晶の節・兀座 其之四『号哭──あるいは啾啾たる氷釈』
号哭──あるいは啾啾たる氷釈
Side Ormu & Syuri & Shou
瀟々とした風雨のなか、ヒトが立ち入れぬ山野を突き抜けて、凰鵡達はその小屋に辿り着いた。
標札には『第三区支部管理。五番山房』とある。
山房とは衆が所持する、山籠もり用の施設である。所属している山妖や、現場を退いたメンバーが管理人として常駐していることも珍しくないが、ここは定期的な清掃と点検が行われているだけのようだ。
戸口を封じる大きな錠前は、顕醒が鍵孔に気を注ぐことで無理やり解除した。なかに入ると、古びた木と炭、そして少しの黴臭さが鼻をつく。
これ以上、雨に身を打たれることはない。そう思った途端、凰鵡は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
すぐさま顕醒が肩に触れて《内功》を使う。心身の消耗が激しいと思ったのだろう。だが凰鵡のなかで本当に擦り切れていたのは、体力でも精神力でもなかった。
「兄さん……ボクは、誰なんですか?」
取り縋るように兄の脚を掴んで、顔を上げた。
「教えてください……ボクはどうやって? なんで……倒せなかったんです……? 竜王は……なんで、本当の不動を、教えてくれなかったんですか……⁈」
最後は涙に溢れて言葉にならない。そもそもバラバラで纏まりのない問いの羅列になってしまっているが、凰鵡にとってはどれもが、見失ってしまった自分を取り戻すための大事な欠片だった。
「先に風呂に──」
「教えてください! いま‼」
自分でもうるさいと思うほどの声で叫んだ。
真実が欲しい──何もかもの──今すぐに。
「お願いです……助けてください。もう、分からないんです……」
縋った脚に顔を押し当ててしゃくり上げる。兄が答えを知っているのなら、一秒たりとも先延ばしにして欲しくなかった。これ以上、誤魔化されると、自分は本当に、顕醒という人を信じられなくなってしまう。それは厭だ。そうさせて欲しくない。
そして、凰鵡の願いは叶えられた。
「わかった」
顕醒の手が、弟の震える肩をやんわりと掴んで、立たせた。
相変わらずの深い山間道の途中で、藐都の車は駐まった。
「山頂は雲が濃いわね。幸運を祈るわ」
「ありがと。謎の通報者さんにもお礼言っといて──言えたら」
「ありがとうございました。おふたりも、どうかお気をつけて」
夫妻に礼を述べて維達は車を降りた。視界が真っ暗闇なため、朱璃は抱えられている。
「ああそうだ。朱璃さん、だよね」
「え⁈ は、はい」
出しぬけにイルマから声を掛けられて、朱璃は維の腕から転げ落ちそうになる。
「きみからは、恋をしてる匂いがするね」
さらに突拍子もなく投げつけられた言葉に「へぇ⁈」と頓狂な叫びを漏らす。
「ヒトって、ついつい気付いてもらおうとするけど、本当に大事なのは、ちゃんと気付かせることだと思うよ。それだけ。じゃ、がんば──」
途中で香音がアクセルを踏んだせいで、その声の終盤は闇へと呑まれていってしまった。
維が「ハァ」と、大きな溜息を吐いた。
「あいつめ……朱璃ちゃん大丈夫?」
朱璃は「はい」と小さく応えたが、フルフェイスの裏の顔も、スーツの奥の胸底も、まるで激しい運動をしたあとのように熱く、強く脈打っている。
イルマに話し掛けられたからだけではない。彼の言うことが、ことごとく図星だったからだ。
「行くわよ。掴まってて」
朱璃を背に負って、維は山道から獣道へと飛び込んだ。木々を華麗に避けながら、急な斜面をぐんぐん登ってゆく。
その維を通して体に伝わってくる風と振動を、朱璃は他人事のように感じていた。
──ちゃんと気付かせること。
イルマの言葉が、頭のなかでぐるぐると回る。その渦の中心には、凰鵡がいた。
