勇者
シャーミルと別れた後、オレは上を目指した。
召喚された部屋よりもさらに上。
魔王城の最上階――天に最も近い場所。
そこは、広大な円形の部屋だった。
ワンフロアが丸ごと一つの部屋になっているのだ。
目を引くのは、中央に描かれた巨大かつ複雑な魔法陣。
ワープ用のそれとは比較にもならない精緻さで描かれている。
そして湾曲した壁は、全面が石碑と化していた。
灰色の石でできた壁に、文字がビッシリと彫り込まれているのである。
おそらくは、ここが『神託の間』。
神子が神託を受けるための部屋。
だが、そんなことは二の次だった。
床の魔法陣も、壁の石碑も、ここが神託の間であることも、『それ』に比べれば大したことではない。
円形の部屋の端。
何かの作業用らしい、木製の机の傍だ。
そこに、一体の石像があった。
小柄かつ華奢な少女のもので……装飾過多なローブを身に纏っている。
今となっては色のわからないおかっぱの髪から、一本のツノが突き出ていた。
そして、体格に比して豊満な胸には、一本の剣。
階段を上がってきたオレは、まっすぐその石像に向かった。
肩に軽く触れ……唱える。
「【ダメージログ・リード】」
石像の頭の上に、文字が浮かび上がった。
●神子シャーミル レベル:45 種族:魔族
最大HP:1000
最大MP:400
攻撃力:120
防御力:100
敏捷性:90
魔攻力:520
魔防力:500
▼コマンド:物理攻撃(通常)
▼600のダメージ!
……ショックは……ある。
だが、覚悟していたことだ。
この死体は、本物だ。
間違いようもなく、神子シャーミルの死体なのだ―――
オレはシャーミルの死体から離れ、壁に彫り込まれた文章のほうに目を移した。
どうやら、下された神託が自動的に彫り込まれていく仕組みのようだ。神託の内容がすべて残っていた。
神託の多くは、勇者との戦いにおける魔族側の動きを細かく指示するものだ。
追い詰め過ぎることなく、勇者が徐々に成長しながら冒険できるよう絶妙に調整されている。
残りは、まるで世界のシステムを直接覗いてきたかのような情報の数々だ。
各魔法の威力と消費MP、各アイテムの仕様、魔族それぞれに割り振られた経験値、ダメージ計算式―――そして。
「……これだ」
探していた記述を発見した。
そこには、勇者のレベルアップ時のステータス上昇値が刻み込まれていた。
●レベルアップ時ステータス上昇値(勇者・男)
HP:5~9
MP:2~5
攻撃力:5~9
防御力:4~8
敏捷性:3~7
魔攻力:2~5
魔防力:2~4
●レベルアップ時ステータス上昇値(勇者・女)
HP:3~7
MP:5~9
攻撃力:2~5
防御力:2~4
敏捷性:3~7
魔攻力:5~9
魔防力:4~8
……こいつは、裏付けの一つとなるだろう。
やはり、その可能性もあったのだ。
であれば、存在していてもおかしくはない。
オレは一応、その先の神託も一通り読んでみた。
文字は壁を一周する直前で途切れている。
一番最近のものらしき神託は、どうやっても読めなかった。
今までこの世界で見たどの文字でもない。オレの知識がまだ足りないのか、あるいは……。
オレは一旦壁から離れ、改めて神託の間を見回す。
もしかしたら神託の他に何かあるかもしれないと思ってのことだったが―――これが大正解だった。
シャーミルの死体の傍にあったものとは別の机。
書類が雑多に溢れ返ったそれの上に、一個の巻物があった。
巻物――スクロールである。
オレは封をしていた紐を解き、中身を検める。
ここ数日で、オレもこの世界の言葉を単語程度なら理解できるようになっている。正確に訳すことはできないが、文意はなんとなく読み取れた。
少なくとも、禁呪ルネマではない。
これはもっととんでもないものだ。
もし勇者がこれを見たら、喜びすぎて逆に死ぬかもしれない。
端的に言えば、オレを召喚した魔法のスクロールである。
いや、それは使い方の一つに過ぎない。
この魔法は、異世界から呼び出すだけではなく、自分から行くこともできるのだ。
しかし対象指定の文言が見て取れない。
行き先や召喚対象はランダムか……あるいは術者の潜在願望によって決定されるはずだ。
オレが知る世界間移動と同じならば、だが。
すでに誰かに読まれて効力を失っているらしく、オレが読んでも何ともない。
……いや、誰が読んだのかは自明の理か。
勇者は言っていた。
この世界から脱出する方法は可能性すら存在しない。召喚術など設定上のテキストに過ぎないと。
ならば、今ここにあるこれはなんなのか。
単純なことだ。
密室に閉じ込められた人間がいるとする。
そいつは部屋中を探したが、扉を開ける鍵は見つからなかった。
そこに突然鍵がもたらされるとしたら、どんな場合が考えられるか?
答えは――――鍵を持った人間が部屋に入ってくる、だ。
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
足元が揺れた。
最初はなんてことのなかったそれは、徐々に徐々に、遠雷のような地響きを立てながら―――
―――強く!
「なっ……!?」
立っていられない。床に這いつくばった。
机の書類がばらばらと床に散らばる。
ビンでも倒れたのか、どこかから破砕音が聞こえた。
天井からぱらぱらと砂が落ちてきて、巨大な魔法陣を汚した。
何分にも思えるほど長く続いた揺れは、やがて治まっていく。
今のは……地震?
