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現代短編

手負蛇

作者: コーチャー

 せっかく、震災を命からがら生き延びたというのに孝吉の具合が良くない。

 昨年、帝都を襲った関東大震災で私たち兄弟は、住み慣れた浅草の瓢箪池近くの長屋を失った。とはいえ、男二人の貧乏暮らしである。資産らしい資産はなく、唯一資産と言える躰には二人とも怪我一つなかった。二人して健康であればなんとかなるだろう、と笑ったものであったが、いまでは笑うことはできない。

 孝吉の様子がおかしくなったのは、震災からふた月がたった頃からだった。そのころ、私たちは知り合いの紹介で被害の少なかった小石川の下宿屋に身を寄せていた。

 ある程度、身の落ち着くと私と孝吉は、都内の瓦礫撤去の日雇いに出るようになった。しかし、孝吉は


「どうにも力が入らない」


 と、云って早引けすることが度々あった。

 あれだけの被害のあとだ、今更になって張っていた気が抜けてしまうのも仕方ないと、私は納得して気にかけなかった。働かねば喰っていけなかった、ということもあったが今考えれば、もう少し気にかけてやればよかった。孝吉は、日に日に食が細くなり、幽鬼のような青白い顔で床に伏すようになった。


「どうだ、今日は喰えそうか?」


 私が箸も立たぬような粥を持っていくと、孝吉は小さく頷くと匙で二、三度粥を啜ると「もう、いっぱいだ」と、乾いた唇を震わせていった。もう、一口くらい無理にでも食べないか、と尋ねると孝吉は首を左右に振って煎餅布団に潜り込んだ。

 私は残された粥をぐいっと一口で飲み干すと、小さくため息をついた。幼い頃は、私よりも丈夫で風邪ひとつひかない奴だったのにどうしてこんなことになったのか。

 二度ほど医者にかかったが、孝吉の病の原因はわからなかった。ある医者は


「気からくる病でしょう。震災のあと多くいらっしゃいますよ。突然、家族や家財が消えてしまったんです。心の折れる方がいても不思議ではありません」


 と、云った。原因がわからないからといって気の所為にするとはとんだ藪医者だと、その時は憤慨したのだが、いまの魂の抜けたよう孝吉を見るとあながち藪ではなかったのかと思う。しかし、腑に落ちないことがある。孝吉の病が気からくるものだったとして、なぜ心が折れてしまったのか分からない。

 確かに、私たちは家財を失ったがそれは微々たるものであるし、家族はすでに私と孝吉だけである。もしかすると孝吉に想い人がいて、その人を失ったのか、と思わぬでもないが孝吉も私も日雇い暮らしで生きてきた。女といえば浅草の私娼窟が精々であり、まっとうな女性と出会う機会はなかったように思う。そうなると、何が孝吉の心を折ってしまったのか、分からない。

 私が、ない頭を捻っているとバラックを叩く音がした。


「あいてますよ」


 私が声を上げると粗末な木戸を開けて、に藍色の小紋を着た女が入ってきた。小紋の女は、流行りの洋髪を後頭部でまとめた耳隠しと呼ばれる髪型で首筋の白い肌があらわになっていた。


「これは奥さん、ご無沙汰しております」

「こちらこそ、ご無沙汰しております」


 女は私を見ると、丁寧にお辞儀をした。ぱっと見ていい所の奥方が、私たちの住む下宿屋に来るのは、一つにこの下宿屋を紹介してくれたのがこの奥方であること。二つに彼女の旦那の最後を私たち兄弟が看取ったからである。

 九月一日、私たち兄弟は浅草十二階の足元に広がる銘酒屋の建替えに出ていた。ちょうど礎石を敷き終えた頃に揺れた。地獄の釜でも開いたかのような音と同時に地面が動いた。とてもではないが立っていることはできなかった。周りでは銘酒屋が次々に倒壊した。私たちが無事だったのは建替えの現場であったため、落ちてくる屋根がなかったからだ。周囲では屋根に押しつぶされた者の呻き声が響いていた。

 揺れが収まると、孝吉は慌てて私のもとに駆け寄ってきた。


「兄さん、これは一体どうしたんだ? 何が起きたって言うんだ。露西亜でも攻めてきたのか」

「落ち着け、露西亜なんぞ、来るものか。これはおそらく地震だ」


 私が騒ぐ孝吉をなだめていると、幸いにも倒壊した建物に押しつぶされなかった人々が瓦礫や建物から出てきていた。そのうちの一人が嗚呼、と大声を上げた。声の方を見ると普段なら銘酒屋の屋根に隠れて見えない浅草十二階が見えた。しかし、それは私が知っている浅草十二階ではなかった。外壁は剥がれ、最上階は鳥に食い散らかされた胡瓜のように消えていた。

