不可思議という幸福
後片付けを終え、シャーミルも何も言わず部屋に戻ったので、風呂に入ることにした。
食堂を北側の扉から出て、南北に伸びる廊下を北に向かう。
突き当たりに地下に向かう階段があった。あの先がこの城の大浴場だ。
左側には昼間に戸締りを確認した窓があり、右側には扉が八つ並んでいる。扉のうち七つは兵士達用の寝室だ。今は一番奥をヤーナイが、奥から四番目をバラドーが使っている。
残りの一つ、一番手前の扉は、グイネラの部屋に繋がるエレベーターがある部屋だ。王妃の寝室にしては不用心な場所だが、当人が入口に近くないとイヤだとゴネたらしい。
八つの扉の前を抜けて、階段を降りる。
一つ扉を抜けると脱衣所だ。男湯女湯には分かれていない。元は兵士用に作ったのだろうから、男しか使わないと思ったのだろう。
脱いだ服を入れる籠を確認し、誰もいないのを確認する。
もしグイネラでもいようものなら面倒臭いことになるからな。
安心して服を脱ぐ。脱いだ服や手袋、アイテム袋などは籠の後ろに隠した。
貴重品もあるからな。まあオレ以外が持っていても機能しないのだが。
服を脱ぐ前に用意しておいたタオルを手に、いざ風呂場へ。
城だけあって、大浴場もなかなか豪勢なものだ。
広さは一般的一戸建てのフロアが丸々二つ入るくらい。壁に据え付けられたドラゴンのアギトから滔々と流れ込むお湯は、贅沢にも湯船から溢れ出て排水溝に滑り落ちていく。
何より綺麗だ。カビ一つない。一応オレもお風呂大国日本で育った身なので、風呂場が綺麗なのは大いに歓迎する所である。
身体と頭をざっと洗い、泳ぎ回れるほど広大な湯船に肩まで浸かる。
「はあああ~~~~…………」
疲れが息となって吐き出された。
四天王はともかく、まさか王妃があんなにも食えないヤツだとは思わなかった。
とにかく相性が悪いし、あからさまに何か知っていそうなのがな……。訊いても『ベッドの中で教えてあげる』とか言われるのが目に見えている。
魔王城に閉じ込められてしまったのも痛い。
予定では、今頃は勇者討伐に向けて軍を編成し、決戦に向けて精神集中でもしているはずだった。それがどうして風呂なぞ入っているのだ。
魔王の死についても、未だ謎はある。
犯人は勇者だと確定した。
だが、なぜヤツは魔王を圧倒するほどのステータスを持つ? なぜ聖剣を残していった? 世界に一本しかない聖剣を。
そもそも、この世界自体、どこか違和感がある。
例えば、魔王城一階には礼拝堂がある。それ自体は不自然ではない。兵士は命を賭ける職業だ。神に祈りたくもなるだろう。
だが、オレはこの世界の宗教を知らない。
神という概念があることは知っている。だがそれを奉ずる宗教の名を、一度として聞いたことがない。
リアンの町にも教会があったが、やはり宗教の名はとんと聞かなかった。なんとなくキリスト教っぽい感じではあるのだが……。
(……どこか、抜けている……)
作り物めいた匂いが鼻につく。何千年もかけて積み重ねられたはずの生命の重みを感じない。
『人間が描けていない』という批判の定型句があるが、この場合は『世界が描けていない』だ。
こんなものは単なる感想で、憶測とすら言えないのだが……。
熱い湯に浸かりながら、ぼんやりと思考をこね回していると、浴場の扉が開く音がした。
ぺた、ぺた、と足音がする。立ち込める湯気にシルエットが浮かび上がった。
童女のそれではない。グイネラより遥かに曲線的なボディライン。さりとてヤーナイのように背は高くなく、むしろどちらかと言えば小柄だろう。
しかし胸は本当にいいものを持っている。いつもはモノトーンのローブに隠れてしまっているが、こうして見ると―――ふむ。
身長は151センチ。スリーサイズは78・52・73だな。間違いない。
湯船の一番奥にいるオレの姿は湯気に隠れて見えないのだろう。相手は掛け湯をしてから、そろりと爪先から湯船に浸かった。
身体や髪を洗う前にとりあえず一回浸かるタイプらしい。
シルエットの髪型はおかっぱで、ツノが一本生えている。
……最初も思ったことだが、やはり敏感だったりするのだろうか。試してみたい……。
