魔王城集結
それは、苦みに満ちた思い出。
――― あたしを逃げ道にしないで! ―――
人間に迫害され、森の中でひっそりと暮らしていた魔女は、オレに向かってそう叫んだ。
――― 貴方は結局、あたしを逃避の道具にしてるだけなのよ……! そんなので好きだとか言われても、信じられない……! 信じたくても……信じられないっ…… ―――
違う。……違う。
違う、はずなのに。
どうしてオレは、そう言えなかったのだろう。
どうしてオレは、アイツを信じさせてやれなかったのだろう。
――― 貴方はずっと、自分に囚われていればいい ―――
呪いの言葉は、重く沈み込むように響く。
――― きっとそれが、誰にとっても幸せなのよ ―――
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最低な気分で目を覚ました。
魔王城に用意された部屋だ。ベッドが高級だからか、疲れはすっかり抜けている。
しかし……。
――― 何せしつこすぎてリアルに呪われたことが ―――
冗談に使ったバチが当たったか。
……消化できたつもりだったのだがな。
柱時計に向かい、およそ二日振りに自前の懐中時計と時間を合わせる。五分ほど進んでいた。
それから身支度を整えて、部屋を出た。
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昼下がりになると、エントランスホールまで降りてきた。
魔王城のエントランスは前庭を兼ねている。教会のように湾曲した天井の下に、色とりどりの花が咲き乱れているのである。
天井には宗教めいた壮大な絵が描かれており、当然陽の光など通さない。陽の下に在らざる美しき花々は、引き抜くと悲鳴を上げたりしそうで不気味である。
とは言え、広さそのものは端から見通せる程度だ。
階段を降りたオレは、花壇の合間にシャーミルの姿を見つけた。
一昨日、外に出ている時は町娘に変装していたのだが、今日の彼女は召喚の時と同じ装飾過多なローブだった。装飾的とは言え、色合いはモノトーンで地味である。それが神子としての正装なのだろう。
花々の中にあってその姿は浮いていたが、ともあれ可憐な少女なので、絵にならないはずがない。
「おはよう。今日も可愛いな」
近付いて話しかけると、
「おはよう。不用意に近付いたら殺すから」
見向きもせず、これだ。驚くほど好感度が上がっていない。律儀に挨拶してくれるのだけが救いだ。
エントランスホールの端にはラウンジが用意されている。そちらに移動し、シックな色合いの椅子に腰を落ち着けると、シャーミルがティーセットを持ってきた。
二つのカップに紅茶的なものを注ぎ、自分とオレの前に置く。
「用意がいいな」
「今日は小間使いがいないから」
そう。何十人といた小間使いは、昼食が終わると全員城外に出した。今日はこの広い魔王城にオレとシャーミルの二人しかいない。
今日行なわれるのは極めて重要な会議だ。部外者が紛れ込む余地をできる限り減らす必要があったのだ。
おかげで客人のもてなしが疎かになる可能性があるが、まあそれどころではなくなるだろうから問題はない。
お茶の香りと程良い熱さに満足していると、不意に地面がぐらりと揺れた。
「また地震か。……微妙に間隔が狭まっていないか?」
「魔王様不在の時間が長引くほど不安定さは増していくと思う。……人界のほうにも影響が出てるみたいだし」
「ああ、人界でも何度か地震があったからな。できるだけ急ぎたい所だが……」
オレは入口を見やる。垂直に立った跳ね橋がぴっちりと塞いでいた。
驚くべきことに、この城には城壁がない。跳ね橋を渡ったらいきなり城内なのである。
シャーミルが言うには、この城は底なし穴の上に浮かんだデカい岩塊に建っているので、跳ね橋さえ上げておけば侵入不可能なのだと言う。
「四天王……集めろと言っておいて何だが、昨日の今日で全員揃うものなのか?」
「来るはずよ。魔王様に関する緊急の用件だと伝えてあるから」
自分もお茶に口を付けながらシャーミルは言った。
