今日はラクな内容で、魚系の弁当の仕込みが全くなかったのだ。それにつけこんだか、あのメガネ。
だか、災い転じて福と成した。
弁当を手際良く配置し、いらっしゃいませ~、と唱えながら均はにやける頬を引き締めた。
昼から来るヘルプは、町田さんというパートさんだ。まだ30代だというのにこんな職場でかなりタイトに入ってくれる、入社2年目の美人。
本人曰く、シングルマザーなのだそうだ。その響きだけでも大変そうだし、未だ未婚28歳の均には想像もつかないが、町田さんによれば、離婚したらすごくラクになった、だそうだ。もちろん、気持ちが。
いいことなのか悪いことなのか、よくわからないが他のパートさんの一部はなぜか、未だにあまり彼女にいい顔をしない人もいる。随分減ったのだが、それが、町田さんの離婚の理由にあるらしい。
「不倫…?」
「そっ。本当かわからないけど、子供はまだ小学生で、3年前に離婚した理由が、不倫だそうだよ。いろいろあって、とか言ってたけど」
前の店長はバックヤードで面白そうに話していた。人の秘密を握るのはさぞかし楽しかろう、と均は思った。きっと、面接がてらに個人的な話まで聞き出したのだ。ゲスなヤツだった。
「最悪ですね、不倫男って」
こいつも不倫してるんじゃなかろうか、と思いながら均が言うと、前店長は爆笑した。
「なんですか」
憮然とする均に、ひと言。
「本人だよ。たぶん」
「はぁ?」
「だから、不倫してたのが。本人」
「えっ……」
なんだそのドラマみたいな状況は。子どもがいて不倫?いつするのだろう。普通に疑問である。
「彼女の知り合いと知り合い、ってパートさんがいてさ。あの人、知ってるって。不倫奥さんですよね、ってさ」
「へぇ~~……」
それもまた、最悪ではないか。採用するのだろうか。
「まあ、ちゃんと制裁受けてるしね。土日どっちも働けて、しかも経験者ってのはデカイよ」
「あぁ、まあ、そうですが」
パートさんたちに嫌われて、続いたパートさんを知らないだけに、均はかなり不安になった。いい顔をされるわけがない。
「美人だし、妬まれそうだけどね」
「……はぁ、まあ」
そんなわけで、町田さんの印象は当時均の中で、あまりよろしくなかった。不倫奥さん。離婚。子連れ。美人だけど、だから余計に恐ろしい。
ところが、一緒に働くようになると、彼女は非常によく働く上に気も利き、一部パートさんを除き彼女を悪く思う人があまりいなくなっていった。
美人なのに鼻にかけないし、仕事はできるし真面目だし、気遣いもできるなんて、不倫された元旦那にも相当落ち度があったんじゃないの?なんて思うこともある。
しかも、こんな過酷な職場で愚痴も言わずにちゃんと働いている。素敵ではないか。
素敵?い、いや、まあ、歳上だけど、そこそこ・・・・、いかん、いかん、集中だ!
ブンブンと首を振る均に、お客様のおばあちゃんが話しかける。
「すみません、餡ころ餅はないの?」
「あ、えっ?餡ころ餅・・・、は、今はないですねー。すみません」
たぶん、餡ころ餅は今後もメニューに上がらないだろう。コスパが悪すぎる。
「じゃあ、餡このお餅はある?」
おばあちゃんの白い入れ歯が眩しい。
「餡このお餅はこちらですよ」
ドタバタの中、均はお客様を餡このお餅の棚までご案内する。
あのメガネは、町田さんに免じて許してやる。ふふっ
ジュエリー たかやな
私たちがお客様にご提供するジュエリーの中には、どう考えても、どうしても購入者を選ばざるを得ないものもある。と、南香織は本気で感じている。
だから、もう「その子」を弄ぶのはやめてくれませんか、お客様。
「んー、いいのよねー。いいんだけれど、ほら、ここの光のバランスだけ、ねっ?気になるじゃない?アンバランスで」
真っ赤なマニキュアの指先でこね回される、可哀想なジュエリーが気になってならず、ついに奥の手を使うことにした。30分は耐えたのだからいいだろう。
「そうでしたら、同じカラットの、こちらはいかがです?こういったカットであれば―」
言いながら、引き出しの中から別のリングをうやうやしく取り出す。白いボックスに封印されていたそれは、蓋を開けるとキラリと光を取り戻した。誰かに買われるのをいつも待っていたのだ。
でも、私は正直、オススメしない。
ダイヤのカラットと、台のわりに、リングが細すぎてまさにアンバランス。こういうカットをするなら、ネックレスにすべきだ。だから、どうしても、というお客様には、リングごと首から下げると美しいですよ、とオススメしている。
けれども、リングを求めるお客様にはなかなか通じない。ならば別のリングにしてくれと思うのに、まあ、大概は・・・・
「まあ、ステキ!」
こんな感じでダイヤの輝きにだけ目をハートにしてしまう人ばかりだ。そして、リングとして購入後に待っているのが、『修理』。
台からエレメントが外れるトラブルが多発している商品なのだ。そのうち販売中止になると思う。が、もう、背に腹は代えられない。長谷川チーフはもっと奥で、さらにハイレベルなお客様のお相手をしていて全く気づいていない。
「どうぞ、ゆっくりご覧になってください」
香織は惜しげもなく、手にした「トラブルメーカー」を目の前の真っ赤なマニキュアに手渡し、そのマニキュアが無造作にカウンターに置いたままの、可哀想な「あの子」をどう救出するか、に集中することにした。
お客様が検討中のジュエリーを目の前でしまうのは禁じられており、許可があったときだけなのだ。そう、この真っ赤なマニキュアの下品な女性の。
「美しいわぁ~、これ、お値段はどのくらい?」
これはすっかり買う気だ。でしょうね。
「そうですね、先ほどのものと、同じくらいになりまして…」
値札は白いボックスに入ったままだったので、それを出しながら、電卓で税込みの計算をする。10万円~の価格帯は一緒だが、複雑なカットのせいでプラス5万円にはなってしまう。
私ならあり得ないんだけどな。
「これにするわ。ありがとう」
「ありがとうございます」
香織は深々と頭を下げた。が、ネックレスにする案は出さなかった。なぜなら、すでに指に嵌めて、眺め回しているからだ。
どうか台から落ちませんように。
丁寧に梱包し直して、保証書をつけ、大体取引が終わったあたりで、香織は可哀想なジュエリーをささっと保護した。真っ赤なマニキュアのお客様は、さっきまでぞっこんだったジュエリーに見向きもしない。
女心と秋の空。
あれはきっと、大衆的な「おんな」の話だ。
本当にいいジュエリーは、使う人間を選ぶ。あの指に、この子は全く似合わない。
そっとディスプレイに戻したが、香織には理解できなかった。こんな素晴らしい出来映えのリングが、ディスプレイされていることが。そして、その価格が。
香織の中ではあのリングはプラス、10万円くらいの価値はある。
繊細かつ大胆なカット。あのお客様が「アンバランス」と評した部分こそ、女性らしい優美な大胆さを醸し出す重要な部分だ。おまけにプラチナの細いリングの輝きを消さない上品で全体的に小降りなところが、リングジュエリーとしてパーフェクトに思える。
ダイヤモンドは、ジュエリーの主役になりやすい代わりにジュエリーの他の良さをアッサリ消してしまう危うさがある。だから、あまりにも輝きを放つダイヤは危険だ。そう、まるで、虫めがねで黒い折り紙に太陽光で焼き穴を開けるように、破壊力が抜群。
「南さん、あれ、お売りしちゃった?」
長谷川チーフが接客を終え、苦笑いを浮かべながら寄ってきた。やはりバレていたか。たぶん、怒らないとは思うが自信はない。
「すみません、どうしても、ちょっとあの指には・・・・・」
「南さん」
チーフの口調は強かった。
「はい」
「お客様を値踏みするにはまだ早いんじゃない?うちは、そういうコンセプトではないはずでしょう。すべての女性の輝きを応援する。お客様の要望が第一。基本を忘れないで」
「はい、、すみませんでした」
「まあ、気持ちはわかるけどね」
長谷川チーフの口調が急に柔和になり、香織は驚いて顔を上げた。天の声。
「あんな下品な色ったらないわ。トータルバランスを見た?上質なバッグに安物の靴。ないわーあれは。真っ赤な指をして」
「え……」
ほら、やっぱりチーフはわかってくれる。
「南さんがジュエリーを愛する気持ちはわかる。でも、悲しいことに、私たちも客商売なの。全く勿体ない才能よね、南さんのようなジュエリーの目利きさんは」
長谷川チーフは、ニコッと笑い、ディスプレイのチェックに戻っていった。優雅な足取りに優雅な下半身の曲線。なのに、全く下品でない、
ああ、なぜあたなは長谷川さんなのでしょう。
香織は胸をかきむしられるような気持ちになった。 確かに、ジュエリーは大好きだ。知識を深めれば深めるほど、その魅力にとりつかれる。 けれども、ああ、
女心と秋の空。
そんな女心とは無縁な女性には一体どんなジュエリーが似合うのかしら?
長谷川チーフ、20代はやっぱり幼いですか?
ジュエリーより、輝きを放つ、 そんな人に私はどうしたらもっと愛されますでしょうか。
「あ、あの、長谷川チーフ」
ちょっと小走りに駆け寄り、思わず聞きたくなった。
「ん?」
上品にカーブを描く淡い口紅の形の美しい唇。
「長谷川チーフは、うちのジュエリーの中で、どれが一番だと思いますか?」
「それは、値段や種類に関係なく?」
「あ、はい」
「うーん、そうねぇ…」
ディスプレイの数々を見渡す美しい輪郭に見蕩れながら、香織は興味津々だった。長谷川チーフのハートを射止めるジュエリー。
それこそが、私が到達すべきもの。
「これかしら」
ぐるっと店内を一周した視線が戻ってきたのは、香織の手元だった。
「えっ……」
香織のつけている、死ぬほどお気に入りのブレスレット。
年齢的にはかなり高かったけれど、長谷川チーフのしているブレスレットと同じものがしたくて、いや、せめて色違いのものがしたくて、ゴールドではないシルバーを選び、こそこそと身に着けていた。
でも、勘違いされたくなかったので、ある日香織は自分から告白した。
「チーフのブレスレットがあまりに素敵で、真似してしまいました」
と。もちろん、自社ブランドである。しばらくはカップ麺の日々が続いたが、同じものをつけていられる幸せに比べたら、蚊に刺されたようなものだった。
「あら、ありがとう。とても似合うわよ」
美しい唇でニッコリ笑ってくれたのだ。あのときの幸福感と言ったらもう、録音しておけばよかった。私のバカ。
その、ブレスレットを、長谷川チーフは一番だと言った。
「へっ?」
我ながらバカみたいな発声。
「とっても素敵よね。つけている人が価値を引き上げてる」
長谷川チーフはさらっと言い、フっと微笑んだ。
えええええーー?!
つけている人が。
価値を。
引き上げてる。
「あ、あ、あの、その」
「いらっしゃいませ」
長谷川チーフは新しいお客様に気付き、さっとその場を離れてしまった。慌てて、いらっしゃいませ、と頭を下げたが、顔の温度が全く下がらない。
はー、このデパートの店舗に移動になって私、本当に幸せ。
ひそかに真似をしている口紅を塗った唇をすっと引き締める。
もっと近づけるようにしなくてはっ。
と、その時、男性客がふらりと現れた。
「いらっしゃいませ」
なるべく長谷川チーフのように上品に、優美に。
男性客は、言った。
「ネックレスを探しているんですが……」
小綺麗な身なりの中年男性だ。奥様へのプレゼントだろうか?
「プレゼントでしょうか?」
香織がにこやかに訪ねると、
「あ、はい、まあ……」
照れくさそうに頭をかく。
「では、お好みをお伺いいたしますので、こちらへどうぞ」
男性客を奥の椅子へとご案内している最中、見てしまった。
長谷川チーフが、接客をしながら、その美しい眉を吊り上げて、まるで汚物でも見るように、男性客に視線を向けるのを。
えっえっえええー?!