などと思っていると、換気扇でも作動したのか、立ち込めた湯気が晴れてきた。
湯船の向かい側に浸かっている相手の顔も徐々に見えてきて―――
オレは軽く手を上げる。
「よう、シャーミル。いい湯だな」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
シャーミルは表情をピタリと静止させ、オレを凝視した。
そのまま沈黙すること二〇秒。
ばしゃばしゃっ!! と水音を立てて湯船から出ようとする。
「まあ待て。落ち着いて考えろ。そのまま湯船から出ると、オレにすべてを見せることになってしまうぞ?」
「かっ、確信犯っ……!! 計画通りなのね? そうなのね!?」
「人聞きの悪い。オレがのんびり風呂に浸かっていたら、お前が気付かず入ってきただけだ」
「私、脱衣所に服がないか確認したもの! あんた、隠したんでしょう! あえて隠したんでしょう!?」
「……証拠はおありかな?」
「その台詞が証拠よっ!!」
ばしゃーん!! とお湯をひっ被せてくる。横に移動して回避した。
ふはははは。その程度でオレの視界を潰せると思ったら大間違いだ。
シャーミルは両腕で身体を隠したうえ顎までお湯に浸かり、オレを睨みつけてくる。
「……迂闊だった。私がお風呂の支度をしに行ったのに気付いたのね。おやすみも言わずに部屋に戻ったから……」
「ふっふっふ。お前はいつも『おはよう』と『おやすみ』だけはちゃんと言ってくれるからな」
「……油断も隙もない」
「非言語コミュニケーションというヤツだ。いやあ、オレ達は実に通じ合っている!」
オレの笑い声が浴場に響き渡る。愉快愉快!
はあ、とシャーミルが溜め息をつく。お湯にさざ波が立った。
「一体何がしたいの……」
「今日は特別疲れたから、お前の裸を見て癒されようと思ってな。やはり美しいものを見ると心が洗われる」
「……感性ポンコツの癖に」
「女を見る目だけはあると自負している。自信を持て、お前は飛びっきりのいい女だ」
「…………私の何を知ってるの」
「知らんさ。ほとんどな」
短く、正直に答えて、オレは浴場の天井を見上げた。
「なのに、不可思議なほどに惹かれている。……ああ、不可思議なほどに、だ。オレは――理性院カシギは、不可思議を、不明を、謎を、わからないことを喰らうミステリ・イーターであるはずなのに―――そう育てられたはずなのに、どうしてか、この不可思議だけが心地いい」
理性院カシギにとって、愛という感情だけが唯一許せる不可思議だ。
それがどれだけ尊いことか、余人にはわかるまい。わかってもらおうとも思わない。
ただ、オレは―――誰かを愛している時だけ、『知らなければならない』という呪いから解放されることができる。
――― あたしを逃げ道にしないで! ―――
顔を顰めそうになったが、寸での所でこらえた。
「…………前から、気になってたんだけど」
視線をシャーミルに戻すと、肩が少しだけ水面から出ていた。
「あんたって、どんな育ち方をしたの? どうやったらその歳でそんな人格になるのよ」
「育ち方、か……そうだな……」
懐かしき幼少期を回想する。
忌まわしき記憶であり……同時に、愛しき記憶でもある。
「本を読んでいたな」
「本?」
「本を読んでは内容を覚え、また次の本を取る。それをずっと繰り返していた」
「……すごく勉強してたってこと?」
「まあ、そうだ」
あの時期―――生まれてから一〇歳までの間に、オレは一生分の勉強をしたのだ。
「友達とかは、いなかったの?」
「いなかった。オレにいたのは母親が一人。それだけだ」
「……興味ある。あんたのお母さんが、どんな人なのか」
「ははは。オレより常識外れだぞ」
おお。嫌そうな顔だ。
「今はどこで何をしているのか……。孫の顔くらいは見に来てほしいものだ」
言っても栓無きことだが。……母上はきっと、オレの前には二度と姿を現さない。
一〇歳の頃。オレが初めて異世界に召喚され、エリアと出会ったあの事件の時に、あの人はすべての役割を全うしたのだ。
瞼を閉じ、懐かしい思い出に浸っていると、何やら視線を感じた。