 呆然と立ち尽くしていると、駒形の方で黒煙が上がっているのが見えた。


「おい、逃げるぞ」

「どうして? そこいらで下敷きになっている人を助けないと」


 孝吉がお人好しにも瓦礫をどけようとするのを私は拳骨で止めた。


「馬鹿野郎! 駒形の方で火の手が上がっている。こっちは風下だからあっという間に火の海になるぞ」

「逃げるたってどこへ?」

「そうだな、上野だ。千住の方へ向かえば火事と追いかけっこになる。西に向かって上野につけば公園と不忍池がある。あそこならなんとかなるだろう」

「えっ、でも、人がいるし」

「人のことなんか気にするな。お互いに怪我一つないんだ、ここで火に巻かれて死ぬなんて九死に一生を得た意味がないだろ。行くぞ」


 私が走り出すと、孝吉は煮え切らない顔でついてきた。上野に向かって走っていると清須橋通りに突き当たる。ここあたりまで来ると上野公園に向かっている人々をよく見かけるようになった。とはいえ、無事に建っている建物は皆無で、いたるところで助けを求める声やうめき声が聞こえるのは変わりなかった。

 不意にあるものが視界の端に止まった。それは懐中時計であった。倒壊した建物の端から懐中時計が転がり出ていたのである。おそらく、逃げる誰かが落としたのか、このあたりにあった店の商品だったのであろう。

 なぜ、それに気を取られたのか、と訊かれると魔が差した、としか言えない。しかし、その時計を見たときに無性にそれが欲しくなった。私は懐中時計に駆け寄るとそれをそっと拾い上げようとした。しかし、懐中時計の金鎖がどこかに引っかかっているのか鎖が張って拾うことができなかった。


「孝吉、ちょっと手伝え!」

「兄さん、どうしたんだよ」

「いいから、この瓦礫をどけろ。懐中時計の鎖が引っかかって取れない」


 私たちが瓦礫をどけると、一人の男が下敷きになっており、鎖は彼に繋がっていた。男は身奇麗な洋装に身を包み、明らかに私のような庶民とは違う人種であった。しかし、彼は死んでいた。どんなにいい服を着ていても、金を持っていても死ぬときは死ぬ。私はなんともいえない優越感に浸りながら、懐中時計から彼に繋がっている鎖を外した。

 今度こそ、懐中時計は私の手に収まった。

 私が一人、悦に浸っていると女の声が聞こえた。


「こっちです! 主人が下敷きになっているのです」


 その声と一緒に複数の足音がこちらに向かっているのが聞こえた。私は時計をズボンに入れると、彼女らの到着を待った。


「あっ……」


 現場について彼女はすぐに旦那が死んでいることに気づいた。そしてしばらく、男に縋って涙した。周りにものが声をかけられずにいると、彼女は涙を拭いて、すっと立ち上がった。


「瓦礫の下敷きになった主人を助けていただいてありがとうございます」


 彼女は私たち兄弟に礼を言ったのである。

 筋違いにも程がある。私たちは火事場泥棒をしていただけなのに、それに勘違いしてお礼を言うなど。


「いえ、私たちももう少し早く助けることができれば……」


 私は出来る限り沈痛な表情を作っていた。そのあとは、勘違いしたこの女が私たちを旦那の臨終を看取ってくれた恩人として上手くやってくれた。住処をなくした私たちに下宿屋を紹介したり、弟に医者を診せてくれたりと。全く、有難い話である。


「弟さん、大分悪いそうですね」

「ええ……、良くなってくれると良いのですが」

「差出がましいかもしれませんが、これを」


 彼女は茶封筒をそっと私に渡した。弟の治療費にしろということなのだろう。本当に有難い人である。


「こちらこそ、申し訳ありません。有難く頂戴いたします」

「では、長居してご迷惑もお掛けできませんので」

 

 そういうと女は去っていった。私はそっとポケットに手を当てる。そこには男から奪った懐中時計がいまも時を刻んでいた。しかし、どうしたものか。

 孝吉は早晩に死ぬだろう。そうすると、女からの金を当てにできなくなる。それは有難くない話だ。無理にでも飯を食わせてみようか……。



 兄さんには見えないのだろうか。

 あの日からずっとあの男が兄さんを見ていることを。

 懐中時計がチクタク鳴るたびに、その眼が僕たちを見ていることを。

 ずっと兄さんの肩にずっとしがみついているのに、どうして気づかないんだろう。

 嗚呼、またこっちを見ている。


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