なぜ、なぜなの?
『スタッフの皆様、間もなく、正午です』
デパートの録音音声が控えめに響いた。
料亭 ヤマミチ 主婦
5Fのレストランフロアのオープン時間が過ぎ、正午になる頃、ヤマミチのホールスタッフ、金沢美知子は混雑に備え、店舗入り口付近に突っ立っていた。
けれど、今日は雨だからかいつものような行列が見当たらない上に、まだお客の入りもまばらだった。またシフト減らされちゃう。
「はぁ…」
誰にも聞こえないボリュームで密かにため息をついたとき、店内のお客様からのオーダーが入った音がして、美智子は慌てて引き返した。奥のほうの窓際の席の、年配グループのお客様だ。
「はい、お伺いいたします」
中腰でハンディを取り出すと、微かに腰が痛む。でも、顔には出さない。
「茶碗蒸しをあと2つ追加でお願いします」
上品な物腰の年配女性が、指でピースするようにして言った。
「はい、かしこまりました」
ハンディに素早くテーブルの番号と茶碗蒸しのボタン×2、で送信する。茶碗蒸しなら5分かからずお出しできるだろう。何しろ、まだ余っているはずだから。
ファミリーレストランで以前までパートとして働いていたが、その時はキッチンにもフロアにも入る、「何でも屋」として働いた。ついでにデリバリーもたまに。
そのほうがシフトにたくさん入れるからだ。しかしこの店、料亭ヤマミチでは、キッチンは完全に店主と「弟子」たちが仕切る。美智子たちはホールスタッフで、店のモットーは、
『少し高めの和食料亭風』。
メニューも和食メインで、トンカツなどは揚げたてを出すし、仕入れ先にもこだわりがある。だから客層もそれなりだが、最近はちょっと変わってきた。まず、年齢層が下がった。そして、広がった。
それだけなら、人気が上がって良さそうなものだが、実は美知子は、昔は大手チェーン店の経営に携わっていた時代がある。いわゆる企画と経営のコーディネーターだったが、その経験則で言えば、こういった店が、大衆化を辿るのは経営的にはあまりよろしくない傾向なのだ。
おまけに、店主兼オーナーにもその気はない。つまり、チェーン店ではあまり味わえないワンランク上の『料亭』でいたいのであるが、近い将来、チェーン店化せざるを得ないか、或いは方向転換しかなくなる予感なのだ。
一見さんお断り、まではいかないそこそこのランクをキープしたいのに、客層の低年齢化やファミリー化は、この店にとって好ましくない状況なのである。
まあ、私はただのパートだから関係ないけどね。
美知子はオーダーの状況を確認するため、キッチンのそばに行った。案の定、店主ならびにその「弟子」2名は明らかに面白くなさそうな空気を醸し出している。あーあ。顔に、『暇だ』と書いてある。
そこへ、新たなお客様が現れた。
よっしゃ。
「いらっしゃいませ。」
笑顔で出迎えると、3人の女性客は全員、このデパートの3階の旅行代理店の女性たちだった。制服ですぐにわかる。確か、今週の頭にも何人かできた。
「3名様ですね、奥の席へどうぞー」
女性たちは、キャイキャイとはしゃぎながらぞろぞろ奥へと入って行く。今日は何にする?あ、この間はあれだったから・・・・・というノリに、ハッとして視線を動かすと、
店主が鋭い眼差しで女性たちを見ていた。ヤバい。
社食じゃねーんだよ。つい先日も、営業中に店主がボソッと呟くのを聞いてしまった。
でもねぇ…。客は選べないし、今日は雨だから。わざわざ外に食べには行きたくないけど同じフロアにあるファミレスじゃあ飽きた、という感じなのだろう。
たまには贅沢したいよね。
「あのー、ランチセットみたいのはありますか?」
お冷を運ぶ美知子に、一番若い女性が言った。
あるわけなかろう。
「申し訳ございません。当店はそういったセットはないのです・・・・」
愛想笑いで何とかごまかした。
「あ、そうなんですかぁ」
そうなんですよ。表にメニューがあるよね? あれがすべて。
「あ、じゃあ、私このトンカツの一番安いやつとご飯のセットで」
「じゃあ私は、この魚の盛り合わせと…」
はい、はい、とオーダーを取りながら、店主の痛い視線を感じながら、美知子ははっきりとその空間に、ジェネレーションギャップにも似た何かどうにもならないものを感じて息苦しくなってきた。
はぁ、疲れた。更年期もキツイ。でも、家にいても家族が面倒だし、なんかもうパートとか料亭とかトンカツとか・・・・
「茶碗蒸しできたよ!」
いきなりキッチンから怒声が響き、飛びあがりそうになったのは美知子だけではなかった。
「は、はいー!」
当たりどころが違うでしょー!
茶碗蒸しは、料亭ヤマミチのスペシャルレシピでひとつ1000円成。ただし、今日は出来立てではない。
確かに美味しいんだけどね。
私の時給とあんまり変わらないのよね。
傍らにいた女性たちが、しばらくフリーズしていたが、美知子にはフォローする余裕はない。明日休みで良かった。
そこから急に客足が増え、すぐに狭い店内はほぼ満員となったが、半分が、デパート内の様々な店舗の社員さんやアルバイトさんだった。
社食じゃねーんだよ。
いや、ここ、もう社食で良くない?
むしろその方が、つぶれない気がした。
本屋 北中BOOKS男性
ふん、舐めた口を利きやがって。
鈴木信長はイライラを顔に出さないように素早くレジから離れた。もともと、レジの係りはアルバイトの女の子なのだが、少し混み合ってきたので臨時でもう一つ開けたまでだ。
「モトキ、なんちゃらいうの。知らん?え、本当に知らん?おたく、本屋の店員だろう?だから、モトキ、なんちゃらだって。歴史ものの。……チッ」
老人は、モトキなんちゃらをひたすら繰り返し、何か購入するでもなくレジに居座り、およそ10分くらい鈴木を、そのモトキなんちゃらの歴史小説とやら話に付き合わせた挙げ句、最後には舌打ちをして去った。
最近ああいうのが増えて困る。
うちは図書館じゃないんだよ。自分で調べてから来やがれ。大体、モトキなんちゃらで一発で分かるわけないだろうが。
顔には出なかったが歩調には明らかにイライラが溢れてしまっていた。そのままバックヤードに入り、新刊整理の続きに入る。
モトキなんちゃら、の声が頭にこびりついて離れないせいで、アルバイトの女の子が作った『今月の新刊!NEw!』のポップアップカードがひどくバカみたいに目に映る。
いや、新刊!って書いてあるんだから、NEW!まで要らなくない?あれを直訳(とすら言えない)すれば、『今月の新刊!今!』なんだよなぁ、と、要らないことでつい別のイライラを生んでしまう。NOW!というような表現は完全に日本語アレンジで、ふつう、英語圏では~~、now、というようになんかこう、たった今それやってますだとか、やるところだとか、もっと直線的な表現で、長期的な意味合いではほとんど使わないのだ。
まあ、あれだな。『今月のオススメ新刊!』とか書いてとりあえず!をつけるほうが文学的にはマシだよな。
そういや、一昨日偶然駅前でバッタリ会った三鷹が、オーストラリアに行ったという話をするときに、やたらと「レリア」とかなんとか語尾だけそれっぽくしてたが、あいつより俺のほうが英語はできる。英語だけじゃない。勉強のほとんどが俺のほうが出来た。だから、あいつより俺のほうがハイレベルな大学に行ったし、あいつより俺のほうがいい企業に就職した。
ところが、今じゃ、この様か。
回りに整然と積み上げられた、本、本、本。本は大好きだった。ハッキリ言って、頭が良くなったほとんどの理由が本以上にない。だからありとあらゆる本は読んだ。大学時代に、企業的哲学の本を読んで、一体どこのバカがこんな本を書いたのかと目を?疑った。そのバカが、最初に就職した企業の会長だった。
経営哲学を書きたかったようだったが、つまるところ、世の中は努力と運とコミュニケーション力でなんとかなる、とかいう中身のない話で、半分が自身の半生の話、後半はいつまでも頭の昭和なオヤジが書きそうな根性論ばかりだった。
そのバカ本を薦めてきたのが、あの三鷹で、「あの企業に受かるなんてすごいな!なら、アレ読まなきゃな!」とさけの席で息巻いて会長の本を教えてくれた。会長の本なら読んでいなければヤバいと思って図書館で借りたが、本は読まずとも結局何もヤバくなかった。なぜなら、大企業すぎたから。
早々に出世コースから外れた鈴木は、会社がつまらなくなった。周りは全員6大学か、それに近い大学の出で、スタート時点ではレベルは負けていなかった。
ところが、コミュニケーション力、つまり「企業的な」コミュニケーション力となると、どいつもこいつも、異様なほどに敵がい心剥き出しで、やがて派閥も生まれ、うまく上に取り入るのが早ければ早いほど出世も早かった。要するに、鈴木が幼かったのだが、解せなかった。
傘下の会社で、三鷹が働いているのは知っていた。ある日、その会社の代表取締役の「補佐役」として役員会議にやって来た三鷹は、すっかり『エリート』の顔になっていて驚いた。会議室に案内すらする立場になかった鈴木は、廊下ですれ違い様、気まずい目で見られ、逃げるようにその場を去った。
8年で辞めて、図書館司書として転職し、その図書館も辞めて、今に至る。
「専務~、すみません!専務~、」
またアルバイトの女の子が泣きついてきて、頼むよ、と思う。
専務、と呼ばないでくれ。鈴木さん、でいいだろう。北中BOOKSは中小企業で、いわゆる下請け。鈴木は本社の専務ではなくて、支店の専務で、ついでにその支店はここと、あと二つばかりあるが、専務はあと二人ずつ居る。
「ちょっと待ってて、今行くから」
「あ、違うんです、お客様です」
「だから、今…」
「専務にお客様なんですぅ」
「はあ?」
バックヤードの扉の女の子の向こうに、誰かが立っている。苦情だろうか。
鈴木の態度が煮え切らないので諦めたのか、アルバイトの女の子はあっさりと扉を開き、どうぞ、とにこやかに「お客様」をご案内した。出世しそうだな、と思った。
「よう、忙しいとこ、すまないね」
お客様、は、三鷹だった。
旅行代理店BAS
「やっぱり、お風呂は広いほうがいいよね」
「うん」
「子供が入れて広いのはこっちだよね」
「うん」
さっきから、旦那のほうはほとんど「うん」しか言わない。この手の家族は、結局のところ妻の第一印象の宿に戻る。椅子の周りをチョロチョロしている女の子を何とかしてほしかったが、山辺恵は黙っていた。
恵の子供は今3歳。保育園児で、恵の目下の悩みが『二人目をどうするか』だ。だって、もう35になる。今から頑張っても、実際に出産にこぎ着けて一体何年後だろ。間に合わないとしか思えない。
目の前の母親は、恵より少し年下に見えた。子供も2歳くらい。アンケートでは、働いてないそうだから二人目は余裕だろう。
あーあ、羨ましい。
「じゃあ、ここで」
初めてまともに口を効いた旦那の声で、恵は、ニッコリ笑った。
諦めました、ということだ。2つの候補のうち、この2つ目の妻の絶賛オススメ宿は、総額プラス5万円は高い。始めに二人が持ってきた宿は、新しい候補によって敗北した。
「承知いたしました。では、飽き状況を確認しますね。お待ちください」
実は空き状況はもう出ていた。ガラガラである。季節外れな上に、高いからファミリー層にはうけがよろしくないのだろう。でも、お金があるなら私も絶対にこっちを選ぶ。
手際よく宿泊の手配を整え、チケットを手渡す頃にはお昼に近かった。新幹線は使わず、車で行くそうだったので短い手続きで済んだ。どんな車に乗っているのだろう。旦那のほうをチラリと観察するが、いたって普通の会社員、という感じ。
でも、大体金持ちというのは派手さがない。恵は長年の経験で痛感していた。普通~、の格好でフラッとやって来て、夫婦でとんでもない額のツアープランを平気で組んで行ったりする。そして、そういう金持ち層は、必ず店舗まできちんと確認、説明を受けに来る。ネットで完結しない。車にしろ何にしろ、必ず現物を確認してから買え、とかいうはなしはよく目にするが、金持ちは旅行という目に見えないものも、異常に大事にするように思う。細かなところまでチェックを欠かさない上に、クレーマーもいない。
この夫婦、というか旦那はどのレベルかな、と思ったが、読めなかった。夫を思い出す。彼もまた、普通の人にしか見えないし、実際に普通の人だ。いや、もう、よくも悪くもすべてが普通。
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げているところに、後輩のみゆきがちょこん、とやって来た。こういう場面の時に邪魔をするな、と何度言われても治らない子。
「どうします、先輩。先に行きます?」
見れば、他の職員の半数がまだ接客中で、バックヤードには『私たち今から昼休み行きます』な子たちがこちらを覗いていた。
「うん、行こうかな。あ、外?」
資料を片付けてバックヤードに入りながら聞くと、みゆきはウキウキした笑顔で言う。
「5階ですよぉ、あの、いいとこ」
「あー、」
あんまり好みじゃないけど、財布も痛いけど、雨だし、まあいっか。お店の名前はなんだったっけ?ヤマ、なんとか。
一番仲が良い「ママ友」的な社員である市橋金江がまだ接客中で、今日は別々のお昼になった。
みゆきたちは控え室ですでにキャイキャイはしゃいでいた。恵はその光景をボンヤリと眺めた。不思議なデジャヴに似た感情。
本社勤務だった頃の自分ののほほんっぷり。育児休暇が終わったら当然戻れると思っていたら、まさかの支店移動。本社の中でも英語が堪能だった恵にとって屈辱でしかなかった。
ところが、支店勤務はわりと楽しかった。自宅からの距離も近くなり、男性社員からの無言の圧力のようなものも、まるで女の花園のようなこの支店では皆無。むしろ、他の女性社員たちといかに打ち解けるか、いかに嫌われずに上手くやっていけるか、ということのほうが大変だと改めて気付いた。チーフマネージャーとして派遣された手前、一応は彼女らの上司であるが、支店では、勤務歴が長いほうがリーダーシップを発揮できる。
その点で、「ママとも」の市橋金江に負けた。彼女は入社すぐからずっとここにいるからだ。でも、それでも良かった。
私は間違ってた。
子育てって、大変すぎる……!
