1球目 引退の扉
今年で50歳となる志崎孝治は、開幕戦の前日に監督室に呼ばれていた。
「失礼します」
監督は訝しい表情で椅子に座っている。
「志崎さん……」
「敬語は使わないって約束でしょう」
監督はまだ42歳。志崎よりも8個年下なのだ。
「おお、すまんな志崎」
監督は謝って訂正した。
「で、何の話ですか」
「お前さん。今年で引退するって本当かい?」
「はい。今年限りでユニフォームを脱ぎます」
「まだまだ若手に負けない力を持っているだろ……どうしてだ」
真剣な表情で訴えかける監督。志崎をまだ戦力として見なしているのだ。
「強いて言うなら、老いですかね」
「君には、全てのポジションを守れる守備力。代走に出ただけで、相手ピッチャーに威圧感を与える走力。120mをノーバウンドで投げれる肩力がまだ残っているじゃないか」
「監督。1つ忘れていますよ」
「……打撃か」
「もう限界です」
志崎は確かに、全てのポジションを守れるスーパープレイヤーだ。その変わり、打撃は全球団でワースト。
プロ入り32年目となる志崎は、まだ1本もヒットを打っていなかった。そんな志崎が厳しいプロ野球で生き残ったのは、他を寄せ付けない守備力と走力にあった。
全てを守れるという事は投手として先発経験もある。ノーヒットノーラン5回、完全試合を3回も達成していた。全盛期は最速176km/hのストレートと60km/hの超スローボールの2球種だけで、三振を量産。しかし、ストレートが衰えた今は7色の変化球を使い分け、昨年はストッパーとして大回転し、37セーブを挙げた。
200cmの身長からサイドスローで投げられたストレートは誰も打ち崩せない。変化球は真横に曲がるスライダー、打者の内角をえぐるカットボール、決め球は140km/hのムービング・ファストボールだ。
志崎の豪快な投球にMLBもラブコールを送っていたが、全て拒否。MLB側はどれも投手としての評価で、野手の評価は皆無だった。
だから、志崎は日本に残った。野手と投手をプレイ出来る環境に満足していたからだ。
守備はプロ生活32年で、エラー無し。全てのポジションを守りながらだ。
通算盗塁は762盗塁。これは全て代走だけの記録だ。もし、志崎がスタメンなら……という妄想が少年達の噂になった程。
「本当に辞めるのだな」
「ええ」
「分かった。引退試合の日程は任せておけ」
「ありがとうございます」
そう言い、志崎は監督室から出て行った。