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六 暗影



 ***


 

「時雨さん? どこにいるんですか?」

「しっ! 静かに」

 紗那を小声で窘めると周囲を伺った。夜目に映る境内は当然のことながら静まり返っていた。降り続く雪のせいで足跡一つ見つけることもできない。

 待ち合わせの社務所は境内の西はずれであり、ここからでも見えた。

「時雨さん、私たちに気づいて出てきてくれませんかね?」

 暗中模索の雪中行軍から解放されて二人分のため息をついたのもつかの間、しんと静まり返った暗闇を目の前にして握った手がぎゅっと握り返された。あれから鍵を借りることはできたものの、紗那は一緒に行くと頑として譲らず今に至っている。

「何言っているの!? 付いていくと言ったのはあんたでしょ」

 紗那はこう見えて肝が小さい。が、実を言うと私も闇の中に山賊が潜んでいるような気がして怖くて仕方がなかった。二の足を踏む足を拳で気合を入れなおすと壁に沿って社務所を目指す。この辺の雪はかちこちに固まっていて滑りやすく歩くのに難儀した。

 何度も滑りかけた末にようやく社務所に手が届きかけたときだった。安堵の息をつきかけた口を突然塞がれたので頭が真っ白になった。

『二人とも静かに、僕だ』

 口を開きかけるが、時雨は掌にぐっと力を込めるとそれを静止し、そして、そのまま古井戸の隅に私たちを引きずった。

『手を離すけど、絶対に声を出さないで。息をするときも口を覆ってするんだ』

 湿った皮の臭いが離れると新鮮な空気が肺腑に流れ込んでくる。振り向くと時雨が中腰で立っていた。しかし、私たちには目もくれず、目線は境内に固定されたままだった。

『りせ、紗那、鍵を持ってきてくれてありがとう』

 時雨はにっこりと笑ったが、すぐにまた表情を引き締めた。

『鍵を僕に渡して。そして、二人はここでじっとしているんだ』

 抗議の声を上げようとした紗那の口を私は慌てて塞ぐ。紗那はもごもごさせていたが、大きく首を横に振ってどうにか自分の意志を伝えた。

『遅かったんだ。奴らはもう敷地の中にいる』

 私が「山賊?」と言いかける前に時雨はかぶりを振った。その間もやはり目線は動かない。奇妙に思い、目先の先を追うと…………何かがいた。 

 あれは…………熊?

 黒い大きな影が一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。それらが境内のちょうど反対側の壁を歩いているのが見えた。行き先は本殿だろう。あちら側から行く方が本殿には近い。だが、私たちがあれだけ難儀したにも関わらず黒い影たちは足のない幽霊のように苦も無く進んでいるのが妙だった。

 ふと雪がぱたりと止んだ。そして、灰白色の月光が境内をほんの一瞬だけ包み込む。

「…………っ!」

 息を呑む声ははたして私だったか紗那だったか。

 気づけば私たちの口は再び時雨の手で覆われていた。しかし、口を覆わずとも私たちはあまりの恐怖に息をすることさえ忘れていただろう。

 僅かに見えたのは灰色の防寒外套。口元は勿論、目も奇妙な眼鏡で覆われ、顔を窺うことは一切できなかった。脛まで伸びた異国の革靴は悪い足場に身じろぎ一つすることなく進み、小銃の先についた剣が鈍く光る。

 …………大変なことになった。

 賊軍の兵が畏れ多くも皇帝陛下の神器を奪おうとしている。

『絶対に変な気は起こしちゃいけない。彼らは人を殺すことを生業としている連中だ。連中にもし気がつかれたら死体すら残らない』

 震えが止まらない。

 これは報いなのだろうか。

 自分が愚かでちっぽけなのに関わらず、それを自覚できなかったことへの。

『大丈夫』

 心の奥が温かくなる声で時雨は言った。何が大丈夫なものかと反論したかったが、頭がぐらりと傾ぐと何も考えられなくなってくる。

『これは夢だ。とても怖い思いをさせて申し訳ないと思うし、今日一日奇妙なこともたくさんあったけど、でも、全部夢だ。明日の朝になればいつもの生活に必ず戻る』

 バサッと小さな音がして何かと思えば紗那が時雨の腕に倒れ込む音だった。きれいな寝顔で寝息まで聞こえてきそう。

『りせ、本当にありがとう。君に会えて本当に嬉しかった』

 時雨の指が額に触れると急速に意識が遠のいてくる。その強烈な眠気に何とか抵抗しようとするが、瞼は石のように重い。それでも必死に首を上げようとしたとき見えたのは緑の燐光とその燐光に半ば溶けかかった時雨の手の中の鼠だった。

