プロローグ
神が罪を犯す時。
それはいつも、愛から始まる。
満月の夜だった。
黄金の光が、滅びかけた大地を静かに照らしている。
炎はすでに鎮まっていた。街も、人々の声も、祈りも——何もかもが、灰になっていた。
残されたのは、二人だけだった。
「……暁月」
腕の中で、星月がかすれた声で言う。
月神は答えない。ただ、その小さな体を抱きしめていた。あの日、湖のほとりで泣いていた少年の面影が、今もこの顔の中にある。美しい黒髪は朱金に染まり、星を内包するような瞳は紫水晶の輝き。
「僕を、殺して」
世界が静まり返った。
「僕がリリスを取り込めば、力を封じられる。でも——」
星月は微笑んだ。
とても優しく。そして、とても悲しく。
「完全には、無理だ」
暁月は動かない。
いや、動けない。
何千年と生きてきた神が、初めて恐怖を知っていた。死を知らぬ存在が、初めて何かを失うことを恐れていた。
星月は静かに暁月の手を取り、その掌に銀色の剣を握らせる。
冷たい。
刃が、こんなにも冷たいものだとは知らなかった。
「お前が、いなければ」
言葉が、途中で止まる。
神は永遠を生きる存在。そして永遠とは、すなわち孤独を意味する——かつてそう信じていた。誰も隣に立てないと、そう思っていた。
その夜までは。
「月が、泣いているみたい」
初めて出会った夜の言葉が、耳の奥で響く。
あの少年の声が。
星月の手が、そっと刃を導く。
自らの胸へと。
黄金の月明かりの中で、暁月の瞳が揺れた。
そして——刃を、沈めた。
血が舞い上がる。
それはまるで、夜に散る紅い花びらのようだった。
星の瞳から、光が静かに消えていく。その頬に、一粒の雫が落ちた。
月が流した涙だった。
腕の中で、全てが静かになる。
暁月はしばらく動かなかった。
夜風だけが、二人の影の上を通り過ぎていった。
やがて彼は空を見上げる。
月は、変わらずそこにあった。
何事もなかったかのように。何もかもを照らしながら。
神は目を閉じる。
また始まる、と知っていた。またいつか、この魂は生まれる。また同じ選択が来る。
千年、そうしてきた。
これからも、そうするだろう。
それでも。
この手の温もりが消えるまでの、あの一瞬だけは。
誰にも、永遠にも、奪えない。
遠い皇宮の庭に、今宵、ひとりの少年が生まれた。
朱金の髪。紫水晶の瞳。
人々はやがて彼をこう呼ぶだろう——明けの明星、と。
だが、その意味を。
少年自身は、まだ知らない。