とにかく体力と時間とお金が要る。美容よりワークライフバランスに重点をおくようになったら、移動になったことに感謝しかなかった。本社勤務はたぶん体力が持たない。恵はパワフルなタイプではなかった。
「せんぱーい?行きましょ?」
みゆきが長財布を片手に、振り替える。私も彼女のように見えていたんだろうなぁ、本社の先輩たちに。
「あ、うん。ごめんごめん、先行ってて?すぐ行くから」
「はーい」
躊躇なく、みゆきたち若い女子たちは先に行く。こういうのも、本社では有り得なかった。まあ、昭和の教えに近かったよね。と思う。今どきの子たちはコスパ重視だし、ギリギリ平成生まれの恵は、コスパ重視の何が悪いのかよくわからないところでとても苦労したのだ。
努力と根性だけではなんとかならないのよ。
エレベーターのボタンは5階で止まったままなかなか動かない。混んでるのだろうか。雨だし、他の店舗の人たちも今日はデパート内のレストラン階でお昼を済ますのかもしれない。
あーあ。
でもやっぱり二人目欲しいなぁ。
降りてきた箱に乗る。ボンヤリしていたらしく、エレベーターはそのまま下へと降りて行く。やっちゃった。内側から上のボタンを押すが、たぶん無駄だ。
結局、そのまま地下1階まで行ってしまい、一度扉が開いた。そこで、大きなワゴンを押した男性が入ってきた。恵は奥に移動する。ワゴンには廃棄するらしい空の弁当箱や、用途のよくわからない桶のようなものがたくさん置かれていて、重そうだ。白い惣菜のキャップを被った男性は、開く、を押したままだ。
「あ、すみません。大丈夫です」
恵が降りると思って押したままでいてくれたのだろうと気付き、慌てて詫びた。間違って降りてしまったときって恥ずかしい。
「あ、はい」
男性は察したのか指を離し、1階のボタンを押した。恵はもう、5階のボタンを押してある。が、2階も4階もランプがついている。お弁当の匂いにお腹が鳴る。別にあんな高いレストランじゃなくて、お弁当が食べたい。あー、勿体ない。裕ちゃんは今頃ちゃんとお弁当食べているかな。おにぎり小さすぎなかったかな。
1階の扉が開くと、ワゴンの男性が突然声を上げた。
「あれっ?」
見ると、男性が降りようとする先に女性が1人立っていた。色白の美人。恵と同じ年頃に見えるこの女性を、恵はどこかで見た気がした。
「あ、おはようございます」
にこやかに挨拶しながらワゴンと共に降りようとする男性に、頭を下げて、
「私、ちょっとお手洗いに…」
と、言いながら自分はエレベーターに乗る。ああ、と男性は破顔し、
「じゃあ、またあとで!」
と大きな声で言った。あなたが好きです、と顔に書いてあるようなタイプだった。農作業をする若い日に焼けた男性、のようなイメージが頭に浮かんだ。
一方で、エレベーターに乗り込んだ女性はにこり、とお辞儀して扉が閉まったあと、とても疲れた様子でボンヤリしている。トイレじゃなかった?
「3階過ぎますよ?」
お手洗いは3階だ。
「あっ、すみません!」
女性は顔を赤らめて3階を慌てて押した。ギリギリで間に合った。なんとなく、ほおっておけないタイプの女性。
しかし、恵はうっかり見つけてしまった。
左手薬指の指輪のあと。
あと?いや、仕事だから外したのかな?
とにかく見覚えがあったが、どこで見かけたのかがわからない。すぐに3階に着き、すみません、と降りて行った。そして、扉が閉まる、その時。
ガツン、と音がして、閉まる扉が止まり、再び開いた。また女性が立っていたが今度は全く別の女性で、こちらもまたとても美人だがなにやらイライラした様子の、ショートボブの背の高い人だ。こっちは知ってる。確か、ジュエリーショップの人だ。
あのお店の前を通るたびに、いいな~、と思う。
キラキラしていてキレイで。
ちょっと入りづらい。
だから、一度も入ったことがないが、いずれはああいうお店に立ち寄り、少しハイレベルなジュエリーを買いたい。
「すみません…」
ジュエリーショップの女性は、扉を無理に開けたのを謝り、なにやら肩で息をして、口元に手を当てて、難しい顔をしている。
まあ、いろいろあるんだろう。
恵はそのまま一緒に5階まで行き、ようやくみゆきたちのあとを追えることになった。ジュエリーショップの女性も5階で降りた。
足が驚くほど美しいラインだった。それを尻目に、恵は足を早めた。昼休みはあまり長くないのだ。
レストラン階へは、裏扉から入ればすぐに行ける。
「あの、すみません、お姉さん」
突然背後から呼ばれ、他に誰も居なかったので自動的に振り返ると、ジュエリーショップの女性が恵に声をかけたのだった。
よく見れば、キレイなスーツのネームプレートに「長谷川」とある。外し忘れたのかな?
「はい?」
長谷川という女性は、ジリジリと近づいて来ながらまだ難しい顔をしている。何、なんなの?ちょっと怖い。
「あのぅ…、オーストラリアンは、今、お高い?」
「えっ?」
「オーストラリアン。今の時期って、おいくらくらいするものなのかしら」
恵を旅行代理店の社員と解って、聞いているのだ。よく考えたら当たり前で、恵は制服を着ている。
「ああ、えーと…、ツアーとかで往かれます?」
頭の中に、サッとオーストラリアの情報を展開してから、待てよ、と思う。お客様なの?
「ツアーじゃなくて、個人で。ガイドなし、3泊4日くらいなのだけど…。二人くらいで」
「あー、個人プランだと、ピンきりですけど西よりのほうは今は少し割高かもしれませんね」
いかんいかん、職業柄、旅行の相談はうっかり乗ってしまう。
長谷川という女性は「西より」という言葉に目を輝かせた。だいぶ近寄ってくる。
「そう、そうなのね。雪はまだ…かしら?」
「うーん、雪、は、ギリギリでしょうね。山間部でも、向こうは広いですから。人気のエリアでしたら、だとか、あの辺りは今はいい季節かもしれません」
うっかり微笑んでしまってから、ハッとする。お客様じゃないんだから。まあ、いっか。
「そう、…、あの、ちょっとよろしいですか?」
「は?」
「ご相談させていただきたいの。ヤマミチで。よろしいかしら。私が全部出すから。ねっ?」
長谷川さんの口元が優雅にカーブを描く。ヤマミチ?
「ああ、えーと、私これからそこに行くところで、他のスタッフが待ってまして…」
「あら、じゃあ、みなさんの分も私持ちで。代わりに、えーと、あなたのお名前は
「…山辺です」
「山辺さん。お時間お借りしたいのだけど」
うーん。どうしよう?
「じゃあ、行きましょ!」
長谷川さんは、恵の腕を取り、ぐいぐい進んで行き、危うく足がもつれそうになる。
「えっ、ちょ、ちょっと」
そのままぐいぐい進んで裏扉を通り過ぎ、5階のレストランフロアの一番奥へと連れて行かれた。だんだん、『ヤマミチ』の看板が見えてくる。みゆきたちはさぞかし驚くだろう、と、まるで他人事のように想像した。
この人、やたらいい香りがする。
ついに料亭ヤマミチ。の暖簾を一緒にくぐらされ、
「いらっしゃいませ」
女性店員さんに出迎えられてしまった。
「お二人様でよろしいですか?」
中年の女性店員さんは、若干いぶかしげな顔をしたが、それ以上は何も言わない。いや、突っ込んでよここは。
「いえ、彼女の職場のみなさんがもう来てらっしゃるから、カウントは一緒にさせていただきたいの」
「はあ。つまり、ご一緒のテーブルに?」
意味わからない、という感じの女性店員さんに、恵は自分から言った。
「すみません、お会計は、ゼンイン一緒で、テーブルは別、でお願いできますか?)
恵の制服を見て、店内にいるみゆきたちと符号したらしい女性店員が、ああ、と言った。
「かしこまりました。大丈夫ですよ」
ニコッと笑い、
「では奥のテーブルへご案内いたします―
さっさと歩いて行く。そこに無駄な感情の一切がない気がして羨ましい。
「あれっ?せんぱーい?」
みゆき他2名が驚き顔で、横を通りすぎる恵を見た。仕方がないので恵は手短に説明した。
「ちょっと、別テーブルで食べるね。今日はお会計はこちらの方が払ってくださるって」
恵を連行してきた長谷川が、パッと手を離し、ゆっくり会釈をした。宝塚の誰かみたいだった。
「えー、やったー!ありがとうございますぅ」
「わーい!」
みゆき他二名は歓声をあげた。
なんで?!
みんなコスパがすぎるでしょう!
