第12話 禊
黄金色の満月が地平線から昇る頃。シエルレインは自室の浴槽に身を沈めていた。
湯が月の光を反射して、まるで金箔の中にいるようだ。
今日の湯浴みは毎日のそれとは違う。所謂、禊だ。目覚めてからおよそふた月、空に一年で一番大きな満月が昇り、大地と月が最も近づく今日——シエルレインの成人の義が執り行われる。祭祀の前には必ず行われる禊。それは心身を整える聖なる儀式のはずなのだが。
「ねぇ暁月……どうして……一緒に入ってるの?」
皇子のための浴槽は決して小さくはない。しかし背の高い暁月が一緒に入るとやはり、狭い。どうしても体のあちこちが密着するような形になってしまう。
目覚めてから暁月が甲斐甲斐しく世話をするので、裸を見られることにはもう慣れていた。しかし暁月の肌を見るのは初めてだった。白磁のように生気のない肌。しなやかな筋肉のついた身体を濡れた黒髪が這うように艶かしく張り付いている。この世のものとは思えない妖艶さが漂う姿。シエルレインは視線のやり場に困った。
あまりにも落ち着かない様子に、暁月はシエルレインを引き寄せて体の向きを変え、後ろから抱くような形で座らせた。額をシエルレインの細く白い肩に預け、両腕は華奢な腰に回されている。
「……」
暁月は何も答えない。こういう時は何を聞いても無駄だということを、三年共に過ごしてきたシエルレインは知っていた。黙りを決め込む時はいつも何か含みがあるような表情をしているのだが、今日はまるで悪戯をして叱られる前の小さな子供のように見えた。
シエルレインはそっと両手で項垂れる暁月の頬を包み、額を寄せる。暁月が自分を抱く腕にわずかに力が込められるのがわかった。
愛おしい。
この胸に疼く熱と、心臓を掴まれるような痛みにも似た甘さと、涙と共に溢れそうなこの感情に名前をつけるなら——きっとそれだ。
いつからだったのか。十七年生きてきて初めて知った気持ちのはずなのに、それはなぜかとても懐かしくて、けれど長い長い間知っていたような。暁月を想うことはもう生まれる前から決まっていたのだと、初めて出会った時からなぜだか知っていた気がした。
それはきっと暁月も同じで。何も言葉にせずともお互いの心は鍵盤のように、互いに旋律を奏でる。時に合わさり、時に離れ、絡み合う音はどこまでも心地よく温かだ。
「……いつか、全部話してくれる?」
「……」
「もう、待つのにも慣れたから」
頬からもう少し手を伸ばし、暁月の頭を撫でる。
「……約束する。この夜を超えたら、全て、話す」
絞り出すような声に、シエルレインの胸が痛んだ。
上体を暁月の腕に預け、月を見上げるように顔を上げる。夜より暗い黒髪の間で、二つの黄金が揺れていた。
「……月が、泣いてるみたい」
その言葉に、暁月の双眸が見開かれた。
たまらず唇を噛む。
このシエルレインは星月の記憶を持たない。シエルレインが星月に戻る時は、命の終わりのほんの僅かな瞬間だけだ。それでも魂というものは変わらないのだろう。今までのどのシエルも、やはり月星たる人格をその身に宿していた。言葉も、心も、何度生まれ変わろうとも——暁月の想い人は、永遠に変わらない。
黒く溶け爛れた頬をそっとなぞる。半醜半美の皇子の、ただ一つのその紫水晶の瞳が腕の中で静かに光っていた。
「あ……」
暁月、と呼ぼうとした唇が塞がれた。
血のような花びらの紅が、小さな蕾にそっと触れる。
二度。
三度。
触れるたびに深くなり、お互いの蜜が混ざり合った。
この感触を、シエルレインは知っていた。たった一度、夢の終わりに暁月がくれた、羽根のように触れるだけのものを。しかし今度は違った。暁月の魂が丸ごと流れ込んでくるような、そして自分の中で湧き上がる熱を全て返したくなるような。
どちらが先に離れたのか、わからなかった。
額と額が触れるほどの近さで、互いの息がまだ交わっている。暁月の金色の瞳が、いつになく近くにあった。シエルレインはそこに、言葉にならない何かを見た気がした。
水平線の月がその高さを増していた。
「……上がるぞ、シエル」
初めての湯浴みの時と同じように、暁月はシエルレインを両手で掬い上げた。あの時と同じように温かいタオルが飛んできて体を包む。あの時と同じように——けれど全てが、あの時とは違った。
吐息のような声で扉を開けた途端、十三夜が浴室に倒れ込んできた。
「やん!いたーい!」
その向こうでは十六夜が両手で顔を覆っている。頬はいざ知らず、耳まで真っ赤に染まっているのを暁月は見逃さなかった。
「聞き耳とは……お前たち、いい度胸ではないか」
起き上がり片眼鏡の位置を整えながら、十三夜は空を見ていた。蒼玉の瞳が三日月のように細く、心なしか鼻の下が伸びている。
「いえ、あんまりお静かなものでしたので、何かあったんじゃないかなーなんて心配で……いやむしろ何かあって欲しかったというか……ねぇ、十六夜?」
「……!!」
十六夜はこっちに話を振るなと言わんばかりにふるふると頭を振る。しかし顔を覆う指の間から、ちらりと様子を伺っていた。
「お前たちの言う"何か"があったとしても、一言も漏らさせぬだろうな」
「ひ……ひとことも……はう」
十三夜は自分で自分を抱きしめて身悶えた。
「暁月も十三夜も……一体何を言ってるの?」
暁月の腕からするりと逃れたシエルレインが呆れた様子で声をかける。
「気にするな、シエル。——さて、準備だ。十三夜、十六夜、支度をしろ。上弦と下弦もここへ」
暁月の凜とした声に、さっきまでの柔らかな空気が一瞬で引き締まった。
『承知いたしました』
最敬礼を暁月に向けて、二人が動き出す。
浴室の窓の向こうで、満月がさらに高く昇っていた。
成人の義が、始まる。




