熊
そのまま戦闘機のエンジンを製造している建物を抜けて、見慣れた司法局実働部隊の壁に沿って車は進む。だが、ゲートの前にでカウラは急にブレーキを踏んだ。誠やかなめはそのまま身を乗り出して前方の部隊の通用門に目をやった。
そこには完全武装した警備部の面々が立っていた。サングラス越しに運転しているカウラを見つけた警備部の面々が歩み寄ってくる。だが装備の割りにそれぞれの表情は明らかに楽しそうな感じに誠には見えた。
「どうしたんだ? 」
「ベルガー大尉!実は……」
スキンヘッドの重装備の男が青い目をこすりながら車内を覗き込む。
「ニコノフ曹長。事件ですか?」
誠を見て少し安心したようにニコノフは大きく息をした。
「それがいなくなりまして……」
歯切れの悪い調子で話を切り出そうとするニコノフに切れたかなめがアイシャの座る助手席を蹴り上げる。
「わかったわよ!降りればいいんでしょ?」
そう言ってアイシャは扉を開き道路に降り立つ。ニコノフの後ろから出てきたGIカットの軍曹が彼女に敬礼する。
「いなくなったって何がいなくなったのよ。ライフル持って警備部の面々が走り回るような事件なの?」
いらだたしげにそう言うアイシャにニコノフはどう答えていいか迷っているように頭を掻く。
「それが、ナンバルゲニア中尉の『お友達』らしいんで……」
その言葉を聞いて、車を降りようと誠を押していたかなめはそのまま誠の隣に座りなおした。
「アイシャも乗れよ。車に乗ってれば大丈夫だ」
かなめの言葉に引かれるようにしてアイシャも車に乗り込む。開いたゲートを抜けてカウラは徐行したまま敷地に車を乗り入れる。辺りを徘徊している警備部の面々は完全武装しており、その後ろにはバットやバールを持った技術部の隊員が続いて走り回っている。
「ナンバルゲニア中尉のお友達?」
誠はそう言うとかなめの顔を見つめた。
「どうせ遼南の猛獣かなんか連れてきたんだろ?先週まで遼南に出張してたからな」
かなめの言葉にアイシャも納得がいったというようにうなづいた。
「猛獣?」
誠はあの動物大好きなシャムの顔を思い出した。遼南内戦の人民軍のプロパガンダ写真に巨大な熊にまたがってライフルを構えるシャムの写真があったことを誠はなんとなく思い出した。
「隊長達には吉田に言われて黙ってたんだろ?あの馬鹿はこう言う騒動になることも計算のうちだろうからな。今頃面白がって冷蔵庫で笑い転げてるぜ」
投げやりにそう言ったかなめは、突然ブレーキをかけたカウラをにらみつけた。
「なんだ?あれは」
カウラはそう言って駐車場の方を指差した。
そこには茶色の巨大な塊が置いてあった。
かなめが腰の愛銃スプリングフィールドXDM−40に手を伸ばす。
「止めておけ!怪我させたらシャムが泣くぞ」
カウラのその言葉に、かなめはアイシャを押しのけようとした手を止めた。車と同じくらいの巨大な物体が動いた。誠は目を凝らす。
「ウーウー」
顔がこちらに向く。それは巨大な熊だった。
「コンロンオオヒグマか?面倒なもの持込みやがって」
かなめはそう言うと銃を手にしたままヒグマを見つめた。ヒグマは自分が邪魔になっているのがわかったのか、のそのそと起き上がるとそのまま隣の空いていたところに移動してそのまま座り込む。
「アイシャ、シャムを呼べ。かなめはこのまま待機だ」
カウラの言葉に二人は頷く。熊は車中の一人ひとりを眺めながら、くりくりとした瞳を輝かせている。
「舐めてんじゃねえのか?」
そう言ってかなめは銃を握り締める。アイシャは携帯を取り出している。
「駄目だよ!撃っちゃ!」
彼らの前に駆け込んできたのはナンバルゲニア・シャムラード中尉だった。いつもどおり東和陸軍と同じ規格の勤務服を着ているので隊員と分かるような小さな手を広げてシャムはそのまま車と熊の間に立つ。
「おい!テメエ何考えてんだ?部隊にペットを持ち込むのは厳禁だろ?」
かなめの言葉にシャムは少し悲しいような顔をすると熊の方に近づいていく。熊はわかっているのか、甘えるような声を出すと、シャムの手をぺろぺろと舐め始めた。
「シャムちゃん、降りて大丈夫かな?」
アイシャが恐る恐るそう切り出した。
「大丈夫だよ!アイシャもすぐに友達になれるから!」
そう言うと嬉しそうに扉を開けて助手席から降りるアイシャを見つめていた。
「一応、猛獣だぞ。ちゃんと警備部の連中に謝っておけ」
カウラはそう言うと熊に手を差し伸べた。熊はカウラの顔を一瞥した後、伸ばした手をぺろぺろと舐める。
「脅かしやがって。誠も撫でてや……」
車から降りて熊に手を伸ばしたかなめだが、その手に熊が噛み付いた。
「んーだ!コラッ!ぶっ殺されてえのか!この馬鹿が!」
手を引き抜くとかなめはすぐさま銃を熊に向ける。
「駄目だよ苛めちゃ!」
シャムが驚いたようにその前に立ちはだかる。
「苛めたのはそっちじゃねえか!どけ!蜂の巣にしてやる!」
「西園寺!何をしているんだ!」
銃を持ってアイシャに羽交い絞めにされているかなめに声をかけたのは、警備部部長、マリア・シュバーキナ少佐だった。
「姐御!コイツ噛みやがった!」
アイシャの腕を力任せに引き剥がすかなめをマリアについて来た警備部員と技術部の面々が取り押さえた。
マリアはかなめと熊を見比べていた。軍用義体のナノマシンの修復機能で、かなめの噛まれた手から流れていた血はもう止まっている。
「なるほど、賢そうな熊だな。ちゃんと噛むべき奴を噛んでいる」
「姐御!そいつは無いでしょ?まるでアタシが噛まれるのが当然みたいに……」
泣き言を言い出すかなめにマリアは微笑みかける。
「捕獲成功だ、各自持ち場に戻れ」
そう言うと重武装の警備部隊員は愚痴をこぼしながら本部に向かって歩き始める。
「こいつが熊太郎の子供か?」
マリアが笑顔でシャムに尋ねる。遼南内戦でシャムと苦難をともにした人民英雄賞を受けたコンロンオオヒグマの熊太郎の名前を誠も思い出していた。
「そうだよ、名前はねえ『グレゴリウス16世』って言うの」
熊の頭を撫でるマリアにシャムは嬉しそうに答えた。
「おい、そのローマ法王みたいな名前誰が付けたんだ?」
手ぬぐいで止血をしながらかなめが尋ねる。
「隊長!」
元気良く答えるシャムにカウラとマリアが頭を抱える。
「グレゴリウス君か。じゃあ女の子だね!」
「アイシャさん。それはおかしくないですか?どう見ても男性の名前なんですけど……」
突っ込みを入れる誠にアイシャが笑いかける。
「やっぱり誠ちゃんはまだまだね。この子の母親の名前は『熊太郎』よ。命名したのも同じ隊長。つまり隊長は……」
「違うよアイシャ。この子は男の子」
シャムはそう言ってグレゴリウス16世の首を撫でてやる。嬉しそうにグレゴリウス16世は甘えた声を上げながら目を細めていた。