というか奥のキッチンから舌打ち聞こえてるし。
警備室
「1階異常なし。どうぞ」
ガガッ、という音と共に、例の無機質でやる気のない声がして、安藤武は一瞬うんざりしたが、
「はい、了解」
歯切れよく返して無線を切った。あのボンボン野郎。いや、変態野郎。俺はよーく知っている。
昼交替の時間で、安藤はついさっき、今店内の巡回に入った山田と代わって控え室にいた。が、今日は人手がたりないのでカップ麺を食べながらも無線が離せない。一段高い畳敷きの上に胡座をかき、麺を啜りながら付きっぱなしのテレビを見上げると、またどこかの国がミサイルを発射したらしかった。
いっそのこと、本当にこの国に落ちたらいいのに。どうしても落ちてこない。まあ、本当に落ちたら終わりだからな。
夜勤の終わりに先輩が置いていった青年マンガは、全く好みじゃなかった。
「新刊置いてくわー」
置いてく、じゃなくて「また見るから置いとく」の間違いだろう、とは口が裂けても言えない。警備の世界は完全な縦割り社会で、若かろうが若くなかろうが、古参が上。現に、つい最近入ったばかりの60過ぎのおじさん?おじいさん?に、先輩として安藤が仕事を教えているが、歳の差は30もある。
それに引き換え、今巡回中の山田は5つも年下だが、同期にあたる。いや、実際は立場が上になる。なぜなら。
山田はこのデパートのオーナーの息子だからである。
なかなか仕事が決まらなかったらしい息子に、とりあえず施設警備員の仕事を与えたらしい。所属する会社は同じなのに、その会社がこのデパート=施設のオーナーの指名会社なもんだからタチの悪い話だった。
全く、やってらんねーよ。
カップ麺はわざとゆっくり食べて、麺を伸ばすことにした。
「2階、落としもの、あり。エコバッグ」
ガガッ、とまた音がして、イライラが爆発しかけた。
エコバッグなんかほっとけ。博雄が拾わなかろうがどうせ文句はすべてここにくるんだから。
「了解」
手短に切った。ところが、
「エコバッグです」
なんだよ。しつこい。
「ん?!」
「中身があります」
「はい。中身どうぞ」
ゆっくり、相変わらず無機質で抑揚のない声が響く。
「財布、スマートフォン、ポケットティッシュ、レシート…」
慌てて制した。
「ちょ、ちょ、待った!解ったから、それ今持って来て」
中身をわざわざゆっくり全部言う山田に不気味さを感じた。
「え、でも、今まだ2階です。あと、3、4、5、階が残っていますので」
「まあそうだけど、財布やらスマホやらはイソイデくんない?」
「え、いや、じゃあ、わかりました」
ガガッ。
はぁぁぁぁ。
貴重品の類いは最優先事項で、そのための巡回でもあるのだ。
今落とし主に来られても困る。
テレビでは相変わらず、ミサイルの話で持ち切りで、その性能の話をしている。
なんだかなぁ。
性能云々じゃなくて、こっちに向けてミサイルを打ったこと自体がまず問題なんじゃないの?飛翔距離がどーの、だからここまでしか飛ばないだとか、どっから発射したから圏外だとか、そこじゃないんでない?
安藤は、父親を思い出す。
警察官で、おまけに軽自動車畑のエリートだった。家に全然いないくせに、その存在感はバツグンで、安藤は父親がいようがいまいが、父親がノーと言ったことは一切やらなかった。
ただ、警察官になりたいとは思えなかった。粗っぽく、子供にも手を上げる。酒臭いなんてしょっちゅうで、だいぶ出世するまではまるでやくざみたいだった。
だから、安藤は父親が嫌いである。
普通は、自分も警察官になりたいとか思うかもしれないが、自分は違う。
ああはなりたくない。
すっかり体を壊して入院しているが、見舞いも滅多に行かない。大人になってからは、顔を合わせる度に喧嘩になった。
「とっとと職につけ!」
と、怒鳴られていたはずが、ある日突然、
「大学くらい行け!」
となり、それも叶わないとなると、むっつり黙った。
その父親の口癖が、
「日本はもうダメだ」
であり、そこだけは唯一賛成なのだった。縦割り社会は変わらない。それが変わらなきゃ、どこの国の誰に何されようがなんもできゃしない。
おそらく、自分がずっと縦割り社会にいたから、その恨み節なのだろうが、言いたいことはわかる。
安藤は陸上自衛隊上がりで、あまりに辛くて辞めた。
人を助ける仕事がしたいが頭が良くない。
だから自衛隊員になったのに、助けるどころか、助けられなかった後片付けのほうが多かった。
おまけに、完全な縦割り社会だった。
山田遅いな。
「向かってますか、どーぞ」
ガガッ……
あれっ?
「山田隊員、向かってますか」
普段あまり使わない「隊員」付けでわざと言ってみたが応答がない。まさか、なんかあったわけでもないだろうから、結局5階まで巡回してるのだろう。
どいつもこいつも。
安藤には理解できなかった。
いきなり怒鳴り散らす人間。警備員を下に見る店内の連中。縦割り社会。親にいつまでも寄りかかって楽ばかりの山田みたいなボンボン。
はぁ。
仕方なく立ち上がったものの、控え室を空にはできないので、監視カメラをチェックしてみることにした。
監視カメラのチェックだけのために、実はもう1人居るのだが、やっぱり完全に寝ていた。もう1人の夜勤開けの、老人。
もう引退したら?と思うが、人にはそれぞれ事情ってもんがある。でも、仮眠室じゃないんだけどな。
ちょうど3階のトイレ前のカメラに、山田を見つけた。なーにやってやがる。チェックされるのは織り込み済みのはずの山田は、なぜかトイレの前を行ったり来たりしている。何かあったのか?
やがて、女子トイレの中から1人の女性が出てきた。壁際にへばりつくようにボンヤリ立っていた山田に少し驚いた風だったが、そのままエレベーターの方へ向かう。確かあの感じは、地下惣菜の女性だ。午後からの出勤なのだろう。
と、山田が女性に歩み寄り、何やらやっている。手が動いているのだが、はっきりと見えない。エレベーターが来て、女性は慌てて箱に乗り込み山田は置き去りにされた。その後、山田はおそらく階段へ向かったようだ。やっと戻る気になったか。一体何を考えてやがるのか、全く気持ち悪いヤツだ。
5分足らずで山田はひょろっと控え室に戻ってきた。手にはエコバッグらしきものを持っている。
「おい~、すぐ戻れと言ったろ?」
安藤は苛立ちを隠さなかった。山田はチラッと安藤を見て、ボソッと返す。
「戻りましたが」
どーせ見てたんだろ、のふて腐れた響きが含まれる。
「トイレの前で何やってた」
「……社員証の確認ですが」
だから何なんだ、という顔。青白く、声も小さい上に相手をいちいちイラッとさせる無表情。
「エコバッグの発見は2階だったんじゃないっけ」
「はあ、まあ」
「で、なんで3階まで行く必要あるの?」
安藤の言い方も声が大きく、威圧的なことは自分でも承知しているがここは、職務上のルールに違反したのだからビシッと言わなければならない。
ボンボンだろうが仕事は仕事だろうが。
「……さぁ、忘れてました。エコバッグのこと」
遺失物の預り証に記入を始め、安藤を無視する。イライラはマックスだったが、安藤は黙った。
こいつは信用ならない。足掛け仕事だからって舐めてやがるのは確かだが、こいつを教育する意味がないように思う。
と、その時、奥の電話が鳴った。
山田が電話に出る気配もないので安藤はそのまま奥へ戻り、受話器を取る。外線だ。
「はい、こちら○○デパート警備室です」
全く、昼休憩が短くなったじゃねーか。
「あのー、地下惣菜○○の、山野と申しますが」
山野って誰だっけ。頑張って思いだし、ああ、あのよく働くお兄ちゃんか、と思い付いた。その山野、が言った。
「そちらの警備さんに、セクハラされた、っていう人がいるんですが…、今、店一時的に閉めてます。上には許可取りました。ついさっきらしくて、ちょっと来てもらえますか?」
山野は、安藤とは違う性質の大きな声で一気にまくし立てた。
オイオイ、セクハラって…、
ハッとして山田のほうを見る。目が合って、ゾクッとした。向こうは店を閉めて上にまで報告している。
勘弁してくれよ、という気持ちと、やっぱり何かやりやがった、という気持ちの板挟みになる。
「セクハラですか?その警備の人間の名前分かります?」
1人の手に負えなさそうだったので、おうむ返しに声を張り上げると、セクハラと聞いて、監視カメラの前で居眠りしていた初老警備員が、何事かと出てきた。
「えーと、やまだ、って言ってます」
はぁ…。なんなんだよ、山田。
安藤は山田を見つめた。スッと目を逸らしたが、懲らしめるいい機会がやってきた。
1階マチ・ドラッグ&コスメ
店の人たちはみんな知らないだろうけど、今日は20年に一度、エギリタスタの輝きが一番よく見られる日だ。
なのに、雨かよ。
長川誠は、途切れないレジの列を懸命にさばきながらつい、ついため息をついた。
本当なら、今日の夜8時からいつもの河川敷に居座って、南52度の角度に合わせた天体望遠鏡のそばで、おにぎり片手にワクワクしながらショーを待つはずだったのに。1年も待っただけあって、誠は泣きそうな気分だった。
土曜シフトのバイトで頑張って天体望遠鏡のいいやつを自分で買ったのが半年前。部活は天体観測部だが、ぬるいことしかやらないのでつまらなくなっていた。
やっぱ星だよな。
地上は人間だらけでウンザリする。とにかく人、人、人、人、、
「……をください」
「へっ?」
ボンヤリしていたせいで、目の前の女性客の言ったことが聞き取れず、自分でもバカみたいな声を出してしまい、赤面する。
「袋、ください」
女性は真っ赤な指をヒラヒラさせて、袋の形を表している。下品なマニキュアだ、と思うが臆面にも出せない。
「あ、ハイ!すみません。えーと、有料になりますが…」
「うん、いいの」
女性はその下品なマニキュアの指を自分で見つめて何やらニヤニヤしていてちょっと気持ち悪い。誠にとって、大人の女性はみなほとんど変わらないのだが、上品な人とそうでない人の区別くらいはつく。
「ありがとうございましたー」
マニキュア女性の次はおじさんだった。まあいーや。頑張ってればあと10分で休憩できる。
休憩時間には、外のファストフード店に行き、たらふく食べるのが楽しみだ。何しろ、栄養バランスの鬼のような母は、食事の半分は野菜を出す上に、大のファストフード嫌いで、たまにしか食べられない。
もちろん、健康を考えてくれることには感謝しているし、母は好きなのだけど。下品な人ではないし。
おじさんはなぜかチューインガムをひとつ買っていっただけで、おじさんのあとにお客がいなかった。
ふー、とひそかに息をつく。
ドラッグ&コスメは、言ってみれば『何でも屋さん』。
コンビニで買えるようなものから、登録販売者でないと売れない、処方薬まで扱う。誠にとって、ドラッグストアさえあれば人間はある程度生きていけるのではないか、と思う。
誠のアルバイトのお目当てはあくまでも『お金』で、女子高生との出会いだとか、いわゆる女の子目当てのつもりが全くない。
だから、女の子のアルバイトもいるが、ふつうの話しかしない。
というようなことを、学校の友人に言ったら、
「死ぬほどおめでたい」
と言われた。女子高生だぜ?可愛い子いたら紹介してよ。
だったら、そういうところでバイトでもしたらよいではないか。そもそも、学校に女子はたくさんいるし、今さらめんどくさい。
女子高生より、星。
雨止まないかなぁ。
お客の様子では。みな傘を持っているので止んでいないのだろうと思われる。店が完全に建物の中だから、わからないのだ。
あっちいな。
湿気と熱気でむせかえる感じがする。
「長川くんは若いから、新陳代謝がよくて熱いんだろうね」
店のチーフの男性は。たまに汗だくになってしまう誠に笑って言った。そういうもんなのかな。まあいーや。とにかく腹減った。
「長谷川くん、休憩行っていーよ」
