第4話 仮面と素顔
浴室から出ると、暁月はシエルレインを椅子に座らせた。
大判のタオルがふわりと宙に舞い、代わりに光沢のある黒い外套が飛んできて肩を覆う。
魔術というより、魔法と呼ぶ方が正しい気がする——とシエルレインは思った。それにしても、これほど日常的に魔力を使うものなのだろうか。自分の知っている、魔力を持つあの少女はこんな使い方をしていなかった。
ふと気づく。
物を動かせるなら、浴室まで運ぶのも魔力で良かったのではないか。わざわざ抱き上げて、衣服を濡らす必要はなかったのでは。
……重さの制限でもあるのだろうか。
暁月の横顔を盗み見ながら、シエルレインはそっとため息をついた。
暁月が視線をクローゼットに向けると、キィと音を立てて両開きの扉が開いた。こちらを向いて不敵に笑う。何か面白いものが見られるぞ、と言いたげな顔で。
「シエルレイン、立て」
人差し指をすっと天井に向ける。
その瞬間、シエルレインの体が椅子から浮いた——いや、立ち上がらされた。両足と腰と背中に温かい圧力がかかる。三年間寝たきりで落ちた筋力では、自力で立つことなどまだできない。
暁月の魔力が、体を支えている。
反対の指がクローゼットを指し、それからシエルレインへと向けられた。
衣服が飛んでくる。
まるで御伽話の魔法のように、上質な布がさらさらとシエルレインの肌を包んでいく。闇色の黒い襪が、指の先から首元まで、怪我の跡を覆うように全身に纏わりつく。まるで新しい皮膚が再生されたような感触だった。
続いて長い袖の白い中衣が腕を通り、前で交差して右脇で留まる。足先から薄い下着が穿かされ、白い袴のようなものが広がりながら落ちる。くるぶしまで届く純白の長衣が体を包み、シエルレインの瞳と同じ紫の帯がしなやかな腰を程よく締め付けて形よく結ばれた。
金糸の長い飾り紐が揺れ、夜明けを思わせる色彩を放つ。最後に銀糸の刺繍が入った黒いブーツが足を包んだ。
繊細な装飾の施された長衣は、色こそ違えど暁月が纏うものとよく似ていた。
温かい圧力に誘われて再び椅子に腰を下ろすと、暁月がシエルレインの後ろに立ち、両耳のあたりに手を翳した。
「せっかく美しい髪が残っているのだから、生かそうではないか。私好みに整えてやろう」
頬から背中にかけて、柔らかい風が吹く。耳元でサクサクと小気味良い音がした。切られた髪が砂金のようにきらきらと舞い、空気に溶けていく。
またしても魔力の無駄遣いを——と思いながら、シエルレインは目を閉じた。誰かに髪を触られるのは心地よい。腰まで伸びていた髪が整えられていく感触。長く残しておくのも悪くないかもしれない。顔を隠すのにも、ちょうど良いだろう。
「できたぞ。さて、仕上げはこれを」
暁月が後ろから腕を回し、抱き込むようにシエルレインの頭を覆う。
右半分の顔に冷たい感覚が走り、体がびくりとした。
「さあ、新たなる明けの明星様の完成だ。こちらへどうぞ、シエルレイン様」
左手を暁月に取られ、立ち上がる。両足が温かい。導かれるままに、豪奢な彫刻で縁取られた鏡の前に立った。
見知らぬ誰かと目が合った。
記憶より随分と背が伸びている。隣に立つ暁月の唇あたりに、自分の頭がある。怪我の跡は衣服でほとんど隠され、覆いきれない首元や指先は黒い襪に包まれて見えない。右手はまるで上質な手袋をはめているようだ。腰まで伸びていた朱金の髪は毛先を整えられて背中に流れ、前髪は真ん中で分けられて頬の少し下で切り揃えられている。
そして、顔の右半分。
真鍮で作られた半顔の仮面が、そこにあった。黒地に金の細やかな模様が刻まれている。白を基調とした豪奢な装いの中で、ひとつだけのアメジストの瞳が輝石の光を宿していた。