まるで心臓発作だ。いきなりやってきて、あっという間に強くなり、そして治まる。
今までのそれとはまったく異なる。
何か致命的な―――そう、断末魔のような。
「……っ!!」
オレは走り出した。
飛び下りるようにして階段を駆け下りる。
複雑怪奇な魔王城だが、すでに一度通った道だ。
迷うことなく四階まで下り、そしてバラドーが床に開けた穴から一気に一階まで飛び下りた。
左手の『絶撃の籠手』で落下の衝撃を殺す。
荒廃したエントランスをぐるりと見回して、オレは気付いた。
謁見の間の扉が開いている。
……謁見の間の中に、誰かがいる。
「アイツは……!!」
オレは再び走った。
幅の広い廊下を駆け抜け、謁見の間の中へ。
窓のない広大な密閉空間である謁見の間だが、今はかがり火の柔らかな光に満ちていた。
玉座には、変わらず石化した三つ眼の魔王。
そしてその手前に―――勇者の後ろ姿があった。
「はは――――ははははは――――ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――――――――――――――っっっ!!!!」
勇者は背中を反り返らせ、高々と笑い声を上げていた。
再び地震が起こる。先程よりもさらに強い。オレはふらついてたたらを踏む。
それでも勇者は微動だにせず、魔王の死体の前で笑い続けていた。
「死んでる!! 魔王が!! 僕は何もしてないのに!! そうか……そうかそうかそうかっ!! こうすれば良かったんだ!! この世界は僕が魔王を殺すことで終端に至る! なら、その終端自体をなくしてしまえば―――ははっ、終わらないじゃないか!! 続くじゃないか!! 僕は、勇者じゃ、なくなるっ!! ってことは? ってことは……!? ははは―――はははははははっ!! ははははははははははははははははははははははははっっ!!!
―――――――自由っ、だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!」
揺れが治まると同時に勇者は絶叫し、くるりと魔王に背を向けて走り出す。
オレなど視界に入っていないかのように、すぐ横を通り過ぎて謁見の間を飛び出していった。
「おい! 待て!!」
オレも体勢を立て直し、勇者の後を追う。
勇者のスピードは尋常じゃない。全身から歓喜が迸り、獲物を追うチーターよりも躍動していた。
だが、オレには喜べない。喜べそうにない。
嫌な予感がする。嫌な予感がするのだ。
エントランスに戻ってきた瞬間、オレはようやく異常に気付いた。
―――明るい。
エントランスホールが、オレンジ色の光に満ちている。
いつの間に……。
正門の跳ね橋が下ろされて、赤々とした夕日が彼方に覗いていた。
先を行く勇者は、跳ね橋を渡ろうとする。
外に出ようとする。
そこには通行を遮断する不可視の壁があったはずだ。
だが、勇者はあっさりと跳ね橋に足をかけ、外に飛び出した―――
―――直後、目の前に立ち塞がる影に気付いて、足を止めた。
オレの位置からは、逆光でシルエットしか窺えない。
だが……いずれにせよ、そこに誰かがいてはいけないはずだ。
魔王が死に、
ヤーナイが死に、
カツメイが死に、
グイネラが死に、
バラドーが死に、
―――シャーミルが死に。
この城には、オレと勇者以外、もう誰もいないはずなのだ。
外にいた何者かが、結界が解けた直後のこのタイミングで、たまたま現れたと言うのか?
否。
否である。
オレは、勇者の前に立ち塞がった影の正体を、すでに知っている。
勇者と人影は、少しだけ言葉を交わした。
遠かった上、大きな声ではなかったからオレには聞こえなかった。
しかし。
その言葉だけは。
正体不明の人影が発した、その声だけは。
不思議と、はっきり聞き取れた。
「―――戦闘開始―――」
直後。
勇者の背中から、剣先が生えた。
血が勢い良く噴き出て、どうっと橋の上に倒れる。
オレが橋のたもとまで来たのは、ちょうどその時だった。
「…………あ、れ…………?」
仰向けに倒れた勇者の瞳には、夕焼けに染まった魔界の空が映っている。
「おか、しいな…………僕、勇者、なのに…………」
その身体は、足のほうから石化していた。
四天王ら魔族よりずっと遅い速度で、少しずつ、少しずつ……魂が貯め込んだ膨大な時間を咀嚼するように。
「……でも、大丈夫……」
全身のほとんどが石化し、残るは顔だけという状態になっても、勇者は笑っていた。
「死んだって……どうせ、やり直し――――――」
そして、言葉は永遠に潰える。
足先から頭頂部まで、一センチの隙間もなく、勇者は石と化した。
以前、オレに敗れて死んだ時のように、光の粒子にほどけることはない。
いつまでも、そのまま。
勇者の死体は、その場に残り続けていた。
哀れな男の最期に、オレは五秒だけ黙祷を捧げる。
それから―――たった今、勇者に聖剣を突き刺して殺害したそいつに、目を向けた。
「やはり……魔王を殺したのは、お前か」
沈みゆく太陽を背にしたそいつは、頷きもせず、オレを見つめている。
すでに告げたことだ。
だから彼女は、答える必要がない。
それでもオレは、念を押すように、改めてその名を呼んだ。
「―――シャーミル」
色褪せた灰色の髪が、夕焼けに赤く染まっている。
逆光の影に沈んだ幼げな顔は、何もかもが抜け落ちたような無表情だった。