隣でレジに立つ、主婦の皆川さんが腕時計に目を落としてにこやかに言った。長谷川さんは、売り場チーフだがパートさんであり、社員ではないのだが、誠にとって、そういうことは全くどうでもよく、ヨシッ、とひそかにガッツポーズをして一通り客足が途切れたところで、『レジ休止中』の板を出した。
その足でバックヤードへ行き、「休憩入ります!」と清々しく宣言をした。「はーい!」返事をしたのはもう1人の大学生バイトの青年で、彼と誠が昼休憩交替ということである。
誠はエプロンを外し、スマホと財布をポケットに入れると、傘も持たずにフロアを突っ切り、そのままデパートの外に一度出た。
つまり、行きたいファストフード店もまた、デパート内の店舗なのである。が、一度一階から外へ出て、フードコートから入らないといけないというわけだ。だが、誠としては徒歩1分足らずの距離など何も気にならなかった。
雨だからか、ABバーガーのレジは以外と空いていて、すぐに順番がきた。誠はいつものセットを注文した。流れるようなスピードでいつものセットがきて、トレイを持ち、店の奥へ進む。
珍しく二人掛けのテーブルが空いていて、誠は優雅にドシッと腰掛けた。いそいそとバーガー包みを開けつつ、コーラにストローをさす。そうしながら、バーガーにかぶりつく。
うーん、やっぱエビチリマヨだよな。このベッタベタ感がたまんないんだよな。
ズズーッ、とコーラをすすり、ポテトを頬張り、あー、幸せだ、と思う。
一度、母親が、「お弁当作ろっか?」と言ってきたことがある。
いやいやいやいや、勘弁してよ。大体どこで食べるんだって。バックヤードはカーテンで仕切られた更衣室と、パイプ椅子とステンレスのテーブルしかない。あんなとこで「お母さん手作りのオーガニック弁当」でも広げようものなら、もう、カオス。
オーガニック弁当は普段の通学のときでもう、充分だ。コスパで言えば弁当はありがたいけど、バイトのときのファストフードは僕にとっての活力だ。半分はこれを食べに来ていると言ってもいい。あー旨い。
スマホで時間を確かめつつ、天気予報を再チェックする。
お、午後からは曇りになってるじゃん。明日晴れるなら、まだチャンスありそうだ。
天体オンラインを開く。誠が密かに参加している天体好きの掲示板で、全国各地から天体情報や、最近撮れたレアな星空の画像が投稿されていて、毎日しょっちゅうチェックしている。
誠はあまり投稿するほうではないが、今日の~だけは、うまくいったら投稿したいと思っていた。でもできそうにないから、代わりに別の地方から撮られた画像を楽しみにするしかなさそうだ。
「ふー&
いーよな。晴れてる地域は。
なんか、イライラして、エビチリマヨバーガーをもう一個食べたくなったが、今度新しく買いたい天体望遠鏡専用のレンズのために、ぐーぐー鳴る腹を我慢することにした。親に催促する気はない。やっぱ、天体だけは自分で買い揃えたい。
チャリーン、と音がして、顔を上げるとなぜか目の前のテーブルに、小銭が数枚ばらまかれている。お布施かよ。
「あー、すみません!」
頭の上から若い女の人の声がして、慌てそれらの小銭をテーブルの上から回収し始めた。中に、500円玉があるのが見えて、腹が余計に鳴る。その500円、ください。
500円玉に目を奪われているうちに、細い指がその500円玉を小銭入れに放り込む様子を見た。パチン、と閉じられる。
「ほんと、すみません」
見上げると、ちょっと歳上くらいの若い女性が苦い顔をしてお辞儀した。可愛い人だな、と思う。でもそれだけ。
軽く頭を下げて、さてどうするか、と考える。曇りでもチャンスはあるが、課題の量を考えると夜中にうろつくには割に合わない気もする。が、もしかして、いや、必ず、ラストチャンスになる。自分が150歳まで生きられれば別だが。
「あのー…」
また頭上から今度は声が降ってきた。先ほどお布施もどきをやった女性が、何らかのセットのトレイを持って立っている。
「ここ、座っていいですか?」
「あ、」
他に席がないのか。
「はあ、どうぞ」
ありがとう、と女性は当然のようにトスン、と向かいの席に座り、トレイを置いた。
うっ、エビチリマヨバーガーが…
さっきの500円玉を使ったのだろうか、と想像する。お金と星は似ている。と思う。一期一会だからだ。むしろ、お金のほうが一期一会だ。同じ硬貨に出会う確率は、天体よりも少ない。はぁ、
「食べる?」
「はつ?」
女性がエビチリマヨバーガーと、誠の顔を見比べた。やっちまった。そんなに物欲しそうな顔してたってことだ。しかも2つ目。欲しい。いや、よくない。
「いえ、あの、大丈夫です」
ヘラッと曖昧に笑って断る。まあ、食べたいんだけど。
すると、エビチリマヨバーガーが誠のトレイの上にぽん、と置かれた。
驚いて顔を上げた。
「いやー、セット頼んだのはいいんだけど、あんま食べ過ぎたくないんだよね。ほら、キミ、若いしなんか、食べたそうだったからあげる」
女性は軽い感じでそう言って、ズズーッとコーラを啜り出す。
「いや、でも、じゃあお金を…」
「いーからいーから。ワンコイン分。さっきのお詫び」
女性は顔の前でひらひらと手を振り、むしろ断りにくくなった。
じゃあ、いただきます、とボソッと言い、誠は遠慮なくバーガーを手に取った。惨めだ。いや、でもラッキーか。やっぱり 星の日だから、こういうラッキーがあるのかなぁ。
あー、やっぱうまいや。
「食べるのはやっ。高校生?」
ポテトを頬張りながら、女性が誠を観察するように言う。
「あ、はい」
「3年生くらい?」
「あ、まあ、はい」
クラスの奴らに話したら、これまた大騒ぎになりそうな話だな。
「へぇ~、じゃあ、私の2つかそこらしか変わんないね」
「え、そうですか?」
「うん、私ハタチだから」
へぇ~、と思う。確かにそれくらいに見える気がするが、よくわからない。ただ、人の年齢をずけずけ聞いてきたり、女性というのは共通してもっとよくわからない。なんかそんなに大事なことなのだろうか。
ふと、レジにいた、真っ赤なマニキュアの女性を思い出す。
「あ、ごめんね、いきなり。失礼だったよね」
女性は、バツが悪そうに肩を竦めた。
「いや、大丈夫っす」
エビチリマヨバーガーもらったし。あー、美味しかった。
再びスマホで天気のチェックをすると、三時間毎の予報では夜中が晴れに変わっている。
よっしゃ。
「なにー?なんか面白い動画?」
再び女性に話しかけられて、ちょっと面倒になってきた。話さないと場がもたないのかもしれないが、知り合いでもないし。
「俺、動画あんま見ないんで。天気予報です」
そう言って、スマホの画面を見せると、なぜか女性は、しばらくフリーズしてしまった。冷たくしすぎたのかな。まずいかな。
そのうち、一体何を思ったのか、女性がペコッと頭を下げた。
「恐れ入りました」
「えっ?」
1から10まで意味不明。
「いやー、最近の高校生とかって、みんな暇さえあれば動画見てるかゲームやってるかだと決めつけてたから。ごめんなさい」
「いや、別にいいんですけど…。お姉さんだって、スマホ見るでしょ?」
動画見るでしょ?という意味で言ってみた。
「え、私?うーん、見るけど、動画見てなきゃ死んじゃう、って感じではないかな」
「あー、なるほど」
初めて、分かりやすい説明だと思った。つまり、あれだ。昔姉貴も言ってたように、『女ってね、感想から話すのよね』というあれだ。
「あー、ポテトうまっ。美味しいよね」
見ず知らずの高校生にニコニコ笑っている。のが意味不明だが、
ポテトがうまいのは確かだ。
「最高っすよね」
「でさ、なぜに天気予報なの?」
「えっ?」
話題の変化に若干ついていけない。これもあれか。『女の話ってコロコロ変わるんだけど、本人にとっては繋がってるわけよ』
「ああ、それは、天気が気になるからです」
「へぇー、なんで?」
「いや、それは、天体ショーのために」
誠にとってはものすごく大事なことを、知らない人に話したにも関わらず、またしても女性はフリーズした。なんなんだよ。
「そうなんだ、キミ、そういう人?」
しばらくして、女性をそう言った。そういう人、というのはつまり、天体観測の好きな人か、という意味だろうか。
「まあ…、そうっすね。星好きなんで」
まあ、知らない人だから、いいや。
ところが、女性はまたしても誠の顔を見つめたまんま、動きを止めた。自分で聞いておきながら一体なんなんだ、と思っていると、
「そうなんだ、よろしくね!私、水の水樹です」
と、いきなり満面の笑みで言われた。
「はあ、よろしく…、誠です」
何をよろしくされるのだろう。高校生に。
「あのぅ、もし良かったら、星の話、教えて?」
めっちゃザックリだなぁ、と、誠は思った。
デパート管理事務所
この町田とかいう青年は、つまりこの女性に好意を持ってるんだな、というのが、丸山デパート管理事務所の会計科の中島七奈美の第一印象だった。
まあ、美人だし分からなくもないな。でも、かなり危うい感じなんだよねぇ…、
「とにかく、今、話したことが全てです」
ポソッと締めくくり、町田という女性は黙って再び俯く。なんとなくそういう一連の仕草に、同姓として違和感がある。セクハラに遭っています、という話をするにあたり、半ば無理やり連れて来られただけであり、そもそも警察などに被害届けを出したりするつもりはないだろう。
だが、現状は辛いから、職場の同僚に相談したところこうなりました、という、どこか他人事のような、人任せのような幼さがある。が、そこまで若くはないよね?
「警察に言う前に、話し合うほうが、僕としてはいいと思うんです。なのにこいつ…」
のっけから憤りっぱなしの、その同僚の、山野という青年は、じっと目を剃らして亡霊のように突っ立っている警備員を睨みつけた。この警備員のことはよく知っている。事務所のオーナー兼部長の実子で、どうやら精神的に不安定なところがあるらしく、定職に就いても長続きしないので、ついに部長の勝手な権限で施設警備員の会社にじがに掛け合って、子飼いにした。
他に特に問題はなく、勤務態度も真面目だそうだが、警備員の同僚たちには評判がよろしくない。まあ、これじゃあね。
と、いうか。
私は人事じゃなくて経理、会計の人間なんですけど。七奈美の手に負える話でないし、人事の人間は普段ここにいない。全員本社だ。他に女性がいないからって、勘弁してほしい。
「ほら、山田!ちゃんと説明しろって!」
はっぱをかけている同期の波多野といういかつい警備員が、イライラと楽しさを両方醸し出しているのを感じる。嫌いなタイプなんだろう。
「山田さん、お父様が今こちらに向かってます。その前に、せめて皆さんの前できちんとご説明ください。でないと、どうにもなりませんよ?」
七奈美は言った。お父様、が地雷ワードであると承知の上だ。山田は、ピクッと肩を震わせた。まるで、悪さした中学生みたいだわね。
七奈美にはちょうど中学生になる息子がいる。二人の年子で、中2と中3だ。反抗期真っ盛り。思ったよりは激しくはないのは、兄弟共に思春期だからかもしれないが、とりあえず、トイレの壁に2つ穴が開いたまんま。
彼らが頼もしく感じるほどに、山田という男はなよなよとしていて、七奈美もイライラしてきた。やったのかやってないのかどっちなのよ。
「とにかく、町田さんの後をつけ回して手を触って強引に連絡先を渡そうとしたのは本当ですか?ウソ?」
「………だから」
「はっきりおっしゃい!」
ついに、キレてしまった。あんたらのことなんか私の仕事の範疇じゃないっつーの。
七奈美の勢いに、その他3人は少し驚いたようだったが、驚くくらいなら連れて来ないでとっとと警察に行けよ。と思う。
「ぼくは…、連絡先は、渡そうとしました。でも…、つけ回していない。ぼくは、ぼくは、そそそそういう気持ちで連絡先を渡したんじゃない。ちがう)
山田が、ようやく意見を言った。ん?と、七奈美は思う。これはなにかあるぞ。
こっちもウソ言ってなくない?
