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夜明けの皇子と宵の月  作者: 月夜洸星
第一章 夜明けの星

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第3話 薔薇の香

シエルレインを抱いたまま、暁月は寝台の向こうの扉へ近づいた。


把手には触れない。ただ唇が、吐息ほどの声で何かを呟く。


カチャリ。


扉が、ひとりでに開いた。


魔術か——とシエルレインは思った。暁月の腕の中から、その端正な横顔を見上げながら。


湯浴み、か。


夢の中でも毎日欠かさなかった。体が疲れることも汗をかくこともない世界でも、やめなかった。触覚も嗅覚も生きていたし、何より——いつか目覚める時のために、できるだけ現実との差異をなくしておきたかった。


それに、シエルレインにとって湯浴みはただの習慣ではなかった。


皇子として生きるということは、常に無数の視線に晒されることだ。次代の皇帝への期待、明けの明星への羨望、そして——あの、どろどろに溶けた溶岩のような欲望。熱く黒く渦巻くそれを、いつも肌に、髪に、吸い込む空気に感じてきた。目に見えない糸が全身に絡みつくように、一日の終わりには自分がすっかり汚れ切っているような感覚に陥る。


だから湯浴みは、禊だった。


体と心にまとわりつく汚泥を洗い流す、一日で唯一、心が静まるひととき。


夢の中でも、その儀式だけは手放さなかった。


開かれた扉の先に、見慣れた浴室があった。


三方を囲む翡翠色の大理石の壁。白と茶が水彩画のように溶け合い、金彩が散る。天井まで続くガラス張りの向こうには島々が浮かぶ蒼穹の海。そして中央に鎮座する、白い陶器の楕円形の浴槽。


暁月が何事か囁くと、大きな窓を帷が覆い、浴室が薄暗くなった。続いて壁の窪みに置かれた燭台に炎が灯り、橙色の光が揺れる。


シエルレインを気遣ってのことだとわかった。いきなり太陽の下で変わり果てた自分の姿を直視するなど、なかなか酷な話だ。


中央の窪みに置かれたガラスの器——香油入りの蝋燭に、暁月が静かに火を灯す。しばらくすると、甘く透明な香りが浴室を満たした。薔薇の花びら六十枚からわずか一滴しか取れない香油。シエルレインが長年使い続けてきたものだった。


心が、少し、緩んだ。


「さて、では失礼して」


「え、ちょっ——わっ!」


暁月は濡れるのも構わず、純白の長衣ごとシエルレインを浴槽に沈めた。バンザイのような姿勢で衣服を剥ぎ取られ、息と視界が戻った時には湯の中にいた。


蝋燭の光でオレンジ色に染まる湯。白濁した湯の中に、自分の体は沈んで見えない。


「いかがですか、皇子様。三年ぶりのご入浴は」


召使のような口ぶりで、しかし視線は尊大なまま、暁月が言う。


「……とても、心地がいい」


両手で湯を掬い、顔に浴びせた。夢の中にも感覚はあった。それでも現実には叶わない。湯の熱さも、香りも、みずみずしく肌に染みてくる。


「洗ってやろう」


暁月はシエルレインの頭をそっと持ち上げ、頸に手を這わせて朱金の髪を掬い取った。顔にかかる髪もかき上げて、浴槽の外へ流す。桶の湯で丁寧に濡らし、同じ薔薇の香りを放つ液体を手に馴染ませて、梳くように洗っていく。額の生え際から後頭部へ、円を描くようにゆっくりと地肌をなぞる。


シエルレインは目を閉じた。


「髪が残ったのは幸運だったな」


朱金の糸の先まで指を這わせながら、暁月が言う。顔の右半分は潰れた。両耳と左半顔は無事だ。そして頭は——奇跡的に酸の沼を免れ、金糸の髪は以前と変わらず豊かだった。


「伸びすぎだけどね」


「湯から上がったら整えるか」


濡れた髪を濯ぎながら暁月が言う。それからシエルレインの手を湯の中へ戻した。


「体はその湯の中で洗うといい。肌を労る薬湯を入れてある。皮膚が薄くなっている故、手のひらで撫でるようにな。強く擦ると裂ける」


「わかった」


白濁した湯の中で、自分の体をなぞる。


以前の白磁のような滑らかさはどこにもない。ごつごつと、ざらざらと、筋張った何かが組み合わさった感触が手のひらから伝わってくる。湯から出した両腕を見る——水を弾いてきらめく左腕と、濡れて艶やかになった分だけグロテスクさを増した右腕。


見慣れるまで、大変そうだな。


そんなことをぼんやりと思った。悲しむより先に、そう思った。


「長湯は障るぞ」


「ああ、あがるよ」


また暁月が浴槽に腕を差し入れて、濡れるのも構わず抱き上げる。どこからか柔らかなタオルが飛んできてシエルレインの体を包み、温かな風が回る。


「もう、そろそろ自分で——」


「さっき目覚めたばかりで体も動かせんくせに。安心しろ、甘やかすのは最初だけだ」


不適な笑みで、暁月は颯爽と歩く。


浴室を出るまでほんの十数秒。それなのに、シエルレインの体も暁月の長衣も、気づけばすっかり乾いていた。


廊下の窓の向こうで、海が光っていた。


夢の中の星の海とは違う光だった。しかし——どちらも、同じように美しかった。

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