十ページを開いてください。
ちらりと外を見る。
せっかく年度始めの授業だというのに、気分の落ちる空模様だった。心なしか、風も強い。雨が降りそうだ。
「それでは、十ページを開いてください」
天気のことは後回しにし、教師は授業を始めた。
「えー、第一章の……」
「ちょっと待ってください」
ひとりの生徒が声をあげた。
「なんでしょう。ええと――」
「金木です」
眼鏡をかけた、聡明そうな男子生徒である。
忘れ物だろうか。だとすれば、今回は大目にみてやらないこともないが。
それにしても、人は見かけによらないものだ。
勝手にそう結論付けた教師は再び口を開く。
「忘れ物ですか。今回は大目に見ますが、次は気を付けるように」
「いいえ、そうではありません」
「……?」
金木という生徒は、自信満々に教師の言葉を否定した。
教師は怪訝な顔をした。
「では、なんでしょうか」
出鼻をくじかれ、予想も外れたことに少しばかりの苛立ちを覚えた教師は、それでも冷静に問いを返した。
金木は教師の質問に笑みを浮かべながら答える。
「なぜ十ページ以前はやらないのですか?」
教師はため息をついた。
たまにいるのだ、こういう輩が。教科書を見もせず、やらないページについてたずねる輩が。
しかし、初めての授業だ。今回は親切に教えてやろうではないか。
「金木君、十ページ以前の内容は確認しましたか」
これで金木は納得するに違いない。そうしたら
「今度からしっかりと確認しましょう」
と、優しく諭せばいいのだ。
教師には早合点する悪癖があった。
「はい、確認しました。内容は、目次や教科書の読み方などでした」
金木は変わらず、自信を滲ませて答えた。
周りの生徒の、クスクス笑う声が耳に入る。どうやら、間抜け顔を晒していたようだ。
表情を引き締めながら、妙なことになったと思った。
「どういうことですか」
教師はなるべく感情を漏らさないよう、口を開いた。
一方の金木はなにが面白いのか、ニヤニヤとしていた。
「そのままです。なぜ十ページ以前はやらないのですか?」
「目次や読み方は後から自分で確認できますよね」
この厄介な生徒はさっさといなして、授業を始めてしまおう。
そう考え、教師は金木の質問に答えた。
その瞬間、金木のニヤケが増した気がした。
「後から自分で確認できる、ですか」
含みを持たせて金木が声を発した。
「そうですね。自分で確認できるでしょう?」
教師の言葉に感情が乗った。
金木は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「でもそれって、他のページも同じですよね」
そういうことか、教師は小声で呟いた。
こいつは授業を遅延させたいらしい。
「なるほど。それもそうですね。ではそうしましょうか」
言い争うのも馬鹿馬鹿しい。教師は大人しく従うことにした。
「ああでも」
「なんでしょうか先生」
教師は思い出したかのように声を上げた。
「これはこのクラスの総意ですか?」
金木は自信を持って答えた。
「もちろんですよ」
「そうですか」
勝った。金木は確信した。完全勝利である。
これから、授業内で面倒な計算をする機会は確実に減る。
楽しい時間になるぞ。金木は心を躍らせた。
これは金木立案のクラスメイト全員の作戦であった。
関係のないページを教師にやらせることによって、授業内容の密度を下げ、計算や問題の量を減らす作戦だった。
そして教師は見事かかった。少々呆気なかった気もするが、勝利は勝利である。
授業終了後、生徒たちは金木を中心にして喜び合った。
教師の懸念通り、天気は荒れた。
生徒の下校時刻、傘を持たず大慌てで駆けていく金木の姿を、教師は見ていた。
教師の下校時刻になった。
昇降口まで傘を持っていなかった教師は、鞄から折り畳み式の傘を取り出した。
教師は勝ち誇った笑みを浮かべ、歩いて行った。
結局、金木の策は三年を通して続いた。
思惑通り、計算量は他クラスの半分程度になり、彼らはゆるりと授業を過ごした。
まあ、そのあとどうなったかというと……ね。
教師は恨み深かった、とだけ。
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