「そういう、というのは、やましい気持ちで、ということですよね」
「はい」
コクッ、と山田が頷く。ふーん。ところが、惣菜の山野は黙っていなかった。
「あのさぁ!こっちは忙しいわけ!今日土曜だしさ、町田さんは本当は休みだったわけ!なのにいきなり来られなくなったメガ…はいとの子の代わりに来てくれてるわけ。で、結局午後、これじゃあ回んないわけ。店長忙しいしさ。あんたみたいな…」
「ちょっと待ってください、お店のことは、置いといて」
七奈美は手で穏やかに制した。お互いの仕事の話をしていたらどんどん要点がズレる。店舗同士のトラブルは今に始まったことではないが、警備室とのトラブルは慎重に対処するべきだと思った。が、やっぱりおかしい。
どうして私なの!山崎さんは一体何やってんのよ。
山崎さんとは、人事課の女性である。主に本部にしかいないのはわかっているが、頭に来る。コンプライアンス室をデパート内に作ったはいいが、実質事務所の手すきの人間が対処するだけ、という杜撰さである。
「山田さんは、なぜ彼女に連絡先を渡そうとしたんです?」
みんなが山田を見つめる。こういうシチュエーションは苦手だろうな、と、七奈美は感じた。案の定、山田はかすかに震えている。警備の帽子のひさしで、自分を守っているような具合に俯いているが、どうやら白状する気はあるようだ。びびりだけれども負けず嫌い。七奈美は以前からそう思っている。
「・・・・・・えして欲しいんですよ」
「あ?」
味方であるはずの が、聞こえなさにイラっとした。
「返してほしい・・・んですよ」
「何を」
今度は山野が苛立った。 こいつらは黙れ、と七奈美は思う。
「父ですよ」
「はい?」
今度は七奈美が声を上げてしまう番だった。
ふと、町田という女性を見ると、怪訝そうな顔で山田を見つめている。
「ここに連絡してほしいんですよ。だから、これ」
山田が、先ほどからずっと持っている連絡先のメモ紙を、再び町田に向かって差し出したので、町田はびくっと後ずさった。とたんに山野が間に入ろうとする。
「おい!しつこいぞ」
「山田、ちょっと待て」
安藤も止めに入った。が、七奈美は言った。
「お二人とも、ちょっと待ってください」
そして、山田に向き直る。
「山田さん、では私からそれを町田さんへお渡ししましょう。それなら、いいですよね?」
後半は、町田へ向かって提案した。町田は、不安げながらも頷いた。本人の了承を得られれば、誰にも止められまい。
じゃあ、と、山田からメモを受け取り、特に中身は確認せずにそのまま町田へ手渡した。少しくしゃっとなっていた小さいメモ紙が、町田のしらうおのような指先で開けられる。
なんだかなあ、と、七奈美は思う。普通、その場で開けないような気がするのだが、彼女は平気で開けてしまう。まあ、みんなのためと言えばそれまでなんだけど、どうにもこうにも脇が甘い。というか、”わざと”脇が甘く見せている感が否めない。
その町田が、メモの中身を見ても「?」の顔でいるので、山田以外の全員がちょっとイラっとした。まるで、メモの内容が今回の騒動の答えでもあったかのように。
「これ・・・・が、なにか?」
当の町田が、山田に向かって言うのを見て、七奈美は呆れ返った。こいつが怖くて山野に相談したんじゃなかったのかい。つまり、この人、「悪気のない天然の男たらしなバカ」だ。
「そそそ、その、ば、番号は、父の番号です。あ、あんたは、ぼぼぼぼ僕らから、父を奪った!お、表向きは、父と母はもとに戻ったけど、ど、ど、でも、」
うわああああ、泥沼な予感!
七奈美は思う。頑張れ山田!
「あんたはウソをついている!」
いきなり山田は激高し、町田を指さしたが、その迫力と真実味に圧倒されて、誰も止められなかった。
山野はショックを隠し切れない顔をし、安藤はさっぱり意味が不明な顔をし、七奈美は昼ドラマにありがちなシチュエーションを思い浮かべてわくわくした。
「父とあんたはまだ別れてない!だからうちはずっと暗いまんまなんだよ。母さんは、母さんに、か、母さんに父さんを返せ!今すぐその番号に電話して詫びるんだ、別れると言え」
凄みのある声に変っていく山田に、さすがにまずいと感じたのか安藤がすっと手を出して腕を掴んだ。
「山田、分かったから、落ち着け。冷静になれ山田」
案外頼りになる男なのだな、と七奈美は一瞬他人事のように安藤を見ていたが、はっと気を取り直した。
「町田さん、この人の言っていることに、心当たりはあるのですか?」
蒼白な顔の町田に尋ねる。つまりは不倫ということで、しかも周知の事実であり、別れたことになっているが、実はまだ続いている。ということだろうか。
「・・・・、それ、ここで言わなきゃダメですか?」
町田が思いがけず、ハッキリした口調で言うのを見て、七奈美は確信した。
この女はそういうタイプであると。
ここで、固唾を飲んで黙っていた山野が、静かに口を開いた。
「町田さん・・・、それはないんじゃないっすか」
空気が凍り付く。
「あなたが、ストーカーされてるって言うから本人を呼んだんですよね。そしたら、ストーカーじゃなかった。それどころか、あなたの不倫相手の息子だった。それが分かったら今度は自分が黙秘ですか? それはないでしょう。周りの人を巻き込んでいるんだから、ハッキリしてください」
胸がスカッとする、というのはこういうことか、と、七奈美は思った。
町田は、唇を噛んで俯いていたが、やがて、
「すみません、心当たりがあります。事実です」
と、ぽつり、と言った。
ハア、と大きなため息が聞こえた。山野だった。
ものすごいシチュエーションの失恋だな、と七奈美はまた関係のないところに驚いたりした。
北山BOOKS
13時を回った頃に現れた事務所オーナーは、話を聞いて顔を赤くしたり白くしたりしたあと、息子を連れて今日は帰宅した。ストーカー被害ではなかったし、あとは七奈美たちには関係のない個人の話だから、全員それぞれに開放された。安藤はどうしたらいいか分からない状態のまま警備室に戻り、七奈美は午後の両替作業に入りながらうっかり笑いそうになったりし、山野は完全に失意の底に沈んだ。
そのとき、北中BOOKSの鈴木は突然の来客・三鷹と向かい合っていた。と言っても、パイプ椅子に折り畳みテーブルを挟んだだけの、取り調べ室のような暗い、窓のない部屋で。
三鷹は、現れた時の勢いのままに、これから動き出そうとしている「プロジェクト」がいかに大変で大切であるか、という話をもう、10分ほど話続けていた。
「うん、ああ、うん、」
鈴木はひたすら相槌を打ちながら、だんだん不安になってきた。もしかしてこいつ、なんか悩みでもあるんじゃないか? ひたすら話すのはいいが、熱っぽすぎる。というか、本当に言いたいことは全く別のことなんじゃなかろうか。
「まあ・・・、部長もさ、ここを合併するのは割と乗り気でさ、最近デパートってのも、経営的に貸店舗収入にかなり寄ってるだろ? そこで独自ブランドを」
「あのさ、それ、もう聞いたよ」
鈴木は三鷹の話をぶっつりと遮った。正直イライラするし、イライラを隠してもいなかった。こっちはこれでも勤務時間内なのだ。さっきまでは休憩だったが、すでに休憩時間は終わっているし、分かっているはずなのに話続ける三鷹が一体何をしたいのか、よくわからない。
「あ、ああ、そうだった。すまん」
「大体は分かったからさ。わざわざ教えに来てくれて悪いんだけど・・・」
鈴木は仕事に戻るために立ち上がった。
要するに、三鷹の勤める会社が、このデパートと近い将来合併して、言い方を変えればこのデパートは吸収されて、ブランド名だけは残せるようになるらしい。平たく表現するなら三鷹の勤める会社の傘下に入ってしまう。ただし現在入っている店舗がどこかに外されるということはなく、大きく変わるのはむしろ向こうさんで、デパート管理のための部署をわざわざ作り立ち上げるためにてんやわんやだよ、ということなのだった。
「俺、もう仕事戻らないと」
「あ、すまん、ちょ、ちょっと待ってくれないか。あと5分だけ」
三鷹は慌てて立ち上がると、拝むようなポーズをした。何なんだよ、とうっかり言いかけた。
「5分だぞ」
「すまん、ありがとう」
仕方なくもう一度座ると、椅子がキイッと安っぽい音を立てた。
「あのな。実は、俺、奥さんにフラれてさ」
「は?」
「2年くらい前なんだけどさ」
三鷹が肩を竦める。そもそも結婚していたことすら知らなかった。
そのあと、言いにくそうにもじもじしているので、仕方がないから代わりに言ってみた。
「つまり、離婚してたってことか」
「ああ、うん。そうなんだ。でも、聞いてくれよ。俺、家事もやってたし、もっと稼ぐために本当に真面目に働きアリみたいに働いてたし、前回も、今回だって、新しいプロジェクト任されるようになったし、浮気もしてないし、一緒に旅行だって行ってたし、本当に、なんて言うか・・・」
「フラれる理由がよくわからんってことか」
「うん、自分で言うのもなんだけど、どこが嫌だったのか未だにわかんなくてさ・・・」
それこそ自分で言うなよ。と思ったが、正直、三鷹の話しぶりからしても、事実なら女性にとってはいわゆる「優良物件」というやつではなかろうか。まだ30代であの大企業に勤め、空気読めない以外は家事もやって浮気もせずなら、子ども関係か?
「失礼だけど、お子さんは?」
聞くと、苦いものでも噛んだかのような顔を一瞬見せた。
「それが・・・・、俺は欲しかったんだけど、向こうがいらないって言い続けてさ。出来ずじまいだった」
「それは・・・・、じゃあ、元奥さんは、キャリアウーマン的な?」
「うーん、働いてはいるけど一般企業の事務やら人事やらではないよ。というか、仕事が理由じゃなかったように思う。もっと何か、深いっていうのか・・・」
子ども関係でもないとすると、本当にこの男が嫌になったか、別に好きな男ができたか、くらいしか独身の鈴木にはよくわからない。
「俺、まだ独身なんだわ。だからよくわからないんだが、俺にも、お前がなぜフラれたのか想像はつかないな。悪い」
そういう話ならとっくに済んでたのに、と思う。こういう煮え切らないところがダメだったんじゃないのか?
