第2話「逃亡者の夜明け、調合の妙技」
王都の裏路地は、表通りの華やかさとは無縁の泥と腐敗の匂いが漂っている。
ドレスの裾を引き裂き、あらかじめ隠しておいた粗末な旅装束に着替えると、私はフードを目深にかぶった。
懐には、宝石を換金して得た金貨の袋と、そして何より重要な「薬」の入った鞄がある。
目指すは北の国境近く、「迷いの森」と呼ばれる地域のはずれにある村だ。
そこなら王家の権力も届きにくい。
本来なら馬車を使いたいところだが、検問に引っかかるリスクが高い。私は乗り合いの荷馬車を乗り継ぐルートを選んでいた。
「ふう……」
場末の宿屋の一室で、私はやっと息をつく。
粗末な木の椅子に座り、震える指先を見つめた。
恐怖ではない。これは、興奮だ。
やった。逃げ切った。あの断罪の場から、誰にも捕まることなく。
私は鞄から小瓶を取り出す。
中には、透き通った青色の液体が入っていた。
『特製ヒート抑制剤・改』。
前世の知識を総動員して作った、私の最高傑作だ。
通常の抑制剤は、発情を「抑え込む」だけだが、これは体内のホルモンバランスを一時的にベータに限りなく近づけ、フェロモンの放出自体を遮断する。
これさえあれば、私はどこへ行ってもただの「男」として生きられる。アルファに見つかり、慰み者にされる心配もない。
『さて、まずは腹ごしらえだ』
硬いパンをかじりながら、私は今後の計画を練り直す。
鉱山送りの運命は回避した。これからは、薬師としての知識を活かして、ひっそりとスローライフを送るのだ。
朝日は、窓の隙間から細い光の筋を投げかけていた。
自由の光だ。
そう信じて疑わなかった。
だが、その頃。
王城では、前代未聞の騒ぎが起きていたことを、私はまだ知らなかった。
***
「探せ! 草の根を分けてでも見つけ出せ!」
ラディウスの怒声が、執務室に響き渡る。
近衛騎士たちが青ざめた顔で直立していた。
ラディウスは椅子に座ることすらできず、部屋の中を檻の中の獣のように歩き回っている。
彼の中のアルファの本能が、飢餓感に似た渇きを訴えていた。
昨夜の舞踏会。
エリアンが去った瞬間、ラディウスは奇妙な感覚に襲われた。
それまで、エリアンからは人工的な香水の匂いしかしたかった。だからこそ、高慢で鼻につく男だと軽蔑していたのだ。
だが、別れ際。
彼の完璧な抑制が、あの一瞬の緊張でごくわずかに揺らいだのか。
それとも、運命の引力が理屈を超えたのか。
ラディウスの鼻孔をかすめたのは、雪原に咲く白百合のような、冷たく、けれど甘美で、魂を直接揺さぶるような香りだった。
一瞬で、世界が色を変えた。
隣にいたミカエルの甘い菓子のような匂いが、途端に色あせて不快なノイズに変わる。
頭の奥で、遺伝子が叫んだのだ。
――逃がすな。あれが、お前の番だ。
「なぜだ……なぜ今まで気づかなかった」
ラディウスは机に拳を叩きつけた。分厚い木板に亀裂が入る。
エリアンは消えた。
まるで幻のように。
その事実が、ラディウスの独占欲に火をつけた。
ただの婚約者なら興味はなかった。だが、自分の元から逃げ出した「運命」となれば話は別だ。
狩猟本能が、全身の血液を沸騰させる。
「エリアン……。地の果てまで追いかけて、必ずその足を私の前で止めさせてやる」
その瞳は、獲物を見つけた猛獣のように、暗く、濁った光を宿していた。