エントランスの真ん中にはワープポータルがあるが、外部から魔王城にテレポートするにはいろいろと制限があるらしい。
それもそうだ、でなければ不用心だからな。オレ達が人界から帰ってくる時に使えたのは特別だったのだ。
だから呼び出した四天王達も、入口から普通にやってくることになる。
懐中時計がカチカチとかすかな音を刻む。
その音を聞きながら、オレはシャーミルと他愛のない話をして過ごした。
ああ、死ぬほど幸せ。
そうして、時計の時針が3を指そうとした頃だった。
遠くから大量の蹄の音が聞こえてきた。
徐々に大きくなっていくそれはうるさくなってきた辺りで鳴りを潜め、止まる。
「大臣ヤーナイ様、ご到着!!」
外の見張り兵が大音声でそう伝え、跳ね橋が下ろされ始めた。
オレとシャーミルは席を立って入口に向かう。
下りた跳ね橋の向こうに騎馬の一団が留まっていた。全部で三〇人は下るまい。
その中央に豪奢に飾られた馬車があった。
|馬車の扉が開き、一人の女が降り立つ。
妖艶な空気を纏った褐色の美女だ。女性にしては背が高く、メリハリの利いた肢体を布面積の少ないドレスで着飾っている。
大胆に晒された手足には、爬虫類めいた鱗があった。
人ならば異形としてひた隠しにするだろうその鱗は、しかし彼女の場合、むしろ誇らしげに外気を謳歌している。
褐色の女は騎馬隊の一人に何かを告げ、一人で跳ね橋を渡ってきた。その背後で騎馬隊と馬車がどこかへと走り去っていく。
鱗の女が城内に入った瞬間、むせ返るような香気が漂ってきた。香水だろう。あまりにもわざとらしい匂いだ。
待ち受けていたオレとシャーミルに―――厳密にはシャーミルのみに目を止め、女は薄く笑みを浮かべた。友好的な笑みではない。
「これはこれは。ご機嫌麗しゅう、神子シャーミル? 相も変わらぬ控えめなお召し物で。どなたか身内にご不幸でもあったのかしら?」
たまたまだろうが、笑えない嫌味を言うな、コイツ。
シャーミルも少しだけ眉をひそめていた。
しかしシャーミルは、嫌味などまるで聞こえなかったかのようにしずしずと頭を下げる。
「お待ち申し上げていました、大臣ヤーナイ様。突然の召集にお応え戴き、誠にありがとうございます」
褐色女――大臣ヤーナイは嫌そうに顔を歪めた。小さく舌打ちまでしたように思う。
「……さすがは神子様、礼儀正しくていらっしゃるわ。お仕事のほうはどうかしら? 今度はどんな神託が下ったの? どの部下を勇者に捧げろって? 教えて頂戴よ」
シャーミルは答えなかった。ただすっと視線を外し、目を伏せた。
……予想通りだ。シャーミルは同胞に良く思われていない。当然だ。彼女が齎す神託はどれもこれも魔族に不利なものばかりなのだから。
が、それはそれとして。
鬼の首を取ったようなその言い方は、非常に癪に障る。
「おい、貴様」
「……は?」
「香水の量が多いぞ。それではただ悪臭を振り撒いているだけだ」
大臣ヤーナイの目が初めてこちらを向いた。
不快げに目を細め、
「……何かと思ったら、人間じゃない」
シャーミルに視線を戻して、
「何アンタ。グイネラ様と同じ趣味にでも目覚めたの?」
「いえ、彼は―――」
「香水には適量がある」
遮るようにして、無理やり言葉を続けた。
「それを無視してばしゃばしゃ付けまくるのは、香水を付けるのが大人なのだと勘違いしている子供の証だ。その馬鹿みたいに露出度の高い格好にしても、センスの欠片も感じられない。推測するに、ちやほやされたことはあっても実際に男を相手にしたことはないファッションビッチだな。生娘なら生娘らしくしておけ。今の貴様は知識も技術も経験もないただの香害女だ」
ヤーナイは唖然とした顔でオレを見た。
ちゃんと聞いていたのか? その軽そうな頭に言葉を解する機能が備わっていることを願うばかりだ。
「…………な、…………な…………な――――」
陸に揚げられた魚みたいに唇がぱくぱく動く。
ああ、口紅もけばけばしいな。それも言っておけば良かった。
横を見ると、いつの間にかシャーミルが少し離れた所にいた。手で両耳をぴったり塞いでいる。なんだ?