「いや、いいんだ。本題はここからだ」
「えっ」
三鷹がすがるような視線を送ってくる。
「俺は、奥さんとよりを戻したいと思ってる。でも、正攻法じゃダメだ。またフラれる。それで、俺は考えたんだ。”偶然を装う”」
どうだ、と言いたげな顔をするので鈴木はひっぱたきたくなった。
「あのなあ、ちょっと言いたいことが分からんぞ。偶然だろうが必然だろうが、お前はお前じゃないか」
身も蓋もないが現実だ。
それに、女性は一度嫌になった相手とそうそう元の関係には戻りたがらないように思う。
「いや、そうじゃないんだ。俺は確かに彼女に会いたい。というかさっき見てきた」
「はぁ?」
「それが目的じゃないんだ。俺は、彼女がなぜ俺から去ったのかを知りたい。知った上で、再アタックしたいんだ。そのために、近くに張っていたい」
「つまり、お前から去ったのは他に男がいるからじゃないかと考えているわけだな」
「そうだ」
あー、回りくどい。
「で、さっき見てきた、と言ったが、どこで見てきたんだ?」
「それがさ。このデパートの中なんだ」
「あとをつけたのか?」
「いや、違う。この中で働いてる。1階のジュエリーショップで」
「あー」
そういえば、その一角だけ雰囲気の違う、高級ジュエリーショップが1階のフロアにある。が、その中の店員まではよく知らない。そもそも、フロアが違うとほとんど会うこともない。
「でもな、ここの1階は隠れる場所が何にもないんだよ」
「そりゃ、かくれんぼする場所じゃないからな」
「だけど俺は、彼女を尾行したい。監視したい。接触する人間を知りたい」
「お前、言ってることがストーカーみたいだぞ。それに、そんな面倒なことするくらいなら、探偵にでも頼めばいいだろう?」
「頼んだ」
「えっ」
「完全にシロだった。男のおの字もない」
「シロってお前、もう離婚してるんだから独身だろ?いたってクロって言わんだろうが」
「あ、そうか」
「・・・うーーーーん・・・」
確かに三鷹は、回りくどいし空気読めないしちょっとズレたところはあるが、愛嬌がいい、とも言える。その上、仕事は真面目にやるし、何より見た目も悪くない。であれば、やはり元奥さんに好きな男ができたくらいしか、思いつかなかった。しかし、それもなさそうだと言う。
「あのさ、もう諦めて前を向いて歩いたらどうだ?」
嫌われたものは仕方がないではないか。
「何度もそう思ったさ。仕事にばっかり打ち込んで、それでも忘れられなくて、婚活パーティーまで行って、でもダメだ。寝ても覚めても彼女のことばっかりなんだよ」
三鷹は頭を抱えた。婚活パーティーではさぞかしモテたろうに、と、鈴木は羨望とも失望ともつかない複雑な気持ちになった。
「だったら、会える距離にいるんなら、もうダイレクトに伝えるしかないだろう。当たって砕けろ、って言うだろ」
「砕けたくない!」
めそめそ泣きそうな顔になる。
「だって、もう一度砕けてるわけなんだからあと何度砕けたっていいじゃないか。失うものはないんだし。俺は、なんか嫌だよそういうの。待ち伏せとかさ、隠れてコソコソだとか。探偵だとか。すんなり諦めるか、何度でもアタックして砕け散って警察呼ばれるくらい頑張るか、男らしくハッキリしたほうがずっといいと思うぞ」
三鷹は黙り込んでしまった。ちょっと言い過ぎたかな、と思ったが、どうせ話の流れ的にも「尾行するのを手伝ってほしい」とかなんとか言われるのが関の山だ。そもそもそれを頼みに来たのだろう。
やがて、三鷹は顔を上げた。
「俺・・・、男らしくなかった。鈴木の言うとおりだ。だよな。ダイレクトに伝えるべきなんだ」
「そうだ。複雑に考えすぎだよ。じゃあ、俺はもう戻るから」
5分どころか10分近く経っている。さすがにアルバイトの女の子が可哀そうである。
「ああ、ありがとう。時間を取らせて済まなかった」
三鷹もようやく立ち上がったところで、あ、と言った。
「あのさ・・・・、せめて、俺が玉砕するところ、見ててくれないか」
「はあ?」
高校生じゃあるまいし、どれだけその「元・妻」に惚れているのかと呆れた。が、もう話すのも面倒になってきたので、仕方がないから承諾した。
「いいけど、いつ」
「彼女の退勤時間を待つよ。19時くらいだと思う。鈴木は・・・・?」
「・・・・・18時で退勤だよ」
今日に限って退勤時間が早いのだ。ため息が出たが、三鷹はうれしそうな顔をした。
正直、高校生よりやっかいだな。
鈴木はあきらめた。
料亭ヤマミチ
山辺恵は、いかにこの場を休憩時間内に収めようかと必死で考えていた。
長谷川とかいうジュエリーショップの女性がいかに懸命に訴えても、今から2週間後のオーストラリア旅行のツアー枠は、どうしてもない。いや、オーストレリアン、か。
「最短で、3週間後なのよね・・・・」
長谷川さんは、美しい唇をすぼめて、ふう~~~、と、再度ため息をつく。どうしても、2週間後には旅立ちたいのだそうだ。それか、最短で来週。
さすがに無理である。今日はもう土曜日で、来週ですら2,3日後のことを指す。それが、たとえ今から2週間後となっても同様であるし、ほとんどそれは、”来週”よって。よって、最短で3週間後なのだが、テーブルについてからこの女性は、今すぐにでも旅立ちたい勢いで恵にすがってきた。理由は不明である。
「日数で言えば、およそ8日~10日後には行けますよ」
そう言うと、はっと顔を上げて目を輝かせるのだが、すぐに、また伏し目がちになってしまう。それにしても、この人って・・・
「もう、明日にでも旅立ちたいくらいなの」
そう言って頬杖をついている様は、宝塚のスターみたいだ。異常に美人なのだが、どこか中世的であり、男役でも女役でもなれそうな雰囲気がある。すらりと伸びた脚は、テーブルの下で随分と窮屈そうな感じだ。まあ、この店って、料亭だもんね。料亭ってことは、主に日本人向けってことで、日本人って基本的に脚そんなに長くないしね。
それより、時間がヤバい。
「本当にいいんですかぁ?ご馳走様ですう」
と、先ほど長谷川さんの驕りでたくさん食べたみんなは、
「山辺さん、ごゆっくりね」
と、なぜかウインクまでしていったが、やはり遅刻や倦怠勤務は気になる。どのみち手続きは店で行うのだから、あとは一緒に出てもらってから店に連れていくしかない。
長谷川さんは、ヤマミチのうな重を隅から隅まで食べつくしてすっかりお茶モードに入っている。あんなに食べてよく太らないものだ、と恵は羨ましく思ったが、こういう人はたまにいるものだ。まるで天から降り立ったかのような容貌の、ちょっと変わった人が。
「長谷川さん、あのう・・・、私もそろそろ、時間があんまりなくなってきてて・・・」
「ええ、ええ、ごめんなさい。私、急いで飛び出してきちゃってとても慌てていたものだから、あそこであなたに会ったら、「これは運命だ!」って、ピンときてしまって、もう、何が何でもこれは実行しなきゃいけないというか、本当は少しうじうじしていたのだけど、やっと決心がついたのね」
「はあ、それは・・・・、」
半分くらいしか理解できない。が、ついにオーストラリアに旅立つ決心がついたということなのだろう。それも、誰かと二人で、のようだった。夫か恋人か誰か知らないけど、いきなり「行くわよ」と誘うのだろうか。やりかねない気がした。そして、相手は行くだろう、とも思う。
「でも、そうね、ありがとう。それじゃあ、3週間後の金曜日に出発の日程で、決めさせていただくわ。お店に行かなきゃならいのでしょう?」
「そうなんですよ、私が勝手に書くわけにはいかない書類もたくさんありますので」
恵はほっとして、腕時計に目を這わせ、「お会計してもいいですか?」と腰を浮かせた。長谷川さんも、ええ、と立ち上がり、それと同時に店員さんが、奥から寄ってくるのが見えた。やけにニコニコしているが、長谷川さんがたくさん頼んでくれたからだろうか。
「私が払います。ありがとう。それで・・・」
有無を言わさぬ早さで伝票を掴むと、長谷川女史は言った。
「予約は何時まで受け付けていらっしゃるの?」
「ああ、えーと、当日ではないので18時までなら今日の受付ができますよ」
「そう、じゃあ、なるべく早く行くわね」
諭吉が3枚ほど店員さんに手渡され、お釣りをもらう間、恵は黙って後ろに立っているしかなかったが、ふと、背後に凄まじい殺気を感じた。
店の入り口を振り返ると、そこには若い女性が一人、じっと立って恵みを睨みつけている。
え、なぜ?なぜ?
お釣りをもらい、ご馳走様でした、と言っている長谷川さんに向き直り、
「ご馳走様でした」
と改めてお礼を言いながら、あの人は誰、と混乱した。振り返るのが恐ろしいくらいに殺気立っている女がいる!
と、ヤマミチの入口へと歩き出した長谷川女史が、「あら」と言った。恵を睨みつけていた女性が、長谷川さんを見て、ふっと表情が和らぐ。知り合いだろうか。と、近づくにつれ、彼女も長谷川さんと似たような金のプレートを左胸につけているのが見えた。スーツも似ている。
「南さん、どうしたの?」
「ははは長谷川チーフが、ずっと見当たらなかったので、ちょっと、探してました」
南さんと呼ばれた女性が明らかにショックを受けている様子を見て、恵は何かいろいろと察するものがあった。よって、誤解は解かなければならない。
「それでは、ツアーの件のご予約、お待ちしております」
店員よろしく頭を下げる。
「あ、ええ、よろしくね」
では、と、恵は階段へと向かった。あの二人と同じエレベーターに乗るくらいなら、階段を使う方がマシだ。それにしても、と、振り返ると、長谷川さんの半歩うしろを歩く形で、南という女性の背中が見えた。あの人、お昼の間中、ずっと探してたのかもしれない。ゾクッとした。
惣菜
地下惣菜の混雑は昼時のピークを過ぎて、一時閑散とした時間がきていた。店に戻って翌日の発注作業を終えた山野は、まだぼんやりする頭をフリフリ、夕方の混雑に備えることに集中した。
急な事態のヘルプに来ていた近所に住む60代の主婦パートさんは、じっと黙って作業に集中している。土日出勤は時給が100円アップなので、損して得を取った彼女は、店のごたごたにまるっきり興味がない。
一方で、まだ店に残って作業を続けていた町田陽子は、帰りたくて仕方がない気持ちのまま居残った。
実際、本当にストーカーだと思っていたわけなので、心底驚いたものの、よくよくあの警備員の顔を見たら、けっこう似ているではないか。彼に。
でも、だからって。あんな公開処刑をされるとは。
チラッと背後で黙々と作業する山野を見ると、明らかに全身から不機嫌オーラを発しており、店に戻ってから必要なこと以外一切口をきかなくなった。こうなってしまっては、ここもいなれないかもしれない、と思う。
正直言って、山野の好意には気づいていたし、それを利用してきたかもしてない。でも、あそこまで怒られる筋合いはない気がする。
意を決して、陽子は声をかけた。
「あの、山野さん」
山野は、一拍置いて、返事をした。
「はい」
後ろを向いたままである。
「その・・・、さっきのことは、誤りますけど、あの・・・」
さっきのこと、と言ったとたんに大きなため息をつかれ、さすがにイラっとしてしまった。
「確かに悪いのは私です。ですからそのことは謝ります。でも、私は山野さんに、何かしましたか?」
言ってしまってから、言い過ぎたと感じたが、どうせいろいろともう遅い。
ハア、とまたため息をついてから、山野は振り返った。真剣な顔をしている。
「あのさあ、町田さん。俺に何かしたとか、しなかったとか、そういうことで俺は頭に来たんじゃないんですよ。俺のことをどう思ってるか知らないけど・・・」
ふう、と息を吐きだして、また吸った。
「あんた、人生それでいいんですか?」
その場の空気が凍り付いた。が、パートのおばちゃんは一向に気にしない。
「そんなこと・・・、山野さんに言われる覚えはありません」
カッとなって言い返すと、山野の顔は怒りでみるみる赤くなった。何なのよ。恋人気取りかなんか?勘弁してよ。仕方がないじゃない、好きな人にたまたま、家庭があっただけの話。
山野が何かを言い返そうとした、そのとき。
ガラガラ、と空の台車を引っ張っていたおばちゃんが、誰に言うともなく、言い放った。
「だあれも幸せになんないよ、ってことが分からないただのわがままなお嬢ちゃんだね。早く家に帰って子供の面倒みてりゃあいい。子供がおんなしことやっても笑って許すのかね。こっちは休みだったんだけどねえ。本当に迷惑な話だよ」
山野は口を開けて驚き、黙って作業に戻った。
洋子は恥ずかしいやら怒りやらで顔に血が上り、頭がくらくらした。そうだ。帰った方がいい。こんなところ、もう来るもんか。
と、思ったら、気が付いたら床に顔がついていた。あれ?
