第3話「辺境の森、古びた小屋の主」
逃亡から一ヶ月。
私は、北の国境近く、「迷いの森」と呼ばれる地域のはずれにある小さな村にたどり着いていた。
村の名前はエルム。住人は五十人ほどの、静かで閉鎖的な村だ。
よそ者を警戒するかと思いきや、私が「旅の薬師」だと名乗ると、彼らは驚くほど歓迎してくれた。
この辺りは医者もおらず、冬になれば雪に閉ざされる過酷な環境だ。薬を作れる人間は貴重なのだ。
私は村はずれにある、今は使われていない狩猟小屋を借り受けることになった。
ボロボロだった屋根を修繕し、隙間風を防ぐために壁に板を打ち付ける。
クワを振るって裏庭を開墾し、薬草園を作った。
肉体労働は慣れていない体にはきつかったが、不思議と充実感があった。
『悪くない』
湯気の立つハーブティーを一口のむ。
窓の外には、見渡す限りの緑と、遠くに冠雪した山々が見える。
貴族の生活のような豪華さはない。食事も質素だ。
だが、ここには「視線」がない。
私を値踏みし、嘲笑し、あるいは欲望の対象として見る、あの不快な視線が。
朝は鳥のさえずりで目覚め、森に入って薬草を採取する。
昼は調合を行い、村人が持ち込むちょっとした怪我や病気を診る。
夜は暖炉の火を眺めながら、静寂の中で本を読む。
これこそが、私が求めていた「スローライフ」だ。
「先生、いますか?」
扉が控えめに叩かれる。
村の少年、トビーだ。膝を擦りむいたと言ってやってくる常連の患者だ。
「ああ、開いているよ」
トビーは日焼けした顔をのぞかせ、照れくさそうに頭をかいた。
彼の手当をしながら、私は村の世間話を聞く。
今年の収穫のこと、隣の家の犬が子を産んだこと。
そんな平和な話題の中に、一つだけ気になる情報が混じっていた。
「そういえば先生、最近街道の方で、王都の騎士様たちをよく見かけるんだって」
包帯を巻く私の手が、ぴくりと止まる。
「……騎士様? こんな辺境に?」
「うん。なんか、すごい怖い顔して、誰かを探してるみたいだって。父ちゃんが言ってた」
心臓が早鐘を打つ。
まさか。
いや、考えすぎだ。
私はただの婚約破棄された元貴族。国外追放ならまだしも、わざわざ騎士団を動かしてまで捕まえるような重罪人ではない。
それに、あの抑制剤のおかげで、私の足取りは途絶えているはずだ。
「そうか。物騒だね」
努めて穏やかに返しながら、私は笑顔を作った。
だが、背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。
見えない「何か」が、ひたひたと近づいてくるような、不気味な気配。
私は無意識に、首元にかけたペンダント――緊急用の強力な抑制剤が入った小瓶を握りしめた。




