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夜明けの皇子と宵の月  作者: 月夜洸星
第一章 夜明けの星

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第10話 嵐の前

皇宮の北側には五つの庭園がある。


優美な円形の噴水と国花である月下美人の庭園が中央にあり、その四方を囲むように皇帝、皇后、皇子、皇女を象徴する草花がそれぞれ植えられた庭が作られている。


銀髪の少女は、待宵草の蕾に囲まれた東屋でひとり、物思いに耽っていた。


宵を待ち、月明かりの下でだけ花を咲かすそれは、ルナリア皇国第一皇子シエルレイン・アステル・ド・ルナリアの象徴だ。


——お兄様が心配じゃないの、セシリア。


メルウィントの刃のような瞳と言葉が、胸の中で繰り返されていた。三年前のあの日から、彼女との間には大きな溝ができた。今や修復しようがない。仕方のないことだ。自分は彼女が何よりも大切に想う兄を、言葉の通りぐちゃぐちゃにしてしまったのだから。


メルウィントのシエルレインに対する気持ちには、気づいていた。


セシリアの家系は神代より皇家に仕える騎士であり、代々騎士を束ね指揮する頂点の位にいた。祖先の中には皇后となった者もおり、皇家とは外戚の関係にある。歳の近い者同士、セシリアとシエルレイン、メルウィントは自然と共に過ごすことが多かった。物心つく頃からメルウィントは常にシエルレインと共にあり、兄によく懐く妹といった印象だったが、成長するにつれそれは愛着を超え、執着のようなものへと変わっていった。


奇跡の美貌を持つシエルレインが幼い頃から自分を取り囲む欲望に翻弄されてきたのを、セシリアは近くで見てきた。彼を我が物にしたいという者たちの穢れた欲望を持った瞳を、そこに潜む黒く澱んだ心を。


メルウィントの中にそれを見つけたのは、あの悲惨な出来事の少し前のことだった。なぜ気づくことができたのか——それは自分の中にも少なからず同じ欲望があったからだろう。シエルレインを想う、その心が。


セシリアは空を見上げた。先ほどまで温かな日差しが顔をのぞかせていたのに、いつの間にかうっすらと雲がかかっている。


「こんなところでお供も連れず、不用心ですよぉ、セシリア様」


間延びした声。十三夜だ。


「曲がりなりにも第一皇子のご婚約者なのですから、せめて侍女か護衛はつけるべきかと」


十六夜は真摯な眼差しを向けてくる。


「私の共をしたい者など、おりませんでしょう」


無機質な声色で答える。自虐でも卑下でもなく、ただ事実を述べているという様子だ。十六夜と十三夜は目を細め、一歩、東屋に近づいた。


「ご一緒してもいいかしら?」


「ええ、どうぞ」


セシリアが答えると二人は向かいのベンチに座った。十六夜が懐から小さな包み紙を取り出し、中央のテーブルに開く。一口大の丸い焼き菓子が並んでいた。


「よろしければ召し上がってください。今朝シエル様にお作りしたものです」


セシリアは躊躇いがちに一つつまみ、口に入れた。サクサクとした感触と柑橘の果肉が、甘酸っぱく広がる。シエルレインの好物だと言われなくてもわかった。


「……シエルは、喜んでいましたか」


「はい。嬉しそうに、たくさん召し上がっていました」


その言葉で、セシリアの表情がふと緩んだ。しかし、笑わない。この少女は三年前のあの日以来、笑うことも泣くこともやめていた。どんなに蔑まれようと、疎まれようと、怒りを表すこともしない。まるで自分にそんなことをする資格がないと言わんばかりに。


「あと、ひと月……」


セシリアが呟く。十六夜の琥珀の瞳がより濃くなり、十三夜はその蒼玉を瞼の下に隠した。しばらく、それぞれの思いに耽る。


「やっと愛しのシエル様に会えるわねぇ、セシリア様」


わざとらしく戯けて見せる十三夜。しかし誰もその言葉に頬を緩めない。


「はい、やっと。そして——やっと、暁月様とシエルを解放できるのですね。この千年の呪いから」


向かいに座る二人を静かに見つめて、セシリアは言う。


「ええ、もちろんよ」


「これで、最後にしてみせます」


三人の視線は自然と、シエルレインの私室がある方角へ向いていた。暁月の心情を推し量ることはできないが、シエルは甘く穏やかな時間を過ごしていることだろう。


「私たち四人と暁月様はこの千年、シエル様が生まれるたびに同じ悲劇を繰り返すしかなかった。暁月様の月神としての力、私たち四人の精霊の力——あの時に全て奪われ、ただの人になった私たちが魔女に抗うことはできなかった。……でも、今回は違う」


蒼玉の瞳がより濃い青を帯びる。


「何百年もかけて取り戻し、高めてきた。今の我々と暁月様の力があれば、魔女を必ず滅ぼせます。……今回は何より、銀色の騎士殿の助けもある。もう二度と同じ過ちは繰り返さない」


十六夜は自分に誓うように宣言した。


「何度も、何度も何度も——暁月様は愛するシエル様をその手にかけてきたわ。そうしなければ、世界が滅ぶから。何度もこの目で見てきた、シエル様の最後の時。ほんの僅かな刹那だけ、星月(シエル)様に戻るの。想像できる?セシリア様。その時のお二人は心から幸せそうで、そしてこの世のものとは思えないくらい悲しい。もう、そんなお姿は見たくない」


いつも飄々とした十三夜が見せるその顔は、怒りとも悲しみともつかない色をしていた。


「私の力は皆様に遠く及ばないことは、わかっています。しかし、シエルと暁月様のために、そしてかつての祖先のために——必ず魔女を打ち破ってみせます。私の全身全霊をかけて」


三人はそれぞれの右手を重ね合わせた。無言の誓い。琥珀と蒼玉と銀の瞳が、静かに交錯する。


「下弦の、俺も混ぜろーって声が聞こえてきそうねぇ」


「上弦も、無言で拗ねそうだ」


その言葉と共に、強い風が庭園に吹き抜けた。湿り気を帯びた風の中に、雨の匂いが混じっている。薄曇りだった空には紫色の暗雲が重く立ち込めていた。


「……嵐になるわね」


十三夜が眉を顰める。


「雨に降られないうちに、戻りましょう」


十六夜がセシリアへ手を差し伸べる。黙ってその手を取り、三人はシエルレインの庭園を後にした。


---


雷鳴と稲光が部屋を包む夜。


シエルレインは暁月の腕の中で、健やかな寝息を立てていた。どうにも離れようとしない暁月を宥めるうちに眠ってしまったらしい。頬にかかる朱金の髪をそっと掬い上げると、そこには黒い真鍮の半面があった。


冷たい曲線をゆっくりとなぞり、温もりの宿る唇まで指を這わせる。


指先に触れる微かな吐息に、暁月は燠火のような熱を覚えた。


「星月……」


稲光に照らされ、さらに白く光るシエルレインの首筋に、そっと月神の祝福を与える。暁月の唇から発せられる淡い黄金の光。


「んっ……」


その感覚に身を捩り、シエルレインはさらに暁月の腕の深くへと潜る。


その細い体を抱きながら、暁月は目を閉じた。


ともすれば全てを焼き尽くしてしまいそうな己の情欲と、それよりもずっと深く静かな何かを、胸の奥に抱きながら。


あと、ひと月。


千年の終わりが、静かに近づいていた。

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