第1話「断罪の夜、運命は香り立つ」
【登場人物紹介】
◆エリアン・フォレスター
本作の主人公。白銀の髪にアイスブルーの瞳を持つ美しい伯爵令息。オメガ。
前世は過労死した製薬研究員。転生先が「断罪されて鉱山送りにされる悪役令息」だと気づき、生存本能全開で逃亡を図る。性格は現実主義で慎重だが、根はお人好し。自身のフェロモンは「凍てつく白百合」のような清廉な香り。
◆ラディウス・アークライト
王国の王太子であり、最強のアルファ。黄金の髪に深紅の瞳。
本来は原作小説の主人公と結ばれるはずだったが、婚約破棄の現場でエリアンの「抑制された匂い」の奥にある本能的な芳香を感知し、理性の箍が外れる。執着心が深く、獲物を追い詰める際は笑みを絶やさない。フェロモンは「雷雨の前のオゾンと白檀」のような圧倒的な覇気。
◆ミカエル
原作小説の正ヒロイン(オメガ)。ピンクブロンドの愛らしい少年。
本来ならラディウスと結ばれるはずだが、今作ではラディウスの眼中に全く入らず、むしろエリアンの逃亡劇に巻き込まれ呆気にとられる脇役的な立ち位置。
シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射している。
きらびやかな舞踏会の会場は、静まり返っていた。
数百の瞳が、ホールの中央に立つ数人の男女に注がれている。その視線には、好奇心と嘲笑、そして残酷な期待が混じっていた。
その中心に立たされているのが、私――エリアン・フォレスターだ。
「エリアン、君との婚約を破棄する」
よく通る、朗々とした低い声。
目の前に立つのは、この国の王太子であるラディウス殿下だ。豪華な軍服に身を包み、黄金の髪が照明を受けて輝いている。その隣には、おどおどと震える小柄な少年、ミカエルが寄り添っていた。
絵画のように美しい断罪の光景。
けれど私の頭の中は、冷静すぎるほどに冷えていた。
『ああ、やっぱり来たか』
私は心の中で、深く息を吐き出す。
前世の記憶が戻ったのは、ほんの数ヶ月前。ここが妹の愛読していたBL小説『聖なるオメガの愛に抱かれて』の世界だと気づいた時には、すでに私は「高慢で嫉妬深い悪役令息」としての悪名を轟かせていた。
このままいけば、私はミカエルへのいじめを糾弾され、北の果てにある鉱山へ送られて一生を終える。
ふざけるな、と思った。
前世で過労死したあげく、今世では強制労働なんてまっぴらだ。
「……殿下。その言葉、真実と受け取ってよろしいのですか」
私は震えるふりをして、扇子で口元を隠した。
周囲からは、ショックを受けているように見えただろう。だが、扇子の裏で私の唇は、安堵に緩みそうになるのを必死でこらえていた。
婚約破棄。それは、私が自由になるための切符だ。
「ああ。君がミカエルに行った数々の嫌がらせ、もはや看過できない」
ラディウス殿下の深紅の瞳が、私を射抜く。
その瞬間、会場の空気がビリリと震えた。
アルファ特有の威圧感。肌を刺すようなプレッシャーが、波紋のように広がる。会場にいる弱いベータやオメガなら、これだけで膝をついてしまうだろう。
だが、私は平然と立っていた。
なぜなら、私が今朝、腕に注射してきた特製の抑制剤が効いているからだ。
私は内心でほくそ笑む。
この数ヶ月、私は逃亡資金の確保と、自身のオメガ性を完全に隠蔽する薬の開発に全力を注いできた。
私の体からは今、フェロモン一つ漏れていないはずだ。無臭。無味。ただの背景のような存在。
だからこそ、ラディウス殿下は私を捨て、運命の相手であるミカエルを選ぶ。それがシナリオ通りだ。
「わかりました」
私はゆっくりと頭を下げた。潔く、優雅に。
「殿下のご意志、しかと承りました。これにて失礼いたします」
反論も、謝罪も、泣き落としもしない。
あまりにあっさりとした私の態度に、周囲の貴族たちがざわめいた。隣にいたミカエルも、予想外だったのか目を丸くしている。
ラディウス殿下だけが、わずかに眉間にしわを寄せた。
「……待て」
背を向けて歩き出そうとした私を、低い声が呼び止める。
心臓がドクリと跳ねた。
なんだ? シナリオでは、ここで私が泣き叫んで衛兵につまみ出されるはずだ。私が自分から去るのは予定外だったか?
振り返ると、ラディウス殿下が妙な顔をしていた。
怒りではない。侮蔑でもない。
まるで、今までそこにあったはずの空気が、急に消失したことに戸惑うような顔。
彼は鼻をわずかに動かした。
「……匂いが、しない」
つぶやきのようなその言葉は、私の耳には届かなかった。
だが、彼の瞳孔が開くのが見えた。捕食者の目だ。
背筋に冷たいものが走る。本能が警鐘を鳴らす。
まずい。逃げろ。今すぐに。
「ごきげんよう、殿下。ミカエル様とお幸せに」
私は淑女のカーテシーとは程遠い、早足でホールを横切った。
背後で、重い足音が響く気がした。
しかし、振り返る余裕などない。
扉を押し開け、夜の冷気の中へと飛び出す。
さようなら、王都。さようなら、破滅の運命。
私は馬車にも乗らず、闇に紛れるように裏路地へと駆け込んだ。