神か悪魔か。人ではない何かが現世に現れたのではないかと思わせるほど——美しく、そして恐ろしかった。
「これはまた、傑作であるな」
鏡越しに、暁月がうっとりと目を細めた。
「これなら以前と変わらず、麗しき皇子様として持て囃されそうだ。だが一度でも誰かが衣服を剥ぎ取り、仮面を外せば……いやはや、どんな顔を見せてくれるのやら」
「意地悪だね、暁月は」
呆れた目をして、シエルレインはため息をついた。
それからふと、疑問を口にする。
「ねえ、暁月。これはこの国の服じゃないよね。暁月の着ているものと似ているから、暁月の国のもの?」
暁月の視線が、一瞬だけ逸れた。
満月の瞳に、ほんの僅かな翳りが差す。それはすぐにいつもの尊大な光に戻ったけれど——シエルレインはその一瞬を、見逃さなかった。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「それは、どういうこと?」
更に問おうとした唇を、白く長細い指が塞いだ。
「お前の疑問にはこれからゆっくり答えを与えてやる。時間をたっぷりかけて……な」
暁月とは、一体何者なのだろう。
夢の中で何度か聞いたことがあった。その度に「目が覚めたら教えてやる」とはぐらかされてきた。事故の当日、父である皇帝に謁見していた——ということは他国の使者か要人か。魔術も医術も治癒術も扱い、帝王学に剣術まで教授できる高い知識と武術を持ち、立ち居振る舞いからして凡人ではないことは明らかだ。そのような、おそらく貴人であろう人物が、なぜ三年もの間、見知らぬ皇子のために異国に身を寄せていられるのか。
三年間共に暮らしたというのに、暁月について詳しいことは何ひとつ知らなかった。
「さて、シエルレイン。久方ぶりに会いたい者もいるだろうが、残念ながらそれはもう暫く先になる。皇子御帰還のお披露目は、成人の義とともに執り行うことになった」
この国では十七歳で成年とされる。第一皇子であるシエルレインはその義を以て、正式に皇太子として国内外に周知される。事故が起きたのは十四歳になる二ヶ月ほど前——つまり今は十六歳で、成人まであと数ヶ月ほどある。
「せめて父上と母上、メルウィントには会えないかな。セシリアにも」
「満足に体も動かぬうちに会えば、余計な心配をかけることになるぞ。ただでさえ姿がすっかり変わってしまったのだ。目覚めても死に瀕しているような姿を見せれば、どれほど心を痛めるか」
確かに、とシエルレインは思った。三年間に比べれば、数ヶ月など短いものだ。
「安心しろ。元通りの生活が送れるようになるまで、私がお前の面倒をみてやる。手取り足取り、な」
楽しげに笑う暁月。
「それじゃあ目が覚めても夢と変わらないね」
「不満か?」
「ううん」
シエルレインは少し考えてから、正直に言った。
「むしろ、安心したよ。こんな姿を誰彼構わず見られるのは、やっぱり不安だから」
奇跡の美貌と散々持て囃されてきた容姿が失われたことを、不思議と惜しいとは思わなかった。目が覚めて自分の手を見た時から、そうなってしまったものは仕方ない、とどこかすんなり納得していた。目覚める前に暁月から聞いた時は絶望しかけたのに——いざ直面してみると、そうか、という以外に感情が浮かんでこなかった。
命があっただけ、ありがたい。
ただそれだけだった。
「では、今後ともよろしくお願いできるかな、暁月殿」
黒く包まれた右手を差し出し、シエルレインは精一杯の微笑みを浮かべた。
暁月はその手を取り、静かに跪いた。
手の甲に、冷たく柔らかな唇が触れる。
二人の間に、しばらく言葉はなかった。ただ窓の向こうで海が光り、蒼穹が広がっていた。
その光景は——恐ろしいほど、甘美だった。