首を傾げた直後、
「なんっ…………ですって――――――っっっ!?!?」
ヒステリックな金切り声が城内に響き渡った。
うむ、どうやらちゃんと聞いていたようだ。
褐色の美女がデカイ胸をボインボイン揺らしながら詰め寄ってくる。
「このっ……このあたしに向かって、子供!? ファッションビッチ!? 生娘!? 香害女ぁ!? ま、まさかこのあたしに―――魔族一の美女と謳われるこのあたしに、魅力を感じないって言うの!?」
「接待という言葉を知っているか、大臣殿? 賭けてもいいが、貴様に惚れている男は一人もいないぞ。せいぜい『身体だけの関係ならいいけど付き合うのはちょっとなー』という程度だ」
「きィいいいいいッ!! 何を証拠に!! ―――きゃっ」
目の前でボインボイン揺れていた二つの肉塊をおもむろに掴むと、やけに可愛らしい悲鳴があり、身体がビクリと怯えるように震えた。
「今の反応が証拠だ。明らかに触られたことのない生娘の反応ではないか」
「はっ、放しっ……放しなさいっ!」
「自分で振りほどけばいいだろう。オレはただの人間だぞ? それとも怖くて身体が動かないか。ほれほれ」
手に収まらないそれを餅みたいにこねくり回す。
むう。大きさと形だけは認めざるを得ない。
ヤーナイの声が女らしい艶を帯び始めた辺りで、後ろから肩を叩かれた。
「その辺にしてあげて」
シャーミルだ。オレは「そうか」と肉塊から手を放した。
ヤーナイがヘナヘナと腰砕けになる。
「はあっ……はぁっ……んっ、はぁ……。こんな……こんなこと……人間なんかにっ……」
悔しさに打ち震えている様子だが、もう敵意は感じられなかった。放っておいても大丈夫だろう。
シャーミルが軽蔑を覗かせる声で言う。
「……同意を取ってない相手には何もしないんじゃなかったの?」
「すまん。頭に血が上った」
「それは、…………その」
何か言いかけて言葉を切る。それはどうして、と訊こうとしたのかもしれない。言いながら自分で答えに気付いたのだろう。
シャーミルは斜め下に視線を逃がして、
「…………ありが、とう」
以前よりもさらにか細く、恥ずかしそうにそう言った。
うむ。……頭を撫でたりしたら怒られるだろうか?
胸に灯ったときめきと格闘していると、城の外から大音声が届く。
「元帥バラドー様、軍師カツメイ様、ご到着!!」
振り向くと、跳ね橋を二人の男(?)が歩いてくる所だった。
疑問符が付いているのは、はっきり男だとわかったのが片方だけだったからだ。
男だとわかるほうは、黒い髪を腰まで伸ばしている優男風。
剣を取るようには見えず、眼鏡まで掛けていて如何にも理知的である。
肌が青いが、別に体調が悪いのではなく元々そうなのだろう。
こちらが軍師カツメイだ。
もう一人は―――人型ではなかった。
蜥蜴と鷲を合わせて二足歩行にしたような異形の巨躯。背丈はおそらく二メートル半ほど。
背中には巨大な翼があり、顔は竜のように鋭く、口からは牙が覗いていた。
当然、腕も足も胴体も、鋼のような筋肉に鎧われている。重量も相当なものらしく、一歩踏み出すごとに跳ね橋の丸太が軋んでいた。
てっきりこの世界の魔族はみんな人に化けているものと思っていたのだが、例外はいるらしい。
あれが元帥バラドーか……。見るからに強そうではある。
二人が城内に入ると、シャーミルが挨拶に出向こうとした。
だがその前に、バラドーの猛禽めいた目がオレを捉えた。
「……なぜ人間がここにいる?」
重く、低い、腹の底に響く声。
気弱な人間ならこの声だけで失神しかねない。
「彼は私が召喚した悪魔です。今回の件に必要なため、同席させて戴きます」