目を開ける。
シャーミルが何やら熱心な目でこちらを見ていた。だが目が合わない。視線はもっと下に向けられていた。その先を追ってみると―――
「……ほほう」
湯船に満たされたお湯は濁ってなどいない。だからシャーミルは腕で胸を隠し、身体を横に向けているのだが、もちろんオレはそんな無粋なことはしていなかった。
理性院カシギ、自他共に認めるオープンな男である。
「見たいなら見たいと言ってくれれば幾らでも見せてやるのに。このムッツリさんめ」
「…………み、見てない。言いがかり。そんなの全然興味ない」
「恥ずかしがることはない。異性の肉体に興味を持つのは正常なことだ。そら、見たいだけ見るがいい!」
ざぱあぁぁーっ!! と怪獣の如く水面を割りながら、オレは立ち上がる。
「ちょっ――み、見えっ、見えてっ……!!」
「見せているのだ―――否、魅せているのだ!! 我が肉体に恥じる所なし!!」
腰に手を当てて仁王立ちの姿勢を取った。
むう、この距離では少々見えにくかろう。もう少し近付いて―――
ざぱっ、と一歩近付いた時。
「見えてっ……み―――――――ぶくぶくぶく」
トマトのように真っ赤になったシャーミルの顔が、水面に没していった。
「お、おい!? 大丈夫か!」
慌ててざぱざぱと駆けつけ、お湯の中に沈んだシャーミルを引っ張り上げる。
……完全に目を回していた。
思えば、結構長いこと湯船に浸かっていたな。ずっと肩まで浸かっていたし、のぼせたのだろう。身体を冷ましてやらなければ。
肩と膝裏に腕を回して抱き上げる。
今の状態でのお姫様抱っこは、目の前に眩しい裸身があることと言い、肌と肌のダイレクトな接触と言い、このオレをして理性が破壊されかねん威力があったが、そこは百戦錬磨の理性院カシギ、欲望を律することにかけてオレの右に出る者はいない。
片方のおっぱいを鷲掴みにしていることに気付かない振りをしつつ、オレは大浴場を出た。
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身体は冷ませたが、シャーミルはそのまま寝入ってしまっていた。
彼女も彼女で今日は疲れたのだろう。このままベッドで寝かせてやろうとシャーミルの部屋まで負ぶっていったら、鍵がかかっていた。
鍵の場所もわからないし、仕方なくオレの部屋に行く。
オレとシャーミル、そしてカツメイの部屋は南側にある。
北側と同じく八つ並んでいる部屋のうち、北から二番目がシャーミル、四番目がオレ、六番目がカツメイに宛がわれている。
部屋と部屋の間を空けているのは意外と壁が薄いせいもあるが、万が一のための用心でもあった。
何とかシャーミルを背負ったまま扉を開け、中に入る。
およそ八メートル四方の、学校の教室くらいある広い部屋だ。元々複数人で使うことを想定している部屋だが、今はベッドが一つしかない。
向かって左の壁際に置かれたベッドに、寝間着を着せたシャーミルを横たえ、毛布を被せた。
ふんわりと隆起した胸が、一定のリズムで上下している。
それを見て安心して、何気なく窓を見た。
窓の外には中庭が見えている。申し訳程度の芝生と灰色の壁が見えるだけの、面白味のない中庭だ。正面に見えている石組みの壁は、エントランスから謁見の間に向かう幅広の廊下である。
なぜ勇者はあれほどに強大なステータスを持つに至ったのか。
勇者はオレ達を閉じ込めて何をするつもりなのか。
わからないことばかりだが―――少女の寝息を聞いていると、割とどうでも良くなってきた。
オレも寝るとしよう。
「……どこでだ?」
首を回す。
大きめのソファーがあった。
首を回す。
シャーミルが眠るベッドがあった。
大きいので、もう一人分くらいは余裕あり。
「寝られるならベッドで寝るべきだな、うむ」
そういうわけで、眠る格好になって、シャーミルを起こさないよう気をつけつつベッドに潜り込む。
目の前の可愛らしい寝顔に頬を緩ませ―――我慢しきれず、その頬をそっと撫でて。
オレは眠りに就いた。
この世界に来てから、一番幸せな眠りだったと思う。