石造りの暖炉のなか、薪が爆ぜる。勢いよく揺らめく灯が房内を赤く照らしていた。
夏真っ盛りといえど、雨天の夜山は冷える。炉前に敷かれたラグマットに座り込んで、ようやく得られた暖かさを噛み締めるように、凰鵡は毛布にくるんだ己の素肌をギュッと抱きしめる。衣服は椅子の背に掛けられて、炉の近くで乾かされていた。濡れてうねっていた髪はバスタオルに包まれて、すっかりおとなしくなっている。
かたや、窓辺に佇んだ顕醒は服を着たままだ。髪も濡れていない。今まで気付かなかったが、ずっと気で体を覆って雨を凌いでいたのだ。
「私が十六になって間もない頃だ」
窓の外へ目をやりながら、顕醒はそう切りだした。灯の死角になるため、その声は闇から聞こえてくるようでもあった。
当時の顕醒は、凰鵡が知っているいまの彼からは想像もつかない神通力を用いていた。
《外法》──集中と想像力によって発現させる《念法》とは別に、感情や衝動を源に発現させる神通力。そのなかでも、怒りや憎しみを解放することで心身を強化する、《闇羅》というものだった。
それこそが、かつて〝チャクラメイト事件〟の最後に凰鵡の眼前で露わにした、あの悪鬼のごとき闘法である。
十六歳時の顕醒は、その《闇羅》と不動の《内破》とをミックスし、触れる敵のことごとくを破壊していた。破壊とは、現在のように一瞬で消し去るのではなく、文字通り、相手の肉体をバラバラにして、という意味だ。
その容赦のなさから付いた二つ名が《鬼不動》。すでに斗七山に食い込むほどの強さを持っていたにもかかわらず、衆内外から危険視され、排斥を求める声すら上がっていた。
だが、周囲の心配はさいわいにして、長くは続かなかった。
「とある事件を引き起こしていた妖種と、その使役者を殺した直後だった──」
討滅ではなく、殺した、という言いかたに、凰鵡は寒気を覚えた。
「──声が聞こえた」
え、と凰鵡はあたりを見回すが、兄の回想のなかだと気付いて安堵する。
声……顕醒が言うには、頭のなかに直接響いてきたらしい。気配や方角はつかめず、聞き覚えもない。まるで文字を読まされているかのように、男か女か、老いているか若いかも判然としなかった。しかし、それが幻聴ではなく、一種の精神感応だという確信はあった。
そして声は、ある場所を告げていた。訝しみつつも顕醒は街なかから山へと、誘われるままに駆け抜けて、やがて山頂の広場へと辿り着いた。夜だったこともあって広場は真っ暗で、あたりには人も獣も、妖種の気配もなかった。
「そこに、光がいた」
地面から一メートルほどの高さに、小さな光が浮いていた。邪気や敵意は感じられなかったため、それが何か確かめようと顕醒は近づいた。すると光もまた顕醒に近づき、胸の前で止まった。
直後、不可思議なことが起こった。
まるで催眠術にでもかかったかのように、顕醒は警戒心の欠片も抱かぬまま、光を両手で受け止めていた。
そして、ハッと気が付いたとき、それはいつのまにか、赤子に変わっていたのだ。
生まれて間もないというのは、若き顕醒にも分かった。体は綺麗だったが、服は着せられていなかった。
その赤子は、男でも女でもあった。
「それが……ボク……」
信じられないという眼で見つめる凰鵡に、顕醒はうなずいた。
瞬間、凰鵡の懊悩は晴れるばかりか、ますます混迷の勢いを増していた。
「うそ…………嘘ですよね? そんな話……」
震える唇から絞り出される凰鵡の追求に、顕醒は瞼を伏せ、静かに答えた。
「事実だ」
「ああ……ああああああああ──‼」
毛布に顔をうずめ、凰鵡は絶叫した。
山で拾われたとは以前から聞いていた。だがその真相がそれか。そんな不合理な現象から生まれたのが自分だというのか。
──ボクは、誰なの……?