「悪魔だと?」
元帥バラドーはオレに三歩近付き、威圧的に見下ろしてきた。
オレはそれを見上げる。本当にでかいな。首が痛い。
人ならぬ顔には表情がある。バラドーの眉間に当たる位置には深い皺が刻まれていた。
「ただの人間にしか見えんがな」
「当然でしょう。彼は人間ですよ、バラドー」
横からそう言ったのは、眼鏡をかけた青い肌の男――軍師カツメイだ。
「魔力が感じられません。どこからどう見ても人間です。……それにしても、シャーミルさん。貴女に悪魔召喚術の心得があったとは、寡聞にして存じませんでした」
「……私は神子ですので。能力として備わってはいます。今までは機会がなかっただけに過ぎません」
この世界の悪魔は、位置づけ的には魔族の上位に当たる存在らしい。ただし、単に魔族より悪魔のほうが強い、ということではない。上位と下位を決定しているのはいわゆる『神』との存在的近さだけだ。
昔は地上にも多くの悪魔が住んでいたらしいが、今はほとんどがどこかに消えてしまい、多少なりとも血を継いでいるのは魔王だけだったという話だ。
オレが人間だと聞いて、バラドーの表情はますます険しくなる。
「今一度訊ねるぞ、神子。この人間はなんだ」
「私が召喚した悪魔です。人間に憑依しているのです。彼の知恵が必要なので、今日は彼も同席します」
半ば棒読みだ。事前の打ち合わせ通りの説明だとは言え、もう少し説得力ある言い方はできんのか。
「憑依だと? 戯れ言をッ!!」
案の定、バラドーは激発した。
「人間を我らの会議に入れるなど、本気で言っているのか!! 人間の舌先には我ら魔族以上の魔が宿る。言葉を弄する前に舌を引き抜いてしまわねばならん!!」
ずいぶんと嫌われている。そういえばオレの扱いについてシャーミルと打ち合わせた時、『元帥だけはどうあっても認めないと思う』と言っていたが、こういうことか。コイツは人間そのものを無条件で嫌っているのだ。
「……がっかりだな」
「何?」
オレの小さな呟きを、バラドーは聞き逃さなかった。
「貴様の部下はなかなか見上げた心根の持ち主だったのだが……アイツが忠を尽くしていたヤツがこんなにも狭量だったとは。期待して損をした」
「何だと……? 貴様、まさか―――」
さらに一歩、バラドーが踏み込む。
「貴様か! 我が部下・ブレイゼムを下したというのは!!」
ブレイゼム……そんな名前だったのか、アイツ。
というか、下した……? まだ生きているのか? 勇者のヤツ、昨日はあれで攻略をやめたようだな。
「よもや人間の仕業だったとはな……! 何か姦計を巡らしたのであろう。薄汚い人間めが……!! 俺は部下を侮辱した者を決して許しはせん!!」
「何を言う。あれは尋常なる果たし合いの結果だ。そこに第三者がとやかく言うことこそ侮辱に他ならん」
「口を噤め人間ッ!! 今すぐ肉片に変えてくれるッ!!」
やれやれ。聞いてはくれんか。
バラドーが岩みたいな拳を振り上げた。コンクリート程度なら容易く砕きそうな勢いで放たれる。
あるいはその拳には、あのブレイゼムとやらの火山弾めいたパンチ以上の威力が宿っているのかもしれない。
だが関係ないことだ。
強かろうが弱かろうが、それがただのパンチである限り。
傲然と迫るバラドーの拳を、オレは左手で受け止めた。
「なッ―――!?」
衝撃波すら生まれない。
ピタリと、殴打の事実そのものが否定されたかのように拳は止まっている。
正確には拳を受け止めたのはオレの手ではない。
オレの左手を覆う、革製の手袋だ。
甲の部分には宝石のような石が嵌まっていて、今はそれが煌びやかな光を放っている。