「…………ま、ほう?」



 夢を見た。

 西日が差し込み、埃が細氷のようにきらきらと輝いていた。

 時雨の父親のものだったその蔵は今はもうない。

 そこは幼い時雨と私にとって世界そのものだった。

 旅人が落としたであろう無数のがらくたと紙屑。小さな蔵に埋め尽くされたそれらを私たちは日が暮れるまで夢中に探しては眺めていた。

「これはねえ…………」

 時雨の声が聞こえる。

 きらきらと顔を輝かして一所懸命私に何かを教えてくれている。

 時雨の話していたことはちっとも覚えていないけど、その顔が好きだった。

 きらきらと輝く紫色の瞳が私の一番の宝物。

「みんながとうさんのことをわるくいうんだ」

「とうさんはうみのかなたにいくことができたんだ」

 あの日の時雨は傷だらけだった。

 紫の瞳を曇らせて父親が唯一遺した異国の製本をずっと見つめていた。

 ああ、いやだな。

 こんなのはしぐれじゃない。

「しぐれのばか! げんきのないしぐれなんてだいきらい!」

 私の両足は地面にくっついたままだけど、時雨には羽が生えているんだ。

 一羽の白鳥が天峰山を超えていく。

 どこまでも―――どこまでも―――地と海の彼方へ―――。

「挫けないで! あなたはいつか海の彼方に行くんでしょう!」

 


 ハッと目が覚めた。

 目の前を白い箒星が横切ったような気がしたのは夢現だからだろうか。

 事実、頭はぼんやりしていた。

 今、目を閉じればまた夢の続きが見られそうな気がする。  

「―――そっか。私が時雨の背中を押したんだ」 

 自分勝手な思い込みだとは思う。私なんかがどうこうしなくても時雨は野の鳥のように勝手に羽ばたいていくだろう。でも―――。

 胸の中がほのかに温かくなるとようやく頭が働き始めた。

 寒くない。そして、顔を覆うねっとりした闇もない。薄暗いなかに浮かぶ見覚えのある丸机と大きな火鉢。ここは…………社務所か?

 妙な物音が聞こえて横を見れば隣で紗那がすやすや眠っていた。どうやら時雨が私たちを社務所の中に運んでくれたようだ―――

「時雨!」

 弾けたように体を起こし戸に駆け出すが、囲炉裏に足を突っ込んだせいでつんのめってしまう。しかし、おかげで時雨がなぜ私たちを隠すようにここに置いたのかを理解した。

 胸の鼓動が伝播したかのように震える手で引き戸を慎重に開けていく。そして、一寸ほど隙間ができると祈りながら外の様子を窺った。

 雪が止んだ境内は白銀の光で照り映え、どこかこの世のものでない美しさがあった。しかし、無数の黒い染みが人の業を表すかのように白い世界を汚していた。

 その無数の黒い染みの中心に黒い男が立っていた。男は肩を小刻みに震わせると白い息が現れては消えていく。

「化け物め…………!」

 小銃の先が火を吹いたので身を竦めた。

 瞼の裏で恐怖とともに考えたくもない考えが次々と浮かんだ。時雨はあの銃で撃たれたのだろうか。死んでしまったのだろうか。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

「卑怯者め! 隠れていないで出てこい!」

 男の声で我に返る。どうやら狙いを外したらしい。男は小銃を捨てるとサーベルを抜き、雪の陰に怒声を浴びせた。

「俺は絶対に他のやつらのようには…………」

 それは一瞬だった。

 雪の煌めきに紛れるかのような小さな光が瞬いたかと思うと、男の首から滝のような鮮血が迸った。男はガクッと膝をつくとそのまま雪の中に倒れ伏した。

「時雨…………?」

 いつの間にか時雨が男の前に立っていた。手は震え、肩で息をしているものの、怪我一つしていない。私たちのよく知っている姿と何一つ変わらない時雨。

 ―――でも、それが逆に異様だった。

 一つだけ違うものがあるとすればその手に持つ鉈から滴り落ちている黒い血だろう。刃はべっとりと血で濡れ、刃こぼれはおろか元の形がどうだったかもわからない。

 時雨は鉈を雪に差すと投げ捨ててあった小銃を手に取った。そして、しばらく検分した後、今度は男の身体をまさぐり始める。

 既に引き戸から抜け出たものの私は我知らず小屋の陰で時雨の様子を見ていた。はたして時雨の元に行っていいものか判断がつかなかったからだ。

 時雨の表情は依然として暗くてわからない。

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