凰鵡の恐るべき仮説が裏付けられようとしていた。
とつぜん現れた光……それでは、オメガと同じだ。
「お前が何者で何処から来たのか、私にもまだ解らない」
凰鵡の悲鳴が落ち着いたところで、顕醒は結論を告げた。
「どうして、兄さんはボクを……」
「導かれた気がした」
兄らしからぬ答えだ。いつも客観的に物を言う人だ。その口から「気がする」などという曖昧な言葉を聞いたのは、生まれて初めてかもしれない。
だが兄なりに何かの確信があったのだろう。そうでなければ、たったの十六歳──いまの凰鵡と同じ歳──で、子供を育てる決意など出来るわけがない。
「オメガ……」
ぼそり、と独り言のように凰鵡は呟いた。
「オメガも、ボクなんでしょうか」
「私には分からない」
なかば確信しきっていた凰鵡に対して、顕醒は無慈悲に言い切った。
「思うに、お前でなければ答えは得られない」
「ボクはもう負けました!」
兄に噛みつかんばかりに凰鵡は身を乗り出して叫んだ。
「竜王も使えず……ッ! どうして兄さんはボクに、本当の不動を教えてくれなかったんですか⁈」
答えが返ってくるのに、少し間があった。
その数秒が凰鵡にはひどく腹立たしく、そして苦々しく感じられた。だが辛抱強く待った。自分のなかにまだそんな忍耐があるのが不思議だったが、結末を待った。
「お前を育てると決めたとき、私は《闇羅》を封じた」
「……なぜです?」
「お前の霊力は極めて強い。だから、感情を用いる力に触れさせるわけにはいかなかった。少なくとも、自分の心をコントロール出来るようになるまでは」
それは凰鵡にも少し分かる。霊力には、超能力や神通力の発現をアシストする作用がある。ゆえに強大な霊力を持つ者のなかには、感情の昂りによって、無意識に超能力や神通力を発揮する者もいる。
「だから、ボクに不動を教えてくれなかったんですか?」
「私が偽ったのは《練気》だけだ」
「だからッ、それはなんでなんです⁈」
また少し間が空いた。言うべきか否か、兄も必死に考えているのかもしれない──顔には出ないが。
「私はお前に、《気》とは精神力を具現化したものと教えた」
そう、たしかに教わった。そうだと信じて、少しずつ研鑚を積んできたはずだった。
「老師の仰ったとおり、不動の《気》は本来、そうではない」
フッと、顕醒の目が凰鵡を見た──射抜くように──否、弟の心を試しているのか──これから告げる真実に耐えられるか、と。
そして、その試練は、あまりに衝撃的な姿で突き付けられた。
「これは──」
顕醒は掌のうえに小さな光を出して、言った。
「──意志そのものだ」
凰鵡の時間が止まった。
何を言われたのか、まったく分からなかった。
「不動の《気》とはつまり、自分の意志を、強制的に他者のありようへと反映させる、その伝達過程だ」
自分の意志を他者に反映……自分が思っていることを他人に…………
「じゃぁ、兄さんが相手を焼滅させているときって……」
凰鵡は気付いてしまった。欲した力が──自分のいる場所が──そして目の前にいる人が────どれほど危険であるか。
「〝消えろ〟と念じている」
そのときだった。
山房の扉が勢いよく開かれ、ふたりぶんの人影が転がり込んできた。
その顔をしっかりと確認するより先に、片方が凰鵡に突進し、強く抱きしめてきた。
「凰鵡! よかった……よかったぁぁぁ!」
濡れた体を押しつけて、維は泣き喚きながら再会を喜んだ。
「凰鵡くん……!」
先を越された朱璃もヘルメットを脱ぎ、目尻の涙を拭った。
(維さん……朱璃さん……?)
ふたりの存在がすぐ頭に入って来ず、凰鵡はしばらく放心していた。しかし、その顔はやがて生気を取り戻してクシャリと歪み、細められた眼は涙を溢れさせた。
「ごめんなさい……維さん、ごめんなさい。顗さんの仇、取れませんでした……」
嗚咽に乗せて、腹の底から罪過の念を吐き出す。
「ボクのせいで……だから死んでも倒そうって思ったのに、こんな……ごめ──」
「ばぁかたれぇ‼」
維の怒号が、凰鵡の懺悔を吹き飛ばした。
「だれがアンタに、そんなこと頼むかぁ! だれがアンタが死んで喜ぶか……! 兄は生きてるわよ。アンタが心配するこっちゃないわよ……アタシも朱璃ちゃんも、アンタに生きて逢いたいから探しにきたに決まってんでしょが!」