「『絶撃の籠手』。一切の物理攻撃を無効化するアイテムだ」
まあ籠手と言いながらどう見ても手袋なのだが―――オレは続ける。
「この世界の『装備』は武器、盾、服、靴、アクセサリーの五種類―――こいつはアクセサリーの部類になるが、どうも戦闘空間内だと使い勝手が悪くてな。だが通常空間でなら、オレはオレの所蔵物を存分に利用することができる」
「道具頼りか! 卑怯者めッ……!!」
「道具を作り、扱うこと。それこそが知性ある者の最大の武器だと思うがな。それを否定する貴様は、ならば知性がないのか?」
「この俺を侮辱するかッ――――!!」
異形の腕が二撃目を繰り出そうとした時だった。
「今日も元気そうねぇ、バラドー?」
瞬間、オレはバラドーから跳び離れ、声が聞こえた方向に向き直っていた。
今の声。
こちらの首筋を舐め上げるような、どろどろに甘い声。
オレの頭が警戒音をがなり立てていた。
油断が自然と殺し尽くされ、目がピタリと吸い寄せられる。
「王妃グイネラ様、ご到着!!」
あまりに遅く、大音声が届く。
すでにそいつは、跳ね橋を渡り切って城内に入っていた。
少女――否、童女だ。少なくとも、外見は。
鮮血のように赤い唇には、妖艶という言葉ですら程遠い艶やかな笑みが刻まれている。
大きな紫の瞳には魔眼めいた妖しさが爛々と輝き、ふわりと柔らかにカールした赤紫の髪はまるで毒花。
煌びやかなドレスの下から伸びている黒い尻尾は、紛れもなく淫魔のそれだ。
何よりもオレの警戒心を刺激するのは、その全身が放つ暴力的な色香だった。
幼い容姿。平坦な身体付き。にも拘らず、大臣ヤーナイなどとは比較にもならない圧倒的な『女』の香気。
今までどれだけの精を貪ってきたのか。千や二千では利くまい。
警戒するオレを置き去りに、四天王達が揃って跪き頭を垂れた。
魔力めいた色香を纏う童女はその中を悠然と歩き、一直線にオレに近付いてくる。
王妃グイネラは爛々と輝く瞳でオレを見上げると、いっそう嬉しそうに頬を緩めた。
「あーた、すごいわね。人間なのにバラドーと渡り合うなんて」
「心外だな。渡り合ったつもりなどない。圧倒したつもりならあるが」
引いてはならない。
阿ってはならない。
隙を見せてもならない。
その瞬間、喰らわれる。
くすくす、と笑いを漏らすと、グイネラはオレを頭の上から爪先まで、舐るように観察した。
ぞくぞくと背筋に怖気が走る。
「ふふ……結構良さそうね」
そう言ってぺろりと唇を舐めると、
「あーた、後であたくしの部屋に来なさい」
欲望を隠しもせずそう告げた。
断られることを欠片も想定していない声音。事実、ほとんどの男は断れないに違いない。
彼女が放つ甘い声は常に耳元で囁かれているような声質で、魔眼ならぬ魔声だ。聞かせるだけで理性を麻痺させ、絡め取る。
この命令にバラドーがオレより早く反応した。
「グイネラ様! そのような男をグイネラ様の寝所に入れるわけには―――」
「―――なぁに? バラドー。このあたくしに意見をするの?」
顔は笑みのまま、声色もさして変わらず―――しかしその声は、極限まで冷え切っていた。
「いっ……いえ……」
バラドーは委縮したように一度上げた頭をまた下げる。
……この二人、何かありそうだな。
詮索は後にして、まずはグイネラに答える。
「お招きとあらばお伺いしよう。その前に済まさねばならん用があるから、その後でな」
「あら。ずいぶん慣れているのね。あたくし、初々しいほうが好みなのだけれど」
「元々貴様のような女に好かれやすいタチなのだ。慣れもしよう」
「くすくす……そういう言い方をするから好かれてしまうのよ?」