「町田さん!」
慌てて山野が駆け寄る。パートのおばちゃんが、やれやれ、と首を振りつつ、
「どこまでもはた迷惑な女だねえ」
と呆れる声が聞こえた。目の前が、すうっと暗くなっていった。
警備員室
惣菜コーナーからまたしても内線が入り、安藤は思わず顔をしかめた。今度は何なのだ、と思ったら、さっきの町田とかいう女性が倒れたらしい。緊急案件なので救急車を急いで手配し、またしても事務室へ連絡を入れる。
奇しくも出たのは先ほどの経理の女性で、今人手が足りないから自分が行くと言った。そもそも、山田親子が帰らなきゃ人手は足りたはずなんじゃないのか、と、哀れみを感じた。
15時を過ぎて、夜勤の隊員がちょうど来たばかりだったので、安藤は夕方の警備を任せてデパートの裏の搬入出口へと出向いた。一階の裏手のそこは、貨物車や運搬車専用の出入り口で、朝はそこに立ち、警備するのも仕事のうちである。
外に出ると、意外にも空は晴れてきていた。今日は一日雨の予報だったから、傘の置き忘れに特に注意していたし、床の滑りやすさにも気を遣わなければならなかったのだが、もう傘袋立ては要らないな、などと思う。
緊急時用の担架の上に、惣菜の山野が背負って連れてきた町田を横たえる。恐らくはただの貧血か何かだと思ったので、特に緊急処置は行わない。どうせもうじき救急車が来て、救急隊員が判断してくれるので、基本的に警備員は急病人を看れないことになっている。
5階の事務室から駆け付けた、中島七奈美が少し息を切らしながら、「お疲れ様です」と声をかけてきた。可哀そうに、階段を駆け下りてきたのだろうと察した。エレベーターはあまり早く一階に着けないからだ。
「お疲れ様です。大丈夫そうですよ」
安藤は担架の上を顎でしゃくった。息もしているし、痙攣もしていない。
「はあ~~~~~」
七奈美は膝に手を置いて、息を整えた。
二人はなんとなく、担架に付き添う山野から少し離れた場所に立ち、救急車を待った。山野の様子が明らかに、人を寄せ付けない状態に見えたし、何しろさっきの騒ぎだ。巻き込まれたくなかった。
「雨が止みましたね」
七奈美がボソッと呟くように言うので、「ええ」と答えて空を見上げた。そういえば、山田は明日、ちゃんと出勤するのだろうか。確か、明日まではシフトが同じだったはずだ。
見透かしたかのように、七奈美がおずおずと言った。
「あのう・・・、山田さん、でしたっけ。フォローしてあげてくださいね」
安藤は七奈美を見た。もうすぐ50代というところだろうか。10以上歳が違う女性ではあるが、母親ほどではない。こういったデパートには本当に様々なタイプの人間が集まるから、警備員といえど、人間観察力が肥えてくる。そんな中でも、七奈美は「まとも」な人だと思う。
「ええ、まあ、なんとかやってみますよ」
苦笑いを浮かべる。フォローか。まあ、普段通りにしているのが一番だな。
「救急車の音が聞こえてきました」
安藤は音のする方へと視線を彷徨わせた。交通誘導をしなければならい。七奈美は、管理事務所の人間として立ち会わなければならないし、後ろの山野はもしかしたら、一緒に救急車に乗らなければならないかもしれない。
まあ、俺には関係ないけどね。安藤は思う。
どう見ても、彼は好き好んであの女性の訴えを引き受けていたとしか見えず、中途半端な正義感で庇おうとしていた。ところが、事態が変わってくると、今度は別の正義感でもってあの女性を窮地に立たせた。好意を持つのは勝手だが、彼の正義が万人の正義とは限らない。逆もまた、然り。要は、人は変えられないということだ。
『中庸って知ってるか、武』
救急車のサイレンと共に、ふいに父親の言葉を思い出した。まだ、現役として現場を飛び回っていたころの、だいぶ昔の言葉だ。
『警察の正義ってのは、要は法だ。じゃあ、人間の正義ってなんだ?人に正しいも間違いもねえ。その時はそう考えてたってだけのことだ。つまりそれは正義や悪じゃねえ。ただの意見だ』
いよいよ救急車が近づいてきて、安藤は手を大きく上げた。
『ただの意見を聞くときは、真ん中に立ってなきゃなんねえ。それが、中庸ってことだ』
のちに、それは仏教用語の一部なのだと知ったが、あの父親にしてはずいぶんまともなことを言っていたころもあったよな。
やがて、町田という女性を乗せた担架が運ばれていき、行き先が決まったらしい。山野という男がしぶしぶ、といった顔で同乗し、救急車のドアが閉まる。
「よろしくお願いします」
と、七奈美が頭を下げ、安藤も倣った。
救急車がサイレンを鳴らしながら出発した。安藤と七奈美はそれを見送り、引き上げることにした。
ふと、安藤は七奈美に言った。
「山田のことは、父親に任せて、自分は普段通りにしますよ」
七奈美は微笑んだ。
「そうですね。それがいいと思います」
なんか、俺って中庸?
安藤はちょっといい気分になって、空を仰いだ。天気予報は外れたな。
ジュエリー
南香織は複雑な思いを飲み込んだまま、店の奥で黙々と商品点検の作業を続けていた。どうやら雨が上がったようで、デパートに入ってくる客足が多くなってきた。今日は土曜日。普段ならもっと混むはずだが、夕方までの雨のせいで平日並みだ。よって、店に訪れる客も少ない。
もともとが高級店を売りにしているので、いつもそんなに多くはないのだが。
香織は、店内でディスプレイチェックをしながらゆっくり歩く、くびれた足首を切なくのぞき見し、ため息をついた。
ああ、長谷川さん。私だけの長谷川さん。
で、いてほしい。
なのに、あの女は一体なんなのだろう。どういう関係で、どんな話をしたのだろう。考えるだけで、カアーッと頭に血が上るようになる。知りたいけれど、知りたくないというよくわからない状態のまま、長谷川さんにもすらっとはぐらかされ、まるで生き地獄にいるかのような気持ちだ。
もう、いっそのことハッキリ聞いてみようかな。長谷川さん、さっきあの女性と何してたんですか?
いや、ダメダメ。香織はかぶりを振る。それじゃあなんだかモラハラみたいじゃない。では、こうだ。
長谷川さん、お昼どうしたんです?探したんですよ~、、は、さっきチラッと言ってしまったか。
「ちょっとね、急用があって。あのお店に行ってたのよ」
と、はぐらかされてしまったではないか。
「南さん?」
そうそう、南さんって、オーストラリアは好き?いいところなのよ、日本人は多いけれど、山間部のほうはそれはもう素晴らしいわ。
「南さん」
南さんは、行くなら海?山?どっちが好きかしら。
「もうどちらでも!」
「えっ?」
「えっ?」
回想に浸っている香織の目の前に、いつの間にか長谷川さんがいた。はっ、とさらに赤面してしまう。
「どうしたの、呼んでたのよ」
長谷川さんは笑って言った。
「すみません!ぼーっとしていて・・」
「いいの、いいの。それより、今日は土曜日だけど、ほら、お店そんなに混んでいないでしょう?」
「え、あ、はい。雨でしたからね・・」
「そうなの。それでね、私も南さんも明日お休みじゃない?だから、もし、良かったら、でいいのだけど」
えっ? 何か、とてつもなくいい予感がする・・・・!
「その・・・、駅前で軽く、ディナーでも、どうかしら」
長谷川さんが魅惑的に微笑むので、香織は一瞬ドキッとした。何だか、長谷川さん、私に緊張してる?
いやいや、まさか。突然の誘いで気を悪くしないように気を遣ってくれているに違いない。
「いいんですか?もちろんです!」
香織は即答したが、お財布の中身がちょっと気になった。
長谷川さんと以前、飲みに連れて行ってもらったバーのことが頭をよぎる。一杯で1000円以上はしたような気がする。
香織の心配を見越してか、長谷川さんが言った。
「南さんの好きな、あそこのイタリアンでもいいわよ」
「え、あの、あんな安いところで・・・」
以前、その店から出てきたところでバッタリ会ったことがあった。いわゆる大衆レストランの部類だ。
「ええ、もちろん。美味しいわよね、それに、せっかくだし南さんの好きなものを私も食べたいわ」
香織の胸に、どっきゅーんと矢が刺さった。
南さんの好きなものを私も食べたいわ。
私も食べたいわ。
ウソみたい。
「そそっそそうですか、ありがとうございます」
「ううん、こちらこそ。今日は早めにお店を閉めましょ」
そう言って、長谷川チーフはウインクした。
はい、とうわの空で返事をした香織は、まさに夢を見ている気分だった。もしかしたらこれは、現実ではないのではなかろうか。 というか、現実だと実感した瞬間に、叫んでしまいそうだったので、むしろ夢を見ている気持ちでいたい。
早くお店を閉めましょ。
はい、チーフ!
腕時計は、17時30分になろうかというところだ。本当ならここは、18時30分まで開けていなくてはならないのだが、早めに、というのはどれくらいだろうか。
「長谷川チーフ…」
立ちあがり、 バックヤードから出て声をかけようとしたその時、ディスプレイの込み合った向こうの白い壁の横から、男性が顔だけ出しているのが見えた。
「ヒィッ」
思わず悲鳴が出る。顔は、サッと引っ込んだ。長谷川チーフが驚いて、レジから近寄って来た。
「どうしたの、南さん?」
「あ、今、何か変なものが…」
顔が見えました、などと言ってよいのかわからない。
まさか…、幽霊?!
「壁のところに、変なものが見えた気がしてしまいまして」
笑って誤魔化した。
「あら、何かしら。ガラスが入り組んでいるから光の加減が眩しいわよね。大丈夫?」
そう言って、香織の顔を心配そうに見つめる。
全然大丈夫です。
「はい、気のせいだったみたいで…」
あなた様にそんな瞳で心配されたら、何が現れても私は平気です!
BOOKS 北川の鈴木
俺は今、確実に変質者だと思われたに違いない。
若い女性と目が合って、明らかに怖がられたので慌てて首を引っ込めた。はぁ、とため息が出る。
「あのさぁ、もっと正々堂々と…」
振り返ると、三鷹はやたらと離れた位置に移動していた。あたかも、突っ立っているのはスマホに用事があるからだ、と言わんばかりに反対側の壁に寄りかかり、知らないフリに必死だ。
つかつかと寄っていき、言った。
「こんなこそこそしていたら、かえって怪しいよ。というか何をしてるんだよお前は」
「ちょ、ちょっと近いよバレるだろう。もう少し離れてくれ」
小声で早口に言い、さらに離れようとする。こういうところがダメなんじゃないかと思う。
「俺をスケープゴートにするつもりだろう」
「いや、別に、そこまでは…」
「まあ、一緒にいたんじゃ効率は悪いけどな。死角もないし。やっぱり見張るって、もっときちんと考えたほうがよくないか?」
とは言ったものの、きちんとどう考えたらよいのかよくわからない。探偵ゴッコなどしたことないのだから。
「そうは言ってもさ…」
三鷹が遠い目をして見つめる先には、彼の元妻がいた。どう考えも隔たりしか感じない上に、あんな美人が、と思う。いや、だからこそ忘れられないのか。
しかし、だからこそ無理な気がする。あの女性が三鷹と結婚するのはおかしいとは感じない。三鷹は正直「いい男」だ。何しろ条件が素晴らしい。
が、だからこそ、美男美女の破局には根深いものしか感じない。とすると、ここは、探偵ごっこには付き合うとして、三鷹にはキッパリ諦めるよう説得するしかないように思った。
「あっ…」
三鷹が小さく叫んだのでサッ、と再び覗くと、何やら閉店作業に入ったようだ。ガラガラ~、とシャッターを半分ほど閉じていく。先ほどの若い女性だ。顔がウキウキしている。早く帰りたいのだろう。
「閉店は、6時半じゃなかったか?」
腕時計で確認すると、まだ5時55分だ。今日は早じまいなのか。
「6時半と書いてあったし、この前も6時くらいに前を通りかかったらまだやってたよ」
三鷹がそわそわし出す。
「てことは、まあ早く出てくるかもしれないな。従業員の通路口の近くで張るほうがよくないか」
鈴木がいうと、パッと顔が輝いた。
「早くそれを教えてくれよぉ」
「そんな簡単に教えられるか。防犯ってものがあるんだから」
はぁ、とため息が出る。
「まあ、その近くで待っていれば、いずれ出てくるだろ」
全従業員は殆ど同じ通路からデパートに出入りしている。その際に、店舗のカギやカードキーを、デパートの警備室に返すのだ。このデパートでは、責任者でなくても出退勤チェックはしなければならないから、返す人間でなくても必ず通る出入口が存在した。鈴木は一度退勤チェックしてから、個人として入店しているだけだ。
だから、ふつうに外に出て待てばよい。