負けず劣らずの涙声で捲し立てながら、維は腕に力を込める──まるで凰鵡の心から、罪悪感を一滴残らず絞り取ろうとするように。
事実、凰鵡は自分のなかから、粘つく澱のようなものが噴き出すのを感じた。
「維さん……うああああ……!」
そしてそれはいまひとたびの慟哭となって、炉の灰のように舞い上がり、闇へと消えた。
運転手は翔から巍狼へ、路面は高速から一般道のそれへと戻っていた。
その間、真嗚は翔に買ってもらったおにぎりやら菓子パンやらをひっきりなしに腹へとぶち込んでいた──一気に食べすぎて喉を詰めるというお約束付きで。
真嗚との再会は、翔にとってもちろん嬉しいことだ。だが、それ以上に快哉を叫んだのは、凰鵡の無事が確約されたことだった。
「今は顕醒と一緒じゃ。第三区の山房におるな」
不動には、親しい相手の位置を即座に探知できる力があると聞いたことがある。ならこれは確かな情報だ。
(凰鵡……よかった……マジで)
信じていると言いながら、裏で抱えていた一抹の不安が爆発炎上した瞬間だった。その残灰を握りしめるようにガッツポーズした。
「見えてきました」
巍狼が言った。街なかにある第一区支部とは違い、第三区のそれは、小高い山のなかほどにあった。土塀で囲まれた老舗の旅館か、あるいは由緒正しい旧家のお屋敷に見える。
正門のモニターに真嗚が手を振ると、木製の門扉が自動で開かれた。巍狼はそのまま車を前庭へと乗り入れ、玄関の前で駐めた。
「不動翁、ご無事で何よりです」
真夜中にもかかわらず、口髭を生やした壮年の紳士が迎えに出てきた。第三区の支部長らしい。
「それに巍狼、まさかきみまで来るとは」
「お許しください。どうしても彼をここへお連れしたかったのです」
と言って、翔を示す。
「……きみは?」
支部長の目が訝しげに細められる。
「ぼくは大鳥翔」翔は自分で名乗った「第一区の訓練生です」
「大鳥……じゃぁきみが、大鳥拓馬の」
「ええ」巍狼が答えた「拓馬さんのご子息です」
またこれか、と翔は密かに苦笑いする。何処でもかしこでも父は有名人らしい。よほど優秀だったのか、それとも破天荒だったからか。
ともあれ三人揃って屋敷のなかへと案内され、それぞれに宿泊室の鍵が渡された。
「……と、風呂の前に、まず見舞っときてぇ奴がおるな。あんちゃんらもチョイ付き合ってや」
宿泊室へ向かう通路から真嗚がヒョイと逸れた。翔達も首をかしげつつ跡を追う。
着いた先は医務室だった。厳戒態勢のためか夜通し詰めている様子の医師達への労いもそこそこに、真嗚は奥の個室を開けた。
直後、仮にも病室であるにもかかわらず、翔は大声を上げていた。
「顗さん──ッ!」
数ヶ月前の一件以来、ふたたび目にする顗の姿は、あまりに痛々しいものだった。
鋼の肉体は呼吸器と心電図、点滴……さまざまな機器に繋がれて、もの言わずベッドに横たわっていた。
そして、その左腕は、肩から先を失っていた。
彼女達の経緯を聞いても、自分の隣に朱璃がいることが、凰鵡にはまだ夢か幻のようだった。
しかも、自分と同じく毛布一枚の姿である。その裏にある肢体を想像して、凰鵡の胸は熱く、そして苦しくなる。
スーツとヘルメットは維の服と一緒に暖炉のそばで干されている。雲脚で運ばれるあいだの防寒用で、防水加工もされているが、山の雨は堪えたようだ。
兄の話は中断されてしまったが、かえってそれで良かったのかもしれない。
怖い──いまの凰鵡には、それしか考えられない。自分の出自も、不動の真実も、何もかもがだ。
消えろと念じて撃てば相手を消せる。それが本物の《気弾》だという。頭も心も追いつかない。兄の泰然とした態度の底に、師の飄々とした笑顔の裏に、一体どれほどの殺意が隠されているというのか。
「大丈夫?」
朱璃に問われて、凰鵡は初めて、自分が震えているのに気付いた。
「……怖い」
「何が怖いの?」
凰鵡は答えられなかった。兄から聞いた話を朱璃達にはまだ伝えていない。
話してしまいたい。いや、真実を知れば、朱璃とて自分のことを怖がるのではないか……その可能性が、凰鵡には不安でたまらない。懊悩のなかで、何もかもが八方塞がりになる。
「ッ⁈」
不意に後ろから抱きしめられて、凰鵡は小さく震えた。
