大臣ヤーナイの恋情
―――あたしは、ただ憧れているだけで良かった。
―――ただそれだけで、良かったのに。
深夜。
年中黒雲に覆われて薄暗い魔界だけれど、やっぱり昼夜の違いは歴然だ。更けた夜は世界を閉ざし、あたしに孤独を感じさせる。
……逢いたい。
そう思った。
だからあたしは、カンテラに火を灯し、自分の部屋から廊下に出た。
深夜の魔王城は暗く、冷たい。
背中がぶるりと震えた。セクシーだと思って選んだ寝間着だったけれど、見る人がいないのではただ寒いだけだ。
――― その馬鹿みたいに露出度の高い格好にしても、センスの欠片も感じられない ―――
……いや、同じことか。
見てくれる人なんて、最初からいなかったんだから。
本当はわかっている。あの人間の言うことは正しいと。
香水を付けたって、肌を見せたって、あの方はずっと別の所を見ていた―――あたしなんて、眼中にもなかった。
エントランスを通り、幅の広い廊下を過ぎて、突き当たりの大きな鉄扉に軽く触れる。
意匠がぼんやりと光って、重々しく左右に開いた。
カンテラで闇を遠ざけながら、あたしはゆっくりと奥に進んでいく。
エントランスとは違って毛の長い絨毯が敷かれているから、足音は鳴らなかった。
やがて、そのお姿が見えてくる。
玉座に腰掛けた、一体の石像。
今でも、心はまだ信じていない。
……これが、あの方だなんて。
手を伸ばせば届く距離まで近づいて、けれど、手は動かない。
たとえもうここに魂はなくとも、生き物としての身体を喪っていたとしても、あまりの畏れ多さに、触れようなどとは思えない。
魔王様は、その三つの目で、あたし達臣下をどこかすまなそうに見ていた。
いつも、いつも、いつも、いつも。
あたしにはとても計り知れない何かを、この方は抱えておられたのだろう。
それでも、魔王様は王であり続けた。民のため、臣下のために己を殺し、魔王という概念であり続けた。
これほどに高潔な在り方に―――ああ、憧れを抱いたって、仕方のないことだ。
不相応だと、わかってはいたけれど。
いつも何かに謝り続けていたあの方を支えて差し上げたいと、そう思ってしまったのだ。
別に、何を求めたわけでもない。
グイネラ様はあんな調子だけれど、それでもあの方は不義など許さないだろうから。
ただ―――あの女だけは。
大臣であるあたしより魔王様に近い所にいた、あの神子だけは。
魔王様が何を抱えていらっしゃったのか、そのすべてを理解することはあたしにはできない。だけどそのうちの一つだけならわかる。
神託。
あたし達魔族を次々と犬死にさせる、『神』の御言葉とやら。
あんなものがなければ、勇者などとっくに始末できていた。
魔王様はきっと、神託のために部下を無為に殺してしまうことを、悔いておられたのだ。
だからあの人間が、神託など無視して勇者を殺してしまえと言った時、渡りに船だと思った。
なぜ神託があんなにも愚直に守られていたのかはわからない。けれど、勇者さえ消えれば何も問題はない。
あの方が背負っておられたものを、一部ではあれ下ろして差し上げられたはずだったのだ。
……もう少し早ければ。
この決断が、もう少し早ければ――――
唇を噛み、顔を俯けたその時。
開けっ放しにしていた扉から、強い風が吹き込んできた。
カンテラの火が消えないよう手で庇う。
あたしを追い抜いていった風は、最奥の壁に掛けられた巨大なタペストリーを大きく捲り上げ―――
「え?」
―――その下にあったものを、あたしに見せた。
タペストリーの下にあったのは―――
木でできた、
腐食のない、
新しそうな、
―――扉、だった。
……知らない。
あたしは知らない。あんな所に扉が―――部屋が、あったなんて。
隠し、部屋?
「…………」
一つ、息を呑む。
そして、心を決めた。
カンテラを強く握り、玉座の後ろに回る。
最奥の壁に近付き、元に戻ったタペストリーを、今度は自分の手で捲った。
タペストリーは大きさ相応に重く、裏側に潜り込んでも扉を開けるのに苦労しそうだ。何より、あたしは今カンテラで片手が塞がれている。
ナイフを携帯していたのを思い出し、一旦カンテラを足元に置く。
タペストリーを扉の上まで捲り上げ、取り出したナイフで縫い留めた。
カンテラを拾うと、もう片方の手で扉のノブを握り、捻り、引き……中に、入る。
そこは狭苦しい小部屋だった。
カンテラで照らせる範囲に見えるのは質素な文机だけ。奥にも一応、箱らしきものが見える。
あたしはまず文机に向かった。
文机には、あるものが置かれていた。
別におかしなものではない。あたしだって一つくらいは持っている。
けれど、『これ』がここにあるということは、ここはやはり魔王様の部屋なのだろうか? 私室は上の階にもあるはずだ。なぜわざわざ隠し部屋を……?
カンテラを文机に置き、その光を頼りに『それ』を調べる。
と。
「……なに? これ……?」
訳がわからなかった。
なんなのよ、これは。一体どういう意味なの……?
頭を働かせる。熱が出そうだ。でもわからない。
―――魔王様は、一体何を抱えておられたの……?
暗い部屋で一人、謎に殺されそうになる。
いや、本当にそうだったなら。
謎を考えるのに夢中で、周りの音なんて何も聞こえなかったのなら。
きっと、そのほうが幸福だったのだろう。
―――カツン―――
エントランスのほうから、あたしは確かにその音を聞く。
それが終焉の足音だと気付くのは、もう少ししてからのことだった。