プロローグ
振り下ろした左手からボールが離れた瞬間。遼州司法局実働部隊、野球サークルの不動のエース神前誠は後悔の念に囚われた。打ちにかかる四番打者相手にインハイに相手をのけぞらせるために投げたボールは甘く真ん中に入った。勘が当たったとでも言うように相手の四番打者は腕をたたんで鋭く振りぬく。
早い打球が三塁を守るアイシャ・クラウゼのジャンプしたグラブの上を掠めてレフト線上に転がる。三塁塁審はフェアーのコールをする。ゆっくりとスタートを切った三塁ランナーがホームを踏み、クッションボールの処理を誤った誠の天敵の経理課長代理菰田邦弘がアイシャにボールを投げる頃には一塁ランナーもホームを駆け抜けていた。
回は最終回7回。得点はこれで4対5。三塁側のベンチでは女監督の西園寺かなめが手を上げていた。投球練習をしていたエメラルドグリーンのポニーテールの大柄な女性、カウラ・ベルガーがすぐに呼び出されてマウンドに向かう。
誠はそのまま歩み寄ってきたキャッチャーの技術士官ヨハン・シュペルターからボールを渡された。
「すまないな。俺のせいだ」
パスボールで二塁ランナーを三塁に進めてピンチを広げたヨハンの言葉にセカンドの運用艦『高雄』の火器管制官のサラ・グリファンが苦笑いを浮かべながら首を振った。
「違うわよ。相手が悪いわよ。何が『社業に専念するために野球部を引退します』よ。何が『コーポレート管理室』よ。去年まで都市対抗で代打の切り札だったバッターよ。それに菱川重工のコーポレート管理室は現役バリバリのプロ注目選手が封筒貼りとかやってる部門でしょ?うちみたいに本業があるチームが勝てるわけないじゃないの」
サラがエスカレートしようとするのをサードのアイシャがなだめるようにしてサラの肩に手を伸ばす。
「だからだてに豊川草野球リーグで25連覇してるわけじゃないのよ。誠ちゃんはよくやったわよ。三回までは完全試合よ」
「でも7回まで抑えなきゃ無理じゃん」
ショートのナンバルゲニア・シャムラードがその130センチ前後の小さい体で背伸びしながらそう言った。
「神前。お前はよくやった。あとは任せろ」
マウンドに登ったカウラはそう言うと誠からボールを受け取った。誠は力なくマウンドを降りた。背後でアンダースローのカウラの投球練習の音が響いている。
「まあ、あれだ。オメエは限界だった。これはアタシの采配のミスだ。気にするなよ」
かなめはそう言ってうつむき加減でベンチに入ってきた誠を迎えた。スコアラーの吉田俊平がその肩を叩く。誠は静かにグラブをベンチに置いた。
ピッチャーの交代に盛り上がる豊川重工コーポレート管理室のベンチ。すでに豊川草野球リーグの優勝は決めていた彼等だが、この試合に勝つと6年ぶりの24戦全勝の完全優勝が決まるはずだった。
「さすがに初登板から上手くはいかないか」
そう言うと誠は目をつぶり頭を抱えた。そんな誠の背後に人の気配がした。
「おい、落ち込んでいるところすまないが出かけるぞ」
ダグアウト裏から浅黒い肌の髭面を出しているのは、部隊の勤務服姿の司法局実働部隊管理部部長アブドゥール・シャー・シン大尉だった。誠は彼の言葉に頷いて静かにロッカールームに向かった。
「俺は野球は分からないからなんとも言えないけど……さっきの打球は運が悪かっただけだと思うぞ」
そう言いながらシンは指で車のキーを回している。
「そうなんですけどね。そう言うゲームですから」
ロッカールーム。上着を脱いで誠は淡い緑色が基調の司法局の勤務服に着替える。見るからに落ち込んでいる誠にそれ以上はシンも何も言えなかった。誠はそのまま着替えを済ませるとベンチから様子を見に来た部隊唯一の10代の隊員の西に荷物を渡した。
「大丈夫ですか?神前曹長」
荷物が運ばれてくる。まるで去るのを強制するかのように。西の気遣いが逆に誠を傷つけた。
「じゃあ行こうか」
腫れ物にでも触れるようなシンの態度に誠は少しばかり傷ついていた。なんとも複雑な表情のまま誠は球場の通路に出る。先を急ぐシンに誠は付いていくだけ。外に出ればまだ秋の日差しはさんさんと照りつけてくる。歓声が上がる豊川市営球場を後に誠はシンの車が止めてある駐車場に向かった。
「法術兵器の実験っていうことで良いんですよね?」
気持ちを切り替えようと仕事の話を持ちかける誠だが、シンの目には余りに落ち込んでいるように見えるらしくシンは目を合わせてくれない。黙ってドアの鍵を開く。沈黙の中、二人はシンのセダンに乗り込んだ。
「無理はするなよ。なんなら眠ったほうがいいかもしれないな。とりあえず貴様の健康が今回の実験のカギだ。そのためにこうして実験に先立って東和軍射爆場に前乗りするんだ」
そう言うとシンはタバコに火をつけた。気を利かすようにシンは少し窓を開ける。秋の風が車の中を吹き抜けてシンの口から吐き出される煙を運び出す。
「どうせ裾野の東和軍射爆場に着くには時間がある。十分休んでいろ」
そう言うとシンは車を後退させて駐車場を出た。誠はシンの好意に甘えるように目をつぶった。そしてそのままこみ上げる睡魔に飲み込まれるようにして眠った。