また維かと思ったが、違った。彼女はさっきから、ずっと外で兄と話している。
「ごめん、驚かせて」
朱璃だった。厚い布一枚を通して背中に感じられる彼女の身体に、凰鵡の胸は不安も何もかも忘れるほど痛く、昂ぶる。
「私は……維さん達みたいに強くない。でも凰鵡くんがひとりで怖がってるのを見ることしか出来ないのは嫌。せめて、私も一緒に……お願い、凰鵡くんをひとりにしたくないの。教えて……何があったの?」
凰鵡の眼が熱くなる。
弱々しい声からでも伝わってくる朱璃の優しさが、不安を希望に変えつつあった。
いてくれるだけでよかった。年上のお姉さんとして憧れさせてくれるだけでよかった。自分にとって朱璃はそういう存在だった。闘えないから、普通の女の子だから……と、自分の置かれた血生臭い世界から、どこか遠ざけてもきた。
その朱璃に今、この胸の深淵に横たわる重荷を分かち合って欲しいと、はっきり感じた。
「……兄さんから、ボクの生まれたときのこと、聞いたんだ」
そうして、顕醒から明かされた己の出自を、朱璃にも語って聞かせた。
「信じられないよね。でも、オメガもそうだった。アレも、どこかから急に現れたんだ……光で」
朱璃は凰鵡の話を遮らず、静かに聴いていた。
「アイツはボクそっくりだった。双子みたいに。顔も身体も、まるっきりボクだった……」
凰鵡はまた、体の震えを止められなくなっていた。話は核心に近づいている。だが口にできない。疑いようがなくても、言葉にすると、それが本当になってしまいそうで。
「ボクは……オメガなんだ。だから……」
言ってしまった。
「……ボクは、ヒトじゃないんだ」
言い切った瞬間、凰鵡の瞼が決壊した。
いったい何度泣けば気が済むのだ──自分を嘲っても、涙は体の奥からいくらでも湧いてくるようだった。
仕方のないことだった。凰鵡自身は気付いていなくとも、それらはどれも、心の奥に抑え込まれていた異なる想いから発せられた涙だったのだから。
自分はヒトではない。その結論は凰鵡にとって、それまでの生が根底から否定されることを意味していた。
妖種なのか、それともまったく別の〝なにか〟なのか。これまで疑うことすらなく、当たり前に「そうだ」と感じていた常識を失った凰鵡のアイデンティティは、まるで基礎をすっぽりと消されたビルのように崩壊していた。
そして残った瓦礫の山は、孤独という名の荒野にうずくまる陸の孤島だった。自分だけがその孤島に、荒野に、取り残されている。父母と慕う人や、友らに囲まれているように見えても、皆、根っこでは所詮、自分と異なる世界の者達なのだ。
こうして朱璃に話してみても、この茫漠の世界のなかに彼女を得られたという達成感と安堵は、微塵も抱けなかった。
これから何をしても、自分はたった独りなのだ。
「零子さんからね、凰鵡くんに伝えてって言われたことがあるの……」
凰鵡の泣き声が潜まるのを待って、朱璃が囁いた──凰鵡を逃がすまいとするかのように、腕に力を込めて。
「意味は、私にはよく判らないんだけど……オメガは、本当に倒すべきなのか、って」
オメガは、本当に倒すべきか……?
突拍子もない零子の言葉に、凰鵡は静かに怒りを滾らせた──それをこんなタイミングで告げた朱璃にすら。
今さら、彼女は何を言っているのだろう。あんな危険な存在を討滅しないで、他にどうしろというのだ。
それに、あの夢の声も言っていた。
──きみが立ち向かわなきゃいけない。怖がらないで。心を、開いて──
ハッ……と、凰鵡のなかで何かが引っくり返った。怒りの火すら、幻だったかのように掻き消えていた。
(ああ……そんな…………ボクはなんてことを)
涙が勢いを増した──それもまた、異なる想いが加わったせいだった。
自分が情けなかった。今度に限って、なぜあの力を、闘うことに使おうなどと思ってしまったのか。
(ごめんよ……本当に、ごめん……竜王……)
椅子に掛けた服のなかで眠る宝剣へと、必死に謝った。
(ごめんなさい、兄さん……お師匠様)
心の声は師兄にも及んだ。
そしてついには、数秒前の自分からはとうてい信じがたい相手にも向けられた。
(ごめんね………………オメガ)
孤独の荒野のなかで、凰鵡はもういちど、何かを描こうとしていた。
瓦礫のひとつひとつを集めて、繋げて、〝成すべきこと〟を見つけるために。