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夜明けの皇子と宵の月  作者: 月夜洸星
第一章 夜明けの星

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第2話 目覚め

闇だった。


どのくらいここにいるのか、わからない。目が開いているのか閉じているのかさえ、わからない。立っているのか、横たわっているのか、宙に浮いているのか——全ての感覚が遠い。指一本、動かせない。


わかるのはただ、唇に残る熱と、胸の中で鳴り続ける鼓動だけだった。


闇に堕ちる前、甘くて残酷な夢を見ていた気がする。


わかっている。本当はずっと、わかっている。だからこそ自らここに留まっている——目を覚ませば、あの夢には二度と戻れない。漆黒の毛並み。金色の瞳。暁月と僕だけの、静かな時間。


「……シエル」


声がした。


「シエル……シエルレイン」


深く、甘い。毒を秘めたような声。

この声を、僕はよく知っている。


声が鮮明になるにつれ、体が感覚を取り戻していく。背中に柔らかな寝具。頭は何か温かいものの上に収まっている。花のような、官能的な香り。


頬に何かが触れた。


温かい。いつも僕の頬を撫でてくれた、あの尻尾の温かさだ。


「目を覚ませ、シエルレイン。意識はもう戻っているはずだろう」


「……ァ……」


名を呼ぼうとした。呼んだつもりだった。しかし喉を通り過ぎたのは空気だけで、掠れて消えた。


「そうだ、私だ。ゆっくりと目を開けてみろ」


瞼の向こうがうっすらと明るい。


どうやら僕は目覚めるらしい。三年ぶりの現実には、一体何が待っているのだろう。

願わくば——初めに目にするものが、優しいものでありますように。


朱金の睫毛が微かに揺れ、紫色の瞳がゆっくりと現れた。焦点が定まらない。重い瞼をこじ開けて、シエルレインが見上げた先にあったのは黄金の満月。


暁月の顔だった。


何度か瞬きをする。


慣れ親しんだ天蓋。柔らかな寝台。そして顔が触れそうなほど近くにいる暁月——シエルレインは自分の寝台の上で、暁月の腕の中にいた。


「………!」


美しく残った左の頬が、瞬時に赤く染まる。


「何を今更照れている。夢の中ではもっと濃密な時を過ごしたであろうに」


意地悪く笑う声。


逃れようと腕を動かそうとして、動かないことに気づく。


「そうすぐには動けまい。三年も寝たきりだったのだから」


動かない体の代わりに、瞳で訴えた。羞恥と混乱で頬は上気し、目元に涙が滲む。その様子を面白そうに眺めながら、暁月はシエルレインをさらに引き寄せ、唇が触れそうな距離で囁いた。


「おはよう、夜明けの皇子さま」


---


暁月はシエルレインを抱き起こし、背に大きな羽根枕を添えて上体を預けさせた。自分は傍の椅子に腰を下ろし、足を組む。


「あなた、が……暁月……?」


掠れた声に、暁月は枕元の水差しを手に取り、口に含ませた。小さく喉が鳴る。深く息を吸って吐くことを繰り返すうち、シエルレインは少し落ち着きを取り戻した。


「そうだ」


立ち上がり、わざとらしいほど恭しく礼をしてみせる。


「こちらの世界では初めまして、シエルレイン様。三年間共に暮らしてきたようなものなのだから、今更緊張することもないだろう」


再び椅子に腰を下ろし、頬杖をつきながらシエルレインを見つめた。一国の皇族への態度としては不遜すぎる。しかしそれでも、暁月という存在には高貴な者の纏う雰囲気が自然と宿っていた。


シエルレインは暁月から目を逸らし、視線を自分の手に落とした。


純白の右袖の端から覗くのは、赤とも黒ともつかない色をした皮膚。血管が浮き出て、筋と骨がその存在を主張している。対して左袖から出るのは、白く滑らかな陶器のような手。記憶にあるより、少し長くなっている気がした。


力を込めて、握ってみる。長い間動いていなかった関節がぎこちなく閉じる。ゆっくりと開く。もう一度。さらにもう一度。


今度は足を動かそうとして、止まった。


——今までどうやって足を動かしてきたんだっけ。


膝を曲げたいだけなのに、どこから力を入れるのかわからない。動くことが当たり前だった頃には、考えたことすらなかった。太ももに力を込めて、踵を引き寄せるように。少しずつ、少しずつ——膝が、浮いた。


このような見た目になっても、動くものなのだな。


まるで他人事のように、シエルレインはぼんやりと思った。


一通り確認して、羽根枕に背を預ける。それだけで額が汗ばんでいた。


両手で、自分の頬に触れてみる。


温かい。


滑らかな肌も、溶けた肌も、同じ温度だった。生きているのだ。温かさも、感触も、動くことも——こんなにも生きていることの一部だと、今まで一度も意識したことがなかった。


無くしかけてはじめて、わかる。いや——失ったと思っていたものが、まだここにあると知った時に、人はそれに気づけるのかもしれない。今がその時だ。見た目が変わっても、歩ける。感じられる。生きている。


これは、幸運なのだ。


よかった。


生きていて、よかった——。


胸の奥がツンと痛み、俯くと、朱金の髪が頬を流れて視界を覆った。三年間切られることのなかった髪は腰まで伸び、シエルレインの顔をすっぽりと隠してしまう。


暁月は黙って見ていた。


さて、この皇子はこれからどうするのだろう。目覚めたはいいが、不幸に酔いしれて憐れまれながら先の長い生を送るか——などと考えていると、喉の奥で乾いた笑いが漏れた。我ながら趣味が悪い。だが、そのようなシエルレインも見てみたいような気もしないでもない。


もっとも——この皇子は。


「暁月」


朱金の髪をかき分け、半醜半美の顔がまっすぐにこちらを向く。紫色の瞳に、強い光が宿っていた。


「命を救ってくれたこと、心から感謝する。治療だけでなく、三年間教育を与え続けてくれたことにも。このような姿になっても生かされたことには、きっと意味があると思う」


一息おいて、続ける。


「国を担う者として、僕はまず何をするべきだろうか。教えてほしい」


そうだ。


私が欲しいのは、そういう人間だ。類稀な美貌と、それに宿る魂もまた——美しい。


暁月は立ち上がり、シエルレインの手を取った。


「それでは皇子様。まずは湯浴みといたしましょう。お前のために用意させたものもある」


「え、あ——ちょっと!」


羽根枕に預けていた体を軽々と抱き上げ、暁月は浴室へと嬉々として進んでいった。


窓の向こうには、小さな島々が浮かぶ蒼穹の空と海が広がっていた。


夢の中の星の海とは違う。


しかし——同じように、美しかった。

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