艶然と笑い、グイネラはすっと離れた。
「お先に部屋に行かせてもらうわね。シャーミル、世話はしておいてくれた?」
「はい。抜かりなく」
シャーミルが頭を垂れたまま答えると、グイネラは無邪気っぽく微笑んだ。
「ああ、こっちの子達は久しぶりね。いっぱい遊んであげなくちゃ。きっと寂しくて泣いているわ―――」
歌うように呟きながら、王妃は廊下の向こうに消えていった。
気を張っていた意識を少しだけ休ませる。ああいう手合いの相手は疲れる。
跪いていた四天王達も立ち上がっていた。
バラドーがまた突っかかってくるかと思ったが、そんなことはなかった。代わりにシャーミルがやってくる。
「言うタイミングを逸したし、二回目だけど……どうしてわざわざ怒らせるようなことを言うの?」
非難の声色で彼女は言う。
バラドーのことか。その答えは明快だ。
「人となりを知るには怒らせるのが一番手っ取り早いからな」
「……それだけ?」
「それだけだ」
むしろそれ以外にどんな理由があると言うのだ?
「……ほんと、命知らずよね」
「オレは殺しても死なない男だ。知らなくて当然だな」
しらーっとした視線が刺さってくる。せめて言葉でリアクションしようではないか。
突然、くっくっく、という笑い声が横合いから聞こえてきた。
見ると、青い肌の男――軍師カツメイが口を押さえて笑っている。
自分が見られていることに気付くと、カツメイはこちらに近付いてきた。
「いや失敬。まさかただ自己紹介をさせるためだけにバラドーを挑発する人間がいるとは……。悪魔云々はともかく、シャーミルさん、彼は面白い方ですね」
「……そう思えるあなたを羨ましく思います、カツメイ様」
「はっはっは」
快活に笑うと、カツメイはオレに手を差し出した。
「四天王の一人、軍師をやっているカツメイです。どうぞお見知り置きを」
オレは頷くと、差し出された手を握り返す。
「理性院カシギだ。今は悪魔をやっている」
「リショウイン……カシギさん、ですか。ふふ。『今は』ということは、普段は何をやっておられるのでしょう?」
「男子高校生だ。まあ遊んで食って寝るのが仕事だな」
世間一般的には違うかもしれんが、オレにとってはそうである。
「ふふ、興味は尽きませんね。ぜひ今度、ゆっくりとお話を」
「カツメイ!! 何をしている!!」
向こうでバラドーが怒鳴った。彼がオレに挨拶しているのが気に喰わないらしい。
「すみません。友人の虫の居所が悪いようなので、これで。シャーミルさん、この後の流れはどうなっているんでしょうか?」
「いったん解散で構いません。会議は二時間後――午後五時に始めます。部屋はいつもの場所をお使いください」
「了解しました。それでは」
カツメイはオレ達に会釈し、バラドーの元へ去っていく。
元帥と軍師。仕事上での相棒という以上に、あの二人には浅からぬ絆があるようだ。
いつの間にか腰砕け状態から脱していた褐色美女のヤーナイに、シャーミルがこの後の予定を伝えに行く。
話を聞き終えると、ヤーナイはキッとオレをひと睨みした後、不機嫌そうにエントランスから去っていった。
なんとなくだが、シャーミルよりアイツを口説き落とすほうが簡単そうだな。とは言えそこまでの残酷は働くまい。
跳ね橋が上がっていく。
この城が建っているのは巨大な奈落の穴に浮かんだ岩塊だ。奈落には瘴気が沈殿しており、落ちれば魔族であれ命はない。跳ね橋が上がれば絶海の孤島も同じである。
跳ね橋が上がり切り、入口をきっちりと塞ぐ。
下ろそうと思えば幾らでも下ろせるとは言え、縦に立ち上がった丸太組みの橋は、世界を切り取る壁のように見えた。